【御倉】鳴かぬ蛍は身を焦がしてた【サンプル】 感覚がふわふわと輪郭を失ってくると、自制心とかいうやつの締め付けもゆるんでくる。前後不覚になるには程遠いけれど、気分は右肩上がり。
「ちょっと、ベランダ借ります」
「まだ煙草なんか吸ってんのか? 身体にドクだろうが」
純さんにギロリと睨まれて肩を竦ませる。その隣で亮さんは無言で圧をかけてくるけど、あんたはずっと知ってんだから今便乗しないでくれないか、と心の中だけで苦言を呈する。
「普段は禁煙してるんでけど、飲むとどうもだめで」
飲酒さえしなければ、禁煙が続くようになった。人が吸っているのを見ても平気だし、喫煙所のそばを通っても平気になったし、なんなら歩き煙草をしているやつの煙を浴びると苛立ちすら覚えるようになった。それでもアルコールが入るとスイッチが馬鹿になるらしくてどうも煙が欲しくて堪らなくなるのだ。
そんなときは悪あがきで電子タバコを吸うようにしている。ニコチンを摂取していないからセーフ、だと信じて。
「飲むの止めればいいんじゃない?」
「やめようとしても亮さんも純さんも飲ませるくせに」
「まあね」
「そりゃそうだろ」
至極当然。日月自明。何をいまさら、と言わんばかりの顔で頷いた横暴極まりない先輩たちに苦笑いを零す。
夜の風はすっかり夏の気配を感じさせず、ひやりとした空気が酒で火照った頬を撫でる。ガラスの戸を閉めれば室内の騒がしさは遮断され、夜が長くなりはじめたどっぷりとした濃紺の静かな世界に溶け込む。
ポケットから電子煙草を取り出して咥える。水蒸気を肺に溜めて、ゆっくりと大気中に吐き出す。紙煙草に比べて肺へのパンチ力は格段に低いけれど、服や髪の毛に匂いが残りにくいのは職業柄メリットとして大きい。
ベランダの柵に寄りかかって、所々に残るネオンを見下ろす。
不意にお隣さんのベランダのガラス戸が開いた音がした。隣がどんな人が住んでいるかなんて、聞いたことがない。それに俺の隣人ではないからトラブルでも起こしたりしたら、純さんにとんでもなくどヤされるに違いない。
慌てて電子タバコの電源を落とした。
「うわ、火ぃ点かねえし、」
カチカチ、と虚しい音と男の情けない声が聞こえて同情する。わかる、その悔しさ。同時に面白くなってしまった。
「ヒャハハ! 運が悪ぃ奴だな。ほらよ」
ワンテンポ置いて、境壁と天井の間を狙って隣のベランダへ使い捨てライターを投げ込んだ。
「うわ!」
パタパタとサンダルが音を立てたのが聞こえたけれど、その後にライターがコンクリートにぶつかった音は聞こえなかったということはキャッチできたのだろう。
咄嗟のことだというのに運動神経の良いやつだ。
「ライターありがとう、」
ややベランダから身を乗り出して、境壁越しにこちらを覗いた顔に身体が硬直した。
日本国民であれば九割の人間が知っているだろう、超有名プロ野球選手の顔にそっくりだ。というか、ここまでくると本人だろう。
「え、あ、おう」
動揺が声に出てしまったけれど、表情はどうにか取り繕えたはずだと信じたい。
と言っても、向こうも眼鏡の下で大きい目を驚きに丸めているからそんなこと気づいていない気がする。
隣人だと思って軽率に覗き込んだら、赤の他人だったからまずい、とでも思っていそうだ。迂闊なところはマジなんだな。
「あ、えっと、すぐ返すな」
すぐに引っ込んだ整った顔。
そして堺壁の向こう側から聞こえる、カシュ、シュボ、という音が異質だ。俺が与えたアイテムからの音だと言うのに別の世界から届いた音のようだった。ふわりと漂う紫煙は、夜の紺色にぼかしを加えたと思えばあっという間に馴染んで消える。鼻腔を擽る匂いに誘われて、鼻を鳴らした。
(やっぱ煙だと臭えだけなんだよなあ……)
ぼんやりと、突然起きたことを眺めていたけれど、その紫煙の正体が煙草によるものだと気づいてハッとした。
「や、別に百円ライターだから返さなくていいんだけどよ」
「だって、ないと困るだろ?」
「名残りで持ち歩いてただけで、俺いま紙吸ってねえから」
堺壁の隣に立って、電子タバコのケースを掲げてみる。
ベランダの手すりにより掛かる厚い身体に、でかい手。長くて節くれた指の間に挟まっている煙草からゆらゆらと煙は漂い続ける。
「じゃあ、百円払う」
「いらねえって。それより煙草なんて吸っていいのかよ」
俺も喫煙してる身だけど、こいつはプロのスポーツ選手で、肉体は資本だろう。
「……普段は吸わなんだけどさ。たまーにうまくいかないときに吸いたくなんだよなあ」
厚めの唇に指先を持っていったと思えば、フィルターを咥えた。煙を吸いこんで、細くゆっくりと吐き出す。たったそれだけの仕草だというのに、様になってしまうのがこいつが野球好き以外からも人気があって有名な理由なのだろう。
(そういやここ数試合負け続き、か)
仕事をしていたから試合自体は見られなかったけれど、亮さんの放つ不機嫌オーラとニュースで見る限り今日の試合は特にひどく惨敗だったようだ。投手の調子が上がらず、継投を試みるもその出鼻をくじくように相手チームにウイニングショットを場外に叩き込まれ、そのまま立て直すことなくゲームセット。点数的にも試合内容的にも厳しいものだった。
「じゃあ、ライターのお礼代わりに次の試合勝てよ」
ヒーローインタビューのお立ち台でちょっと生意気な発言もあるし、バラエティでのやらされている感じも否めない。けれど策略が冴え渡るリードもセンスが煌めくミット捌きも、ここぞという瞬間に打球を放てるバッティングも、胸を熱くするものがある。
野球をすることが生き甲斐だと言わんばかりに、ダイヤモンドの中で笑う姿が記憶に刺さって抜けない。
まあ一言で言えば、画面越しの野球選手・御幸一也が好きだ。俺たちの業界で言うところの推しに近いものがある。
プレッシャーになるかもしれないが、そんなもので潰れるようならとっくに一線から退いているはずだ。
「……はは。なんか頑張れそうだわ」
「そりゃよかった。応援してんぞ、御幸選手」
空元気でもなんでもいい。普段は吸わない煙草に手を出してしまうほど、沈み込んでいる気分に救命胴衣をつけられたならそれでいい。
これ以上一緒にいたらいらぬことまで口走っていまいそうで、平静の下でウズウズしている興奮と歓喜が顔を覗かせてしまいそうで踵を返す。今度こそガラス戸に手をかけた。
「煙草、ほどほどにしとけよ」
肩越しに声をかけて、純さん宅のリビングへと戻る。お節介だろうし、ブーメランが返ってきそうな発言ではあるけれど、しょうがない。推しには健康でいてほしいもんだろう。
煙草を吸いに出た後輩を待つことをするわけもなく、今日一番のつまみを開封していたふたりに慌てて定位置へと戻った。
ちょっとお高いスーパーで買った燻製チーズを摘んで口に放り込む俺の横顔に突き刺さった視線に、もしや俺の分は配分されていなかったのかと不安になる。買ってきたのは俺のはずだが。
「……なんスか」
「なんか良いことあったみたいな顔してるなあって」
「亮介も? 俺も思った」
察しがいいとかのレベルじゃないと思う。もしや見られていたけど報告をしないからカマをかけているのではないかと疑ってしまうのは俺だけではないはず。
「ベランダで御幸一也に会っただけですよ」
「御幸一也ってあのスワロの?」
頷いたら、亮さんの憐れみの目が、「こいつ頭おかしいんじゃないの?」と雄弁に語っていて悲しい。純さんのほうは一瞬険しい顔をしたけれど、数テンポ遅れて手を叩いた。
「ああ、あれって御幸一也だったのか」
「なに、倉持が酔ってみた幻覚じゃないんだ」
「そこまで酔ってないッスよ」
散々な物言いだけど半分くらいは俺をいじっているだけだと理解している。半分くらいは本気なんだけど、それはもう慣れっこだ。
「やけにガタイがいいヤツだなあとは思ってたんだけどよ。絶対キャップ被ってるし、私服がダサすぎて気づかなかったな」
それに俳優である純さんが住んでいるいいマンションとは言え、俺らの数倍稼いでいる御幸が同じマンションに住んでいるなんて想像しないだろう。あとツーランクは上のマンションに住んでいそうなイメージだ。
「良かったじゃん。お前御幸のファンだろ」
「いや、まあ、ファンと言うか」
「ありゃファンの反応だろ」
「……ファンです」
ファンという言葉で括られてしまうとなんだか落ち着かない。確かに推しと表現してしまうが、ファンという響きに相応しい感情を抱いているのか謎だ。そう言い出すと推しという表現もニュアンスが間違っていることになる気がするけど、自分で言うのと他人から認定されるのとでは、重みが異なるのだ。
もっとこう仄暗い感情を抱いている可能性がある。自分でも認めたくなくて、まだ推しだと言い聞かせているだけだ。
「サインもらった?」
「完全にプライベートな空間でサイン求められるの気乗りしないじゃないっすか」
ふたりして頷いたことに声を上げて笑う。むしろこれでサインを貰ったなんて言ったら逆に説教を食らったんじゃないだろうかと思うと震えそうにもなる。
「じゃあ、不調について文句言っといてくれた?」
「そろそろペナント終わりますもんね」
「ほんとだよ、まったく」
苛立ちを思い出したのか、亮さんはお気に入りの日本酒を一気に煽った。ずっと推し続けている球団が、優勝最有力候補だったにも関わらずペナントレース終わりに急に調子を崩したおかげで、積み重ねてきたゲーム差を一気に縮められている状態を考えると、苦笑いを零す以外のことはできない。
下手に刺激をしたらどんな仕打ちが待っているか。少し想像してみたけれど、怖すぎて即座に中断した。
「応援だけしときました」
「ふうん」
視線といい、声のトーンといい随分と含みがあった。嘘なんてついていないし、どんな含みがあるにせよ心当たりがないのに亮さんのそのトーンを聞くと体中がそわそわする。思考なんて在来線くらいの速度で回っていたのに突然新幹線に乗り換えるほど。
「え、なんすか」
「別に?」
純さんは至って普通の先輩。俺より一年早く生まれ、俺よりも二年早く業界に飛び込んだ経験則で俺に道のいくつかを示してくれる、面倒見が良くて意外と人の感情の機微に気づけるタイプの頼れる兄貴分。
亮さんは、このひとは人生何度目なのだろうかと本気で思うことがある先輩だ。純さんと同じように一年早く生まれ、純さんよりも半年ほど早く業界に入っただけだというのに、時々未来を見通した予言のようなことを言うことがある。だから敵わないのだ。
おそらく今回のそれも、そうだ。数ヶ月後にきっとこの「ふうん」に合点がいく日があるのだと思う。
◆
負の連鎖が止まらない。俺のプレーや思考にも焦りが滲んでしまっていたのか、読みがあまくなり、流れを完全に持っていかれてしまった。
試合の反省点を頭の中で連ねれば連ねるほど、どうにも自分自身への苛立ちが抑えきれない。爆発してしまいそうな感情に、いつ買ったか記憶に残っていない煙草の箱とライターを掴んでベランダへと出た。
秋のはじまりを感じさせる少し肌寒さのある風が、肌の表面の熱を攫っていく。
煙草の箱を開ければ一本しか吸った形跡がない。まあそれもそうだろう。余程のことがなければ資本を蝕む害悪だとわかっているものに手を出さない。どうせ出したところで、一センチも吸う前に火を消してしまう。
それでも吸うのは、有害物質を身体の中へ吸い込んで、煙と一緒に溜息と身体の中で燻っている黒い感情を思う存分吐き出したいから。
そうやって何か理由付けをしなくては、上手にガス抜きもできないのは自分のことながら不器用な奴だと呆れてしまう。
一本抜き出してフィルター側を箱に当ててトントントンと包の中野密度を高めて咥える。
「うわ、火ぃ点かねえし、」
カチカチと音を鳴らすだけで炎を灯さないライター。つくづくついていない。
他にライターを常備しているはずもなく、マッチだってない。そうなると近場のコンビニまでライターを買いに行く必要が出てくるけれど、そこまでしてどうしても吸いたいわけではない。どうにか気持ちの処理をできるように奮闘すればいいだけの話だ。
小さく息を吐き出したところで、高めの特徴的な笑い声が隣のベランダから聞こえてきた。どこかで聞き覚えがあるけれど、突然のことに驚きが勝った。記憶を引き出せずに眉間にしわが寄っただけで終わる。
「運が悪ぃ奴だな。ほらよ」
まさしくそのとおりだけど、『ほらよ』とは、なんのことかと首を傾げようとしたら堺壁の上から落下物。
「うお!」
慌てて左手を伸ばしてそれを掴む。なんとか掴み取れたそれはスケルトンのプラスチックでできたライター。歯車を回すタイプで、普段は指を痛めそうで使っていなかったけれどまあ一回くらい構わないだろう。
それよりも些細ではあるけれど俺の不運の連鎖を断ち切ってくれた隣人にお礼を言わなくては。
「ライターありがとう、」
ベランダから少しだけ身を乗り出すようにして、境壁越しに顔を覗かせて言葉が途切れる。挨拶もまともにしたことがない隣人にいきなりタメ口を使うつもりはなかったのに。
「え、あ、おう」
「あ、えっと、すぐ返すな」
思っていた人物と目の前の人物が異なった。大きめの目を丸めて、小さめの瞳が大きくしている。でも驚きは一瞬のことですぐに表情が引いていった。
勝手に初対面のタメ口にうるさそうな印象を抱いていたけれど、気を悪くした様子もなくただ頷いただけのそいつ。
慌てて身体を戻して、指に挟んだままだった煙草を唇に挟む。ライターは歯車を回せばすんなりと火が点いた。揺らめく火に煙草の先を近づけて、空気を吸い込めばぼんやりと火が移る。
久方ぶりに煙草の煙が肺へと侵入したのを、それ以外の溜め込んだ悪いものたちと一緒に夜空に吐き出した。暗いそこに吐き出したものはすぐ見失えた。
「や、別に百円ライターだから返さなくていいんだけどよ」
「だって、ないと困るだろ?」
ベランダに出てライターがすぐに出てくるなんて、同じように煙草を吸っていた可能性が強い。かっこいいものが好きだと取り上げられているこいつなら、煙草を吸っているのも想像できる。そんな人から一本の煙草を吸うためにライターを奪い取るのは気が引ける。
「名残りで持ち歩いてただけで、俺いま紙吸ってねえから」
そう言って、堺壁越しに電子タバコのケースを掲げていた。煙草で自体は吸っているに違いがなかった。
ベランダの手すりにより掛かりながら、どうにか会話を続けようと頭をフル回転させる。
「じゃあ、百円払う」
「いらねえって。それより煙草なんて吸っていいのかよ」
きゅっと短めの眉が寄って、俺の手元で揺れる煙を見つめた。俺に向けられた言葉の裏側に、俺の正体を知っていることがはっきりと現れている。
アクションがずば抜けて上手いことで有名な、元ライダー系の俳優倉持洋一に自分が知られているというのは嬉しかった。野球が好きなことは知っていたし、仲間内でオフに草野球をしていることも知っていたけど、プレーするのが好きと野球選手を知っていることは別だ。
「……普段は吸わなんだけどさ。たまーにうまくいかないときに吸いたくなんだよなあ」
好意を持っている俳優を間近に見ることができて、ましてや会話をしている事実に、口元がゆるみそうなるのを煙草を咥えることで堪えた。湧き上がる歓喜と一緒に煙を吸い込んで、悪いものと煙だけを吐き出した。
肺の中にあたたかい感情で満たされていく。
自分がここまでミーハーだとは知らなかった。今ならキャーキャー言うファンの気持が多少なりともわかる気がした。
「じゃあ、ライターのお礼代わりに次の試合勝てよ」
ニヤリと音が聞こえそうな悪い笑み。口角を釣り上げて悪戯っ子みたいに笑うそれは、かっこよくもありかわいくもあり心臓が変な音を立てた。
「……はは。なんか頑張れそうだわ」
さっきまであんなにムシャクシャしていて、救いようがなかった感情。自分でも現金だと思うけれど、あっという間に気分は上向いている。
しかも気遣って発破までかけてくれるなんて、頑張らないわけがない。それにこういうのにはめっぽう強いほうだ。勝てる気がする。
「そりゃよかった。応援してんぞ、御幸選手」
はにかむ笑顔が眩しい。夜も更けていて、あと一時間もすれば日付が変わるような時間の暗い世界で、この一角だけがきらきらと輝いている気がした。
ひらりと手を振って部屋の方へと戻ってしまったせいでその姿を確認できない。
「煙草、ほどほどにしとけよ」
名残り惜しい気持ちが燻る。倉持がどんな表情で最後の言葉を口にしたかは知る由もないけれど、もう煙草は必要なさそうだ。コンクリートで火を消して煙草の箱に吸い殻と灰をいれる。
ガラス戸を開けてリビングへと戻ると、真っ先にキッチンのゴミ箱へと向かった。一切心残りもないその箱をゴミ箱の中へと落とす。ライターだけはスウェットのポケットの中でほんのりとあたたかい。
「え、隣ってもっと髭の人だったよな?」
いくら他人にあまり興味を持てない俺だとしても、もう数年住んでいるマンションのお隣さんの風貌くらいはなんとなく覚えている。身長はたしかにそう変わらないくらいだったはずだし、目つきの悪さもそう変わらないけど、もう少し髪が明るく倉持よりも髪は長くて髭。
ということは、お隣さんの知り合いなのだろう。
「あ、わかった。あれだ、倉持が慕ってる先輩のひとりだ」
小柄な気の強そうな先輩と、ちょっぴり強面だけど面倒見のいい先輩。ふたりと一緒に食事に行ったり、買い物に行ったりした写真をSNSにあげていることが多い。そのひとりで間違いないだろう。
今回顔を合わせなくてもいずれ顔を合わせていた可能性は大いにあるということか。
「連絡先、聞けばよかったな……いや、気持ち悪いかな……」
いくら俺の正体を知っているとはいえ、初対面の人間にいきなり連絡先を聞かれたら気持ち悪いと思うのが普通だろう。
そう思ってもせっかくの縁を無駄にしてしまったのは惜しい。
入団したばかりの頃だっただろうか、先輩に勧められて観ざるをえなくなった野球と不良を題材にした連続ドラマ。ドラマの割に野球のシーンがリアルで面白いからとゴリ押しされて躱しきれなかった。身体に染み付いた体育会系の上下関係故に仕方なく、で観たはずだったのにすっかりハマってしまった。
野球経験者だけをキャスティングしたらしく、俺たちプロ野球選手の目から観ても野球のシーンはリアルに近くて違和感が少なく、高校野球の泥臭さを思い出す作品。その作品でリードオフマンであり、スイッチヒッターであり、守備の花形ショート役を努めていたのが倉持洋一だった。そこから人気があがり、翌年は日曜朝のライダー系ヒーローものでダブルライダーの片方でスタントマンを一切使わずにその身体能力の高さで人気が上がった俳優。
最初に観たドラマの野球のシーンで倉持に心奪われていた。身体の使い方、しなやかな動き、バネのある瞬発力。何より野球をしているときの表情。演技と言われてしまってはそれまでだけど、あの瞳の輝きは演技だけで括れないものがあると思う。一緒にプレーをしてみたかった。
「あー、せっかくなら明後日の試合、招待とかすればよかったのか」
あの会話の流れなら自然に誘うことができたはずだ。でもいまさら隣に押しかけてそんなことを言えるはずもなくて。ただ後悔が積み上がる。
「あーあ、もったいないことした……」
あんなとき、鳴や沢村なら自然と試合に招待して、自然と連絡先を交換して、なんなら飲みに行ったりして交流を深めることができたんだろう。あのほんの数分の出来事を脳内で再生すればするほど悔しさが増す。
床に溜息をそれはもう盛大にこぼした。
「……布団いこ」
先輩たちにはもう少しでかいマンションに住めと言われているが、ひとりで住むならこのマンションでも広いくらいなのにこれ以上は必要ないし、住み慣れた部屋は愛着もある。実際お隣さんが俳優ということは、別業界からみてもセキュリティー面はクリアできるレベルならわざわざ面倒な思いをしてまで引っ越す必要はない。
長すぎない廊下を歩いて寝室に入るとまっすぐベッドに飛び込んだ。家具を買うときに一番こだわったベッド。正確に言えばマットレス。
沈み込みすぎない適度な反発があるけれど、心做しか包み込まれている感覚があるマットレスに身を委ねて、お気に入りの枕を腕に抱いて、ヘッドボードからタブレットを取る。
タブレットを操作して動画配信アプリを起動したら、もう何度も観ている倉持出演作品のリストから今日の気分に合ったものを選ぶ。例のドラマの倉持が演じているキャラに焦点をあてた回をタップして再生する。
出だしから試合のシーンが始まって、二塁にいる倉持の盗塁を狙う獣のような貪欲な視線を画面越しに眺める。
野球をしている倉持の姿に心惹かれたのがはじまり。身体能力の高さに惚れ込んで、SNSやバラエティ番組で見せる無邪気さと不意に見せる男前なところに愛を覚えて、気づいたらファンの域を超えていた。
女優との恋愛を匂わせるシーンにモヤモヤと感情を燻ぶらせて、キスシーンなんてあった作品は思わず停止ボタンを押して叫んでしまったほど。純粋に応援している領域にはいなくて、できるものなら倉持と付き合いたいとすら思っている。
バランス良く筋肉はついているけれど、俺よりも一回りは小柄な身体を抱きしめたい。拗ねると尖る薄めの唇にキスをしたいし、ぺろりと顔を覗かせる舌に吸い付きたいし、なんならその身体を暴きたい。大事に丁寧に愛でながら、誰も触れたことがない奥底の核に触れて、俺の存在を植え付けたい。
別の映画で倉持が演じていたキャラクターが言っていた、『人生は選択が折り重なって道を作る。その選択のたびに道は枝分かれを起こして無限の多元宇宙が創造されている』というセリフ。
もしそのセリフが本当ならば、この画面の向こうのキャッチャー役を俺がしている道や、逆に倉持がうちの球団でショートを守っている道や、そこまでいかなくても同じ高校で甲子園を目指した旧友の道も存在しているのか。それは羨ましいことこの上ない。
やんわりと擡げそうになる欲望の兆しが身体の奥でじんわりと灯る。さすがに今日は抜いた後の罪悪感に魘されそうだ。
タブレットの再生を止めて、仰向けに反転したら頭まですっぽり布団を被った。
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