【倉御倉】M2【サンプル】< 01 : Top notes >
新しいシーズンがはじまる前の、ほのかな緊張感とゆらめく高揚感がチーム全体を包み込んでいた。昨シーズンは惜しくもあと一歩のところで逃した優勝を、今年は掴み取ってやると勇み立つ若手をコントロールしながら、周囲と共に御幸一也も今日の練習を終えた。
高校卒業後にプロ入りをしてから、気づけば十五年が経過しようとしている。あの頃のような伸び代も、吸収力もない。いくら神経質気味に身体を管理してきても、着実に重ねていく年齢には抗いきれないものがある。その積み重ねてきた時間の分、財産として経験があり、忍耐力がある。
そうは言っても、御幸の周囲はとても御幸が老いているようには然程感じていない者が多かった。誰よりもストイックに自己管理をして余分というものを知らない肉体と、二十代後半で時が止まった風貌とが相まって、ファンからの人気も留まることを知らない。選手だって、コーチ陣だって、まだまだ御幸の活躍に期待をしていた。
御幸もそれを理解していた。もちろん御幸自身も、あと数年は第一線で頑張るつもりでいる。けれども、後輩がぐんぐんと成長し背後に迫っていることも感じていたし、頭で描くベストパフォーマンスが出しにくくなる兆しを感じ、徐々に今後のことも思案していた。
「御幸さん」
たっぷりとかいた汗をあたたかいシャワーで洗い流して、自宅から練習場まで着用してきたスウェットとパーカーへ着替え、荷物をまとめてロッカールームを出たところだった。若々しいハキハキとした男の声が御幸を呼び止める。
「……あー、仕事っすか?」
御幸が振り返った先にはタブレットを抱えた、オフィスカジュアルコーデをさらりとスポーティーに着こなす爽やかな青年がいた。御幸が所属する球団の広報部に配属されている新卒三年目の伊東だった。
「そうなんですけど。ちょっといつもと感じが違うんで、御幸さんの意見を聞いてから受託するか決めようかと……」
「へえ?」
広報部には敏腕のベテランが揃っている。社会人三年目の伊東も優秀ではあったが、まだまだ使い走りをさせられることが多い。そのため御幸のもとに伊東がくるときは大抵、決まったスケジュールを決定事項として伝えにくるときや、クライアントやスポンサーから届いたものを手渡しにくることがほとんどだった。
それなのに今回はまだ検討段階の内容だということに御幸は少しばかり驚いた。他の目立ちたがり屋の選手ならまだしも、御幸は広報活動を得意としておらずできる限りその手の仕事を受けたがらない。
(断る前提だから、ってことか?)
それならば納得がいく。御幸を説得する必要がなく、念のため御幸の意志で断ってほしいということならば、伊東でも十分に役目を果たせるだろう。
「デルマーニの来年の新作パヒュームのイメージモデルの仕事で、どうやら調香師の方が御幸さんじゃないなら新作を没にするってことらしくて……」
「なにそれ」
「御幸さんの説得が必要ならその方が直接お話したいそうで、どうします?」
伊東は眉尻を垂らして乾いた笑いをこぼした。御幸は頬が引きつりそうになるのを感じた。だって、断ろうが断るまいが、一度はクライアントとミーティングを行わなくてはいけないということだ。それに有名なハイブランドの先方が俄然その気ならば、球団の広報部としても是非引き受けろと御幸を説得にかかるはずだ。ということは、だ。御幸は自球団とクライアントの双方を納得させなくてはいけなくなる。
(めんどくさいなあ……)
「一旦話だけ聞く。受ける受けないは詳細で決める、でいい?」
「大丈夫だと思います!」
後頭部を掻きながら答えた御幸に対して、覇気のある声が返される。表情が一気に鮮やかに染まった伊東は、前向きな検討の言葉を取ってくるように言われていたのだろう。御幸はこっそりとため息をこぼした。
「じゃあ先方との打ち合わせをセッティングしたら、日時と場所を連絡します」
「はいはい。じゃあ帰るんで」
「お疲れ様です」
伊東の軽やかな声に反して、御幸の足取りは重い。のそのそと、大きな身体を緩慢に動かしながら愛車へ向かった。
オープン戦が数日後に迫っていた。本来であれば、自主練に励みたい御幸であったが、都内にあるデルマーニ日本支社の会議室の椅子に座っていた。
しかも変わったオーダーを聞き入れて。その一、同席する広報担当者は男性社員であること。その二、訪問前にシャワーを浴び、香料のついたものを使用しないこと。特別厄介な注文ではなかったため、御幸は素直に従い広報部ベテランの内田とともにビルを訪れた。
迎えてくれたのは、去年デルマーニと御幸がアドバイザリー契約を結んでいるオーバーアーマーとのコラボ企画でブルゾンやスニーカー、キャップなどを販売することになった際にお世話になった担当者・渡辺久志だった。ハイブランドの雰囲気に困惑しながらの撮影やプロモーション活動の際に、親身にしてくれたことで御幸は彼を気に入っていた。なにより渡辺自身野球経験者でかなり詳しいことは御幸にとっては高ポイントだった。
「あと数分でパフューマーも揃うので、お待ちくださいね」
「その人ってどんな人なんですか?」
渡辺が御幸と内田の前に緑茶を並べた。さわやかでフレッシュなグリーンの奥で、ふわりと香ばしい薫りが漂う中、向かいの席へと腰を下ろしてノートパソコンを開いた渡辺に、御幸は問いかける。
「うーん、そうだな。見た目はちょっときついけど、面倒見のいい人かな。フリーだけど調香師としての腕は一流で、あちこちのハイブランドから新作パフュームの依頼が飛び込んできてるみたい」
「へえ、日本人なんですよね?」
「そうですよ。僕と同い年なんですけど、弊社のイタリアにある本部の役員が彼の作るパフュームをとても気に入っているんですよ」
人好きしそうな笑みを浮かべた渡辺は、御幸と内田に交互に見ながら御幸の問いかけに答える。やわらかくおだやかな声質はあたたかみがあって、引っ掛かりがなく御幸の聴覚を伝っていく。途中内田からの質問に答えた渡辺はどこか誇らしげだった。
「すみません。お待たせしまし、た……」
(あ、あのときの……)
会議室に男が入ってきたタイミングで一緒に一足早い春が入ってきた。あまさがあるのにかろやかな花の薫りがほのかに空気を包む。男が歩くのにあわせて、その花の影に癖のある芝のような青臭さと初夏のさわやかな海の薫りがゆるやかなうねりをつくる。そのうねりは御幸のもとへと打ち寄せて、一年ほど前の記憶を呼び起こす。
男は御幸を視界に収めてスン、と一度鼻を鳴らすと眉を寄せた。髪はドイツの黒の森を思わせるような、黒みがかった深い緑の短髪。前髪をツンと立ち上げ、短めの眉毛に三白眼の男が眉を寄せた姿は、好意的とは言い難い。あっという間に御幸の脳内は、現状の感情に上書きされた。
(呼び出したのはそっちのくせに、なんかムカつくリアクションだな)
酷く気分を害したわけではないけれど、半ば嫌々の訪問だったために、ちいさな苛立ちが生まれた。御幸は自分がもし同じくプロ野球選手の成宮鳴だったら、きっとこの男のリアクションに噛み付いていたのだろうと思考した。
「ナベちゃん。ちょっとワリぃんだけどさ、メモする処方箋をここの研究員に調合してもらえねえ?」
「大丈夫だけど」
「それと、今日戸塚さんとエレベーターとかで一緒になった?」
渡辺の隣に座るなり手帳にボールペンを走らせた男は、御幸たちを無視して渡辺へと話しかける。男の手によって手帳は乾いた音を立てて破かれ、渡辺の手へと渡された。
「え、におい残ってる?」
「あの人、シャリマーのシャワーでも浴びてんのかってくらい香水きついから」
「全然わかんないや」
自分の衣服のにおいを確認している渡辺につられ、御幸も空気を吸い込んでみたけれど先程からか薫りを保っている緑茶の匂いと、春の気配しか嗅ぎ取ることはできなかった。
「すみません。はじめましょうか」
パソコンでタイピングをしながら、渡辺が進行をはじめる。調香師・倉持洋一と御幸、内田の挨拶を済ませた後、さっそく今回の議題に突入した。
来年の初夏頃にあわせて、夏の新作コスメラインナップとしてオードトワレを発表する。どのシリーズにも所属しない、完全新作であるその香水のイメージモデルを是非とも御幸に担ってほしいというものだった。
「なんで俺なんですかね」
「御幸選手にインスピレーションを受けて作った馨りだから」
「え! 僕もいま聞いたんだけど」
倉持の少し高めの声が静かに空気の中へと馴染んだ。反して、空気が弾ける声を上げたのは渡辺だった。真横に位置する倉持へ顔を向けて、目を丸めていた。御幸は渡辺のリアクションに内心安堵する。先行して衝撃を表してくれたおかげで、御幸自身は冷静を装うことができた。
「言ってねえもん」
「それくらい言ってくれてもいいのに」
「ヒャハ。ごめんって」
(あ、笑った)
渡辺と倉持の会話はテンポがよく、譜面のような完璧なリズムがあった。それを彩る、特徴的な笑い声が倉持から溢れる。真剣な表情から、ひょっこりと素の笑顔が覗いたその横顔が印象的で御幸は視線を奪われる。そしてやっぱり見た目に似合わず無邪気な笑みを浮かべるもんだ、と簡素な感想を抱いた。
「あのさ。受けたくないだろうけど、試してから判断してほしい」
やわらかなものを取り払った硬質な視線が御幸を捉えた。視線自体は鉄を思わせるひんやりとした硬さがあるのに、倉持の瞳の奥は囲炉裏の炎のようなものがパチパチと音を立てて、重く沈むような深みとまったりとした濃密さがある芳醇な薫りが目ヂカラから香る。御幸はその不思議な感覚に好奇心が起き出すのを感じた。香水や仕事はどうでもよくて、倉持という人間がどのような人間なのか知りたい、と考えはじめていた。
(瞳の表情が香る、っておもしろいな)
そのため、倉持からの提案には整った顎を小さく沈めて同意を示す。
すぐさま倉持はポケットからパウチされた袋を取り出し、開封すると、小瓶を取り出す。小瓶の底に三ミリほどの液体が漂うそれを御幸へと差し出した。
「二回、手首に吹き付けたら、十秒くらい置いて嗅いでみて」
「わかった」
御幸は自分が少し緊張していることに気づく。大したことはない、ただ香水を手首に吹き付けるだけの行為なのに、それが自分を変身させるような気がして、緊張と期待が体内で小さな渦を作っていた。
シュ、シュ、と鳴らしてスプレーをすると、爽やかで軽い柑橘の香りが鼻腔を刺激した。フレッシュで、スッとするなかに果実のあまみをうっすらと感じる。
(……八、……九、……十)
三人分の熱心な視線を感じながら、御幸は腕を顔の高さまで持ち上げた。スン、と空気を吸い込むと、やはり柑橘の匂いがするりと入り込んできてあっという間に肺へと到達する。ゆっくりと吸い込んだ空気分の二酸化炭素を吐き出す動作の中で、刈ったばかりの芝の癖のある香りとその奥でひっそりと佇み、甘く薫る花がある。洗練された上品さがありながら、清潔感と人のやさしさ、というよりはあまさを感じさせるような薫りだった。でも軽すぎない、空気に滞留するような重さと香ばしさも見え隠れしているように思えた。
(これが、俺きっかけで作った匂い……)
ほう、と角のないまろやかなため息が溢れおちた。
「どうだ?」
「受ける。この仕事、俺にやらせてほしい」
そのとき御幸が真っ先に抱いたのは、自分のイメージに合っているかという分析よりも、この馨りを誰か別の人間に盗られたくないという独占欲だった。その欲望を追いかけるようにして、倉持という男をもっとよく知りたいという知的好奇心。そのふたつだけで、普段は好まないこういった野球以外の仕事をあっさりと承諾するどころか、自らの意志で引き受けたいとすら思っていた。
「え! 御幸さん珍しいじゃん」
「あー、うん……」
御幸の返答に対して、真っ先に声を弾ませたのは内田だった。日頃どうにかして仕事を断ろうとする御幸を見ているからこその意見だろう。御幸は居心地の悪さに、鍛えられた身体をもぞもぞと椅子の中で動かした。
「いい匂いだし……。あと、倉持さんがどうしてこれを作ったのか知りたくて」
ゆったりと、思考をまとめながら言葉を選びだした御幸に倉持が目を丸めた。小さな瞳が少し大きくなって、そのあとそれらをゆるめるようにふっと空気がやわらぐ。春の薫りが一層濃くなったように御幸は感じた。
「そうか。詳細にもよるけど、うちとしては御幸さんがオーケーなら概ね問題ないです」
「よかったです。では、近日中に企画書と撮影日程などをメールでお送りしますね」
淡々と打ち合わせを進めていく渡辺と内田の声をぼんやりと聞きながら、御幸は神経を鼻へと集中させた。香水は時間の経過によって匂いが変化する。トップノートがかろやかなベールを脱いだら、ミドルノートが広がりのあるケープを脱ぎ、最後にラストノートが落ち着きのあるマントを覗かせる。御幸もそのくらい認識はあった。
(この匂いはどう変化するんだろ……)
生活を邪魔するほどの香りではなく、空気に馴染んでいく。心の洗濯がされるようなさわやかな香りは、たしかに夏の香水にぴったりだ。来年は街中を歩いていれば、このやさしくさわやかな馨りに遭遇するのだろう。
御幸の思考を遮る会議室の扉のノック音。
「倉持、」
渡辺はやわらかに倉持の名前を呼んだ。「おう」と、相槌のような返事をした倉持は立ち上がって扉を少し開けると、外にいる相手と一言二言会話を交わす。そのあとは真っ直ぐ御幸の隣までやってきてアトマイザーを差し出した。
「これ、夜シャワー浴びたらつけろ。しっかり眠れるから」
「へ?」
うっすらと口を開けてアトマイザーと倉持とを交互に見たまま、思考が機能していない御幸に向かって、ずい、とさらに近づける。早く受け取れという合図ではあるが、御幸はまだ状況が理解できておらず、きょとんとしたままだ。
「数日はまともに眠れてねえだろ」
「え、なんでわかんの」
「体臭」
「は? え、俺くさい?」
打ち合わせ前に渡辺がしていたように、自身の二の腕を鼻に寄せて、スンスンと匂いを嗅いでみるけれど、柔軟剤の匂いしかしない。御幸たちを見ていた渡辺が喉をころりと鳴らして笑う。
「普通はわからないよ。倉持の職業病みたいなものだから」
「職業病?」
「犬、ほどではないけど、かなり嗅覚がいいんだ。神経を済ませば体臭の変化もわかるよ」
「普段は抑えるようにしてるけどな」
「あ、そうなんだ」
御幸にはとても理解が及ばない領域だったが、理屈の大枠を理解することはできた。
「そういえば。ほら、前回の撮影時のパフュームも倉持が作ったものだよ」
御幸の中で鮮やかに記憶されているその香り。撮影を遮ってまで使用を求められたそれは、そっと御幸に寄り添った。さわやかでリフレッシュができる柑橘と海の合わさった匂いの奥に大木がやわらかに佇んでいた。いつになく緊張をしていた御幸はその香りに心を奪われ、そこからの撮影はスムーズだった。感謝した馨りと結びつき倉持への興味が増す。
倉持からアトマイザーを受け取った御幸は、それを上着のポケットへとしまう。見計らったかのように、「では、また後日」と、渡辺による打ち合わせの終わりが告げられる。内田と渡辺が立ち上がったことに倣って御幸も立ち上がると、倉持は自身よりも幾分か小さいものの上背もそこそこにあり、体格もしっかりしていることに気がついた。
渡辺の案内に従い、会議室を出ようとしたところで、御幸の身体が引力に引かれて止まる。倉持に手を掴まれたかと思えば、そのまま持ち上げられて倉持の顔が近づいた。ぐっと縮まった距離に、御幸は驚いて思わず一歩後退る。
「うん、思ったとおりの薫りだな」
(あ、香水の確認、か……ビビった……)
倉持の表情がまたやわらぎ、近づいたことで春が強くなった。花の香りや、草の香り、と括ってしまうには少し乱暴な、複雑な薫りだった。幾重にも重なった複数の香りを判別できるような嗅覚も、名前をつけられるような知識もない御幸は、ただその春のような薫りに心を擽られるだけだ。
(なんで、キスされると思ったんだろ……)
御幸の心音がいつもよりも早まったのは、急に接近されたことへの衝撃か、勝手な勘違いのせいか、ころころと変わる倉持の表情のせいか、はたまた倉持から薫る春のせいか、本人はわからぬまま自身の心臓に翻弄される。
「あ、あのさ。これ、使い終わっちゃったらどうしたらいい?」
「へ?」
しまったアトマイザーを取り出した御幸に、今度は倉持が呆気にとられる。予想していなかった流れなのか、何度もまばたきを繰り返して硬直している倉持に御幸は、後頭部を掻いて言葉を探した。
「え、あー、いや。寝付きが悪くてさ。シーズン始まるし、効果あるなら続けたいなって」
わざとらしくないだろうか、言い訳っぽくなっていないだろうか、と御幸は思考を巡らせていく。ぽろぽろと溢れ落ちるように降ってくる言葉の数に、ようやく再起動を果たした倉持は空気を揺すりながら震えた。
「ひひひ、さっき渡した名刺貸して」
「あ、うん、これ」
慌ただしくポケットを漁ってカードケースを取り出す御幸に、倉持はさらに空気を揺らす。それが恥ずかしく、さらにはくすぐったくもあり、御幸は体温が上がるような気がしつつ、カードケースから倉持の名刺を取り出した。
それを受け取った倉持は、手にしていた手帳の上で名刺の裏にペンを走らせた。するするといくつかのアルファベットを書き終えると、再びそれを御幸のもとへと戻す。
「表のメールアドレスか、今書いたIDに球団とかでいいから郵送先連絡して。暇なときに調合したら送るからよ」
「ありがと。連絡する」
「おう」
最初とは異なり、大切そうにカードケースへと名刺をしまった御幸に、「ヒャハハ」と空気を弾ませた。
「大丈夫だって。失くしても、ナベちゃん経由で連絡くれれば」
「あ、そっか」
無理やり捻りだした言葉よりも遥かにスマートなルートを提示され、御幸は後頭部を掻く。
「伝書鳩じゃないんだけど?」
「いーじゃん、メッセージのひとつくらい」
咎める色はまったくない渡辺の声に、子供がじゃれつくように笑う倉持。ふたりの様子を見ながら御幸は漠然とした羨ましさを覚えた。それが何に対する感情かさっぱりわからないけれど、鮮烈に焼き付いた感情だった。
< 02 : Middle notes >
倉持が国内大手の化粧品メーカーの研究室勤めの頃から、講習会や、展示会などで顔を合わせていた渡辺を倉持はとても気に入っていた。賢く、真面目で、気配り上手。だから自身が研究室を辞めてフリーでやっていくことになっても変わらぬ付き合いが続いていた。むしろ、プライベートで食事をすることも増え、一緒に仕事をする機会もあり、以前よりもずっと濃密に関係を強めていた。
今回もいくつかの新作フレグランスの処方が終わり、真っ先に渡辺に連絡をした。いつもどおり間髪入れずに「ぜひ試嗅させて」というメッセージが返ってきたので、出向くことになった。
普段であれば、オフィスの会議室か研究室でミーティングをするが、今日は別案件の撮影が立て込んでいるらしく、スタジオ横の控室を指定された。倉持は予定時刻より早めについた時間をどうしたものかと悩んでいれば、スタッフによってスタジオへと案内される。
「ごめんね。ちょっと押してて」
「俺も早く来ちまったし」
フラッシュの光が不規則に瞬く。そのたびにシャッターを切る特有の電子音がスタジオへと反響していた。モニターには撮りたてほやほやの写真が無数に並んで表示されていて、スタッフたちはせわしなく動き回っていた。
「なあ、あれって」
「そう。プロ野球の御幸一也選手だよ」
「まじか。すげー緊張してんじゃん」
喉の奥で音を転がしながら、撮影の様子を眺めている倉持に、渡辺はまばたきの回数が増えるのを感じた。付き合いが長く、倉持の商売道具の嗅覚が一般的な人間の想像を超えるものだとは理解していても、どうしても驚いてしまう。
モデルに比べたら不慣れな感じは出ているものの、人前に出ることは慣れている御幸は緊張しているようには見えなかった。けれど倉持がそういうのなら間違いはないのだろう。
「これ、シトラスとマリン系のオーデコロンだから使ってやって」
倉持は身につけていたボディバッグの中から、小瓶が入った密封された袋をひとつ渡辺へと手渡した。それは今日試嗅するはずのフレグランスのひとつで、初夏に気軽に使えるようにと処方した、爽やかさとフレッシュさを意識して創作したものだった。
「リフレッシュ効果あるし」
「ありがと。ちょっとスタッフに言ってくるよ」
袋を受け取った渡辺がメイクスタッフのもとへと歩いていくのを見送りながら、倉持は再び御幸へと視線を向けて観察をする。
倉持は母子家庭で育ち、同居していた祖父にとても懐いていた。庭師をしていた祖父の影響で草花の知識が増えていくうちに、自身の嗅覚は特別だと気づき、祖父の勧めで調香師を目指すようになった。同時に倉持が祖父から影響を受けたものはもうひとつあり、それが高校まで続けた野球だった。今でも時折スタジアムに観戦しにいくほどだ。
もちろん、同年齢で西東京を代表して甲子園へと進出し、準優勝をした高校のキャッチャーでありキャプテンで、今なお現役で埼玉の球団で活躍している御幸のことを知らないはずがない。倉持とは異なるタイプの選手だが、その実力は倉持も気に入っている。
(にしても、こうしてみるとモデル顔負けの顔面だな)
倉持の視線を独占する男は、プロの手によって素材を引き立てるようにうっすらとメイクを施され、より男前に見えるようにヘアセットをされ、ハイブランドの衣装を着せられている。球場にいるときのトレードマークになっているスポーツサングラスは、今日はない。代わりに衣装と同じくハイブランドの眼鏡をかけ、セットの中にいた。
元々人の目を引く資質が備わっている男だ。花がその芳醇な薫りで人を引き寄せて、可憐で華やかな姿で魅了するように。御幸もまたそのオーラで引き寄せ、生まれ持った容姿で魅了し、培った才能や発せられる言動で虜にする。その強力さは、その道を生業としているモデルたちに引けを取らないどころか、勝るように倉持の目には写っていた。求心力が強く、一度視線を奪われたら簡単には剥がすことができない。
ましてや、その魅力を最大限に引き出している現状の御幸はその効力も段違い。感覚を奪われるのは倉持も然り。メイクスタッフが御幸に近づき、香水をふりかけた瞬間から嗅覚は特に神経を尖らせる。
(あ、笑った……表情ゆるゆるじゃん……)
スタッフが離れていき、撮影が再開されるわずかな時間。御幸の表情がふにゃりと輪郭を崩した。かっこいい、とは言い難いけれど、かわいいとは思える表情に、釣られて倉持の口元がゆるんだ。御幸は香水を吹きかけられた手首に鼻を寄せると、深呼吸をした。再びカメラのシャッター音が響き出したときには、すでに緊張の色は薄まり、御幸の元来持つ引力のある視線がレンズを捉えていた。
倉持の身体の中で、自身が作った香りが御幸に及ぼした反応に誇らしい気持ちと、あの視線の先に立ってみたいという好奇心が膨れ上がる。そしてそれらを統括するように、湧き上がってくる創作意欲。あの御幸一也という男を表現する芸術品を自身の手で生み出したいという欲求が膨張していく。
「ナベちゃん、」
随分と熱っぽい声だ、と倉持は思った。しっとりと水蒸気を含む声に、今の熱量が見受けられる。
「俺、一年は新作作れないかも」
「え、急にどうしたの」
香りの創造は倉持にとって、食事をするのと同じくらいの重要な行為であり、同じくらい自然に行われている。だから数ヶ月に一度は新しい商品として自ら売り込みを行うフレグランスを生み出していた。だから一年も長い間新作がひとつもないことは、スランプに陥った時ですらなかった。
「本気出して取り組みたい馨りがあるんだよ」
倉持の薫りの創作スタイルは、閃きをきっかけとした創造的なものを得意としており、完成させたい香りに近づけて創作していくことをあまり得意としていなかった。絵画で例えるのならデッサン力を基本とした風景画などが苦手で、どちらかと言えば倉持の先輩である小湊亮介が得意とする分野だった。倉持は抽象画のように頭の中のイメージを直感的に作り上げるものを専門としていた。
その倉持が、御幸というひとりの人物をモデルとして薫りを作り上げることは、知識も想像力も精神力も要することである。これが他人からの依頼であれば、即却下を出した上で小湊を推薦するところだ。
「珍しいね」
渡辺は意図的に瞬きを繰り返しながら、倉持の横顔を見つめた。フリーになる前を含めたら八年以上の付き合いであり、クライアントとフリー調香師の関係になってからも三年半の関係の中で、知る限り初めてのことだった。
「できたら真っ先に売り込むから」
「いつものことでしょ」
「久志様を信頼してるからなー」
「はいはい。俺も倉持の嗅覚を信頼してるよ」
「おう」
撮影の邪魔にならないよう声を潜めて笑いあうと、空気がやわらかに揺れた。ふたりへと時折御幸が視線に収めているとは知らずに。
(あの人、誰だろ……若そうだけど、偉い人か?)
撮影が休憩に入ると、倉持と渡辺はスタジオ横の控室に移動し、倉持が持ち込んだ新作のフレグランスたちを試嗅し、香料の説明とあわせて薫りのイメージも解説した。
持ってきた新作は全部で六つだったが、ひとつはすでに撮影をしている御幸に使用してしまったため五つを渡辺は吟味した。今後のブランドのコンセプトやラインに合いそうなものをみっつまで絞り込み、それを本部へと送る契約を結んだ。本部からGOサインが出れば季節をわけてみっつともパフュームとして追加契約になるし、少なくともパフューム以外のフレグランスとしてひとつはなんらかの契約に必ず繋がるのが倉持の香りだった。今回選ばれなかったふたつは別のブランドへ売り込みをし、そこのコンセプトにも合わなければ倉持の母の名前を冠としたオリジナルブランドで販売すればそれなりの儲けは出る。
調香師の世界では気鋭の若手として名前が売れ、国内外の著名人から一定数の人気がある。そのため調香や関連の研究や買い付けなどの好きなパフューマーの仕事だけでも不自由ない生活ができるほどだった。けれど、そのうえ小さいとは言え自身のブランドも先輩の弟である小湊春市とともに経営しているため、マイペースに過ごすことができていた。
「さてと、御幸一也、か……」
一人暮らしをしている都心から離れた庭付きの持ち家へと帰宅した倉持は、パソコンの前へと座った。いくつかのメールを確認しながら、マグカップにお湯を注ぐ。途端に庭の菜園から摘んだばかりのハーブを使ったお茶が部屋の空気をほんのりと染め上げる。やわらかであたたかみの中にスッとした青臭さが交じる。必要なメールにだけ返信を終えた倉持は、ようやくパソコンを立ち上げた目的へ着手した。
「知ってたけど、かなりの野球バカだな……」
SNSやネットの海へと意識を沈めつつ、ハーブティーを口にする。野球選手としての面しか知らなかった倉持だったが、あまり予想を大きく覆すようなプライベートの面は調べても出てこない。料理が特技で、メディア露出が苦手で、好きな休日の過ごし方はトレーニングとライバル球団の分析。むしろ恋愛面に関しては、こういう華やかな業界の人間にしては珍しくクリーンなもので、浮ついた話は全くと言っていいほど出てこない。一度数年前に週刊誌デビューはしたものの、すぐに売名行為だと発覚して数週間で収まっていた。
「マドンナリリー……入れてえな……あとは芝っぽさを出すグリーンノート……」
キーボードの横に並べた手帳に走り書きを残す。せっかく時間も気力もたっぷりと使って作り上げるのならば、出来上がる馨りにこだわるだけではなく、使う香料にも意味を持たせてこだわるつもりでいた。
マドンナリリーは、宗教画の聖母マリアと天使が描かれる受胎告知の絵画にも必ず描かれる白ユリで、清らかなマリアのイメージに由来して純粋や無垢と言った花言葉がつけられた、古くからヨーロッパにあるユリのひとつ。昔から神聖な花として扱われ、高貴な雰囲気がその見た目からも感じられる、現在の流通では稀少になっているが、御幸のクリーンなイメージや野球に捧げた人生をイメージするにはぴったりだと倉持は思った。
(あとはそうだな……)
人を魅了するセクシーさなどはアンバーよりムスクのほうが印象に近いだろうとメモをしながら、バランスを考えた結果ホワイトと書き足した。初見のさわやかさはどんな香りみしようかと悩みつつ、どっぷりと御幸についての情報に溺れる。そうしてメモを残していく。その走り書きの集合体を頼りに香料についての資料を漁り、何度も何度も調香を繰り返しながら自身の中にある理想のイメージへと薫りを近づけることに没頭した。
合間に息抜きと御幸へのイメージのリセットを兼ねて、気まぐれに浮かんだ香りを調香したり、小湊や庭の菜園の世話をしてくれている庭師の伊佐敷などと一緒に埼玉の球場に足を伸ばしたり、御幸に頼まれた安眠用のフレグランスを作ったりしながら、作品作りに全霊を注いだ。
つづく