【御倉】Pavlov's dog【サンプル】 ぷかり。ふわり。のんびりと時間をかけて覚醒していく意識。閉じた瞼をくすぐる白を残した日差しに、ああ、もう朝なのか、と意識ははっきりとしてくる。できるものならもう少し、あと五分でいいから眠っていたい。体温が移って適温のシーツの中を蠢いて枕に顔を埋めた。すん、すん、と鼻を鳴らせば嗅ぎ慣れた匂いに気持ちも身体も脱力していく。そんな鼻腔をやわらかに刺激する香ばしい匂い。
「くらもちー。あと三十分で家でないと遅刻するけどいいの?」
「……はあ?」
間延びした声。かなり暢気なそれに緊急性を察知できず、自身からも間抜けな声が溢れた。
「今、七時半過ぎたとこ」
「おま!」
ゆるやかな覚醒をしていたはずの脳が一気にアクセルを踏み込んだ。腕力に任せて飛び起きた背後で、掛け布団がベッドからずり落ちた気配がしたけれど、そんなことを気にしている場合ではない。二十分以上の寝坊だ。
「もっと早く起こせよ!」
「起こしたって。眠いって文句言ったの倉持じゃん」
「言ってねえ!」
足音を殺すこともなく、広くはない家の中を走る。顔を洗って、うっすらと生えてきている髭を剃って、スキンケアを施して、スウェットを洗濯機の中へと脱ぎ捨て、寝癖を直しながら髪をセットする。一分一秒をいかに短縮するか目まぐるしく思考が回る。
「朝飯、できてるけど……」
「……あああああ! 食う食う」
歯ブラシに伸びていた手を止めて、ひとまず口を濯いで洗面所を飛び出た。白米に、豆腐とわかめの味噌汁、焼き鮭、ほうれん草と油揚げのおひたし、切り干し大根。定食屋を思わせる立派な朝食だけど、すでに鮭は解されて骨を取り除かれていた。
「助かる、いただきます」
「ワイシャツ、ストライプのでいい?」
鮭は短時間で食べられるようにという御幸なりの気遣いなのだろう。ありがたく、バランスを考えられたそれらに箸を伸ばす。
もごもごと頬袋いっぱいに朝食を詰め込む傍らで、御幸の声が寝室から響いてくる。返事をしたくても口がいっぱいで、声は出せそうにない。どうしたものかと、大急ぎで顎を動かしながら振り返れば御幸がひょっこり顔だけ覗かせていた。
「おっけー、ネクタイはグレーの出しておくから」
俺が大きく何度か頷けば、御幸はまた寝室へと引っ込んでいった。俺は慌ただしく口の中に朝食を収めていく。いつもであれば二、三十分時間をかけて味わいながら、ふたりで朝食を食べる。御幸が遠征でいない間はトーストだけ、シリアルだけ、卵かけご飯だけ、など簡素な食事で済ませていて、ひどいときは出社しながらコンビニで惣菜パンを調達している。だからこそ御幸が作った朝食を残すという選択肢は、遅刻をするかもしれないこの状況でもあり得ない。間に合わせようとする一方で、念のため言い訳を考え始めてもいる。
「口動かしてる間にシャツ着ろって」
そう言って隣の椅子の背もたれにかけられたワイシャツを素直に掴めば、ボタンは外れていて袖を通すだけだった。次いでかけられたスラックスもベルトが通してあり、履くだけ。口を動かしている間に、御幸が甲斐甲斐しく準備していく着替えを順に着用して、口が空いたら次を詰め込む。ちらりと壁がけの時計を確認すれば、ギリギリではあるもののなんとかいつもどおりの時間に家を出ることができそうだ。たとえ間に合わなくても電車一本分で済むから、遅刻は免れそうで、安心した。
「スマホ、リュックのポケットに入れたからな?」
「さんきゅ」
「パソコンと充電器も入れておいたけど、あとは?」
「あー、大丈夫」
御幸の強力のおかげでなんならいつもよりも早く支度が終わりそうだ。俺の代わりに諸々の支度をしていた御幸は、ようやく目の前の席に腰を落ち着けた。
「カフェオレ、ぬるくなってるけど」
うん、やっぱりギリギリだ。飲みかけのブラックコーヒーを飲んでいる御幸も、一応責任を感じているのだろう。昨夜、俺は早く寝たいと言ったのに、御幸はいつもより長めの遠征になるからと俺を丸め込んだ。そして御幸が三回果てるのに付き合わされた俺は、一体何度昇りつめたのかわからない。そりゃ、朝も起きられなくても仕方がない。それだから御幸もギリギリまで起こせなかったのだろうと、働き始めた頭で納得をする。
「ごちそうさん」
「片付けるからそのままでいいよ」
「わりぃな」
肩を竦めた御幸はまたマグカップに口をつけた。すっきりとした顔をしているけれど、半月近い遠征から帰ってきたら、また鬱憤が溜まった顔をして俺にすり寄って来るに違いない。御幸がいない間に、春市か白州でも誘って焼肉でも食っておくか。
すっかりぬるくなっているカフェオレ。昨夜を思い出すだけで、普段はほろ苦いそれがあまったるく感じる。やけに甘やかされた気がするし、いつも以上にしつこかった気がする。
悶々としてしまう前に、カフェオレを一気に飲み干して立ち上がり、洗面所に逃げ込む。気持ちを切り替えるように、ミントの風味たっぷりの歯磨き粉を歯ブラシに捻り出して、隅々まで歯を磨く。
付き合ってかれこれ十年だけど、一向に訪れる気配がない倦怠期とかいうもの。御幸が遠征の多い特殊な職業に就いているからなのか、とも思うけれど、その反動でオフシーズンは家にいることが多いことを考えると職業は理由にはならなそうだ。御幸は飽きもせず面白みのない男の身体を抱いて、懲りもせず執拗に世話を焼き、冷めることもせず愛情をあらわしている。
まるで御幸が特殊かのように連ねるけれど、俺もまた飽きずに、懲りずに、冷めずに、御幸を求めるのだから似た者同士だ。
「じゃあ、行ってくるけど、怪我すんなよ」
「ちゃんと活躍するから、応援してて」
「へいへい」
玄関に用意されたリュックを背負い、靴を履いて御幸を振り返る。服装こそまだ部屋着のスウェットだけど、髪はすでにセットされている。昨日の夜に出た洗濯を回して、朝食の片付けを済ませ、洗濯を干したら、着替えて御幸も家を後にするのだろう。
じゃあ、とドアへと振り返ろうとした身体が、意思に反して傾く。ぶつかった衝撃は硬いけれどあたたかく、御幸に引き寄せられたと自覚する頃には口内に苦い味が広がっていた。丹念に隅々まで肉厚な舌が辿る。やわらかな箇所も、よわい箇所も全部絶妙な加減で撫でて、脳を溶かそうとする。
「……っ! おま! 遅刻するだろうが!」
「だって、遠征行く前にキスしたいじゃん」
うっかり熱烈なキスに応じかけた自分を叱咤して、御幸の胸に手を当てて腕を突っぱねる。離れた唇を手の甲で乱雑に拭えば、御幸は唇を尖らせてわざとらしく拗ねてみせる。そんなことしてかわいいで許されるのは小さな子供か、あいらしい女の子くらいだ。なんでそれで許されると思っているのか、そして俺は許しかけているのか。
「昨日の夜散々しただろうが!」
「足りないに決まってるじゃん。倉持遠征に連れていきたいくらいなのに」
「行かねえよ、ばあか」
「知ってる」
くすくすとやわらかに笑う御幸。その音色は喉の奥であまさを転がしているようで、馬鹿な脳がときめきそうになる。理性を総動員して御幸を睨みつけ、今度こそ玄関のドアを開けた。忙しなさを含んだ空気が流れ込んでくる。ドアを閉める瞬間、御幸の「頑張れよ」が聞こえた気がした。
◆
御幸がいない日の流れは淡々としている。朝起きて、仕事に行って、御幸が出る試合を見ながら晩酌をして眠る。そのルーチンが大きく乱れることはなく、休日も起きる時間が遅くなって仕事が家事と多少の娯楽に変わるだけ。感情の波も穏やかに打ち寄せては引いていく。
「ご注文はお決まりですか?」
営業周りをしていたら、微妙な空き時間ができてしまった。会社に戻るほどの時間はないからと、次のアポイント先の近くのコーヒーショップに入って、メールの返信やら書類作成でもすることにした。最初はいつもどおりカフェラテを頼もうと思っていたのに、レジに並ぶ間に鼻を伝って脳を満たした豆の香りに、普段は飲まないブラックコーヒーを無性に口に入れたくなった。
「あー……、アイスコーヒーをレギュラーで」
「かしこまりました。右手のカウンターでお出ししますね」
なんでそんな気分になったのか見当もつかない。首の後ろを掻きながら、レシートを受け取り、指示通りの場所へと移動して店員の様子を眺める。
日頃、家では牛乳たっぷりのカフェオレ、外では背伸びしてカフェラテにガムシロをひとつ。本当はガムシロふたつ入れたいところを格好悪いから我慢しているのを知っている御幸は、その様子を見てニヤニヤと笑うのがむかつくけど。
そんな俺がブラックコーヒーに何も入れずに飲めるはずもなく、受け取ったカップに人目を気にしつつこっそりとガムシロをふたつ入れてから、そそくさと席へとついた。歩く振動で揺れたカップの中でカラリ、と氷がわらった。
パソコンを起動して、新着メールの読み込みをしている間にアイスコーヒーを啜る。普段は牛乳のまったりとした舌触りがあるのに、さらりとした液体が舌に乗ると棘のような苦味が広がる。鼻に抜ける匂いもまろやかさがない。
思わず眉間にシワを刻んでしまったくらい、口に合わない。でもどことなく、気分が落ち着くような気もする。それに日頃好む、まったりとした脂肪感がないことで、後味がさっぱりとしている。じんわり暑くなってきたこの時期には心地がいい気もしないでもない。苦いには苦いから、しばらくはまたカフェラテで十分だけど。
気分は落ち着き、頭はすっきりと冴えたところで、メールを開封していく。必要なものにはキーボードをタイプして返信をする。店内のBGMと騒がしくない程度の人の話し声とカタカタと鳴るキーボード。集中力が高まっていく中で、口にアイスコーヒーを含むと、クリアな思考でぼんやりと浮かぶ存在。
不意に御幸の顔を見たくなる。たまには自分から連絡でもしてみようかと時計を確認した。
「なんだ。御幸、明日帰ってくんのか……」
それならば、明日飽きるほど顔を眺めればいい。それよりも、と。スマホを取り出して春市に焼肉の誘いをかけることにした。
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