キスマーク つけるなって、言った、のに。
朝、太陽もまだ微睡んでいる頃、軋む身体を無理やり起こしてトイレに立った。先輩の腕の中はあたたかくて心地よくて、この世に生まれてきたことすべてを肯定してもらえているみたいで、いつまでもここにいたいと思ったけれど、生理現象にはかなわない。先輩の家――狭い簡素なワンルームだ――のユニットバスの鏡で、俺は俺の身体を二度見する。
それは首筋からはじまり、鎖骨、胸元、肩にまで広がっていた。きっと耳裏やうなじにも咲いているのだろう赤い跡を、おそるおそる指でなぞる。
「どーすんだコレ……」
今日明日は学校は休みだ。しかし、果たしてそんな短期間に治るものだろうか。小さい内出血は上からこすっても取れるわけがなく、服を捲れば腹回りにも点々とそれは主張しており、見なかったことにしようとするも頭はすっかり覚醒していた。
先輩に文句をつけてやろうと勇み足でバスルームから出たくせに、先輩を起こさないように静かにベッドに近づいた。この些細な矛盾に、今はそんなこと考えている場合じゃないのに、と自分でつっこみを入れる。ゆさゆさ、先輩の肩を大きく揺らす。
「先輩」
「……んだよ」
「つけないで、って言いましたよね」
ああ? と眉をしかめながらこちらを見上げる先輩は、ヤンキーとかチンピラと呼ばれる人のようなガンの飛ばし方をしていた。これですまし顔は整っているのだからとんだ詐欺だ。細まった目が俺の輪郭を捉えたのか、瞳孔の大きさが変わる。暗闇の猫みたいだ。
「……なにが」
まだ寝ぼけているのだろうか。カーテンを勢いよく開け、先輩の目の前に上半身を晒す。
「跡! こんなにつけることないじゃないすか!」
「……そんなことかよ」
そんなこと、どころではない。制服はぴっちり着ればどうにかなるにしても、部活の時どうするんだ。月曜は体育だってある。
もそもそと身体をひっくり返した先輩は、おいで、と大きく両手を広げた。事の深刻さがわかっていない。今一度伝えるべく「だから」と近づいた途端、その長いしなやかな腕はあっという間に俺を捉えて包み込んでしまった。
「オマエも喜んでたじゃん」
「そんな、こと……!」
先輩が俺を力強く抱きしめながらもう一度惰眠を貪ろうとするものだから、俺は大げさに足をバタつかせた。布団が波を立てて下に落ちる。
「何、そんなにヤだったのかよ」
「そーだっていってるでしょ」
やれやれという声が聞こえてきそうで、それはこっちのセリフだ、と睨む。その表情をどう受け取ったのか、先輩はにやりと笑い、俺の上に覆いかぶさってきた。布団が落ちてしまっているせいだ。彼を止めるものが何もない。
「昨日はよがってたぜ」
寝起きの少し掠れた色っぽい声で、耳元に唇を寄せられる。その程度のことなのに身体は敏感に反応してしまって、全身の肌が粟立った。先輩の左手がするすると太ももを撫でる。
「見てねーだろうけど、このへんにもいっぱいあるぜ、アト」
「なっ……」
ジャージの上から脚全体を舐めるように触りながら、ちゅ、ちゅと耳回りにキスを落としていく。キスマークを付けなおすようなその動作がひどく誘惑的で、思わず腰が震えてしまった。
「思い出しちまった?」
口に弧を描いた先輩は、楽しそうに鎖骨を舐める。カーテンの隙間から零れた朝日が、先輩の銀髪をきらきらと照らしていた。
「……ずるい」
そんな顔するなんて。さっきまで寝ぼけてたくせに。
「何が」
「俺、怒ってたのに」
「土曜日だぜ。勿体ねーよ」
キスで塞がれたせいで、それ以上先は続けられなかった。先輩の腕の中はあたたかくて心地よくて、この世に生まれてきたことすべてを肯定してもらえているみたいで、いつまでもここにいたいと思ったけれど、やっぱり悔しいものは悔しい。
「……何してんすか」
「上書き」
「だから!」
肌をチリッとした痛みが走り、じんじんと熱をもつ。その小さな小さな熱が、これから全身に広がっていくことを、俺はもう十分知ってしまっているのだ。
「つけるなって、言った、のに」
「知らねー」
ご機嫌な先輩の向こうの朝日も、しらを切るように柔らかだ。俺もつられて微笑んでしまう。だって、せっかくの土曜日だ。ずっと怒ったままの朝なんて、勿体ない。
「……仕返し、していいすか」
俺のシルシ。先輩の白い肌に強いキスを落とす。小さな優越感が咲く。ああ、これか。自分だけの特権。
「……なるほど」
「どした」
「わかったかもっす。したくなるの」
二人でクスクスと笑いあう。これからはじまるキスの攻防戦を、太陽が優しく包み込む。おだやかな休日のはじまりだった。