帰る場所リビングの扉を開けた瞬間、空気が変わっていることに気づいた。
ただの静けさではない。冷たい、重たい、よどんだ空気だった。
「……嘘だろ……」
司の声がかすれる。彼の足が一歩、また一歩と奥へ進むたび、胸の奥で不吉な予感が膨れ上がっていく。
そして、リビングの中央に倒れていたのは、小さなぬいぐるみと類が作ったロボットたち。
ガードモシ1号と、その仲間たちだった。腕がちぎれかけ、目が外れ、なかには中綿がはみ出している子もいる。
「モシ……! おまえ……守ろうとしたのか……?」
床には土足のまま踏み荒らされた泥の跡が、無数に残っていた。
その中に、くっきりと残るひときわ大きな足跡が、モシの小さな体を踏みつけていた。
リビングだけではない。
司の部屋も、棚から落とされたノートパソコン。破られた脚本。散乱した衣装の山。大学の資料も引き裂かれて、床に踏みつけられた跡がある。机の上の、類との写真立てが床に落ち、ガラスが割れている。
そして――
「……類」
司が息を飲み、類の部屋の扉を開ける。
そこは……より深く傷ついていた。
壁に飾っていた花の絵は真ん中から裂かれ、無造作に床に落ちている。
何度も描き直し、色を重ねて完成させた類のたいせつな絵だ。
床にしゃがみ込み、司は破れた絵にそっと手を添える。
「こんなものまで……」
引き出しもすべて開けられ、中の小物や道具は乱雑に投げ出されていた。
機械部品、ネジ、愛用のペン、類がこっそり集めていた司との写真……すべてが乱され、汚されていた。
類の手が、ひときわ大きな破れ目のある絵に伸びた。
そこには、司と類とモシ、三人でパジャマ姿で笑っていた絵があったはずだ。けれど今は、司の顔の部分が破られ、画面の半分以上がぐしゃぐしゃになっていた。
類は一言も喋らなかった。ただ、じっと、壊れた部屋とモシを見つめていた。
その瞳の奥には、怒りでも、悲しみでもない、深い深い痛みがあった。
「……類」
司は類の肩に手を置いた。
何も言わなくていい、無理に笑わなくていい。けれど……泣かないでいてほしい。
「全部……オレたちで、取り戻そう。守るから。類も、モシも……オレが守る」
その言葉に、類の指先が、ほんの少しだけ震えた。
そして彼は、小さく、かすかに、司に寄りかかった。
荒らされた部屋の中で、それでも二人は寄り添っていた。
守れなかったものもある。壊されたものもある。
けれど、心まで壊されるわけにはいかない。
モシたちが体を張って守ろうとした家を今度は、二人が守っていく。
この場所を、また笑顔が戻る場所にするために。
数時間後、警察の調査が終わり、ようやく家の中に静けさが戻ってきた。
だがその静けさは、心地よいものではなかった。
まるで、何かがぽっかりと抜け落ちた後のような、空虚な音だけが響いていた。
「泥棒……だったらしい」
司が低くつぶやいた。
警察官から聞いた話では、同じような手口で近隣数件が荒らされていたらしい。
隣の家も、二軒先も、三軒向こうの一人暮らしの老婆の家までも。
現金や貴金属、小型の家電が盗まれていたと。
この家からは、少額の現金と類の作った小さなロボットが一体、持ち去られていた。
「……なにも、あんな風に壊さなくたって……」
類が呟く声は震えていた。
花の絵を、そっと拾い上げる。破れ目は深く、色は泥に滲んでいた。
司は無言でゴミ袋を広げ、部屋の片隅から落ちた書類や折れたペンを拾っていく。
類もその横で、傷んだガードモシをひとつずつ集めていった。
とれた部品やちぎれた手足を集め、壊れた目のボタンを探し、無言のまま並べる。
モシのお腹にくっきり残る泥の足跡を見つけたとき、類の指が止まった。
「司くん……これ……落ちるかな……」
彼の声はか細く、けれどその瞳には、消えていない炎が宿っていた。
「大丈夫だ。絶対に元通りにする。オレたちの部屋も、モシも、全部だ」
司はぐしゃぐしゃになった絨毯を抱えて立ち上がると、類の頭をくしゃっと撫でた。
「ほら、類。立って。一緒にやるぞ」
「……うん」
立ち上がった類は、まだ少し足取りが重かったけれど、顔を上げたときにはしっかりと前を見ていた。
二人でソファを持ち上げて位置を戻し、司が家具を動かして掃除機をかける間に、類は壊れたモシたちを優しく布で拭いた。
泥にまみれた部品や、割れたガラスの破片を捨てながら、二人は時折小さく言葉を交わした。
「……あのね、モシ……守ってくれて、ありがとう」
類は拭き終えたモシを胸に抱きしめて、そっと囁いた。
「僕も、今度は……君たちを守れるようになるから」
夕暮れが差し込むころ、まだ片付けは終わっていなかったが、部屋の空気には少しだけ温もりが戻っていた。
散らばっていた記憶たちをひとつずつ拾い集めながら、司と類は静かに、それでも確かに、前へ進んでいく。
壊された家は、時間をかければきっとまた“帰る場所”になる。
モシたちと一緒に、二人の手で。
薄い西陽がカーテン越しに差し込むころ、部屋の空気はまだどこか緊張を含んでいた。
破かれたもの、壊されたもの、失われたもの。
その中で、類は小さなぬいぐるみたちの前にそっと膝をついた。
――モシ。
司がくれた、たったひとつのぬいぐるみ。
その周囲に類が自分で作った仲間たちモシやガードモシ1号たちが並んでいた。
今は、誰もが傷だらけだった。
泥まみれで、部品やボタンが取れ、綿がのぞき、手がちぎれかけている子もいる。
「……ごめんね。痛かったよね……怖かったよね……」
類は、柔らかな布とぬるま湯のボウルを用意して、ひとつずつ、ゆっくりと丁寧に拭っていった。
目の中に泥が入り込んでしまった子には、細い綿棒を使ってやさしく掃除をする。
破れかけた手は、端を縫い直してつなぎとめた。
中綿が出てしまったモシには、ふわふわの新しい綿を少し詰めて、傷口を手縫いで閉じた。
針を持つ類の手は、どこまでも繊細で、震えるほどに優しかった。
まるで、それが命であるかのように……いや、類にとってはきっと、命だった。
「君たち……守ろうとしてくれたんだよね」
そっと撫でると、泥にまみれたモシの毛並みが、わずかに元の柔らかさを取り戻した気がした。
「ありがとう。僕、ちゃんとわかってる。モシが……いちばん最初に立って、泥棒の前にいたこと」
司がリビングから、「おーい、類ー!」と呼ぶ声がした。
類は「ちょっと待ってて」と囁いて、縫いかけのモシをそっと膝の上に置いた。
そして立ち上がろうとしたとき
すっと、モシの頭を最後にもう一度撫でた。
「大丈夫。もう怖くないよ。司くんと、僕が、君たちを守るから」
その言葉はまるでおまじないのように、ぬいぐるみたちの傷ついた体と、類自身の心を包み込んだ。
再び光を取り戻しはじめたリビングへ、類はそっと歩いていった。
後ろには、ぬいぐるみたちが静かに並び、少しだけ、笑っているように見えた。
数日後家の中に広がっていた乱雑な風景は、ようやく片付けられ、元のいつもの空間が少しずつ戻り始めていた。
それでも、まだ心の奥には静かなざわめきが残っている。
そんな午後、ベランダには洗われたモシたちが並んでいた。
ロープに吊るされた彼らは、ふわりと揺れながら、夏の風を気持ちよさそうに受けていた。
「ふふ……みんな、なんだか干物みたいだね」
類が微笑む。すぐ横で、司も空を見上げた。
「ああ。でもいい顔してる。風に当たって、ちょっと嬉しそうだ」
風は柔らかく、あたたかい。
部屋の空気も少しずつ軽くなってきた気がして、二人は小さなベランダの影で肩を並べていた。
しかしそのとき、不意に強い風が吹き抜けた。
吊るしていた洗濯ばさみが、一つパチン、と外れる音。
「……あっ!」
類の声と同時に、空を舞ったのは――モシだった。
ふわり、くるり。
空の青に、柔らかな体が浮かんで。
それほど軽いぬいぐるみではないはずなのに風に運ばれるように、まるで導かれるように、ゆっくりと庭へと落ちていった。
「モシッ!」
司がすぐさま駆け出す。
類もそのあとに続いた。
草の茂る自分たちの小さな庭に、ぽすんと落ちていたモシ。
司が両手ですくい上げる。
「おーい、大丈夫か? よく飛んだなあ、おまえ……」
そのとき、モシの下に、何かがあった。
「……ん? 類、ちょっとこれ……」
司がそっとモシをどけたとき
その下に、傷だらけになりながらも、かすかに光る目がふたつ。
「……マメロボ……!?」
類の声が震えた。
ぬいぐるみを抱えたまま、モシの下にいたその小さな機械に手を伸ばす。
手のひらサイズ。かつて自分が組み立てた、ぎこちなく歩くだけの小さなロボット。
いつの間にか盗まれて、もう戻らないと思っていたその子が、なぜか今、ここにいた。
しかも、庭の隅。
どうやってここに戻ってきたのか、誰が置いたのかも分からない。
だが、マメロボの表面にはうっすらと泥と引っかき傷。
それでも、類がそっと手のひらで包むと――カタッ、と小さく震えた。
「……反応してる……生きてる……!」
息を呑むように言ったその瞬間、マメロボの胸のLEDが、かすかに点滅した。
── タダイマ ──
音声認識の不安定な発声。けれど、確かに、聞き取れた。
「……帰ってきたんだ……自分で……!」
類は、胸にぎゅっとマメロボを抱きしめた。
その背中を、司がそっと支える。
「おかえり、マメロボ。凄いな、おまえ……。でも、きっと……こいつもな」
司が視線を落とす。
モシのぬいぐるみ。さっきまでベランダに干されていたはずの彼が、まるでここへ導いたようなタイミングで、庭に落ちていた。
「……モシが、連れてきてくれたのかな」
類がぽつりと呟いた。
ぬいぐるみが空を飛ぶなんて、普通ならありえない。
でも、今なら信じられる気がした。
モシが、気づいていた。
マメロボが戻ってきていたことに。
そして、そのことを伝えたくて自分から、風に乗ったのかもしれない。
二人の腕の中で、モシとマメロボは静かに眠るように、揺れていた。
庭に吹き抜ける夏の風が、すこしだけ柔らかくなったように感じた。
「おかえり。モシも、マメロボも……おかえり」
類が、笑った。
もう怖くない。
この家は、何度だって優しい奇跡をくれる。
おまけ
(モシ視点)
夜だった。
暗い静かな夜。
いつもなら、類くんの寝息と、司くんの笑い声が、遠くから聞こえてきて――僕たちは、それを子守歌にしていた。
でも、その夜は違った。
ガチャン、と音がして、玄関の鍵がねじ曲がるような不気味な気配が流れ込んできた。
僕は思わず体を強ばらせた。ガードモシたちも、周囲に目を配らせるように、ほんのわずかに揺れる。
「……来た」
誰の声かは、わからない。でもみんな、感じていた。
“敵”が、家に入ってきた。
人の気配。けれど、あたたかくない。類くんのように、司くんのように、やさしくない。
僕たちはぬいぐるみだけど、この家を守ると決めていた。
司くんがくれた僕。
類くんが“モシ”という名前をつけてくれて、仲間も増えて、僕はただのぬいぐるみじゃなくなった。
この家で笑う類くんを見ていた。少しずつ安心して、夢を話して、眠れるようになって――そんな類くんを、壊させるわけにはいかなかった。
僕は、玄関へ向かって飛び出した――つもりだった。
実際は、ただ床に転がっただけかもしれない。
だけど、全力だったんだ。
泥棒の足音が近づく。
手が伸びてくる。
怖かった。けど、怖いより先に、僕の中には「守らなきゃ」という気持ちだけがあった。
ドン、と音がして、僕の体に強い衝撃が走った。
泥のついたブーツが、僕を踏みつけていった。
目の中がぐしゃっと潰れ、綿がこぼれて、体が重くなって……気が遠くなった。
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どのくらい時間が経ったのだろう。
目が、少しだけ、見えるようになったとき
やさしい手が、僕の頭を撫でていた。
柔らかい布でそっと泥を拭ってくれる指。
破れたところを縫ってくれる針の動き。
それは、まるでお医者さんのようで、でももっと、あったかくて、泣きたくなるほどやさしかった。
類くんの声が聞こえた。
「……守ろうとしてくれたんだよね。ありがとう」
ありがとう。
ありがとうなんて……こっちこそ、ありがとう。
僕はただ、君が笑っていてほしかったんだよ。
類くんの手は震えていた。
でも、あのときの僕よりずっと強かった。
僕の綿を詰め直してくれたとき、胸の奥に、あの夜とは違う“ぬくもり”が戻ってきた気がした。
ぼろぼろになっても、僕たちは、まだぬいぐるみだ。
そして、きっとまた、君のそばにいられる。
守るって、怖いことだった。
でも、類くんの“ありがとう”で、ぜんぶ報われた気がする。
今夜はもう、怖くない。
君のそばで、ガードモシたちと並んで、静かに目を閉じる。
また笑える明日が来ることを、信じながら。