恋と呼ぶにはまだ早い 「今日はなに食うかな~、遅くなっちまったから腹ペコだぜ」
ハンバーグ定食かカレーライスか、はたまた牛カルビ丼か…そんなことを呟きながら学食へと向かう。
はばたき学園の学食はメニューが豊富で、しかも安い、おまけにかなりうまい。
昼飯が楽しみなのはいいよな~、QOL爆上がりだ。出来れば次の夏こそ冷やし中華をラインナップに加えて欲しいが、今のところそんな話題は出ていないから、今年もメニュー追加の期待は出来そうにもない。
「冷やし中華はじめました」って張り紙があったらテンション上がるけどなぁ、俺だけだろうか、一人ごちる。
昼休みの廊下は楽しそうな話し声や笑い声に溢れていて、そうそう健全な高校生活ってこうだよな、と嬉しく思う。
明るい日差しと吹き抜ける柔らかい風も、ここにいる生徒達を祝福しているように感じる。
飛び級で年が離れていたせいか、周囲とうまく馴染むことが出来ず、適当にうわべの話はしても、親しい友人とまでは呼べず、一人で過ごしていたあの頃の自分を思い出す。
それなりに晴れていた日もあったはずなのに、記憶の中の空はいつも薄曇りで、乾いた風が強めに吹いていたことしか思い出せない。
多分今日のように明るくて暖かい日差しも、柔らかな風の日もあったはずなのに。
胸の奥がきゅっと乾いた音を立てた。
ははっ、腹が減ってるとダメだな、つい感傷的になっちまう、胸の奥の音は聞かなかったふりでそこに蓋をする。
刹那、ひゅんと物理的な音が耳に入る。
「みかげっち危ないっ」
顔面付近めがけて飛んできた何かを右手で掴む。
「ナイスキャッチ、さすがみかげっち」
飛んできた何かは丸めた雑巾だった。
「おまえら、危ねぇな、ここですんなよ、外でやれ、外で」
廊下のど真ん中で、丸めた雑巾と掃除用のモップで野球の真似事をしていた男子生徒達を注意する。
「みかげっちも一緒にやんねえ?」
「あー、やりたいのは山々だが、先生メシがまだなんだよ」
昼食を食べた後だったら混ざりたいところだが、まずはこの空腹を満たさなければと、生徒達に丸めた雑巾を返す。
「まだ、って。もう昼休み終わんじゃね?」
「まーた氷室教頭に叱られてたのかよー」
「またって言うなまたって、それに別に今日はなんもしぼられちゃいねぇよ。しかもだ、先生次の時間は授業もなくて空き時間だからな、余裕なんだよ」
ずるいと口々に言う生徒達に軽く手を上げ、学食へと進もうとした瞬間、頭上からキャーという複数の女子生徒の悲鳴のような声が響いてきた。
思わず声の方向に目を向けると、階段の上から女子生徒が……降ってくるのが見えた。
恐らく近くにいる男子生徒達のじゃれあいに巻き込まれ、ぶつかった衝撃で突き飛ばされ、華奢な身体が空を舞ったのだろう。
これが廊下や教室であればイテテで済むかもしれないが、運の悪いことに場所が階段の踊り場だった。そこからの落下となればかなりの大惨事だ。
「マジか」
ざわざわとした周囲の音がすべて消え、窓から吹き込んでいた風すらも止まった。
溢れるような光だけがキラキラとその女子生徒の周りに集まり、まるでスローモーションのように見える。
恐怖に歪んだ表情すらしっかりと見えたのだから時間精度の上昇ってのは本当なんだな、タキサイキア現象って呼ぶんだっけか、とまで考える。
自分の足が迷いなく一歩踏み出せたことで、受け止められると確信した。
手を大きく伸ばして、勢いよく飛び込んできた身体をしっかりと受け止める。
「ナイスキャッチ」
「みかげっちすげー」
衝撃で廊下に倒れ込みはしたものの小さな身体をすっぽりと包むような形で受け止めることが出来たのは本当に運が良かったと思う。
「ごっ、ごめん、小波さん。御影先生も」
「ちょっとふざけてただけだったんだけど、マジですみません」
上からバタバタと降りてきた男子生徒達が、腕の中にいる女子生徒を助け起こそうとする。
腕の中の真面目ちゃんは声も出せない様子で身じろぎもせず、ただ小刻みに震えている。そりゃそうだろうと思う。
恐らく数十秒前までは自分が空を舞うなんて予想もしていなかったはずだ。
男子生徒達にぶつかった衝撃を感じた瞬間、身体が吹き飛び、階段の下まで顔から落ちそうになったんだ、恐怖に歪んだ表情を思い出す。
青ざめた顔で謝罪の言葉を口にしている男子生徒達を制し、腕の中の真面目ちゃんに声をかける。
「大丈夫か? どこか痛むか?」
ゆっくりとその桃色の後頭部を撫でると、ようやくふるふると首を動かした。
「先生ごめんなさい、重い、ですよね」
「いや、別に重くはねぇけど」
「早くどけたいんですけど、なんかうまく、力が入らなくって」
「ゆっくりでいーぞ、大丈夫だからな」
廊下の端で女子生徒に押し倒されるような形で転がっている自分がちょっとおかしく思えてくる。
無事生徒を受け止められて、お互い大きな怪我もなさそうだという安堵感もあった。
予鈴がなっても起き上がれずにいるのを急かすのもかわいそうだと思い、周りで心配そうにしている生徒の中からうちのクラスの生徒を探し、このまま保健室に連れていくから、次の授業は欠課になると教科の先生に伝えて欲しいと告げる。
「そんで、真面目ちゃん…このまま抱き起こしても大丈夫そうか? さすがにいつまでも廊下に寝っ転がってるわけにいかねぇからな」
背中を2回ポンポンと軽く叩く。
「ううう、すみません。自分で起きられます。怖かった……御影先生助けてくださって本当にありがとうございます」
起き上がった真面目ちゃんが自分の両手で俺の右手を掴む、華奢な手首、白い指、形の整ったさくら色の爪先、そのすべてが美しいと感じた。
黒目がちの瞳が潤んでいるのはいつものことだが、今日は長い睫の先に涙が溜まっていた。
いつもはバラ色の頬が血色をなくし、唇もかわいそうな程震えている。
「御影先生? 起き上がれないですか? 痛いですか? どこか怪我しちゃいましたか?」
その手が自分を引き起こそうとしてくれていると気がつくのに、少し時間がかかってしまった。
「やっ、別にどこも痛くねぇし、怪我もねぇよ、心配すんな。それよりおまえが俺を引き起こすって無理があんだろ、このまま力入れたら、もう一回抱き締めちまうことになる」
軽口を叩き、自力で起き上がる。
「だっ、抱きっ…て」
「そうそう、その反応。さすが俺の真面目ちゃんだ」
「おっ、俺の…って」
色を失っていた頬が色づくのを見て満足する。
「うん、べっぴんさんに戻ったな」
「御影先生ありがとうございます。先生が受け止めてくれなかったら…」
また震え出す声と指先、よく見れば膝もガクガクと震えている。
「本当に怖かったな、大丈夫か?」
頭をポンポンと撫でた瞬間、溜まっていた涙がひとつこぼれ落ちた、ひとつこぼれ落ちてしまえば、そのあとは止まることなくどんどん溢れた。
「保健室行くか?」
「だ、いじょぶです、びっくりしちゃって…泣くつもりなんかないのに、恥ずかしい、ごめんなさい、すぐ、止めます、恥ずかしい」
「無理に泣き止まなくても大丈夫だ、びっくりしたな。」
軽く抱き締めて、その背中を撫でる。
小さい子供にするような気持ちだったが、さすがに泣いている女子生徒を、廊下で抱き締めているのは教師としてどうなんだ、と一瞬脳裏を過る。
階段から落ちるなんて滅多にないことだし、あったら困るし、びっくりするのも分かる、だからせめて泣き止むまでは、と背中を撫で続けた。
午後の授業時間中の廊下は人影もなく、窓から入る暖かな日差しと柔らかな風だけが二人を包んでいた。
「すみません。この間…地震の時も泣いちゃって、今も。ホント恥ずかしい。別に悲しいんじゃないのに、びっくりしちゃって…もう大丈夫です、すみません、御影先生本当にありがとうございました。途中だと思うけど、授業に戻りますね」
そう言って、腕の中から飛び立っていく笑顔を見て不思議な気持ちになる。
あれ? なんだこれ?
彼女の周りで光が弾け白い羽が舞った。
そう言えば、落ちてくる時も溢れるような光がキラキラして、白い羽が舞っていた。
それでまるで天使みたいだと思ったんだった。
天使なのに飛ばずに、
空からまっすぐ俺の腕の中に降ってきた。
去っていく後ろ姿を見つめながら、くしゃくしゃと髪を搔きあげる。
白い羽って、そんで天使ってあんまりファンタジーだろ、大の大人が考えることかよ。
胸の奥がきゅっと音を立てた。
さっきとは違う、乾いていない音だ。
突然の出来事に驚きすぎたのか?
無事に助けられたことでアドレナリンが出てるのかもしんねーな。
それとも……腹が減り過ぎたのか。
そう呟いて、
パンの残りでも買うかと、当初の予定通り学食へと向かう。