見てはいけないカーブミラーこれは俺が一生忘れることのない事件だ。
夜景を見に行こうと誘われて恋人の車の助手席に乗り、都会から遥々二時間かけてやってきた。車内で談笑している最中、カーナビの冷たい声が告げた「右です」の一言に気づかずに真っ直ぐ突き進んでしまったのが始まりだった。
「やべえ!今、右って言ったよな!?」
「ああ、引き返すか?」
「でも道は繋がってるって言うし、カーナビにも道が載ってるからこのままでもいいか」
そう言って彼は車を走らせた。それから段々と道幅が狭くなり、対向車とはすれ違うのもやっとと言った感じだ。急勾配と際どいカーブの連続に、最初は呑気に鼻歌混じりで運転していた彼も道の険しさに比例して顔つきが険しくなってきた。
「コラさん、引き返すか?」
「いや、ここまで来ちまったからなぁ。道も狭いし⋯⋯おい、ロー!ナビ見てみろよ!」
そう言われてカーナビに視線を移すと、くねくねと折り曲がった道の先に展望台と書かれた印があった。
「ここでUターンして戻ろうぜ」
そう言うと彼は嬉しそうにハンドルを右に切った。合わせて左側に体傾いていく。程よく身体にかかる抵抗が心地よい。Gを意識して運転するのが重要なんだと得意げに語っていたが、意味はよく分からない。聞いたところで免許を取得する予定がない俺には関係ない。
それから暫くして、運良く対向車とは一台もすれ違うこともなく件の展望台が見えた。
コラさんは器用にバックで車を止めて、左手でシフトレバーをパーキングに入れてサイドブレーキを引いた。
「ロー、降りてみようぜ」
にっこりと笑うコラさんに釣られて俺も口角が上がるのがわかった。ドアを開けて降りると、妙な寒気がした。山奥まで来たから冷えるのだろう。コラさんも「さみぃ〜」と震えている。
上着持って来れば良かったな。そう思っていたら背後からバサリとジャケットを掛けられた。
「これ、着ろよ」
「コラさんが寒いだろ」
「俺は平気だから」
そう言ってコラさんは展望台へと向かっていた。ありがたくジャケットを拝借し、俺もその後をついて行く。
少しぬかるんだ地面を滑らないように踏み締めていくと「いてて」とひっくり返ったコラさんの姿があった。彼は札付きのドジで、一日一回は必ず転んでいた。おそらく足元のぬかるみに足を取られたのであろう。
「ほら、コラさん」
手を差し出すと不本意そうに俺の左手を掴み立ち上がる。
「またドジったんだろう?」
「いや、今回は十分に気をつけていたんだけどなぁ⋯⋯」
何回もやりとしてきた内容だ。コラさんが十分に気をつけていたところで、コラさんは転ぶしひっくり返るんだ。
黙り込み腑に落ちない様子のコラさんの手を引っ張り、展望台までやってきた。
眼下に広がる景色はまさに絶景であった。手すりに手をかけて思わずほうっとため息をつく。木々の狭間からは数えきれないほどの白や黄色、赤の宝石が夜を鮮やかに彩っていた。
手すりから手を離そうとした時だった。ヒヤリとした何かが右足に触れたかと思うと、それはぎゅっと握りしめてきて下へ下へと引っ張り始めた。このままでは手すりの下の先、崖から転落してしまう。
「ロー!大丈夫か!?」
俺の異変に気づいたコラさんがすぐに近寄ってきてくれたおかげなのか、俺の足を掴んだ何者かは消えて行った。
「悪りぃ。足が引っ張られた気がしたんだが⋯⋯」
こんな話信じてもらえるわけがない。そう思いながらもコラさんの顔を見上げると真っ青な顔をしていた。
「俺もさっき足引っ張られたんだよ」
「コラさんもか?」
「もしかしたらここは来ちゃいけねぇ場所だったのかも」
そう言うとコラさんは車のロックを解除して運転席に乗った。置いていかれないように俺も慌てて助手席に乗り込む。
エンジンをかけて一目散に下山を目指す。とは言ってもここは旧道だ。傾斜のきつい下り坂の連続、見通しの悪い急過ぎるカーブの連続。すんなり下山することは到底不可能だった。
車内の重たい沈黙を振り払うようにコラさんは喋り出した。
「さっきの夜景綺麗だったよなぁ」
「ああ。あんなに綺麗な夜景、初めてだったよ。連れてきて来れてありがとう」
そう言うとコラさんは真っ直ぐ前を見ながら嬉しそうに笑った。
そこからは話が弾んで次の旅行ではどこへ行こうかとか、鰻を食べに行きたいだとかそんな話をしていた。突如眩しい光がカーブミラーに映り込む。
そこには水平に並ぶ二つの白いヘッドライトがあった。運良く道幅の広いスペースにいたため、コラさんは車をガードレールすれすれに寄せた。しかし、その対向車は一向にやって来ない。
「おかしいなぁ。対向車来ねえぞ?」
「向こうも広い場所で待ってるんじゃねえか?」
「向こうは登りなんだから遠慮しなくても良いのになぁ」
そう言ってコラさんはゆっくりと車を発進させた。ハンドルを大きく切って急カーブを曲がった先はストレートの緩やかな下り坂で、不思議なことに対向車はいなかった。
「さっきのカーブミラーのライト、コラさんの車だったんじゃねぇか?」
「それはない」
「でも、対向車なんていなかっただろ?」
コラさんは青ざめた顔をしていた。いや、そんなまさか。ただの見間違えに決まっている。思わず握った手のひらには汗が滲んでいた。
「俺の車さ、フォグランプがあるんだよ。」
「フォグランプ?」
「ヘッドライトの下に一つずつ黄色いランプがあるんだ。さっきのカーブミラーに映ってたライトは二つ。⋯⋯あとは分かるよな?」
そう言うとコラさんは車を急発進させた。カーブでは殆ど減速せずにハンドルを切って走らせていくため、まるでアトラクションのような大迫力だ。身体が左へ右へと大きく傾いていく。先ほどまではゆっくりと丁寧に曲がっていたのが嘘みたいだ。
「コラさん!何キロ出してるんだよ!」
「しょうがねぇだろ!あんなもん見ちまったんだ。ちんたら走ってられるか!」
そりゃそうだ。俺だってこんなところもう二度とご免だ。運転できない身分で文句を言ったところでどうしようもない。今はただただ恐ろしくて、目の前の曲がりくねった道をひたすらに突き進んでいく様を見ていることしかできない。
それから暫く経って開けた二車線の道へと出た。もう安全だろうとコラさんはアクセルを緩めてのんびりと車を走らせた。久々に見た信号が赤く灯り、車は停止した。コラさんの横顔を眺めていたら、ふと目があった。
「ロー、運転荒くしてごめんな」
「気にすんなよ。俺が運転してたら俺だってそうしてたよ」
そう言うとコラさんはにっこりと笑った。今日は疲れたから帰らずに何処かに泊まろうと言われ、鼓動が煩くなる。もう二人で一つになってから随分と時が経つのに未だに慣れることはない。
「青になった!よし、今日の宿探しだな〜」
コラさんは鼻歌混じりで車を走らせた。
ふと考えてしまう。あの時、カーブミラーに映ったあの車はなんだったのだろうか。考えてもキリがないのは分かっている。それでも考えずにはいられない。