心はどうやって持っていけば良かったのだろう。そもそもちゃんと持って来たのだろうか。薬草を持って走りながらチサトは自問自答する。ネーデ人の生き残りとして、自分は果たして恥じない生き方をしているのか。どれだけ時が経ってもわからない。とりあえず今を懸命に生きるしかないのだ。
「お待たせっ、今日も持ってきたわよ!」
扉を開けると同時に、埃を上げて転びそうな勢いで店の中へ入ってくる。今日の店番はニーネだったようだ。チサトと対称的に穏やかに出迎える。
「いつもありがとう、助かるわ」
「ボーマンは?」
「キース先生のところに行くと言っていたわよ」
「そうなの、じゃあ私も顔を出してこようかしら」
「あら……。そうしたらこれ、主人に渡してくれるとありがたいのだけれど」
ニーネがカウンター下の引き出しから茶封筒を取り出す。話によると、最近はネーデの神話が書かれた古文書の、細部の復興作業を覗きに行くことがあるらしい。そのついでに、キース経由でラクールの研究室からヘルプを頼まれ、嫌嫌ながらに学会の補助をしているとのことだった。
「………。任せて!」
チサトは快く受けとり、踵を返し軽快な足取りで来た道を戻っていく。
故郷が絡むと複雑な気持ちになる。深く考える前に蓋をする。
入ってきた時の半分以下の勢いで、店のドアを閉めた。
「お、悪いな」
キースの机で何やら書き物をしながらボーマンは書類を受け取った。キースはレポートを食い入るように読み込んでいて反応がない。
「どう、進捗あった?」
「まあ、大体の文法は理解しているからな……内容云々よりこれ以上腐食させないようにする方が神経を使う。もっと早く発見されていればな」
キースが手袋をはめた指先で、分厚い辞典をめくりながら顔も合わさず答える。
「しかし、文明特有の用語を使った説明がいくつもあって、その『モノ』自体がどんな仕組みなのかわからんままのことが多くてな……せめて子供向けの仕様ならわかりやすかったんだが」
「……なぁチサト、アレ読めないのか」
ボーマンがキースに聞こえない距離で問う。
「私、現代文畑だったのよねぇ……。あの本は昔の言葉すぎちゃって」
チサトは首を横に振り、両手でお手上げのポーズをとった。それからボーマンに向き直る。
「あ、そうそうボーマン。私しばらく留守にするから、薬草取りに行けないわ。それを言いに来たの」
「わかった。あいつのとこへ定期報告だな」
「ニーネさんによろしくね」
「俺よりお前の予定を把握してるから大丈夫だろ」
「さっすが〜。ま、お邪魔虫もいないことだし夫婦でゆっくりしてなさいよ」
うりうり〜、と茶化すようにチサトがボーマンに肘をぐりぐり当てると、ボーマンはうざったそうに手でチサトを追っ払った。
「やぁ、元気そうですね、チサトさん」
木漏れ日に当たっているからか、動物に触れているノエルの顔は心なしか明るそうに見えた。変わらぬマイペースな姿に、チサトが呆れと安堵感の混じったため息をつく。
エクスペルでの生活は、自然に囲まれて静かな場所がいいという希望からマーズを選んでいた。ノエルは元から、人には過ぎたネーデの文明を好んではいなかったから。今いる未開惑星の方が性に合っているかもしれないと、チサトはあえて誘うのをやめ、別々の未来を選んだ。今の自分の中のモヤモヤする気持ちを消化しきれないまま。
だから「同志からの近況報告」と称して、定期的に自分からノエルに会いに行っている。特に自分の心中を吐露することはない。ノエルから聞かれることもない。
ただ、顔を見て、変わらない姿に安心して、何も考えない時間を作りたかった。決して忘れないけれど、余計な考えだけを忘れたい時に、ノエルに会いたかった。
何も言わずに隣にいてくれるから。
「これ、ハーリーで買った差し入れ。あの子たち用じゃなくてあなたが食べなさいよ?」
チサトが紙袋を無造作に渡す。ノエルの、中身をちらりと覗いた顔が輝いた。魚介類が好物なのは旅の間で知り尽くした。脂の乗ったまぐろを食べた時の溶け切っていた表情は、なかなか忘れがたいものがある。
「大事にしすぎて前みたいに腐らせないでよね?」
「はは、気をつけます……。ところで、進んでますか? 新聞社の設立」
並んで切り株の上に座る。恐る恐るだが、来客により散り散りになった動物たちが周りに少しずつ再び寄ってくる。
「うーん……順調とは言い難いわね。物件は探せばいくらでもあるけど、平和すぎてネタがないわ」
腕を組んで宙を見上げる。仕事が楽しかった時の故郷に思いを馳せながら。
「平和なのはいいことじゃないですか。この間のように、あなたが怪我だらけで会いに来る方が僕は心配ですよ」
僅かに声色が変わったのを聞いて、チサトはノエルと目を合わせる。糸のように細い目なのに、その奥から見透かされる。
「あれは転んだってその時言っ」
「違いますよね?」
チサトが言いかけたのを遮って続ける。
「後でニーネさんが手紙で教えてくれたんですよ。ハーリーでザンドについて聞き込みをしていたら手下に囲まれたんでしょう? 何十人にも。いくら武芸が達者とはいえ、無茶しないでください」
「……平気よ。そこまで心配しないで、ちゃんとやり返したしね」
「しますよ。だって……あなたに何かあったら……」
言葉に詰まったノエルに、チサトは憐れみを含んだ笑いで返す。
「あったら、貴重なネーデ人の生き残りが減るから?」
「僕はあなたが大事なんだ!」
静寂を破る大声に、木に止まった鳥達が、慌ただしく何十羽も飛んでいった。
ノエルがチサトの両肩を掴んで揺らす。
「僕の目には、あなたが生き急いでいるようにしか見えないんです。せっかく託された命を、使命感で繋いでいる。胸を張る生き方をしなきゃ……そうじゃなきゃ、あの最後の市長とミラージュさんの言葉が足枷になってしまうから。あなたはいつも前向きだから、思い込んだら、それを自分の真実としてしまうかもしれない。でも、それは本当に、チサトさんの本意なんですか?」
目を逸らせない。シールされていた心の蓋を、ゆっくりとめくられる感覚。
「……ジャーナリストは、精神的な揺らぎがあってはいけないの。いい記事が書けないわ」
チサトは肩に乗っているノエルの手を、片手ずつゆっくりと下ろした。我に返ったノエルが慌てて手を引っ込める。
「すみません……。取り乱しました」
チサトが首を振る。俯いたままノエルが再び口を開いた。
「僕は正直、あの最後の言葉は足枷でした。自分達だけ生き残った罪悪感で、最初エクスペルに来た時は何度も夢に出た。一人だと余計に思い出してしまうのに、一人でいた方が楽で。でもここの動物達の温もりと、チサトさんが僕を助けてくれた」
「ノエル……」
「僕を気にかけてくれて、とても嬉しかった。あなたを見ていると元気になれた。でも、そのうち思ったんです。だからといって、いつも励ます側のあなたが、いつか折れない保証はないと」
「…………」
答えられず、チサトはバツが悪そうに、指先で座っている切り株の年輪をなぞる。その上にノエルの手が重なった。
「チサトさん、提案があります。僕と一緒に暮らしませんか?」
「えぇっ?」
突拍子もない申し出に変な声が出る。
「急にすみません。仕事とか、慎重に決めないといけないことは山程あると思います。でも僕はあなたが好きです。旅の頃からずっと。何かあったらすぐ会える距離でいたい」
「…………ノエル」
「リンガが住みやすいのであれば、僕がそっちに行きます。よく考えてから返事をください。待ってますから」
ノエルが首を傾けて穏やかに笑った。
*****
「愛されてるじゃねぇか」
土産代わりに受け取った薬草を並べ替えながらボーマンは言った。ニーネが隣で順番に汚れを取って瓶に詰めていく。
「採集は俺でも行ける。お前なら仕事だって、どこ行ってもやっていけるさ。何に迷ってんだ?」
黙り込むチサトを見てニーネは察し、無言で自宅に繋がる扉を開けて売り場から出て行った。
「……よくわからないのよ、自分の気持ちが」
カウンターの正面に立っていたチサトに、ボーマンは店の隅に置いてあった丸椅子を勧める。客が来てもいいように、横にずれてチサトは腰掛けた。
「ねぇボーマン、あなたはどうしてニーネさんと結婚したの?」
「お前……それ聞いて記事にしねぇだろうな……」
「その時はニーネさんの許可を先に取るに決まってるでしょ?」
先程ニーネが行っていた瓶詰めの続きをしながら、ボーマンは照れ臭そうに頭をかいた。絶対ニーネには言うなよ、と念押しして、口を開く。
「他のヤツに取られるのが嫌だったんだよ、ニーネは人気だったからな。俺と付き合ってると知っていて、なお言い寄る男さえいたんだ」
「すごいわ、ずっと愛してるのね」
「茶化すな」
「真面目に言ってるのよ」
チサトの真っ直ぐな瞳に、ボーマンは疑わしい視線を送るのをやめた。
「ま、旅に出てもいいと二つ返事で答えてくれるくらいには、ニーネは器が大きい、俺には勿体ない女だよ」
ボーマンは瓶詰めが終わった薬草を背後の棚に並べてから、チサトに向き直る。
「だからこそ俺は、セントラルシティでエクスペルのことを聞かされた時の、ニーネに二度と会えないと思った瞬間は一生忘れられなかった。旅立った自分を後悔さえしたよ。俺は奇跡的にまたニーネに会えたが、もう一度同じことがあったとしてもまた会える保障はどこにもないんだ。だから俺はもう側を離れたりしない。
なあチサト、自分の心にちゃんと聞いてみろ。生き残ったことに後ろめたさを持つ必要がどこにある? ネーデ云々言う前に、お前は一人の人間だろ。ノエルもな。大それたことは考えずに、まず自分の幸せのために生きてみろ。死ぬまでに答えが出たらそれでいいじゃねえか」
会話が聞こえてきたニーネが扉越しに泣いていることを、ボーマンは知らない。
「ボーマン……」
「面倒くせえ考えを持ち込むな。複雑そうに見えて意外と単純なんだ、男と女ってのはな」
チサトは徐ろに立ち上がり、座っていた丸椅子を元の位置に戻した。
「ありがと。何だかスッキリしたわ」
「たまには戻ってきてもいいぞ。バイト代は出ないがな」
「その時はちゃんと取材させてよね」
手荷物を持って出入り口に向かう。ボーマンは振り向くことなく、元気を取り戻した足音の方へヒラヒラと手を振った。
「ノエル! この辺りでいい空き物件知ってる?」
何週間かぶりに会った最初の一言に、ノエルは面食らった顔を全く隠せなかった。
「チサトさん……?」
「本当はマーズがベストなんだけど、ハーリーかクロスの方が活気もあるし動きやすいと思うのよね。あぁでもまず印刷会社を探さなきゃ。いちいちラクールまで渡っていられないもの」
「あの、チサトさん」
「そもそもこの小屋で二人暮らしはさすがに狭すぎるわ。ここは動物とあなたのふれ合い部屋にして、集落の方で空き家がないかセリーヌにも聞いてみましょうよ」
「チサトさん!」
やっとチサトの口と動作が止まった。肝心な話をしていないことに気づき、笑いが漏れる。
「説教されてわかったの、ボーマンに。私、珍しくセンチメンタルになってたみたい」
「センチメンタル……」
「簡単に考えていれば済んでいた話よ。仕事みたいに成果を出さなきゃいけないわけじゃない。私は私の好きなようにしたら良かったの」
「………」
チサトはノエルの顔を真っ直ぐに見つめて笑う。
「ノエル。私、ここであなたと過ごす時間が好きよ。風が心地よくて、あなたは何も言ってこないけど、隣でくれる温かい眼差しが好き。私が好きなように話してるのを、うんうん頷いて聞いてくれるのも好き」
「はい」
「だから、これからも私の隣にいてほしい」
「……はい。って、これじゃあ立場が逆じゃないですか……」
困り顔で俯くノエルに吹き出す。
「何回でも待ってるわ。時間はたっぷりあるんだから」
チサトは下ろしていたノエルの右手を持ち上げ、自分の両手で包み込んだ。
「ねぇ、二人で、胸を張って生きていきましょうね」
ノエルは答える代わりに、空いた左手でチサトを抱き寄せた。