この世界で生計を立てて以来、ゆっくり眠ったためしはないのだが、その職業柄の浅さとは違う目覚めだった。それが何なのかうまくアウトプットできなくて、歯痒い。ソローネは隣のベッドで眠るオーシュットを起こさぬよう、音を立てずに部屋を出る。
宿屋の窓から見える外の景色はまだ暗く、月が高い位置にあった。日が昇る頃にはウェルグローブを出発する予定で、全員で過ごす最後の日になる。
今度は、それぞれが別の旅路を行くのだ。当然、しがらみが取れた自分も。
「自由、か……」
俯いて思考を巡らせる。
先のことはゆっくり考えたらいいと思っていた。組織に縛られず、普通の生活を送る。ずっと憧れていたことだ。
でも、いざとなると戸惑う。普通って何?
ソローネは、この町で出会った年の差夫婦の家族を思い浮かべた。
あの家族のように、結婚して子供を産むこと?
想像して鼻で笑う。アイツの血が混じっている私が? また、その子孫のせいで厄災が起きたら?
「…………やめよ」
顔を上げて首を振り、余計な考えを消し去る。自分一人のせいで辛気臭い雰囲気にしたくない。明日は祝うべき門出の日なのだ。
外でも散歩して気分を変えよう。ソローネは宿屋のドアを開けて、瞳に淡い月の光を取り込んで歩き出した。
「よう、お疲れさん」
百貨店の前を歩いていると、ちょうどそこから出てきたパルテティオと鉢合わせた。頬が少し赤いので、酒をある程度あおった後だとわかる。大方アルロンドとでも一杯交わしていたのだろう。
「何してたの?」
ソローネが尋ねると、パルテティオは百貨店の方を指差し、歯を見せて笑った。
「ちょっと顔馴染みの店に挨拶しておきたくてよ。これから蒸気機関の方で忙しくなると、なかなか来れなくなっちまうからな」
「ふーん……。いいね、パルテティオは」
ソローネはそれ以上のことは告げなかったが、パルテティオは表情を見て、ちょっと歩こうぜ、と言い密かの森の方向へ足を向けた。少し後ろからソローネが倣う。
階段を降りて、町の端にあるベンチに並んで腰掛けた。あの夫婦の奥さんがはじめに座っていたところだ、とソローネは思った。パルテティオに向き直り、口を開く。
「ねぇ、普通の幸せって何だと思う?」
「普通?」
「私は自由になった、これからは普通に生きたい。でも裏の世界しか知らない人間は、何から手をつければいいのかわからない。どうしたら人に溶け込めるの」
あんたのように、という最後の一言をソローネは飲み込んだ。
そもそも、この旅でこの男と出会えたこと自体が奇跡なのだ。自分の道と正反対の位置にいるような、存在そのものが眩しい男。恐らく散り散りになった後は、余程の事態でも起きない限り再会することはない気がする。そんな想像をしたソローネの胸に一瞬、侘しさの風が吹いた。
「そうだな……」
パルテティオは顎に手を当て考えた後、ソローネと目を合わせた。
「例えば、あんたが誰かの懐から木いちごをくすねるとする。プロの業だ、普段なら誰からもバレやしねえ。だがたまたま、そこに熟練の元同業者で、足を洗ったばかりの正義感に満ちた男が一部始終を見ていて、あんたを断罪しようと首根っこを掴んだ。それは普通のことか?」
「それはおかしい、私ならそんなヘマはしない」
ソローネの即答する姿に、パルテティオは頷く。
「だろうな。ただ、この街の者から見たら、ちょっと物騒だが〝普通〟の、〝よくある日常の風景〟のはずだ。普通なんてもんは、人によって基準が違う。ロックのおやっさんだって、前までの〝普通〟は、ただ一人の富と権力だった。でも今、俺と同じ未来を望んでくれるようになって、幸せを分け合うのが〝普通〟になったんだ。人間そんなもんだろ? 言葉尻に囚われるなんて、ソローネらしくねーよ」
フ、と短く笑う。らしくない。それは十分自身がわかっている。感傷的になりやすいのも、冷静さを欠いているのも。
「なぁソローネ、この旅で何を得た?」
「…………そんなの、すぐ答えられない」
「だよなぁ。俺もだ」
にか、と笑い、パルテティオはベンチの背に手をかけて座り直した。
「でも、この旅の仲間だけは、一番得難いもんだと俺は思ってるぜ」
それも、わかっている。淋しいのだ、この七人との別れが。
「迷ったら頼れよソローネ。キャスティは人手がいくらあっても足りねえはずだ。オーシュットと狩ってきた肉は、あんたの血抜きがべらぼうに早かったおかげで新鮮だったし、アグネアの踊りを見に劇場に通い詰めするのも楽しそうだよな。テメノスも助手がいないと不便だってこの前酒場で零してたぞ。オズバルドの旦那の娘さん、新しい話し相手を欲しがってるらしい。ク国も復興に忙しいだろうよ」
ソローネの視界の霧が晴れる。
言葉に出すのをためらっていたことを、目の前の男が当然のように口にしてくれた。
私には居場所がある。仲間の隣という居場所が。
「俺には、あんたの未来が一番輝いて見えるぜ。腰の短剣一つで、どこでも飛んで行けんだからな」
ソローネの顔が変わった様子を見て安堵したのか、パルテティオはベンチから立ち上がった。足元とマントの埃を払う。
「ま、俺と来てくれると一番助かるけどよ」
「……え」
ソローネの反応を聞き流し、パルテティオは帽子を被り直して頭部を押さえる。動き出す時のいつもの仕草だ。
「じゃあな、早く寝ろよ」
手を軽く振ってから宿屋の方に歩いて行くパルテティオを見送り、ソローネはため息をついて脚を組んだ。
「……あいつ、意味わかって言ってんのかな」
心なしか脈が早い。だけど、自分だけ意識しているようなら恥だ。高鳴らぬよう胸を押さえる。
「じゃ、お言葉に甘えて、飽きたら社長の護衛係にでもさせてもらおうかな」
はじめから付き従うつもりはない。パルテティオからしても、それは本意ではないだろう。自由を満喫してから会いに行っても遅くはないのだ。
開けた未来を想像すると、笑みが自然に零れた。
「ありがとさん、ってね」
ソローネは一人口癖を真似て、月を見上げた。
夜が美しいと感じたのは初めてだった。朝日が待ち遠しいことも。
朝日が来るのは当たり前ではない。それはこの旅で身に沁みて知ったことだから。
「ちょっとカッコつけすぎちまったか……?」
歩き出していたパルテティオが、頬どころか首まで赤く染めているのを、ソローネはもう少し後で知ることになる。
二人の顔を、遠くから青白い空が少しずつ照らし始めていた。