ごく稀に起こる創造神トライアの悪戯は、未開惑星だけでなくネーデでもあり得ることらしい。
「なんと……」
フィーナルの一室で、ガブリエルが驚いた目をして見下ろしているのは、小さい白い毛の生き物だ。日に当たると毛が銀色に輝いて見える。
ここはルシフェルの執務室であり、彼は業務に集中したい時は決して他人を入れない。上司の自分でさえ。それなのに今ルシフェルは不在で、代わりと言わんばかりにこの生き物はニャーニャー鳴き声を上げている。
ネーデの街中で見たことがある。これは猫という動物だと前にカマエルが教えてくれた。ガブリエルが抱き上げると、短く唸り、すり抜けようとして胴体が二倍近く伸びる。
「何とも面妖な…。その目つきの悪さ、まさか、ルシフェルなのか?」
猫が素早く腕から降り、ガブリエルに対しある程度の距離を測り始めたころ、
「ルシフェル、ちょっといいか? ってガブリエル様じゃないすか」
「だから事前に予定を聞いておけと私は何回も」
「ルシフェル様、ご報告があるんですが」
「大変」
「ラファエルのマントが破けてしまってのお、裁縫道具を貸してくれんか」
「貴殿らの用事は後にしてくれないか。私の方が火急の」
「ルシフェルサマオナカスキマシタ」
「ルシフェル様、この武器が先日話題の」
「なぜ全員同時に来る…」
ガブリエルは中間管理職の苦労を知ることになった。
「あなた達、なんでもかんでもルシフェルに頼りすぎよ! だから猫になっちゃったのよ」
フィリアが軽く怒りながら胸元に抱いている猫を撫でる。
「しかし、このような事態は初めてだ…これからどうしたら良いのか…」
「普段より口うるさくねぇし別にこのままでもいいんじゃねぇか?」
ミカエルにシャーと威嚇するように鳴いて、猫はフィリアから降りた。直後にサディケルとザフィケルがガブリエルの前に現れる。
「ガブリエル様、セントラルシティの者に聞き込みをして、猫に関するものを一通り買ってまいりました」
「うむ」
「こちらが食事、こちらが寝床、こちらが遊ぶものだそうです」
「買いすぎじゃのう」
「余ったら わたしが しまう」
「二度と出せんと思うが」
「ガブリエルサマ助ケテ、コノ猫ワタシヲ遊ビ道具ト勘違イシテイマス」
「お前、そのおもちゃみてぇに細くて浮いてるもんな」
「動きも早いしな」
「サディケル、その冊子たちは何?」
フィリアが袋から覗く雑誌を指差す。
「これは世の中の、愛玩動物としての猫の生態が詳しく書かれているものだそうです。今後の参考になるかと思いまして」
「なるほど…猫とは奥深いものなのだな。だがここに載っている奴らより、ルシフェルの方がずっと見目麗しいと思うが」
親バカ精神を発揮するのが早すぎると内心フィリアは思った。
「ガブリエル様、ここに興味深い記事が。今巷では、【猫吸い】という儀式が流行しているそうです」
メタトロンがページを開いて持ってくる。
「猫…吸い…?」
「なんだそりゃあ、こいつを吸い込むのか?」
「わたしの時代が 来たか」
「ラファエル、前に出るな、服をめくるな」
「字が細かくて読めんのう……。ふむ、顔を埋めて思い切り猫の匂いを嗅ぐと吉だそうですぞ、ガブリエル様」
追いかけられていたジョフィエルが、すぐさま猫を捕まえてガブリエルの前に置く。ガブリエルは大きく息を吐いた後、顔を猫に沈めた。しばらくして起き上がった顔は毛だらけだったが、恍惚としていた。
「なんという…なんということだ……。人間はいつからこんな至福を…。けしからんデリートする」
「お父様、私怨むき出しにしないで」
「こいつはしばらく仕事になんねぇなぁ…よし、俺も遊んでやるかぁ」
開き直るミカエルの隣で、ハニエルは頭を抱えていた。
*****
数時間後、少しずつ状況を把握してきた猫は、ガブリエルの足元に鳴きながらすり寄ってきた。ガブリエルが座り込み頭を撫でてやる。
「どうした、甘えたくなってきたのか…?」
返事のように喉元がゴロゴロと鳴いた。抱き上げる。もう最初のように逃げ出すことはない。
「普段はつれない態度ばかりだが、もう少し今のように頼りにしてもいいのだぞ、ルシフェル…」
「何をおかしなことを言っている…」
目線の先に、怪訝な顔をしたルシフェルが立っていた。一瞬の後、胸元の猫と交互に目視する。
「ルシフェル…猫になったはずでは」
「笑えん冗談だな」
ルシフェルが歩き出すと猫はガブリエルの腕から抜け出し、足早に執務室を出て行った。
「今までどこにいたのだ?」
「あの虫けらどもの進捗確認をしに行っていた。派手に歓迎パーティを開かねばならんからな……ところで」
ルシフェルが手元で開いていたファイルを音を立てて閉じる。
「私が不在時の他の者は、さぞかし収拾がつかなかったのではないか?」
「まさか……あれが日常だというのか?」
「私が執務中鍵をかける理由がわかっただろう?」
ふ、と少しだけ嘲りと怒りを含んだ笑いで、ルシフェルは語りかける。
「猫よりは、私の方が普段から頼られていると思うが、な」
「………どうした? 猫に嫉妬しているのか?」
動きを止め、ルシフェルに徐々に詰め寄る。ガブリエルがニヤリと笑ったのをルシフェルは見逃さなかった。
「そうでは、ない、違う」
嫌な予感がして後退りを始める。
「知っているか? ルシフェル。猫はな、吸うと信じられない程気持ちが良いのだぞ」
ガブリエルはルシフェルを壁まで追い詰めると、襟足をかき上げ、首に口づけた。
「やめ……だから私は、猫じゃ…」
続きを言えるほど、スイッチが入ったガブリエルは甘くなかった。そのまま押し倒され、抵抗をやめたルシフェルは部屋に鍵をかけた少し前の自分を後悔した。