掌の愛「さんしゃ……? へへ、センセイ、俺だよ。ユーニッド!」
「ブラックサンシャイン」、その単語が理解できないというように首を傾げながら、ユーニッドは漸く会えたドクターに元気よく挨拶をする。まるで、「ユーニッド」と名乗れることが心底幸せであるかのように、彼は自分の名前を口に出す。
彼自身がブラックサンシャインであることを忘れ、今まで積み重ねてきた人生を失い、それでも尚屈託なく笑うユーニッドを目の前にして、ドクターは無意識のうちに笑みを浮かべていた。ギャングのボスとして強さを誇った彼を壊し、素直で可愛いらしい良い子に仕立てたのは、紛れもなくマインドハッカーである自分なのだ。
その事実に、ドクターは胸の内から湧き上がる仄暗い感情を自覚することになる。
✿✿✿
「……」
ユーニッドは収容室に設えられたベッドからむくりと身体を起こす。二三度瞬きした目はもうばっちりと開いていた。直後に朝を伝える全館放送が流れる。彼はそのまま起き上がると、身支度を始めた。顔を洗い、歯を磨き、お気に入りのピアスをつける。袖を通したいつものジャージは、昨日のうちに自分で洗って畳んだものだ。自主的に行う毎日のルーティン。
今日もいつも通りの素晴らしい一日が始まる。
決められた時間に起きるのは規則正しい生活を送る上で当たり前のことだと、ユーニッドは考えている。そう、「規則正しい健康的な生活」。彼がこの施設に来てから学んだことの一つだ。
マインドハックを受けてから、彼は規則正しい生活を愛するようになった。(なぜだろうか)と考えることはしない。規則正しい生活を送れば幸せいっぱいな気持ちになれるのだ。それだけで十分だと、ユーニッドは今日の奉仕活動――館内の掃除に勤しむ。
奉仕活動はマインドハックを受けた元バグ保有者が社会復帰を果たすための義務だ。マインドハックによって社会への帰属意識は植え付けられているものの、それを定着させなくてはならない。よって、更生済収容者は日毎に様々な奉仕活動に従事するようプログラムが組まれている。
今日はスタッフ棟の廊下の掃除を任されていた。
監視の新米隊員は彼の働きぶりを見ながら何事かを記録していたが、通信が入ったのか「10分で戻るからここから動くなよ」と言い残しどこかへと走り去っていった。館内には当然監視カメラが備え付けられている。すっかり模範囚となっていたユーニッドにはそれで十分だと判断したらしい。事実、新米隊員がいなくなってからも、彼は黙々と床の拭き掃除を続けていた。
ユーニッドは掃除が好きだ。掃除は分かりやすい。頑張れば頑張るほど、汚れていたものがきれいになっていく。きれいなものは素晴らしい。
目を見開き、真剣な顔で廊下の汚れを拭きとる。懸命に目の前の仕事に挑む彼には周りが見えていない。
その時だった。
ばしゃり
一瞬のことに、目を瞬かせるユーニッド。
気づけば肩口からずぶ濡れになっていた。水を含んだジャージは濃く色を変え、含み切れない水をぽたりぽたりと滴らせる。下に目を落とせば、掃除してピカピカになった床にも水が零れている。これではまた廊下を拭かねばなるまい。
訝し気に原因を探る視線は、振り返ったところで止まった。
大きな花瓶を抱えたドクターが、彼の背後に立っていたのだ。
✿✿✿
ドクターはユーニッドの背後に立つと、水を湛えた花瓶を彼に向って大きく振った。
新米隊員は適当な用事を言いつけて遠ざけた。
この場には自分と哀れなウニしかいない。
放物線を描き舞った水が彼の背中や床に降り注ぐ。
肩を跳ね上げ周囲を見回す彼と目が合った。
――さあ、どんな反応を見せてくれるんだい?
✿✿✿
「あ、センセイ……」
「ごめんね。花瓶の中身を捨てに行こうと思ったんだけど、ちょっとバランスを崩しちゃって」
謝るドクターの表情は読めない。見れば彼は大きな花瓶を抱えている。滴る雫は、花瓶の中身が掃除の成果を台無しにしたことを示していた。犯人はドクターだ。しかし、そんな彼を見て、ユーニッドは立ち上がると慌てた様子で目の前の男に声をかける。
「えー! 大丈夫かセンセイ! 怪我ない?」
「大丈夫だよ。むしろ君がずぶ濡れになってしまったね」
「俺は全然平気! 気にしないで!」
ドクターの意図など露知らず、にこにこしながら相手を気遣うユーニッド。自分に水をかけ、あまつさえ自分が掃除をした床に水を零したドクターに対する怒りや不満は一切無い。そこにあるのは純粋な相手への思いやり、そしてドクターへの無条件な信頼であった。
そう、破壊衝動を抱え孤独を内に秘め、ギャングのボスとしてドクターに抗った男の末路がこれだ。彼が信頼し親愛の情を寄せるドクターこそ、彼の過去を殺した張本人であるというのに……
――ああ、なんて哀れで可愛らしいのだろう。
ドクターは「もう一度きれいにするから!」と床を拭き始めたユーニッドに話しかける。
「ユーニッドくん、そういえばピアス変えたのかな?」
「おう! お花みたいでかわいいかなと思って!」
「そうだね、今の君によく似合っているよ」
「本当に!? うわー、嬉しいなセンセイ!」
「掃除も頑張っていて、早寝早起きまでして、笑顔で挨拶もできて、君はとっても良い子だね」
「えへへ、そんなに褒められると幸せになっちゃうな」
「……今、幸せかい?」
「うん! センセイに褒めてもらえて、俺幸せだなー」
水で重たくなったジャージを纏い、床を拭くユーニッドは顔いっぱいに笑顔を浮かべる。ギャングのボスであるブラックサンシャインの面影はきれいさっぱり消えている。かつての犯罪者は過去を忘却し、「正しさ」を植え付けられて無邪気に笑う。
彼の心は今、きれいな花で溢れているのだ。
「センセイ! ほら見て、こんなにきれいになった!」
「そうだね。本当に」
ドクターは、すっかり手中に収めた可愛らしいウニの頭を撫でてやった。