I'm with him その子供は、身の着のままでエイの家へとやって来た。
帰る場所がないなら家に来るかと声をかけたのはエイだ。義務教育も終わっていない子供が住み込みでバイトをしていたのだから、訳ありなのは見れば分かる。自分が関わりを持つ店なだけに、エイは彼らの存在がどうにも気になった。同じくらいの少年がもう一人いたが、彼は兄弟が多いからと自ら進んでアルバイトをしていたようだ。人懐こい彼――フジツボはすぐに事情を教えてくれた。あっけらかんと話をするフジツボにエイは安堵したのを覚えている。
問題は、彼の後ろで静かに靴を脱ぐ少年の方だ。
話しかけても睨むだけ。大人というものを根本的に信用していないのだろう。彼が唯一心を開いているのは同年代のフジツボだけのようだ。そのフジツボも、彼がどうして家に帰らないのかは知らないと言う。
ダメで元々だと、どうしても気になったその少年を自宅に誘うと、すんなりと頷いたのでエイは驚いた。彼の考えていることは分からない。
「椅子たくさんあるからどこでも良いわよ。座ってちょうだい」
椅子やソファ、ベランダのベンチ。部屋のものを一通り指してから、エイは荷物を置きに自室へと向かう。鞄と一緒にふうと一つ息を吐き、自分の頬を両手で挟むようにぱしと叩く。そして、「しっかりしなくちゃね」と小声で呟くと、リビングへと戻った。
先ほどまで部屋の入り口に佇んでいた少年は、ソファを居場所と決めたらしい。大きなソファの端に座り、膝を抱えただ一点を見つめている。エイが戻ってきた物音には反応しない。しかし彼の一挙手一投足に意識を向けているのだけは伝わってきた。あえてエイの方を向かない選択をしているのだと、そしてそれを隠す余裕もないのだと、大人であるエイはすぐに少年の虚勢を見破った。
「あったかいお茶入れるわね~」
努めて明るく話しかけるも、彼はこくりと頷くだけで後は微動だにしない。見つめていれば自分に必要な何かが浮かび上がってくると信じているかのように、彼は黙って目の前の空間を睨んでいる。警戒心が針のようにエイの肌を刺す。彼の頭のトゲが鋭さを増しているように思える。
まだ表情に幼さの残る少年が、ここまで大人を信用していないとは。
彼を支える後ろ盾もなく、彼の武器となる所持品もなく、未発達の身体一つで自分を守ろうとする彼に、エイは自分の心をちくちくと刺されるような心持ちがした。
温かい紅茶を入れてあげようとするも、あいにく茶葉を切らしていた。ここのところ忙しく飛び回っていた弊害だ。タイミング悪いわねえ、と仕方なくティーバッグの紅茶を出す。
さてマグカップを出そうかと食器棚を見れば、ふと、目に留まるものがあった。
『←I'm with him』
「ふふ、そういえばこんなのあったわね……」
英文の書かれたマグカップを棚の奥から取り出す。以前、取引先の映画好きなオーナーから貰ったものだ。対になっているそのカップはあまり日の目を見ることなく棚にしまわれていた。
(『私は彼と共に居る』ねえ)
今まで気にしたことの無かった文が、どうしてだかリビングの少年と重なる。
――彼にとって「共に居る」者は、果たして存在するのだろうか……
湯を沸かし、雑念を払うようにティーバッグの包みを開けるも、一度芽生えた思考はエイから離れようとはしない。考えに耽るうちに、二人分の飲み物が目の前に完成していた。
「お待たせ~ あったかい紅茶よ。ティーバッグのやつでごめんなさいね」
ソファの前にあるサイドテーブルにマグカップを置いてやれば、少年はようやく抱えていた膝を床に下ろした。反応が返ってきたことに、エイは胸をなでおろす。
「いただきます」
警戒するようにちらと彼を見て、おずおずと少年は手を伸ばす。まだ未成熟な少年の小さな手がカップを掴む。再びカップの文字列がエイの目に留まる。『I'm with him』。
「これ、あなたのマグカップにしましょうか」
何気なく零れた一言だった。しかし、その瞬間、少年から感じる空気が変わったのを感じた。エイは思わず顔を上げる。するとそこには、目を大きく見開いて、マグカップを見つめる少年がいた。
「これ、俺の?」
「ええ、自分のコップがあった方が何かと便利でしょ。……もしかして、気に入らなかった?」
少年の様子に心配になるエイ。しかし彼はぶんぶんと音が出そうなくらい首を横に振る。
「気に入らなくない!」
「そう……? 遠慮しなくていいのよ」
「これがいい」
「俺のなんだ……」そう呟くと、彼は目の前のマグカップをまるで大事なもののように両手で包む。瞬間、エイは理解した。その事実はエイの心を締め付けると同時に、えも言われぬ感情を呼び起こす。
彼は、未だマグカップを見つめる目の前の少年にゆっくりと語りかける。
「それは、今日からあなたのものよ」
「……うん」
「あなたが自由に使っていいの。誰に断らなくてもいいの」
「……うん」
「アタシね、この部屋広くて持て余してるの。あなたが使ってくれたら……ううん、一緒に過ごしてくれたら、アタシは嬉しいわ」
「……ぅ、ん…っ」
大きな瞳からぼろぼろと溢れる涙は、拭われることなく零れ落ちていく。自分の居場所、自分だけの食器、思いがけず与えられた暖かなものたちに、ついに少年は耐えきれなかった。
エイは静かに少年を見つめる。二人きりのリビングに、少年の嗚咽が響く。
暫くして、ぽそりと、控えめな礼が少年の口から零れ出る。
エイは優しく微笑むと、目の前の少年の頭を撫でた。
***
「ブラック覚えてる? そんなこともあったわよねえ」
エイはふうふうとコーヒーを冷ましながら、マグカップに口をつける。
「んなこととっくに忘れたぜ」
ブラックはぶっきらぼうに言い放つと、片腕に収まるうみうしを抱き直し、コーヒーを啜る。
あれから幾年もの月日が流れた。目の前の青年にあの頃の少年の面影はない。逞しく成長した青年は、エイが贈ったシャツを着て、我が物顔でソファを陣取り、自分のマグカップで好きな飲み物を飲んでいる。
「子供の成長って早いわよねえ」
「うるせえな」
戯れに交わされる言葉。軽妙なそれは彼らが積み重ねてきた年月を表している。
「ごちそうさま」
「カップ洗っとくからそこ置いとけ」
「ありがとうブラック」
彼の好意に甘えて、エイは飲み終えたマグカップをテーブルに置く。やせっぽちの小さな少年は、逞しく大きく成長した。しかしテーブルに置かれたマグカップはあの頃と変わらない。
「何笑ってんだよ」
「ふふ、別に」
なんでもないわと呟き、エイは目の前の青年の頭を撫でてやった。