花の揺籃 「先生!」と背後から駆け寄る新米隊員に、ドクターは振り返る。恐らく例の件だ。しかしドクターはあえて「どうしたんだい?」と聞く。
「また奴の『発作』ですよ。FORMATが先生を呼んでくるようにと」
「分かった。行くよ」
「……先生、本当に誰も護衛に付けなくて良いのですか?」
彼の心配は尤もだ。話題に上る相手はギャングのボスで、危険運転、轢き逃げ、放火の罪状を突きつけられた犯罪者である。つまり「悪人」だ。殊にこの新米は世の中の悪に対して厳しい。「先生を悪人からお守りしなければ」と、配属されたての新米隊員は熱を込めて願い出る。
しかしドクターには護衛をつける気などさらさら無かった。表情を変えずに、彼に「大丈夫だよ」と繰り返せば、新人である彼はもの言いたげな顔を隠そうともせずに口を閉じる。
「心配してくれてありがとうね」
ドクターは人形のように美しい笑みを浮かべる。口元はマスクで隠れているが、それでも尚作り物のようにつるりと整った笑顔が新米隊員に向けられた。温度の伴わないそれに、彼は息を呑む。もう彼の表情からは不満や疑問などは消えていた。あるのは天才マインドハッカーへの尊敬と……僅かな畏れだ。この話はおしまい、とばかりにドクターが手を振れば、新米隊員にできることは「……承知しました」とこの場から去るのみであった。
「マインドハックの一時中断」。あの日、FORMATが出した前代未聞の指示により、一人の男の精神が書き換えられることなくハックは終了した。バグはほぼ消去したが、精神の書き換えを行わずに終了したため、対象には重大な後遺症が残されてしまったのだった。
「発作」と呼ばれるそれは、時折症状として現れては男を蝕み、その度にドクターが対処に当たっている。収容室で二人きりで行われるそれに、ドクターの安全を守るHOTFIX隊からは反対の声が上がったが、ドクターは警護を望まなかった。最終的に折れたのはHOTFIXだ。ドクターを愛するFORMATが何も言わなかったことが決定打となった。
新米隊員と別れ、迷わず目的の収容室へと向かう。白い扉の前に着いたドクターは左手でマスクを僅かに引き上げる。逸る気持ちを抑えて認証パネルに指をかざす。ぽーんと、場にそぐわない軽い電子音が響き、静かに扉が戸袋へと収納されていく。
部屋の中には「彼」がいる。
✿✿✿
温白色の明かりが室内をくっきりと浮かび上がらせる。その収容室は嵐が通り過ぎた後のような惨状であった。
まず目に入るのが床に散らばる切り花だ。昨日ドクターが手ずから活けた橙色のダリアが、ぐったりと、まるで打ち上げられた魚のように無残な姿で床に落ちている。美しさの損なわれた花は既に景観を乱す物でしかない。きらりと反射するのは細かなガラスの破片だろう。割れたと思われる花瓶は新米隊員が片づけたのか、その姿は見えなかった。
壁に設えられたベッドは乱れ、ぐしゃぐしゃになった毛布が落ちている。大方、毛布で自分の身体を包もうとしたのだろう。それで「発作」が収まるのであればドクターの元に新米隊員が来ることも無いだろうに。
花の散らばる床、乱雑なベッドと順番に視線を移せば、目的の人物はすぐに見つかった。
収容室には、一時期世間を騒がせたギャングのボスがいる。
その彼は今、自分の身体を抱きしめ、部屋の隅で巨躯を縮こまらせていた。
鋭く尖る棘を震わせ、せわしなく視線を彷徨わせる。時折聞こえるのはか細い懺悔。虚ろな瞳には涙の膜が張り、時折溢れた雫がぼろぼろと零れ落ちる。恐怖に駆られ、ここには居ない者に怯える彼は、部屋に入ってきたドクターにも気づいていないようだった。
ドクターは床の水も花も諸共に踏みつけ、真っすぐに彼の元へ向かう。
「……ごめんなさい」
近づけば小さな声が聞き取れるようになる。初対面でドクターを威圧したあの重低音は、今や吹けば飛ぶような囁き声となって部屋に散らばっていく。
ドクターは彼の前にしゃがみ込む。
「ユーニッドくん、調子はどうだい?」
「ゆるして」
「花瓶、割っちゃったのかな。怪我は無い?」
「もうしないから」
ドクターの質問には答えない。彼は変わらず床をなぞるように視線を移しながら、虚空に向かってたどたどしく謝罪を繰り返す。
新米隊員から聞いたところによれば、自分の待遇に焦れたユーニッドが怒りから振り回した腕が花瓶に当たって割れた。そして彼は割れた花瓶を見て目を見開き、頭を抱え苦しみながら「ごめんなさい」と繰り返していたとのことだった。「発作」が出てしまったのだ。以降、新米隊員の言葉には耳も貸さず、時折指を噛み頭を掻きむしりながら現在に至る。
そもそもユーニッドがこの状態に陥るのは今回が初めてではない。
マインドハックを施したドクターには原因が分かっている。十中八九、彼の過去に大きな影を落としたあの寮母だろう。マインドハックにより深層心理から引きずり出され顕在化した彼の心的外傷は、ハックの中止により消去されずに残されてしまった。彼の脳裏に焼印のように新たに刻まれた過去の傷は、日常の些細な物事を契機として彼を苛むようになったのだ。寮母が現れ彼を責め立てる。死んだはずの人間が過去の姿のままで彼を詰る。
その度にこの元ギャングのボスは子供のようにその身を隠すように小さく縮こまり、時に自傷しながら謝罪の言葉を繰り返すのだった。
そのユーニッドを落ち着かせることができる唯一の人物が今、収容室で彼に向かい合っている。
ドクターは両手で彼の顔を包み、自分の方へと向けさせた。冷や汗が白い手袋に滲む。ぎくりと身体を強張らせ、ユーニッドの瞳が焦点を結ぶ。
漸く目が合った。
「あ……センセイ……」
「やっとこちらを見てくれたね」
ゆっくりと優しく語りかける。顔に添えられた手に少しの重みを感じる。寮母の幻覚に怯え強張っていた身体が弛緩し始める。それを見たドクターは微笑みを浮かべて、膝を抱えて座る彼の足を割り開き、その間にするりと入り込んだ。互いの身体を密着させる。彼の背中に手を回し、ユーニッドを正面から抱きしめる。ドクターの細身の身体は、彼の体躯にすっかり包み込まれてしまう。
暫くそのままでいると、太く逞しい腕が控えめにドクターの背中に回された。拒絶されないことが分かると大きな手は華奢な肩を包む。弱弱しくシャツを掴むそのいじらしい手に、ドクターはいよいよ声を上げて笑う。
「ふふ、ユーニッドくんはいい子だね」
震える背中を撫ぜる。熱を失い冷や汗をかく彼の身体は、それでも温まることは無い。ドクターの手は背中を往復し、僅かな熱を生み出していく。何度か繰り返せば、再び彼の身体が震えだし、嗚咽と共にドクターを呼ぶ声が零れだす。
「う……ぅ……ひっ…ぐ……センセイ……」
「大丈夫だよ」
大丈夫、大丈夫。と繰り返しながら、幼子をあやすような手つきでユーニッドを撫でる。子供扱いに激怒し暴力を行使するギャングのボスはここには居ない。ドクターが目をかけているのは、幻覚に怯え震えながら泣くことしかできない可愛いユーニッドだ。
「おれ、わるいこだから……」
「そんなことないよ」
ぐずぐずと涙しながらユーニッドは感情を吐露する。精神が蝕まれた彼にとって感情を抑えることは不可能に近い。幼いころから身を守るために積み上げてきたプライドはとうに瓦解していた。
味方が誰一人としていなかった頃の記憶が、過去と現在が混濁する。ユーニッドは目の前のドクターに縋りつく。
「わるいこだからだれもたすけてくれない……」
「大丈夫だよ」
「ひとりになっちゃう……」
「大丈夫」
即答するドクター。
「わたしがいるからね」
とっておきの一言。ユーニッドの目が見開かれる。
その言葉を待っていたと言わんばかりに、ドクターに回された腕の締め付けが強くなる。
ドクターは変わらず彼の背中を撫で続ける。熱が戻りつつある身体はもう震えてはいない。
それきり彼は一言も喋らず、ただドクターにされるがままとなっていた。
✿✿✿
どうやら「発作」は収まったようだと、ドクターは目の前の男を観察する。精神も落ち着いてきた。あとは寝かしつけるだけだ。彼が次に目覚めたときには、再びギャングのボス――ブラックサンシャインとして振舞うのだろう。これまでもそうであったのだから。
マインドハックによって曝け出された弱さを優しく肯定されたユーニッド。彼の「発作」は日毎に酷くなってゆく。ドクターの憐憫が、肯定が、ギャングのボスを壊していく。ブラックサンシャインが保てなくなるその日まで、ドクターは優しい毒を注ぎ続ける。
ドクターはその時を想像する。自分の腕の中で、哀れにも自分に縋るしかできなくなった男の姿を。あれだけ反抗的だった彼が、可愛らしく見せかけの愛を求める姿を。
マスクの下に隠れた口が弧を描く。
天井の声は黙したまま、愛しのドクターが破壊を夢想する姿を見守っている。
何も知らないユーニッドは、ぬくもりの中でとろりと意識を手放した。