その名を呼ぶな「うーん…他の魔法使いに比べると、やっぱり北の魔法使いの人たちの記述は少ないなぁ…。」
魔法舎の書庫には、膨大な書物が保管されている。この世界に来て、スノウとホワイトに案内された時、あまりの多さに驚いてしまった。
入り口付近から中央にかけては、この世界の書物が納められている。時折、真面目なヒースやアーサー、ルチルが勉強している姿を見かける。
そして中央から奥にかけては、異世界からやってきた歴代の賢者達の書き記した書物だ。もちろん全てが読めるわけではない。劣化の激しい物もあるし、そもそも多種多様な言語で書かれているのだから、解読するのも一苦労だ。
なんとか読めそうなものはないかと、今日も賢者は書庫を巡る。
「あ、これ、読めそうな感じ…?」
幾分か掠れているが、この字は見たことある。
随分と劣化も激しいようで、ページをゆっくり捲っていく。どうやらこの賢者の書には、それぞれの魔法使いを詳しく書いているようだ。
一番上に書いてあるものから、ゆっくりと読んでいく。
時が経つのも忘れて、賢者は思わずそれに、引き込まれていった。
♢
「賢者ちゃん、おそーい!」
「賢者ちゃん、はやくー!」
「す、すみません、つい集中してしまって…。」
スノウとホワイトの可愛らしい抗議の声に、賢者は慌てて頭を下げる。
いつの間にか、夕食の時間を過ぎていたらしい。書庫に篭っていた賢者を、ヒースが迎えに来てくれた。
読書をしていた時は気付かなかったが、食堂に着いた途端に身体が空腹を訴え始める。
個性豊かで自由気ままな魔法使い達も、食事の時間だけは集まってくれる。ネロの料理が絶品だからというそれだけの理由でも、皆が一堂に会するこの時間は貴重だ。
だから賢者はいつも、この時間は色々な魔法使い達と交流を深めるようにしている。
もちろん一番難しいのは、北の魔法使いだが。
彼らが座っているテーブルに近寄ると、案の定何だこいつという目で見られた。
それでも今日は、会話のネタがある。
何とか笑顔を浮かべると、賢者は抱えていたものを彼らの目の前に差し出す。
「何か読めそうなものはないかなぁと探していたら、何とか見つけたんです。多分今までで一番、魔法使いの皆さんの事を書いているものかと思って。」
「へぇ、俺様の格好いい所はどのくらい書いてあるんだ?」
「可哀想な囚人が、哀れにも奉仕活動に勤しんでるって書いてあるよ。」
「あ?適当な事言ってんじゃねーよ。そういうお前は、三匹の犬を毎日散歩してるとでも書いてあんだろ。」
あっという間に険悪な雰囲気になってしまい、他の魔法使い達の視線が痛い。彼らが賢者を傷付けるようなことはしないと分かっていても、その気になれば容易く刈り取られるのだ。慎重に言葉を選びつつ、賢者は恐る恐る宥めにかかる。
「そ、そんなに変な事は書かれてないと思いますよ…。あ、ミスラ、ミスラの事は一番最初に書いてありました!」
「はぁ、そうですか。」
オーエンとブラッドリーの諍いには目も向けず、黙々と手掴みでチキンを頬張っていたミスラに声を掛ける。油まみれの指先なのに、それすらも絵になるような美貌の持ち主で、賢者は度々見惚れてしまう。
気を取り直してミスラに意識を向けるが、本人は全くもって興味なさそうだった。
「どうせケダモノとかそんなのぐらいしか書いてねーだろ。」
「はは、注意事項がいっぱい書いてあるんじゃない?」
「いえ、多分プロフィール…あ、えっと自己紹介みたいなのと…。筆跡と文章からすると、男性ですかね?そうそう、これが聞きたかったんです、ミスラ。」
そう言うと、賢者はとあるページの記述を指差す。
「"ミミ"って呼ばれてたんですか?」
その瞬間、全てが、止まった。
時計の針が刻む音も、賑やかな談笑も、寛いだ雰囲気も、最初からなかったかのように。
食堂全てを、純度の高い透明な氷が覆う。
内に秘めた殺意が具現化され、明確な意図を持って、賢者に向けられる。
ヒュッと、か細い息が漏れた。
誰のかは分からない。だって食堂のはずなのに、口に触れるのは、肌を突き刺すのは、紛れもなく凍てついた空気だ。
本能的な恐怖なのか、生理的な反応なのか、ガタガタと身体が震え出す。
そして哀れにも立ち竦む賢者の前には、表面上は変わらないミスラがいる。
いつものように気怠げで、怠惰で、己の欲望に忠実な、北の魔法使い。
その男は、ゆっくりと口を開く。
「その名は、貴方のものじゃないです。」
一挙手一投足が、ゆっくりと見える。まるで死刑を宣告するかのように、余命を告知するかのように、彼の手は賢者の方へと伸びて。
「ミスラ、やめろ。」
「…はぁ?俺に指図しないでください。殺しますよ。」
「ミスラちゃん、やめるんじゃ!」
「賢者ちゃんが怖がっておるじゃろう!今代の賢者は女の子なんだから、もっと優しくするんじゃ!」
「ごちゃごちゃうるさいな…。全員まとめて殺してあげます。」
魔道具の髑髏を瞬く間に取り出して、ミスラは賢者に向けていた殺意を広げる。
「きゃー!よく見てミスラちゃん!」
「我らもう絵になってるから!オズちゃんも魔法使えないから!」
「………」
「「オズちゃん、何か言わないと!」」
助かった、と賢者はこの世界に来てから初めて思った。まだ心臓がバクバクと激しく動いている。ミスラの意識が逸れたお陰なのか、部屋を覆っていた氷も霧散していた。
よく分からないが、自分が何か彼の琴線に触れてしまったらしいという事は分かる。
自由になった身体を叱咤し、賢者は震える声で謝罪した。
「あ、あの…ごめんなさい…。私、何か触れちゃいけないものに触れてしまいましたか…?」
「…そなたが悪いわけではない。ただ、今は触れるべきではないというか。」
「ミスラが唯一心を砕いた賢者が、かつてはいたんじゃ。」
しんみりとした口調で話す双子の様子に、賢者はようやく理解する。
そして理解した途端に、抱えていた賢者の書がズンと重くなった気がした。
言うなれば、これはかの賢者が綴った、彼らとの思い出。それを無遠慮に覗き、暴いてしまったのは自分だ。
おろおろし出した賢者を労わるように、影を伸ばしたスノウとホワイトが付き添う。
「全く、他者がその名を呼んだだけで、こうも怒るとは。」
「それほど執着していたのならば、手放すべきではなかったというのに。」
「………うるさいですね。別に怒ってないですよ。ただ、その名は、" "の付けた、」
ふと、ミスラが目を見開いた。何かを言ったはずなのに、それは音にはならずに溶けていく。
「どうしたんじゃ?ミスラよ。」
「何を言おうとしておるのじゃ?」
もう一度、彼は口を開いた。
" "
「………あれ、何を、言おうとしたんでしょう。」