そなたなら「キスがしたい」
そう突拍子もなく呟けば、机に齧りついている主の、月光を編み上げた様な銀の髪が微かに揺れた。
冥府の王。
ギリシャの神々が畏敬の念を抱き、彼が語れば各々が耳を傾ける平等なる忠告者。
始皇帝たる朕の愛を一身に受ける我が“恋人”。
冥王ハデス。
その神は今、ギリシャの山々の様に高く聳え立つ書類と奮闘していた。
書いては印鑑を押し、書いては内容の馬鹿らしさに眉間の皺を深くする。
余りにも懸命で、余りにも真摯に向き合う姿は、仮にも過去同じ様な業務に身を投じた事のある自分ですらも真面目そのもである。
しかし、しかしだ!
折角、可愛い恋人たる朕が労ってやろうと足を運んだというのに仕事の虫は一瞥もくれやしない。
この執務室は朕が住んでいる居住区から少しどころか、かなり遠い場所にあり、ほいほいと行くには多少骨が折れる。いや、行くがな。
「ほら、面を上げよ、許す!」
「生憎だが、今貴殿の相手をしている時間は割けない」
「ハデス」
ずかずかと大股で歩を進め、高々と積まれていた紙束の塊を、軽い動作で卓の上に滑り込ませた体の勢いに任せ床に追い落とす。
ばさばさと小気味良い音がしたので気分が良い。
そのまま卓の上にどっかりと胡座を組み、ここまでされても尚、顔を上げない愛しい男の陶磁の肌に手を添わせ、
甘い声音でその名を呼んでやる。
「折角朕が出向いてきてやったのに」
添えた手に力を入れて、ずっと書類と見詰めあっている顔を少し上に向ければ、朕の好きな紫とも水色ともとれる神ならではの不可思議な色の瞳とかち合う。
その精悍で均整のとれた顔の造形にケチをつけるようにして刻まれた薄いクマ。前に見た時よりも濃くなっている気がする。
文句ありげな男の視線を確認し、口元に満面の笑顔を作ってやる。
「凶悪な面構えをしているな!」
「…始皇帝」
うん、と返事をするつもりが音にならなかった。
眼前に好いた男の顔があり、気づいたら喰われる様に唇を奪われる。
反射的に頭を下げようとしたら、いつの間にか回っていた朕より一回り程大きい手で頭を押さえられ動けない。
ぬるりと、熱い舌が驚きで開いていた口の隙間を縫って入り込む。
「っ、ふ……ぅん」
そこはもう、相手も自分も慣れたもの。深い口付けだけで身体に火が着いたように熱くなる。
甘い痺れが頭の先から背骨を駆けて足の指先まで流れていく。
その感覚に思わずうっそりと布地で隠された目を細め与えられる快楽を余すところなく感じいる。
堪らず、もぞりと押さえ込まれた身体を軽くゆすれば、ハデスが喉の奥で低く笑った。
「愛らしい余の命。あと小一時間も要らぬから少し待ちなさい」
「……っは、言ったな?待たせる分の機嫌はとってもらうぞ」
「ふ、はは。貴殿のお望みのままに」
優しい手つきで髪を撫でられ、頬に軽いキスを落とし、耳元で蕩ける様に囁かれれば勝敗は決まったものである。
朕は!それに!弱い!
仕方なく卓から降りて近くの小椅子に腰を落ち着かせる。
触られた所の熱は治まる気配は今のところ、一切無い。
原因の主は素知らぬ顔で先刻と同じように仕事をこなしている。
(しかし、先程の笑顔は恋人に向けるには些か酷薄過ぎはしないか?)
相変わらず感情表現が微妙にズレている愛しのダーリンに、どう機嫌をとらせようかと思考の海を泳ぐ事にした。
※
執務、捺印、サイン、訂正、却下、修正、破棄、許可、認可、検証、再検討、それ以外にも自身がやらなければならない事は常に溢れていた。
誰の手も借りる事なく、只粛々と己の責務を全うする。
そうして、いつの間にか薄暗い常世の国は己の全てになっていて。
それ以外は、何も無かった。
(こんな仕事は頭の回る部下に任せなさい!)
漆黒の羽が、自分の手の動きに合わせてふわふわと揺れているのを視界の端に入れながら、ぼんやりと恋人の声で再生された記憶を掘り返す。
気儘に振る舞う始まりの王。
何時も突然現れては台風の様に周りを巻き込んで平然と1人帰っていく、小さな子供。
爛漫に振る舞う様は、何故か滑稽な一人芝居を見ている様だった。
(頼る者共が居なかったのか?では、今から頼れば無問題!)
過去も今も誰にも頼らず歩いている男が、呵呵と笑う。
それだけで酷く歪な男が、何も感じなかった自分の心に波を立たせた。
ぞわぞわ、これは、このざわめきは、
心の動きがはっきりと形になる前に、「朕の来訪ぞ!もてなして良し!」と静寂を引き裂いてやって来たモンスーンが、波立ったざわめきを思考の彼方へと追いやった。
……机に積まれている書類を一瞥し今から一直線に執務室に来るであろう恋人の対処に眉間の皺が深くなる。
(聞かなかった事にしたい)
そんな考えも虚しく扉がけたたましい音と共に開け放たれた。
扉が痛むから止めろと何度も言い聞かせたが意味を成さなかったらしい。
「喜びなさい、愛でるべき恋人が来てあげたぞ!」
他の人類側闘士達より、小さい部類に入る身長に反し、その身体の質量や練度は誰ともひけをとらない。
惜し気もなく晒された背中と顔にムカデとも骨ともとれる墨を入れ、短く揃えられた黒髪が軽やかに揺れている。
好青年の笑顔を振舞い、高圧的に他人に命令を下す。
誰もが、彼を見上げ彼の功績と覇道に夢をみる。
始皇帝。
小さな子供が登り詰めた末の、過去との決定的な訣別の証。
自分の存在を誰もに刻む為の名前。
呪いの様な“特別”。
しかし、この場に元来ある重い空気を一瞬にして己のものに塗り替えてしまえる程に、彼の持つカリスマ性の高さや己の魅せ方を理解し熟知している狡猾さは目を見張るものがある。
だが、今は相手をしている余裕などない。
嵐の様な男が来たのだ、彼をどうにかするよりも周囲を片付けた方が遥かに早い。
「…?」
反応が無かった事に対し比較的静かに首を傾げる始皇帝。
挙動だけは愛らしい。挙動だけは。
「朕が多忙極める可哀想な恋仲の為に癒しを与えにきたぞ」
その恩着せがましさと厚かましさは本当にどうにかならないのか。
思わず手にしていた羽ペンを勢いで握り潰しそうなのを、何とか堪える。
ありがとう、いつも無茶な案件や頭痛の種を持ってくる兄弟たち。
多分、鍛え上げられた胸を張り、自信満々にいつもの笑顔を張り付けて仁王立ちしているで有ろう大の男を無視して、書類にペンを走らせていく。
時間にすれば10分も満たない空白。
一拍のち、
「キスがしたい」
それは母親に無償の愛情をねだる幼子の声。
それは兄弟に注ぐ湧き出る慈愛の泉を欲しがる長子の嘆き。
それは、誰かの最愛を諦めた唯独りの男の慟哭。
与える事も、与えられる事も、奪う事も、奪われる事も、全てを望む貪欲な魂の願いに思わず身震いをする。
綺麗とは言い難い魂。無垢と云えば聞えの良い、それしか知らなかった男。
身体を突き動かす激情を押さえ込むと、手元の書類と書類と山が派手な音を立てて撒き散らされた。
元凶は云わずもがな、放置されて若干立腹の恋人である。
何か言っている。何か答えたかもしれない。
「ハデス」
夜の帳での声が降ってきた。
鋭い爪で隠された指が、両頬に当たり強引に上を向かされる。
無自覚であろう、頬の朱を見逃せる筈が無かった。
が、それを掻き消すように彼の口元が大きく歪む。不快な形。
不愉快な感情を上塗りするように最愛の君に噛みつくような口付けをする。
(本音を分かって欲しいからといって明け透け過ぎるのも考えもの)