五七版夏の企画その2「二度目」 自宅だ。まごうことなき自分の家だ。
一LDKで、とりわけキッチンの使い勝手の良さを気に入っている。自分自身のためだけにしつらえた、特別な空間だ。
その空間のなか、七海はリビングにあるソファに腰を落ちつけていた。今日は久しぶりの休暇だった。コーヒーを片手に、七海はハードカバーのページをゆったりとめくる。
この本は、買ってから積んであったもののうちの一冊だ。見開きを読み終えるごとに、指先を繰る。本の城壁を少しずつ、着実に突き崩していく。その時間のありがたみを、ただ静かに噛みしめる。
休日はいつもこうだ。好きなだけ本を読む。料理をする。そうやって自分の、自分だけの時間を満喫する。
「あ、あのさ」
だが、今日は違う。否、これからは違う。
自分だけしか居ないはずの空間に、もうひとり、別の人間が存在している。
ここはもはや、自分だけの空間ではなくなった。
己が思い描く理想の、その最上の形を成すことによって、そうなった。
「七海?」
ぎしり、と七海の隣がなにかの重みに揺れている。ソファは表面を覆う本革に小さくシワを寄せただけで、揺れによる不快感をこちらまで伝えてはこない。さすがにその座り心地に惚れ込み、奮発しただけはある。
七海は読みかけのハードカバーを閉じた。
「なんですか?」
本を元の位置に戻すと、体ごと隣に向き直る。あちらから呼びかけてきたというのに、いざ向き合うと、声の主はあからさまに動揺した素振りを見せた。
「あ、えと、その、ごめんね? 本、せっかく読んでたのに」
「構いません」
一瞬たりとて、目線が合わない。いつもは雄弁に語るその口も、今はもごもごと、歯切れの悪い音を口内にとどめるだけの役立たずになり下がっている。
「あ、あのさ、改めて二人っきりになると、なんかこう、変な感じがするね?」
「私は特には。アナタは、そうではなさそうですが」
告白は向こうからだった。じつに余裕がありそうな、彼らしく、朗々とした語り口だった。
「そ、そうだね。まさか自分がこんなになるだなんて、思いもしなかったよ……」
五条は頬を引っ掻いた。どうやら無下限を張ることすら忘れているようだった。掻きすぎて、右の頬にくっきりとした赤い線がついている。七海はその赤色をじっと見た。
彼の恋愛遍歴を聞いたことはない。しかしながら聞かなくとも、手に取るように分かる。
「女の子と遊ぶときは、こんなんじゃなかったんだけどなぁ」
おそらく、彼は本気の恋愛とやらをしたことがない。
呪専時代はとてもじゃないがそんな環境になかった。そうこうしているうちに彼は最強の仮面をつけ始め、本人ですらその取り方を知らぬまま、大人になった。
「なんでかなぁ。どうもうまくいかないや」
五条はまた頬を掻いた。心底分からない、というふうだった。
彼が手慣れているのは、相手を閨に誘うまでなのだろう。だが肝心な、相手と恋仲となったあとのことに関しては、その明晰な頭脳の守備範囲には入っていないらしい。
「確かに今のアナタは、普段からは想像もつかない顔をしていますね」
七海の言葉に、五条はうっ、とたじろいだ。七海は内心、ほくそ笑む。
七海に告白してくるときも、五条はいつもの仮面をつけていた。それを七海は知っていた。知っていた上で、五条の想いを受け容れた。
「そ、そういえばさ!」
ぶんぶんと頭を振ると、五条は人さし指をぴっと立てた。相変わらず、目線はかみ合わない。
「僕たちさ、呪専のときに一回だけキスしたことがあったよね?」
「ああ、そうでしたね」
忘れもしない。忘れるはずがない。
「正直に言っちゃうとさ。あのときは、完全に悪ふざけだったんだよね」
「そうですか」
今でも目に、脳裏に焼きついている。ニヤつきながら近づいてくる、整った彼の顔。
「でも、キスしたあとのオマエの顔がさ、その、僕にとっては本当に予想外で。今思えば、それからちょっとずつ、オマエのことを意識しだしたのかもしれないなぁ」
「そうなんですか」
なぜ私がそんな顔をしていたのか。きっとこの人には、分かるはずもない。
「あっ、でも今はちゃんと、オマエのことが好きだよ! だから告白もしたわけだし」
先ほどまで律儀に打っていた相槌を、七海はやめた。途端にしん、とリビングが静まり返る。
「……七海?」
返ってくるであろうと思っていた反応が、返ってこなかった。それが意外だったのか、五条のやや頼りなさげな声がする。初めて聞いた声音だった。伏し目がちな五条の瞳が右に左に、七海を避ける形で泳いでいる。
「五条さん」
七海は五条を呼んだ。
「……どうしたの?」
観念したかのように、ようやく五条は顔を上げた。
その蒼い瞳と己の瞳がかち合うやいなや。七海は五条の顔を、自身の両手で挟み込んだ。
「な、七海!?」
五条の慌てた声がする。彼の瞳のなかにある、空と宇宙を混ぜ込んだような煌めきが、より一層の光を放った気がした。
「私、悔しかったんです」
ぐっと顔を近づける。
「あのとき、アナタにキスをされたことが」
己の鼻先で、すっと通った五条の鼻筋をなぞる。
「私のことを好きでもなんでもないくせに、軽い気持ちで口づけられたことが」
五条は一言も発さない。ただでさえ大きなその目玉を、もうこぼれ落ちてしまうのではないかというほどに見開いて、立派な体躯をびたりと硬直させている。
「きっと、今のいままで。アナタは微塵も気がついていなかったのでしょうね」
ともすれば互いの唇が触れ合ってしまいそうな距離で、七海は自身の思いをぶちまける。
「どれほど長いあいだ」
親指で、五条の頬をなぞる。
すっかり赤く染まった頬の表面に、なおもうっすらと見えている赤い線。それを下から上に向かって、幾度となく、ゆっくりとなぞり上げる。
「私が、アナタに恋焦がれていたのかを」
二度目は私から。不本意なものなどではなく、自分の意思で。
「な、ななみ」
「黙ってください」
なおもなにかを言い募ろうとするその唇を、七海は噛みつくようにして塞いでやった。