百剣 三 妖しく絢爛な極楽坊は、いつも謝憐を歓迎する空気を纏っている。
ただし、今日はほんのすこし、本当にすこしだけ、招かれざる客の思いで謝憐はその門をくぐった。
もう勝手知ったる極楽坊の広間に足を踏み入れると、謝憐は広間の中央、大理石の椅子にゆったりと腰掛ける花城の姿を見つける。真っ直ぐ謝憐を射抜く隻眼の眼差しは変わらない。しかしいつもその下で、どこか余裕のある雰囲気で弧を描く唇が、今日は固く引き結ばれている。謝憐は自分の予想が外れていないことを素直には喜べない心地になった。
「……哥哥。突然訪ねて来てくれるなんて嬉しいよ」
花城はそう言うが、それもやけにわざとらしく聞こえる。謝憐がここを訪れることは、十中八九、花城の予想通りだろう。
「そんなことを言って。きみのことだ、きっと私が来るとわかっていただろう」
謝憐がそう言いながら花城の目の前まで進むと、花城は謝憐を見上げ、一度は悪戯っぽく微笑んだ。
「あれはきみの仕業だろう?」
しかしその言葉を聞くなり、真っ直ぐな瞳がふと陰ったかと思うと花城は無駄のない所作で謝憐の手を取り跪く。
「あなたが気を悪くしなかったとは思わない。俺のわがままで、あなたを傷つけた。……すみませんでした」
謝憐は正直なところ、どれから話し始めればいいのか悩んでいた。あの劇に関して
、彼に問いたいことはいくつもある。
「……なぜ?」
しばらく悩んで、結局謝憐はまずそれを選んだ。未だ跪いたままの花城に視線を合わせ、ひんやりとした手を握り返す。
「きみはそこまでしてあれを見せたかったのか」
「……申し訳ありません」
俯いて視線を合わせようとしない花城に、謝憐はゆるく首をふった。
「責めているわけじゃない。でも、もしきみが、私の機嫌を損ねるとわかっていて、戯れにそんなことをするとは思えない。……私は自分を買い被りすぎだろうか?」
「いいえ、殿下……」
花城は謝憐の手を持ち上げると、恭しく指先に口づけして、ほんのすこし唇を離しただけで続けた。
「……あなたは、あのことを誰も知らないままでいいと? 俺がなぜ三十五人に挑戦状を送ったのか、わかりますか」
花城の挑戦に応じて失脚したのは三十三人の神官だ。そして、応じなかった二人がいることも周知の事実である。
謝憐が口を開くより先に、花城はかぶりをふった。
「……まあ、俺の個人的な恨みです。あなたが結局のところ、あいつらのことをどう思っているかわからなかったから抛っておいただけ。あなたの交友関係を否定しようとは思わない。けど、俺に言わせてみれば、あいつらは思い知る必要がある」
謝憐はやはりしばらく黙って、言った。
「……知らないままでうまくやれると思っても、いつか破綻するのかも知れない。きっときみが正しいよ」
それから続ける。
「……きみは、なんでも知っているんだな」
「曲がりなりにも城主なので。ここには鬼たちから色々な情報が集まる」
謝憐は花城のひんやりとした手を両手で包むと、花城がしたのと同じように、指先にくちづけた。
「……あの鬼火。あれはきみなんだろう?」
謝憐が真っ直ぐと花城を覗き込めば、彼の腰で厄命がその深紅の瞳をきらりと輝かせ、まばたきをした。
**
風信と慕情が菩薺観を訪れたのは、中秋節から七日ほど経った頃だった。
けたたましい突然の雷鳴に、謝憐は菩薺観に集まっていた子どもたちを「ひどい雨が降る前に」と家に帰した。
その静かな建屋への来訪者に、謝憐はにこりと笑みを浮かべて出迎えた。慕情がうんざりするように表情を歪めたのを見て、それは逆効果だったと彼は悟る。
風信はそれは苦々しい表情で、謝憐の前に戻って来た。
「……まずは先日の非礼を詫びます。すみません」
その項垂れる様はまるで悪戯で主人の怒りを買い、三日三晩家の中に入ることを許されなかった犬のようだ。思わずそう思い立った謝憐は笑いそうになり、すんでのところで慕情の冷たい眼差しが浮かんで自制した。
「……あの時も。あなたがあんな目に遭っていたとも知らずに、俺は……」
慕情の視線がちらりと動く。呼応するように風信も一瞬だけ彼に視線を動かして、すぐに逸らした。
「……どこでなにをしていたのかと怒って、殴った。……言えるはずがない。そうだろう」
風信の声は重苦しく響く。数日前までは、三人揃えば和やかに時間が流れたというのに、薄い玻璃はか細い音を立てて崩れ落ちたようだ。
「……でも」
その声には確かに怒りの色が滲んでいた。
「機会ならあったはずだ! なぜ話してくれなかった⁉︎ それを聞いていたら、俺は、絶対に……」
風信は血走った眼で謝憐を強く見た。
謝憐はそれを見つめ返す。その瞳には静かな炎が灯されている。
「そうだ、言えるわけがない! 殴られたのはずいぶんと痛かった! きみのそういう短絡的なところは本当によくない!」
一瞬その剣幕に圧倒され、すみませんと言いかけた風信の言葉を謝憐の言葉が掻き消す。
「あの時、話してくれなかったのはきみも同じじゃないか、風信」
低く、責め立てるようなその声音。風信は再びそれに怯んだようだった。
「それは……国主もああで、これ以上あなたに問題を持ち込むわけには……!」
「……私だってそうだ! 問題を持ち込んで、きみに、情けない姿を知られたくなかった! きみはずっと私が仙楽太子らしくあることを望んでいたのに、まだ問題ごとを抱えていたなんて……」
「……殿」
「結局のところ」
風信の言葉を遮った謝憐は、ふうと息を吐いて肩を竦めた。
「私たちは話をしなさ過ぎた。若かったし、見栄を張りたかったんだろうな…………慕情、きみもだからな!」
じっと腕を組んでふたりの応酬を眺めていた慕情は、突然に白羽の矢を立てられてわずかに瞠目した。
「いまになれば、きみが離れていったのは、私たちのためもあったと、いつか手を差し伸べてくれるつもりだったとわかる。……それならなぜそうだと言ってくれなかったんだ? きみが離れていってから……いつ風信も私に愛想を尽かして見限るのだろうと、気が気じゃなかった!」
その言葉には風信も眉を跳ねさせた。慕情の奥歯はぎり、と鳴る。
「それは……! あの時のあなたたちが、素直にその言い分を受け入れたとでも? そんなはずはない! こいつは絶対に反対するだろうと思ったし、あなたも……世界の中心のあなたが、私にそれを託したとは思わない! 言っても無駄だと……こいつは絶対にあなたの傍を離れないだろうからと……」
「……それもお前が銅炉山で死にかけなかったら、ずっとわからないままだったな! 何百年も紛らわしい態度をとりやがって!」
風信が慕情に向けて声を荒らげれば、慕情は烈火の眼差しで風信を睨む。
「万が一それを私が打ち明けたとして、言い訳するなと言ったくせに、お前は信じたか⁉︎ 思い込みが激しくて人の話を聞かない、全部お前自身の所為じゃないか! だいたい、論点をすり替えるな!」
風信の拳が僅かに浮いたところで、謝憐はとびきり大きく叫んだ。
「ああもう、揉めるな! なんできみたちはいつまでもそうなんだ⁉︎ 言い争うのはやめだ、もちろん喧嘩もだ! さもなくば道徳教を二百回、それともしりとりするか⁉︎」
「「くそったれ、勘弁してくれ!」」
ふり向いたふたりの怒声が重なると、一拍の後、遂に謝憐は噴き出した。
「は、あはは……」
ふた呼吸、呆気にとられた後、ふたりは指先の力を抜いた。
「謝憐、なにを笑って……」
「殿下! 笑いごとでは……!」
「いやあ、きみたちの喧嘩には敵わないなと思って」
なおも謝憐は腹を抱えながら、返す声には笑みが滲んでいる。目尻の涙を拭い取り、息を整え、今度は優しく落ち着いた笑みを浮かべた。
「ちょっと私も、久しぶりに言い争ってみようかと思ったけど、だめだった」
そうおどけて、呆れ顔のふたりが口を開く前に謝憐は続けた。
「とにかくだ。あの頃、本当になにもかもうまくいかなかった。私ならなんでもできると思っていたのに、どう足掻いても無理だった。……きみたちこそ、あんなことがあったのに、いまでも友人でいてくれてありがとう。だから、いまとなっては本当に、どうでもいいんだ。いま、きみたちがいて、三郎がいて、それでいいじゃないか。そう思うことを、許してくれないだろうか」
ふたりはしばし沈黙し、その間も謝憐は真っ直ぐな視線をふたりに向けていた。その瞳には、かつて仙楽太子と呼ばれていた頃のように、また三度目の飛昇を果たし、数々の任務に取り掛かった時のように、優しくも強い光が輝いている。
「許すだなんて……そんな」
「……なんというか、人聞きの悪い」
そう言いながら風信も慕情も確かに頷いた。それが答えだ。
そしてその言葉に紛れたひとつの名前に、師青玄が彼は大丈夫、と言った意味を想像して彼らは苦笑いする。
「結局、あなたは……」
慕情はため息を吐いた。慕情はそれを知らないが、恋とか愛とかいうものは、八百年の苦痛も不幸も水に流し、いや糧にしてしまうらしい。
「いいです。認めたくはありませんが、でも……」
「……あなたのことに関しては、あの絶境鬼王には敵わないかも知れないな」
ふたりとも呆れ顔で、しかしどこか柔らかく、そう漏らす。
「哥哥、入るよ」
まだすこし高い少年の声がそこに届いた。
返事を待たずに扉を開けたのは、雪のように白い肌、輝く黒髪、紅い衣の少年だ。『小花』『三郎』と呼ばれるその。
「大哥たち、眼が赤いよ? これを貸そうか」
そう言って三郎が風信と慕情に向かって差し出したのは、先程まで床を拭いていたといわんばかりに汚れた手巾だった。
「「いるか!」」
牙を剥き白眼を剥き、ふたりは声を荒らげる。先程までのすこし柔らかな表情は一瞬で散り去り、動物でいうなら毛を逆立てて臨戦体勢といったところか。
「クソッ、殿下! また来ます! ほら慕情行くぞ!」
風信はそう吠えると、ひらりと道を開けた三郎の横を、慕情を連れ立って足早に通り過ぎて出て行った。
最後は嵐のように去って行ったふたりを謝憐はしばらく眺めていた。それから悪戯好きな伴侶に向かって、やれやれといった心地で微笑む。
「きみ、今日は来るって言っていなかったのに」
「なんでも知っているので?」
彼はそう悪戯っぽく笑った。
謝憐はやはり苦笑して、しかしゆっくり瞬きすると、今日のこの日――数百年の仲違いを経てまた共にある友人と、本当の意味で親友になれると疑わないこの瞬間の立役者を見つめた。
「ありがとう、三郎」
柔らかな笑みがそこにあった。