とんでもない人についてきてしまった、という直感は、あながち間違いでもなかったらしい。雨夜の燻るような匂いだけが、ここで唯一現実味を帯びていた。
自らの人生には全く馴染みのない、巨大なマンションのエントランスを潜り抜ける。後家兼光は、水を吸って重くなってしまったジャケットを腕にかけ、そのまま手持ち無沙汰に真っ赤な傘の水滴を払っていた。
「そういえば、名前は?」
男は思い出したようにそう聞いてきた。仕事はどーせホストでしょ。そう投げやりな声が聞こえて苦笑する。間違ってはいないけれど、路頭に迷っていた、名も知らないホストを捨て犬感覚で拾うこの男は、一体どういうつもりなのだろうか。こんな深夜に、見知らぬ男にのこのこついてきた自分が言えたことではないけれど。
「後家兼光。かっこいいでしょ」
「一言余計」
軽く返事をしながら彼は先を行く。その背を見つめつつ、後家もそれに続いた。流れるような所作で推定オートロックの自動ドアを開け、受付にいた女性と何やら二言三言会話をする。こんな深夜でもスタッフが常駐しているなんて、一体家賃はいくらするのだろう。分譲という概念をあまり知らない後家は、勝手に計算してはそっと背筋を凍らせた。
「何ぼーっとしてんの。行くよ、ごっちん」
相談だか交渉だかわからない話し合いは決着したらしい。振り返った男は、後家を手招いてすぐ颯爽と歩き出した。
「ごっちん? それ、ボクのこと?」
「そ。後家だからごっちん」
「ふふ、なにそれ」
独特なセンスのあだ名に、つい瞠目してしまう。角ばった名前だからか、過去の友人たちはやたらとそのまま呼びたがった。あだ名なんて一度も付けてもらったことがなかったのだ。
相手の名前を知る前に、まさか初めての呼び名をもらうとは。さっきから急展開の連続で、息をつく暇もない。平凡より少し下程度だった今までの人生の揺り戻しだとしても、ここまでしなくていいんじゃないのかな。若干ぎこちない足取りで、後家は彼を追った。
エレベーターに乗って、しばらく。階数表示は三十五階でようやく止まった。後家は安心したように、そっと息を吐く。
「最上階に住んでるのかと思った」
「目立ちすぎるっしょ、流石に」
そう言って彼は口の端で笑った。金銭面が理由ではないのか。世界観がまるで違う男に眩暈を覚えながら、それをほんの少し楽しんでしまっている自分がいた。
後家が知っているマンションというものよりも、この場所はやけに部屋数が少ない。一フロアに二部屋程度しか配置されていなくて、一体間取りはどうなっているのか、想像もできなかった。
「ほら、今日からここがおれたちの家ね」
「え、ずっと住んでたわけじゃないんだ」
「んーん、今朝引っ越し終わったばっか」
やっと彼は足を止めた。当然と言えば当然だが、扉の横に表札はない。その視線に気がついたのか、彼は扉を開きながら言う。
「何してんの?」
「あ、いや……キミの名前、聞きそびれたなって」
「え、そういや確かに。忘れてた」
男はうーんと考える素振りを見せてから、ちらとこちらに一瞥を寄越す。まあいいか、なんて呟くのが聞こえて、それから彼は口を開いた。
「姫鶴」
「……それ、本名?」
「さあ? どっちでもいいっしょ」
とりあえず中入りなよ、と彼——姫鶴は後家のワイシャツの裾を引く。つい、手に掛けていたジャケットを取り落としそうになった。中途半端に水滴がついた傘が腕から滑り落ちて、二人のスラックスをささやかに濡らしていた。
玄関はやたらと広くて、一体いくつ靴を持っていたら埋まるのか見当もつかない、巨大なシューズラックが鎮座している。雨傘をきっちりと閉じ、適当な場所に立てかける。どこも白いこの玄関で、その赤はひどく異彩を放っていた。後ろ手に鍵を閉めながら、後家は思い切って男に呼びかける。
「ね、お姫さん? ……なーんて」
「なに、おれのこと? 姫はやめろって」
「じゃ、おつうさん?」
「んー……ま、及第点か」
でも「さん」はいらなーい。そう言う割には満更でもない様子で、彼は廊下を進んでいく。今日引っ越してきたばかりだと言っていたが、その実、家具や必需品なんかはきっちり整えられている。目の前の男からはあまり、いやとても想像できなかった。
「風邪ひきそーだから、流石に服脱ぎな」
開けっぱなしのランドリールームは、やはり整頓されている。カゴはそこ。タオルはあっち。と廊下から指し示しながら、姫鶴はつくりもののような左手で、やや乱暴にリビングの扉を開けていた。だんだんとこの男のちぐはぐな行動にも慣れてきて、後家は逐一返事をしながらもそもそとシャツを脱いでいった。
気休め程度のタオルを羽織り、促されるままにリビングのソファに腰を下ろす。雨水で濡れた長めの髪が肌にくっついて煩わしい。新品のタオルはあまり水を吸ってくれなくて、代わりに防寒には良さそうだった。後家の斜め前、一人掛けソファに座った姫鶴は、何か思案するようにこちらを眺めて、すぐにどこかへ電話を掛ける。これ、部外者が聞いてていいのかな。そう後家がぼんやり考えている間に何らかの相談はついたみたいで、彼はまたじっと視線を送ってきていた。
「で、なんで店追い出されちゃったわけ」
「……掛け、飛ばれたんだよね。しかもエースに」
自分で言っていて情けないとは思うが、恩人相手なので包み隠さず答える。綺麗に整えられた彼の爪の先を眺めていたら、愉快そうな笑い声が聞こえてきた。
「はは、何回目?」
「五回目らしーよ、覚えてないけど」
「やばすぎ、ウケんね」
「ほーんとね。今までギリギリ店が肩代わり? してくれてたんだけど、もう完全に見放されちゃって。職も家もないのに借金だけはたくさんあるってね」
やかましいよ、と言いながら心底可笑しそうに笑う彼を見て、後家はようやく、この人が自分と同じ生き物である実感が湧いてきた。ようやく彼の突飛な提案と、自身の置かれている状況を、飲み込めるようになったのだった。
「おつう」
慣れないはずなのに、その呼び方は存外すとんと口に馴染んだ。
「なーに、ごっちん」
姫鶴は、目を細めて静かに返事をした。その青色は、あのとき見た玻璃とは違って見えて、けれどそれが何だったか、後家には思い出せなかった。
「『拾ってあげる』って、どういう意味?」
「そのまんま。おれが養ってあげる、飛ばれたぶんだっておれが払う」
あ、でも仕事はやってよ。斡旋したげるから。そう、なんでもないことのように言ってのける姫鶴に、またしても眩暈がした。ボクが飛ばれた分って、いくらあると思ってるんだ、しかも仕事まで。揺り戻しにしたってやっぱり大きすぎる! 天を仰いだって手のひらに爪を食い込ませたって、目が醒めることはない。だって、夢ではないのだから。明日起きたらどこかへ売り飛ばされていたって文句は言えないような気がしていた。
こんなに綺麗な、けれど素性の全くわからない、やたらと金持ちの男。告げられた名前だって、おそらく本名ではないのだろう。お互い正気じゃないと思うのに、この男の射抜くような青が焼き付いて離れない。後家と、同じなのに違う、青が。逡巡の後に、後家はかろうじて言葉を絞り出す。
「……なんで、ボクなの?」
姫鶴の答えは、単純明快だった。
「気に入ったから」
今度こそ強すぎる眩暈に逆らえない。三度目の正直ってやつかな、なんてどうでもいいことを考えながら、後家兼光は意識を飛ばすのだった。