駆け落ちif 2-1 深い深い森の中、道なき道を歩く。
見上げれば、生い茂る葉を透かして届く光。樹々は鮮やかに秋めいて、着物に落ちる影も暖色に染まって見えた。
枯葉を踏みしめる音、時折遠くで聞こえる小鳥のさえずり。静かな森の奥へ響いては、さらにその奥へと吸い込まれていった。
いつもの木陰に身を隠し、弓に矢をつがえる。
今日は驚くほど左腕の調子が良い。狩に出て正解だった。示し合わせたかのように、渡りを終えた鴨が湖畔で戯れている。
湖に打ち込むのはまずい。離れた一羽に狙いを定める。
力一杯右腕を引く。弦はギリギリと絞られ耳元で鳴いている。左腕に鈍痛が走り掌にジワリと汗が滲んだ。狙いを研ぎ澄ます。
右手を僅かに開く。
矢羽が空気を切り裂いた。
獲物が最後の声を上げると湖畔の鴨が一斉に舞い上がり、
羽音は波紋と重なって湖面にこだまする——。
ややしばらくして、再び森は静けさに包まれた。
木陰から獲物に歩み寄り、刺さった矢を引き抜く。心で祈りながら獲物を腰の袋へ収めた。と、すぐそばの木に絡んでいた「根」がシュルルと動く。どうやらフシが獲物の痛みに反応したらしい。
「フシ……、大丈夫。僕じゃない。この鳥ですよ」
その根に触れると、スルリと音もなく指に絡みつく。フシの指に触れるように優しく撫でると、クルクルと悪戯に巻き付いた。
根を離そうとした時、後ろの茂みがガサリと動いた。すぐさま振り返る。同時に小さな塊が膝めがけて突進してきた。
「わっ⁉︎」
「父様!」
小さな塊は僕の足にガシリとしがみつき、ぱっちり真っ直ぐ僕を見上げた。歯を見せてイシシ、と悪戯に笑っている。
「トワ‼︎ どうしたんだ!」
「帰ってこないから! 迎えにきた!」
僕にたどり着いたことが相当嬉しかったのだろうか、満面の笑顔で明るく叫ぶトワ。森の明るい日差しが落ちると、なお一層笑顔は眩しく煌めいた。
娘のトワはもう五歳になる。柔らかさと意志の強さを秘めた瞳がフシそっくりで、たまらなく可愛い。本当に眼の中に入れても、全く痛くないだろう。
最近は森の中を一人で駆け回るようになった。親バカと言われるかもしれないが、僕に似て運動神経も良い。何の修練をしなくても、既に身体の使い方が分かっている。
小さなトワを赤ん坊のように両手で抱き上げ、思いっきり頬擦りする。トワはこれが大嫌いだけど、僕は大好きだ。
「トワ〜〜! 可愛い可愛い〜〜ありがとう〜〜!」
「やめて! もうトワは赤ちゃんじゃない!」
「ん? そう? それは寂しいな……。あれ、母様は一緒じゃないの?」
イヤ〜〜と、迷惑そうに両腕を突っ張り僕の顔を遠ざけるトワ。ベタベタと構われるのが嫌いなところもフシそっくりだな……。
フシは心配症だから絶えずトワの居所を気にしている。きっと目を離した隙に外に飛び出したのだろう。フシが慌ててトワを探し回る姿が頭に浮かんだ。
「母様はまた心がどこかに行っちゃってる。話しかけてもダメだ、だからトワは一人で来た」
「ダメじゃないか、一人でこんな所まで来て。よく分かったね?」
「トワには分かる。父様のいる所なんて! あ、母様!」
トワがそう叫んだ瞬間、先程と同じく草むらがガサガサと動いて、今度は血相を変えたフシが飛び出してきた。エプロン姿で手には鍋をかき混ぜるヘラを持っている。肩で荒く息をしながら、キッと厳しい目線をトワに投げつけた。
「トワ! ここにいたのか! ダメじゃないか一人で! あ、カハク!」
「フシ、また練習ですか? トワは大丈夫——。ほら、母様がきたよ」
地面に降ろすと、トワは僕の手を放り投げフシの方へ走り出した。フシも必死にトワの元へ駆け寄る。
「母様!」
「ごめんよ、おれは悪いママだな。良かった何にもなくて」
フシは膝から崩れ落ちると、トワをぎゅうぎゅうに抱き締めた。トワは逃げ出そうとしてもがくが、フシの「抱き締め力」はなかなかに強い。僕とフシで事あるごとにぎゅうぎゅうとするから、トワはうんざりしているのだろう。
「トワ、父様のいるところわかるから大丈夫。母様、心配しすぎなんだ」
「だって、何かあったら困るじゃないか。帰れなくなったらどうするんだ! もう心配させないでくれ」
「父様! 母様に言って! 大丈夫だって!」
「はは、トワは母様に似てたくましいな〜。でも森を一人で歩くのは、もう少し大人になったらだね。さぁ帰りましょう、ほら夕飯も」
先程の獲物を得意げに掲げると、フシは辟易した顔で目を逸らした。もう既に獲物から痛みは伝わらないはずだが、それでも辛いらしい。
「う……、見ると辛いな……。お、お前、大丈夫なのか腕」
「えぇ、今日は悪くない。だから、たまにはトワに栄養のあるものをと思って。フシは狩の獲物を食べるの辛いだろうけど」
「いや、いいんだ。あんまり無理するな。労れよ——」
「さあ〜トワ〜帰るよ〜! 父様が肩車してあげよう〜〜! んー可愛いなぁあ!」
「ヤーーー‼︎」
「カハク、聞いてるのか? まったく……。子煩悩だとは思わなかったな」
「フシ、どうぞ。もう大丈夫。あとは調理するだけです」
「あぁ」
捌いた獲物を手渡すと、フシはそれを大事そうにまな板に乗せた。既に出汁と野菜の入った鍋が、釜戸の上でグツグツと激しく沸いている。今日は鴨鍋かな。
優しい香りが煙と一緒に流れてきて、お腹が鳴りそうになった。いつもより動いた日は気持ち良くお腹が空く。良い気分だな。
「どう? 僕の腕、落ちてないでしょう?」
「あぁ……。弓を扱えるなら、左腕の調子もいいってことだな」
「せっかくフシに教わったから練習しないと。薬さえ飲んでおけば大丈夫、大したことないですよ」
「カハク……、無理はするな。少しでも長く生きるんだろ? トワのために」
「ええ、あなたのためにも」
「うん……、新しく薬は出してあるから。忘れるな。ちょっ、切ってる時はやめろっ」
肉を細切れにするフシは両手が塞がっているから、こういう時こそ親しまないと。ぎゅっと背中を抱き締めると、いつものフシの匂いがする。料理の暖かな香りと混じり合い、もっと満たされた気分になれた。
僕がフシの髪に埋もれて背中で浸っている間、フシはフフと笑ってそのまま包丁を動かしていた。
「美味しい! 母さまのご飯は最高だ!」
「そっかぁトワ〜良かったね〜。たくさん食べるんだよ。母様みたいに好き嫌いしたらダメだよ」
「おいっ、好き嫌いなんかしてない。苦手なだけだ。見ろー! 食べてるじゃないかっ」
フシはむむっと眉間に皺を寄せて、自分のパンパンの頬を指差した。目一杯口に頬張りながら話す癖はいまだに直らないが、そのままでもフシらしくて良いかなと、今では思っている。
そのせいか、トワも目一杯口にご飯を頬張りながら話すのが癖になった。普通の親なら小言を言うべきなんだろうが、二人並んで同じ顔をするのが可愛くて、ついついそのままにしている。
「トワ、大きくなったら母様みたいに綺麗になる」
「うんうん、そうだね。大きくなったらきっと母様みたいになるね」
「ふふ、なんだそれ」
今度はニヤリと口の端で、照れ隠しみたいに笑っている。フシはトワが自分に似たのが嬉しいらしいが、それらしい話をするといつもこの笑いだ。
「絶対美人になりますよ。フシにそっくりだし。お嫁になんて行かないで欲しいな。絶対イヤです」
「まだ先だろ、そんなの」
「あっっと言う間に大きくなるんですよ! こないだまでこーんな小さかったのに……。あ〜トワ〜、絶対お嫁になんて行かないで〜」
「父様どうしたんだ? 今日は元気だな。オヨメってなんだ? ウマイのか?」
「ふふ、そうだな。トワ、オヨメさんは食べ物じゃないぞ?」
夕飯の後、トワに絵本を読んであげるのは僕の担当。森で絵本は手に入らないしフシもさすがに覚えていなかったから、どれも僕の手作りだ。
簡単な絵と簡単な文。物語は適当でフシは面白くないと文句を言うけど、トワはとても気に入ってくれている。ここにいると世界のことが分からないから、様々な国の様々な人の所へトワが旅をする話を考えた。
「父様。トワは父様の生まれた国のお話が聞きたい」
「あーうん、考えておくね。そうだな、ヤノメか……」
絵本を飲み終わるとフシがトワを寝かしつける。以前はむずがってなかなか寝付かなかったが、よく遊んだ日ならストンと寝るようになってフシの愚痴も減った。
「トワは寝た? お疲れ様」
寝床で本を読んでいると、トワの部屋からため息混じりのフシが出てきた。トワが一人で家を抜け出したことをまだ気にしているのだろう。フシは僕の隣にドサっと腰を落とすと、再びため息をつき直す。
「今日はどうしたんです? トワから目を離すなんて珍しい」
「あぁ、また意識を広げる練習してて。そしたら痛みを感じたから深く集中したんだ。多分その時かな。ごめん」
フシは済まなそうに目を伏せた。過去の辛い経験からだろうか。フシは子供から目を離すのをやたら怖がる。そのままいなくなってしまう気がするらしい。
この森に来てから七回冬を越した。その間にもフシは自分の能力を伸ばそうと試行錯誤を繰り返してきた。この場所で二人でトワを守るためには、僕もフシも最大限に努力する必要があった。「敵」はいつ襲ってくるか分からないからだ。
ただ幸いなことに、ここに来てからノッカーも賞金稼ぎも反フシ派の連中も、誰一人現れなかった。あまりにも平和で静かな日常。自分が逃避行していたことを忘れてしまいそうだった。
僕の左腕には未だに痛みがある。くわえて体の中に残った「穴」のせいか、少し無理をしただけで堪えるようになった。フシの痛み止めがないと以前のように動くのは難しい。
直接口には出さないが、フシが力を伸ばそうと努力を重ねるのは、僕のハンデを補う為でもあるのだろう。それと、フシ曰く「黒いのが黙っていない」から。
「そうか、僕が狩に出たせいですね」
身を起こしてフシの隣に座り直す。さっきよりは幾分ましになっていたが、フシの表情には疲れと憂いが滲み出ている。ランプの仄かな灯りに照らされると顔の陰影がハッキリとして、自分の想像の中のフシよりずっと大人に見えた。
「お前の居所がわかるくらいにはなったんだ。かなり上達したよ。この森のあちこちに根を張っておけば、もし敵が来てもすぐに分かる」
「……何も言わないけど、続ければ辛いんでしょう?」
そっとフシの手を取って自分の頬へ寄せる。ひんやりと冷たい。その右手からはロープが垂れ下がり床板の中へと続いていた。
「いや、守らなくちゃならないだろ。それに、どこにいてもトワを見失わないでいられる。安心するんだ」
「フシは少し過保護じゃない? あれぐらいの歳の子は活発で普通ですよ?」
自分の体温で温まった手をフシに返すと、同じように頬に当てたあとゆっくりと膝に置いた。
僕もフシと同じくらいトワのことを心配している。でも、フシになんて言ってあげれば気が楽になるのか、そればかり考えていた。
「……あの子の目を見てたら、おれの一部が人として生きてる気がするんだ。ものすごく大事なんだ……。失いたくない」
フシは膝の上で両手を握った。そして、その拳をゆっくり解くと自分を抱きしめるように腕を組んだ。トワの温もりを思い出しているのだろうか。
トワは緋色と金色の混ざり合う不思議な目をしていた。トワが産まれてその瞳を見た時、驚きと感動で僕は思わずアッと声が出て涙が止まらなかった。
フシはトワの瞳を幸せそうに、時に悲しそうに見つめる。そして力一杯抱き締める。トワが腕の中にいる幸福と、もしかしたら自分と同じ運命を抱えているかもしれないという憂いが、いつもフシの心に混在しているのだろう。
「フシ、トワは僕にとっても宝物です。あなたがくれた」
「うん……」
辛そうに目を細め項垂れるフシを優しく抱き寄せる。以前のように「あなたを守ります」と強く言えなくなってしまったけれど、それでも、フシの悲しみを受け止め得るのは僕だけなのだ。
僕はフシの背中を引き寄せ、トントンと子供をあやす様に撫でた。
「心配しないで。大丈夫、三人でいれば」
「……」
きつく結んだままの口元にそっと口づけすると、フシも僅かに返してから僕を押し戻した。すぐそういうので慰めるな、と聞こえてきそうにジトリ僕を見据える。そう言われたなら、とめげずに言葉で応戦した。
「フシ、愛してます」
「それ、普段はやめろ」
「ふふ、そうか。じゃあ、いつならいいんですか?」
拗ねた目で睨むフシをおでこがくっつく位覗き込むと、こんな時に真剣に馬鹿な事を言うのが面白かったのか、ふふっと小さく吹き出した。
「あ〜もう、そーゆう事言うなって。あと、すぐちゅっちゅしてテキトーに収めるなっ、もぅ」
口で悪態づいてもニヤリと笑っている。
フシは僕の腕を軽くあしらうと寝床から跳ね降りて、台所に向かってスタスタと歩き出した。そしてシンクの前で洗った皿を布巾で拭ぐってはフフと小さく笑みを溢す。
相変わらずのつれない態度は切ないが、笑顔が出たなら良かった。家事をテキパキこなすフシの背中を眺めながら、居間の椅子に座り込む。
右側の暖炉の薪はパチパチと軽快に音を立て燃えているが、左半身は肌寒い。最近は朝方息が白くなることもある。また雪の季節がやって来るんだな。
「残念だなー。フシは言ってくれないのかなぁ」
「そのうち、今度な」
「え、今度? 約束ですよ? いつですか?」
「あー、娘さんを下さいとか言って、お前みたいのが来たらどうするんだー?」
流石にしつこくしすぎたか。フシは僕の方に振り返ると怪訝に眉をひそめ、僕の聞きたくない嫌味を飛ばしてくる。フシが元気な証拠だが、冗談でも胸が張り裂けそうに痛い……。
「断じて許しません……」
「そーだろ? バカなこと言ってないで早く寝ろっ」
「はい……。う、冷たい……。フシ味が足りない……」
「っふふ、なんだそれ」
「前はもっと言っても怒らなかった」
「そうか? 変わらないぞ」
「……それは、そうかも」
「お前も変わらないな」
「それも、そうですね、はは」
いつものように一足先に布団に入り本を読んでいると、伸びと欠伸をしながらフシがやってくる。上着と靴を脱ぐと、僕の上着と靴の横に並べた。
そしてスルリ僕の腕の間に滑り込み手を握ると、静かに目をつぶった。疲れているのか以前よりストンと眠りに落ちる日が多くなった。フシの体温がもっと心地良く感じられるから、寒くなるのも悪くない。
僕はフシの頬に柔らかく口づけすると、ゆっくり眠りに落ちる。今日も我が家の平和な一日が終わろうとしている。
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ある朝、朝食を終えて薪割りをしようと裏庭へ出たら、トワが声を張り上げ必死に走り寄ってきた。歯ブラシの途中だったのか口にはまだ泡がついていて、上着のポケットには無造作に突っ込まれたワンちゃんの足が見えた。
「父様来て! 何か来る!」
「え? 何か?」
トワはフシと同じで「気配」を感じ取れるらしい。僕やフシの姿が見えなくても、何処にいるのか分かっていて、この広い森の中でも見失うことがない。
誕生日を迎えるにつれ強くなっていく「力」。それがどんなものか、僕に把握する術はない。フシを不安にさせたくないし、今はトワの個性なのだと割り切ることにしていた。
頭を撫でると、トワは僕の腕を抱きピタリとくっつく。
「母様は?」
「トワが気づいて母様に知らせたら、母様はまたどっかへいったままだ。もう湖のそばまで来てる!」
フシも気づいたとなれば、より真実味が増す。誰だ、いや、人とは限らないか……。でもそれなら二人とも「異変」とは感じないだろう。
こんな何もない深い森の中へ彷徨いこむ人間など、今までいなかった。
背中に冷たい汗が伝うような緊張を久しぶりに感じている。神経が昂ると同時にチクチクとした痛みが全身に走った。「穴」のせいだろう。それにこの左腕で戦えるだろうか……。
「トワ、絶対に外に出てはいけないよ。母様のそばにいるんだ」
「父様! どこ行くんだ——」
トワを裏口から家に入れると、扉をしっかり閉め納屋まで走った。薙刀を握りしめると、素振りの時とは違う「昔」の感覚が呼び覚まされる。
鞘を抜いて一振り、二振り。その感覚を腕に取り戻すように振りさばき、次に刃を確かめる。そして、再び鞘に収めると南の湖まで駆け出した。