♯1 refraine
身体が重い。
思ったよりも出血が多かった。
ボンヤリする、思考が上手くできない。
それでも、今は前に進まないとダメだ。
あの手紙は、フシの元に届いただろうか。
僕はやっぱり、僕でしかなかった。
無理して大人のフリをしていても、
泣いてばかりで何もできない、僕のままだ。
採石場を離れ森に入る。とにかく今は、守護団の待機キャンプまで辿り着くことだけを考えろ。前に進むことだけを考えろ……。
ふと、もうほとんど見えない左目から涙が溢れた。その瞬間もう、足が前に出なくなった。僕は道の真ん中にどさっと転がり、空を仰いだ。
まさか……、まさか自分が一番の害悪だったとは……。
出来事を心の中で反芻する。しかしそれを簡単に認めることができないほど、僕の心は打ちひしがれ疲れ切っていた。最後に見たフシのあの顔が浮かび上がる。ただただ涙をながして土を濡らした。
今の僕にできることは、僕にしかできないことは……、フシに全てを返さないと……。
少し前から考えていたことだ。けれど、それができなかった。僕は彼と……、彼女と同じ場所にいたかった。もっと早くにそうすべきだったのかもしれない。あの手紙を用意しておいて良かった。
もう、ここまでだ。もう……、やることは決まっている。
「黒いお方……、どこにいますか?」
僕は寝転んだまま、何もない空に向かって言葉を投げかけた。しかし、声は届いていたようで、音もなく黒い影が僕の頭上にあらわれる。
「あぁ、あなたが……。私はあなたに会いたいとは思ってませんでしたが……。致し方ない事情があります。あなたにしか頼めないことだ」
黒尽くめの男は瞬きもせず僕をじっと見下ろしている。
……では、思考で話しなさい。そのものに気づかれることはない……。
頭の中に声が響く。僕は僕の考えを頭に思い浮かべ彼に伝えた。
……それで良いのだな……承知した……。
男は音もなくどこかへ消え去った。
これでいい。あとは考えを実行に移すだけだ……。
僕は重い身体をなんとか引き上げて、また歩き始めた。
万一の時に備えてレンリル郊外に守護団の待機キャンプを設営していた。やっとの思いでキャンプに戻ると待機していた皆が駆け寄ってくる。
「カハク様! な、何ということだ! 一体何が——」
「大丈夫、心配いりません……、今から言うものを用意して下さい、なるたけ急いで欲しい……」
皆が差し伸べる手を軽く制すると、僕は手短に指示を出した。そして、備蓄物資の保管場所まで急ぐ。
物資保管用のテントに入り、探し当てたのは小さな薬瓶……。ブスレンゲから抽出した有毒成分を濃縮して、効果発現時間を適せんいじったもの。馬も一瞬で殺せる猛毒だ。ガラス針に仕込み、慎重に懐に仕舞い込んだ。
あとは、皆に言って集めさせた袋一杯の火薬。これだけあれば充分だろう。
薙刀はだいぶ刃こぼれしていたが、研ぎ直す時間はない。こびりつく血塊だけを拭き取り鞘に収めた。
イルサリタまでは早馬で十日ほど。簡単な食料と水の入った水筒も荷物に入れた。辿り着くまで死ぬわけにはいかない。
そうだ、このままでは人目につくな……。
備蓄テントから適当な布を探し出すと頭から被って目隠しにした。そういえばフシも同じように白いマントを羽織っていた。正体を隠すためだ。僕が至らないから、フシに不自由をさせてしまったんだ。
これで……、概ね準備は整った。
最後にキャンプに待機している皆に集合をかけた。僕のただならぬ気配を感じ取っていたのだろうか、集合をかけるや否や、素早い足取りできっちりと整列する。そんな皆を見たら、誇らしさと同時に申し訳ない気持ちで一杯になり、胸が押しつぶされそうだった。
「皆、これまでよく尽くしてくれた。これからも守護団の守りはあなた達に任せる。私は……、私にはやらなければならないことがある。キャンプは一度解散する、このままヤノメへ向かってくれ。その後のことは書面に詳細を記した。それを、無事に守護団の本部まで届けて欲しい……」
皆は黙っている。物音ひとつしない。顔はよく見えないが、俯いて僕の話に耳を凝らしているのがわかる。
「以上解散だ! 私はイルサリタへ向かう!」
「カハク様……」
どこからか僕の名を呼ぶ声が聞こえる。僕はそれに応えることはなかった。皆もそれ以上何も言わなかった。
その場を離れると振り返ることなく、用意していた馬に飛び乗りキャンプを後にした。
「どうか皆、無事で……。皆の顔は、忘れない……」
僕は夢中で馬を走らせた。イルサリタ郊外に入るまでほとんど休まず、一日中進み続けた。やがて小高い開けた場所に出ると、森の向こうに不自然に立ち上る黒煙が見てとれた。あれだ、あそこに製鉄所がある。あそこに、フシを苦しめたあの鉄釜がある。
「さ、お前も帰るんだ。 今までありがとう……」
製鉄所の側で馬を降りると手綱を外した。僕が遠征に出るずっと前から可愛がっていた友達だ。運が良ければヤノメまで辿り着くかもしれない。馬は僕に少し頬擦りし ぶるると鳴くと、森の中へ消えていった。
ふと地面を見るとシュル……、と小さく動くものがあった。地面から這い出る「根」……。
「フシ……?」
手を伸ばすと地面から伸びた根は、シュルと僕の手に触れた。
「フシ 、来てくれたんですか……?」
「ああ?」と悪態づくフシの顔が目の前に浮かんで、思わずふふっと笑ってしまった。そして、たまらなく愛しい気持ちになった。
この場所まで根を伸ばしているとなると、まだ彼の闘いは続いているということか。ここまでの範囲となれば、恐らく意識もないだろう……。フシは無意識に僕を探して訪ねて来てくれたのだろうか。それなら、嬉しいな……。
でも、同時にフシに知らせるつもりはなかったことを思い出して、胸が疼いた。フシはきっとこんな事は望んでいないだろうから……。
後戻りはできない、フシに全てを返すまでは、止めることはできない。
「少し痛みますが、すみません……」
根から生えた小枝の葉を一枚頂戴する。プチリと小さな音がして、根っこのフシは不思議そうにユラユラと揺れた。
「これで一緒です……。さぁ、行きますよ」
薙刀の鞘を捨てた。持ってきた火薬を身体にしっかりと括りつける 。左手はおとなしい……。勘づいていないようだ。
フシが生きているという情報は、ベネット教の連中や反フシ派に既に知られているだろう。恐らく奴は再度フシを捕獲し、溶鉱炉に沈めようと画策するに違いない。製鉄所に侵入すると予想通り溶鉱炉の視察に来ていたサイリーラの姿があった。
「お前は……⁉︎」
僕の姿を見ると奴は狼狽したが、フシを捕獲できるという言葉に素直に指示に従った。余程フシを捕らえたいらしい。無理もない、がそうさせるわけにはいかない。
奴にはできるだけ多くの鉄を集め、火を強めるように言った。強ければ強いほどいい……。溶鉱炉の燃え盛る炎は、薄暗い製鉄所の中を赤々と照らし出す。
準備は整った。奴も、うまい具合にここにいる……。右手に握っていた針に力を入れると、パリンと小さく割れる音がした。ジワリと生温い感触が右手に広がる。
その瞬間、突然後ろから突き飛ばされた。
……あ、落ちる——。
しかし、今はそれに抗う気にはなれない。これで、これでいい……。フシと同じ痛みを味わうことが今の僕にはふさわしい。
——ガクン!
予期せず左手に強い衝撃が走る。見上げると必死に足場を掴んでいる左手が見えた。
「往生際が悪いですね……、この間言ったことを信じた様ですが、残念……。僕に嘘をついたお返しです!」
ヒュッと薙刀のなぐ音が響く。同時に横殴りの衝撃が左手に走った。ほとんど支配されている身体にさほど痛みは伝わらない。
自分の左手を残し僕は宙に舞った。
今からでも逃げ切ろうともがく左手。残念ながら毒が効き始めている。もはや逃げることは叶わない……。
何かが煌めくのが見える。美しい光のカケラ。フシが見ていたフワフワとした光も、こんな風に綺麗だったのだろうか。
あぁ、これは僕の涙だ……。
溶鉱炉の赤い光に照らされ、輝きながらゆっくり、はらはらと落ちていく涙。
やがて遠のく意識……。毒が全身に回ったのだろう。
僕は、僕の一番したかったことはなんだ……。
僕の気持ちを証明したかった。
僕は有用だと、誰もが信じられるように。
今まで誰にも出来なかった、フシとの絆を深めるために。
フシと僕の悲しい因果を終わらせるために。
フシを傷つけるものを許さないために。
フシに全てを捧げるために。
フシに全てを返すために。
僕は……、フシのために生きたのだろうか。
僕のために……、生きていたのだろうか。
フシの望みは、夢は何だったんだろうか。
フシのあどけない笑顔が、ふと目の前に浮かんだ。
フシは僕の名を呼びながら駆け寄る。
幸せにそうに微笑んでいる。
懐の一枚の葉に心を寄せる。
もう唇を動かす事もままならないが、声にならない声で叫んだ。
「フシ……、愛してます……」
次の瞬間、全ては止まっていた。眼下に溶鉱炉へ消える僕が見える。頭上にはそれを追うように落下する奴の姿が見えた。
そうか、僕は……。
思ったより死とはあっけないものだな……。
「今だ、黒の方! 僕を連れて行け! アレが来る!」
既に僕の足元には黒い影が迫ってきている。僕の魂は、恐らく僕だけのものではない。魂が肉体から解き放たれた時、また元の持ち主へ還っていくのだろう。
しかし、僕はこの呪われた宿業を繰り返すわけにはいかない。
不吉な影は僕を絡めとろうと這い上がる。いつか夢に見たあの生暖かい感覚がザワザワと音を立て這い上がってくる。
……去ってはいけません……まだ、まだです……彼のココロを……アイを手に入れるまで……。
影は僕を捕らえようと無数の手を伸ばす。それを必死に振り払い力一杯叫んだ。
「僕はあなたと一緒には行かない! あなたの一部にはならない——」
黒尽くめの男が額に手をかざすとカハクは跡形もなく消え、不吉な影は虚しく空を舞った。