休前日のとある牛丼屋にて 金曜の夕方は誰も彼もが浮かれた表情をしているようにみえる。繁華街の人混みをかき分けてたどり着いたいつもの場所に、これまたいつもの仏頂面を見つける。ハンジはその変わらぬ姿にどこか安堵を覚えながら声をかけた。
「お待たせ。どこ飲み行く?」
「いや、今日は酒はナシだ。……保険を紹介して欲しい」
思ってもみないリヴァイの言葉にハンジは目をぱちくりとしばたかせた。
「ごちそうさまでした」
食べ終えたどんぶりをトレイの上に置いたハンジの隣でリヴァイは牛丼をちまちまと口に運ぶ。リヴァイのどんぶりに2割ほど残った具とご飯の比率はちょうど半々、毎度のことながら本当に几帳面だなと内心で笑う。
「なんだ?」
「なんでもない」
大通りから少し外れたビジネス街にある牛丼屋は時間帯もあるのだろうが客もまばらにしか居ない。ゆっくりできるカウンターの端の席はリヴァイと来る時の定番となっていた。
『無理に契約を迫るつもりはないから、説明だけさせてくれない?』
今と全く同じ席で牛丼を食べ終えたリヴァイの前にパンフレットを広げたのは、ハンジが今の会社に勤め始めてすぐの頃だったと思う。
実際のところノルマはきつく、リヴァイなら話を聞いたら加入してくれるかもと淡い期待があったのは否定しない。
結果、今は必要性を感じないとすげなく断られた。もちろん当初の約束通りに引き下がり、それ以降ハンジはリヴァイに保険商品の話はしたことがない。
「愚痴りすぎたかなぁ……」
「何言ってんだ」
ハンジの独り言を聞き留めて、リヴァイが突っ込んだ。
「いやあ、気を使ってくれてるのかなって。ほら最近上手くいってないことばっかり話してるから。そういうのだったら全然いいからね?友情と引き換えに契約件数を増やすようなことはしたくないからさ」
リヴァイが舌打ちをする。ハンジは首を傾げる。
「そういう理由ではなかった?」
「……あの頃はまだ若かったが、まあ俺も30を過ぎた。将来について考えたとき保険への加入も検討する必要があると思った」
「なるほどね。うんうん、そういう人も多いよ」
「お前言ってただろう、若いうちに入った方が得だって」
「年とったり病気になったりすると、掛け金が上がったりそもそも入れなくなったりするからね。リヴァイは既往症もなかったよね?まだ30代だから色々紹介できるよ!」
ハンジは鞄を開けて中からパンフレットの入ったクリアファイルを取り出した。万が一もあるかもしれないと入れっぱなしにしていたのが役に立った。
「……というわけ。このくらいかな」
内容をざっと説明してパンフレットをリヴァイに渡す。リヴァイは手元にじっと目を落としプランを見比べている。真剣な表情だ。
「医療保険と……あとは死亡保険も入る?」
「ああ、そうだな」
友人とするには縁起でもない話ではあるが、この仕事をする以上避けては通れない話だ。
「死亡保険って言えばさぁ、独身のうちは親を受取人にして、結婚したとき奥さんに変えるの忘れる人が居るんだよねぇ。こないだもそれで揉めててさあ。まあリヴァイは大丈夫だろうけど」
つい先日、別の部署の同期から愚痴られたあるあるネタだ。たとえ受け取ったご両親が妻子にそのままお金を戻そうとしても、贈与税の対象になってしまうためなかなかに面倒くさい。
「……つまり最初から嫁さんにしておけば手間がいらねえわけか」
どくりとハンジの心臓が鳴る。
「そうだけど。え?ちょっと待って?……相手がいるの?」
リヴァイに結婚相手?いやいや、彼女がいるって話だって聞いたことがない。自分に言ってないだけで実際はずっといたとか? こんなによく会って話しているっていうのに。
すっと目を細めてハンジのほうを見たリヴァイが口を開いた。
「いや、今はいない」
『今はいない』の言葉を3度ほど胸で反芻する。そしてほっと胸を撫で下ろす。……ほっとした?なんで?
湧き上がる疑問を誤魔化すようにハンジは早口で説明を重ねた。
「受取人は基本的には2親等以内の親族じゃないとダメなんだ。だから受取人に指定したいんならまずは籍を入れないとね」
『リヴァイが籍をいれる』
ちくり。自分で言った言葉が刺さる。
それでわかってしまった。気づいてしまった。
今はいないって言っていたけど、いつか。リヴァイの書類に名前を書かれる女性がいる。彼がもし命尽きた時に全てを遺して守りたいと思う女性が。
「これ申込書類。気が変わった時のために一応全種類渡しとくね。書き方のサンプルも載ってるから大丈夫だと思うけど、何かわからないことあったらいつでも連絡して」
鞄から出したもうひとつのクリアファイルをテーブルに滑らせた。極めて事務的な声を出せたと思った、のに。
「なんでそんな顔するんだ」
「……」
ハンジは顔を背けてコップのお茶を飲み干した。水みたいな薄い麦茶がからからの喉を通る。
「ごめん、帰る」
鞄を肩に掛けて立ち上がり、早足でハンジは店の外に向かう。ガタと椅子の揺れる音がして、リヴァイが後ろから追いかけてくる気配がした。
「待て」
店を出たところで案の定追いつかれて腕を掴まれる。
「俺が何かしたか」
牛丼屋の店頭で何やら揉めてる男女は珍しかろう。見ず知らずのサラリーマンが野次馬な視線をよこしながら通り過ぎて行く。
「ごめん、寂しくなっただけ。リヴァイもいつか結婚しちゃうのかと。そしたらこんな風には会えなくなるし」
背が高いのはこういう時、損だ。俯いても表情がバレバレだから。ハンジはすんと鼻を鳴らす。
リヴァイがわざとらしく大きなため息をついた。
「……寂しいのが嫌なら名前を書け」
「名前?は?どこに?」
「これだ」
トンとリヴァイが指差すのは、さっき渡した申込書類。
「保険に入れと?」
「……なんで肝心なところはポンコツなんだ。受取人のほうだ」
「うけとりにん?……受取人!?」
「この書類でもいいが。いや、先に籍を入れないといけないんだったな。じゃあそっちだ。最近は雑誌にもついてるだろ変な漫画とコラボした婚姻届とか」
「待ってよ。つまり、私の理解が間違っていなければリヴァイは、けっ、結婚しようと言ってる?」
「二言目には友情だなんだって言ってたのはそっちだけだ。充分待ってやっただろ。それこそ友情だ」
「……ちゃんと言って」
「『結婚するぞ』」
付き合ってもいなければ、そんな雰囲気になったことさえない。それが一足飛びでいきなりプロポーズ。お互い会社帰りで色気のないスーツ、しかも牛丼チェーン店の前で。
「返事は」
リヴァイがパンフレットと書類の入ったクリアファイルを剥き出しのまま持っているのが滑稽でつい笑いそうになる。
「なにニヤニヤしてやがる」
「別に……ねぇ、またお店に戻るわけにはいかないよね?」
「そりゃな」
「何を書くにしてもテーブルは必要だろ?とりあえずカフェでも行く?」
袖口をまくって腕時計に目を落とす。カフェはそろそろどこもラストオーダーだろうか。
「……数駅向こうにはなるが、美味い紅茶を出すところならある」
ぽつり、リヴァイが言った。ハンジは小首を傾げしばし、考える。
「……まさかあなたの家とか言わないよね」
「察しがよくて助かる」
リヴァイが飄々と言ってのける。ハンジはおかしくなって吹き出した。
「ふふ。オッケー。案内してよ」
リヴァイもハンジを見てホッとしたように口元で笑って、手にしたクリアファイルを鞄にしまった。リヴァイの腕が伸び、ハンジの手を取る。少しだけ湿っている手のひらはお互い様かな。ハンジは足早に夜道を進むリヴァイに遅れないようついていく。気持ちばかりのローヒールがこつこつと小さな音を立てる。
週明けの朝礼では支部長になってからは久しくしていなかった報告をすることになるだろう。
新規契約一件です。
……それともうひとつ。
結婚します。
って。