ばらの花【完全版】『ねぇ。みんなが安心して暮らせる世界になったら、2人で旅に出ようよ』
—ああ、またあの夢を見ている…夢の中でも俺は戦っていて、横にいる栗毛の女がそう囁く。
東洋人は輪廻転生という思想があるらしいが、俺には全く縁がない。
そしてもし転生したのだとしても、安心して暮らせる世界なんて、この世にあるのだろうか。
—俺は戦っている。今も。—
【L side】
「今夜進駐軍の幹部が店にやってくる。ゲシュタポの幹部に付いている栗毛の女兵士が"金のライオン"のメッセンジャーだ。上手く接触を図ってくれ」
「…了解だ」
パリは4年前からドイツ軍の支配下にあるが、レジスタンスの火種はここに来てスピードを上げて飛び火している。
そこにドイツ軍から情報を提供するという密通者"金のライオン"なる者からのコンタクトがあったと言う。
だがしかし、本当に信じていいのだろうか?女兵士はゲシュタポ(秘密警察)所属だという。一つ間違えば俺たちの組織は壊滅だ。
占領下でもパリのキャバレーは華やかだ。もっとも客はドイツ軍のお偉い方ばかりになってしまったが。
「ようこそ。どうぞこちらに」
進駐軍幹部御一行の中に、はたして確かにブラウンの髪を一つ結びにした背の高いドイツ女はいた。
禁欲的に着込んだ軍服と対照的にベタベタと腰に回された幹部の手。ナチス軍にはよくあることだ。おそらく女も幹部の愛人なのだろう。
ドイツ語が多少得意な踊り子達を席に付けて様子を伺う。
上機嫌でショーを見ながら杯を重ねるドイツ兵の中で、彼女だけは異質に感じた。エスカレートしていく酒宴の中で幹部の性的嫌がらせに心底うんざりしているようだ。愛人ではないのだろうか?
ホステスとフランス語で話しているところからすると通訳なのかもしれない。
「マドモアゼル 酔いすぎでしたらノンアルコールを何かお持ちしましょうか?」
さりげなくドリンクオーダーを兼ねてフランス語で話しかける。
「ありがとう。少し酔いを覚ましたいのでレストルームを案内してくれますか?」
紅茶のような明るい赤茶の瞳が合った時、奇妙な感覚に陥った。
この瞳は見たことがあるような。
レストルームに向かう途中に素早くチップと一緒にメモを渡された。
「ここに待ち合わせ場所が書いてある。明日10時に。今夜はダメだ。あの踊り子を連れ帰って私と3人で楽しむつもりらしい。醜悪だな」
早口のフランス語は母国語のように流暢で辛辣な色を乗せていた。
◆
—ああ、またあの夢を見ている…夢の中でも私は戦っているけど、まるで鳥のように自由に空を飛んでいるんだ。
東洋には輪廻転生という思想があるらしいと生き別れた母が言ってたっけ。
でももし転生したのだとしても、安心して暮らせる世界なんて、この世にあるのだろうか。
—私は戦っている。今も。地べたを這って—
【H side】
パリの早春は寒いのに、この部屋は生温く腐敗した空気に満ち溢れていた。
アイツは持ち帰った踊り子とまだベッドの中だ。あれだけ痴態をさらして遊び尽くしたのだから、しばらくは起きないだろう。
いつもの兵服でなく、目立たない私服に慌しく着替える。身体の節々が痛むが、気にしてられない。
この好機を逃したら次はないから。
あのキャバレーのマネージャー、"銀の狼"は来てくれるだろうか。
指定した場所は広場の朝市。
人垣に紛れて必ず接触するのが私のミッション。
「マドモワゼル、お花はどう?」
12.3歳位の花売りの少年が声をかけてくる。
赤いバラを一輪受け取り、素早く男の居場所を教えてもらう。
はたして路地を曲がると、昨夜の小柄な黒髪の男が待っていた。
「—貴方が銀の狼だね」
「…リヴァイだ」
「リヴァイ、時間が無いから手短かに伝える。これがゲシュタポのレジスタンスアジト襲撃のスケジュールだ。彼らに気づかれないように仲間と自由地区へ一旦移動してくれ。
そして、金のライオンからだ。春になればドーバーで連合軍が上陸作戦に入る。連合軍が上陸すれば、パリは解放されるだろう。君達、レジスタンスの勝利は目前だ。だから今は——」
「—お前を信じる根拠は?なぜ祖国を、組織を裏切る?」
その時、急に悲鳴と爆音がした。
空襲!?まさか!!
地面に伏せて気づいた時は分厚い腕と身体が覆いかぶさっていた。
「大丈夫か」
「—ああ…一体?」
「…テロだ。急進派の。ドイツの高官を狙った。ここにいるとマズい。行くぞ!」
腕を掴まれその場から足早に去る。
横目にドイツ軍の車が燃えているのが見えた。
ここで私が見られるわけにはいけない。
息を切らせながらその場を駆け抜ける。
橋を渡った川の対岸まで来て、やっと足を止めた。
胸が苦しい。
「ありがとう。助かったよ…ハハ、君、力強いね。腕が痺れてる」
「——先程の質問にまだ答えてもらってないが…お前はフランス人か?パリの訛りがある」
「ハンジだ。正確には半分ね。母がフランス人だった。戦争が始まってすぐに私達子どもを残して母は1人でパリに戻ってしまった。消息は不明。
フランス人の血を引く不利な状況を、兄がナチスに入党することで私は収容所に送られず生き延びた。
兄は今ドーバー海峡にいる。
それが金のライオンだ」
「私は兄の活動を支援すると共に、兄だけは生き延びてほしい。何があっても。
そのためには私はどんなことでもする。それが私の動機の源だ」
リヴァイの銀灰の目を見つめながらそう告げると、彼は軽く嘆息した。
「—あのテロの実行犯は君の仲間?」
「いや、違う。彼らは急進派だ。レジスタンスの組織も小さく分かれている。急進派の焦りが出ている。お前の情報が正しいのなら、今無意味に仲間を減らすのは得策でない。春の連合軍上陸を待って自由地区に一旦後退する方が良さそうだ」
「—リヴァイ。パリにも春が来るよ。私を信じてほしい。君のアジトを点数稼ぎの警察と家捜しに入るのは私だ。それまでに君達はパリを出てほしい。そのリストに該当の場所と日時が入ってる」
「——いいだろう。お前を信じよう」
「ありがとう。では私は行くよ」
周りを注意深く見渡しながら、私はさりげなく離れようとした。
「待て。お前はどうするんだ。ドイツが負けたとして」
この男はいったい何を言ってるのかわからなかった。
「ハハっ!レジスタンスの貴方がゲシュタポの手下の心配をしてくれるの?ありがとう。私は組織と心中する覚悟はできてるよ。兄さんが全てだ」
こんな時代に知らない敵の女兵士の身を心配するなんて、なんておめでたいフランス男だろう。
片手を軽く挙げてその場を立ち去った。
鼻の奥がツンとした。
【L side】
ハンジから受け取ったリストは確かに正規のもので、ゲシュタポの襲撃を受ける前に発禁本の印刷所などの設備を撤収することができた。
ハンジは警察と共にあらかた片付いたアジトの家捜しを続けている。
そしてドーバー海峡を挟んだ戦況は激しさを増し一進一退を繰り返しながらも連合軍が有利の情報が入るにつれ、駐留ドイツ軍の中に動揺と諦めと自暴自棄な空気が蔓延していた。
「リヴァイ!移動の証明書ができたぞ。これでしばらくパリとおさらばだ」
「ああ、助かるラウル」
「お前の希望通り女の名前の証明書も一枚作ってあるが、これは誰に使うんだ?」
「一緒に戦ってくれた仲間だ。死なせるわけにはいかねえ」
『ねぇ。みんなが安心して暮らせる世界になったら、2人で旅に出ようよ』
『ねぇ。リヴァイ』
あの夢の女は不思議だが、ハンジなんだ。そんなバカなことはないが、夢の中でアイツはずっと横で一緒に戦ってくれた。
そして今度も俺を救ってくれた。
夢の中でアイツはいつも太陽のように笑っていたのに、今はすべてを諦め悟った憂い顔しか見せない。
春になったら、アイツが安心して笑っていられる場所に連れて行かなくてはいけないんだ。思いっきり泣いたり笑ったりできる場所に。
【H side】
「もう何もかも終わりなんだ。ハンジ ゾエ…」
みっともなく取り乱す上官を、この上なく冷めた気持ちで私は見ていた。
「シュミット大佐。私は組織の人間です。軍から撤退命令が出れば撤退しますし、徹底抗戦せよというならそれまでです。貴方は指示を下す側では?」
「…もう私の指示など聞くものがどれだけいるだろうか。もう全てが終わりなんだ。我々は負けたんだよ」
「…ハンジっ」
いきなりすがりつかれ、ゾッとしたところにこめかみに冷たい銃口を当てられ気持ちは氷点下まで下がる。
「もうここまでだ。一緒にここで死んでくれっ」
ああ、エルヴィン。どうやら私はここまでみたい。
エルヴィン、お願いだから生き延びて。そして、戦後の、平和な安心な世界をその目で見て。
ーーバーンっ!
大きな音でドアが開き、即座に大きな銃声が聞こえ、最期の時を迎え私の意識は遠のいた。
そして数秒後、肉塊と化した上官の血塗れの身体が覆いかぶさる衝撃で意識が戻った。
銃口を向ける小柄でナイフのような、
銀の狼。
なんておめでたいフランス男。
「リヴァイっっ!!?」
「行くぞっ!」
数ヶ月前のように腕を掴まれ、パリの街を疾走する。
「っ待って!リヴァイ!!貴方一体どこに行くのっ!!?私はナチスの兵士だ」
「…半分はフランス人なんだろっ!いずれにしてもナチス軍は終わりだ。組織が無くなればお前はもう自由だ」
「お前は春になったらパリを出て、安心して夏を待つんだ。夏になれば解放されたパリに戻って、兄さんを待つんだ」
【L side】
移動証明書は特に検閲を受けることなく通過し、南フランスへ向かう列車は定刻通り出発した。
車輪のきしむリズムが重いものからだんだんと軽快になる頃に、どちらかとなく深いため息が漏れた。
「貴方って本当にお人好しだよね。私なんかリスクを冒してまで助けることなかったのに」
目の下に黒い隈を作った、疲れた顔の女がひとりごちる。
おそらく自分の顔も同じくひどく疲れているのだろう。
夫婦用の証明書だったため、カモフラージュのために繋いだ手を離せないでいた。
「俺はパリ解放はお前と一緒に見たいと思った。これは俺の身勝手な願いだから、お前は別にそれに重荷を感じる必要はねぇ」
車窓に目をやりながらそう告げて絡めた指に力を入れるとハンジは苦笑した。
「さすがに少し疲れたな。休ませてもらうよ…」
そうして少し経つと、眠りについた温かい身体が列車の揺れに合わせてもたれかかってきた。
目的地まではまだ時間がかかりそうだ—