38 鍾魈空から「いま璃月ですごく人気なんだ」と言われ魈が受け取ったのは、岩王帝君を模したぬいぐるみだった。
両腕で抱えきれる程度の大きさのそれは、中に詰まった綿でふっくらしていてほつれもなく、可愛らしい見た目にデフォルメされた仕上がりだった。
「……これを我に渡して、お前はどうして欲しかったんだ?」
「え? 特に何も。お土産感覚というか……それに魈、帝君に関するものならなんでも喜ぶじゃん」
「そ、んなことは」
「あるある。まあとりあえずそれはもう君のものだから、好きに飾るなり遊ぶなりしてよ」
それじゃあまたねと、空が旅館にある魈の部屋から出て行く。この後冒険者協会の依頼をこなしてくるらしい。
「…………」
両腕で抱えたぬいぐるみを見下ろす。眠った表情をしているそれは、目の部分が線だけで縫われていた。瞳の色はわからない。
手足は短く、爪も丸くて柔らかい。本来の帝君ならばもっと鋭い尖った爪なのにと、魈は片手に余る短い脚をひとつ撫でた。
ふかふかとした毛並みに指を埋め、にょきりと生えた角の偏りを正し、魈は黙ったまま、そのぬいぐるみを一度ベッドの上に置いた。
「……このような無防備なお姿、我は知らぬ」
ベッドのふちに腰掛けて、眠った姿のぬいぐるみにぽつり、声がこぼれる。
魔神の元から救い出されて以降、帝君との契約を果たす為、魈は日夜、魔物を屠るのに璃月の地を駆け回っていた。魔物の出現に、天候も時間も関係ない。ならば退治する側にも時間は関係ない。そしてそれは帝君も同様で、日々休む間もなく人間のために奔走していた。
魈が知るのは常に起きている帝君で、休息らしい休息をしている様子は窺えなかった。たまに茶や酒を飲んでいる場面を目にすることがあっても、このようにして眠る姿など、一度も遭遇したことはない。
凡人となった鍾離ならば魈の側で眠ることはあったが、まだ彼が帝君であった時代には想像もできなかった。
「…………」
額の部分をそっと撫でる。
本物のあなたもこうして、穏やかに眠れる時間はあったのでしょうか?
問うても答えは返らないとわかっていて、思わず口にしてしまう。ふかりと沈む綿はやわく、魈の体温を受けてほんのりあたたかくなる。
差し込むちょうどいい陽光と、適度にたもたれた室温。空と会った後というのもあって、気が抜けていた魈は瞼が重くなってきたことを素直に受け入れる。
一度辺りを見渡し、自分以外に誰もいないことを確認してから、魈はぬいぐるみの横に寄り添うようにして、ベッドに横になった。
かつての時代には、出来なかったこと。それがいま、疑似的に叶うのならばと、ぬいぐるみの鼻先に、自らの唇を寄せた。
「……おやすみなさいませ、モラクス様」
あいさつをして、魈は琥珀を塞ぐ。短な脚に手を置いていると、不思議と心が落ち着いた。
数時間後。
旅館を訪れた鍾離が、ベッドでまるくなって眠る愛らしい仙人を発見してみどりの髪を撫でることを、魈はまだ知らないでいた。