Cutie magic 1「ここが会場かあ」
ジンに渡された地図を片手に、空は目の前の一軒家を見上げる。
外壁は構造材である木板を見せた白塗りの壁、煉瓦色の屋根には煙突が一本、天に向かって伸びている。二階にあるバルコニーにはアヒルの足の形をした蔦が、多すぎず少なすぎずの量でポールに巻き付いていた。
モンドでは一般的な、近隣にいくつもある民家とほぼ同じ造りの家だ。違う要素を挙げるならば近隣の家よりも敷地が広いことと、玄関ポーチにできている着飾った人間の列だろうか。パートナーにエスコートされる婦人もいれば、友人同士なのか、どこか浮き足だった女性だけのペアも何組か見かけた。そんな人々が並ぶポーチには門番のように構える背が高いスーツ姿の男が二人立っていて、列を成す人々が示すカードを確認すると、開かれた扉に向かって恭しく腕を伸ばしている。
「思っていた以上に招待客がいるようだね」
隣に並んだアルベドが言って、空は一つ頷いた。
「お金持ちお坊ちゃんの誕生日パーティ……兼、婚約者探しパーティねえ……」
地図と合わせて持っていた招待状に視線を落として、空はため息をついた。
空とアルベドが屋敷を訪ねることになったのは、三日前、ジンとリサからの声かけによって招集された時まで遡る。
ちょうどモンドで依頼を解決していた空と、雪山から下山していたアルベドは、騎士団の執務室で頭痛を抱えていそうなジンから開口一番「申し訳ない……」と謝罪を浴びた。
「ジン、それだけだと何もわからないわよ?」
リサがジンの背中をひと撫ですると、ジンはそれでも申し訳なさそうな顔をして、ある依頼を受けてほしいと話を始めた。
曰く、「モンドの資産家である一家の次男が、三日後に誕生日パーティを開く」「その招待制のパーティに騎士団からも警護要員として二人招かれた」「条件は女であること。なるべく年若い、十代に見える者が望ましい」……ということらしい。
「そこでノエルに頼もうと思っていたのだが、彼女は別の仕事があってな。アンバーも璃月付近での任務に当たっているから戻ってこられない。……ということで、他に頼めそうなメンバーがいなくてな……申し訳ないのだが、二人には女装をしてこの屋敷に行ってほしいんだ」
「この条件がなければ、私かジンが行くこともできたのだけどね。……全く、誕生日パーティは建前なのがバレバレだわ」
「というと?」
アルベドが首を傾げると、リサは口元だけで笑った。
「この家の次男坊ちゃんは、婚約者を探しているのよ。パーティを開いてたくさんの女の子を一度に見定める機会がほしいのね。……特に明記されている訳ではないけど、おそらく、招かれた可愛い子ちゃんたちは気づいていると思うわ」
「なるほど。……合理的ではあるね」
簡潔に述べたアルベドに、リサは「あなたらしい感想ね」と苦笑する。空の方は「お金持ちってわからないな……」と理解に苦しんでいた。
「それで、ボクと空が女性の格好をして行けばいいのかい? 正体がバレてしまわないだろうか?」
「そうだよ、俺はともかくアルベドも騎士団の一員だし、流石にわかっちゃうんじゃ……?」
「あら、有名人の程度で言えば可愛い子ちゃんも十分上にいるわよ? でも、……ふふっ、大丈夫よ。私が完璧に仕上げてみせるから」
「……リサ、ほどほどにな?」
「そうね。私の基準でほどほどにしておくわ」
ジンから心配の眼差しを受けたアルベドと空は、互いに顔を合わせて疑問符を浮かべていた。ほどほど、とはなんのことかがわからなかったためだ。
しかし二人はその意味をすぐに理解することとなる。
「パーティ会場でうっかり正体がバレないためにも、しっかり、みっちり、私と一緒に〝女の子らしく見える〟よう練習しましょうね?」
普段の業務ではお目にかかれないような熱意と真剣さを帯びたリサの瞳にアルベドも空も気圧され、ここは全て彼女の言う通りにしようと目配せしあったのが始まりだった。
指導の初日。まずは言葉遣いと姿勢からレクチャーされる。一人称を変えることにも苦労していた空だったが、リサのアドバイスを心がけていると、気を抜いても「俺」と言うことはなくなり、スムーズに会話ができるようになった。「その調子よ」と褒められるも、「パーティが終わるまでは続けてね」と言われたため、それなら依頼が完了するまでの間、騎士団本部で過ごした方が効率はいいだろうということになり、空はアルベドの工房兼私室で寝泊まりすることになった。
「はあ……思った以上に大変だった……」
部屋に入りソファへ促された空は、疲労を滲ませたまま腰を下ろした後、横に倒れてしまう。ぱふん、と受け止めてくれるソファの寛容さにしばし頬擦りをして、そういえばこの部屋にくるのも久しぶりだなあと目を細めた。
普段アルベドと会う時――しかも夜であればなおさら――場所は決まって洞天の寝室だった。部屋に入るなり言葉もないまま口づけしあって、そのままベッドに雪崩こむことももはや日常茶飯事になっている。そうなると、この私室に入る機会は以前よりも随分と減っていて、今横になっているソファの感触にも少しの新鮮さを覚えていた。
クッションも変わっていないなとぼんやり思っていたが、慣れない言葉遣いの他にも座り方や姿勢まで教え込まれたせいか、体のあちこちが筋肉痛のような痛みで悲鳴をあげるため、しっとりした気持ちのまま思い出に浸ることは難しかった。
「お疲れ様。少し休んだら、シャワーを浴びておいで。……私は紅茶を淹れてくるから」
「あ、いま〝ボク〟って言いそうになった?」
キッチンに向かうアルベドに小さく笑うと、「バレてしまったか」と肩口で振り返ったアルベドも笑っていた。
「リサの前では緊張感を保てても、キミと二人になると難しくなる。私が油断したのは空が原因だと思うな」
「えー、なあにそれ、……わたしのせい?」
言いながらだんだんおかしくなってしまった空は、ゆっくり体を起こしアルベドの方を見遣った。ティーポットの中にお湯を注ぎ、二人分のカップもトレーに乗せて戻ってくる恋人に、ソファの半分を譲る。
「そうよ、キミのせい。私から緊張感を奪ってしまうから」
「そんなつもりないよ? わたしはいつもみたいに、君のことが好きだなあって見てただけだもの」
トレーを置いたアルベドの手を空中で拾った空は、いたずらっぽく微笑んで距離を詰める。触れた腕と腕、肌色の場所から感じる体温にこそばゆくなっていると、アルベドも指を絡めてくる。
翡翠の瞳が、きらきらと美しい。吸い込まれるように見つめていると、「可愛い顔してる」と、鼻先にキスをされる。
「……可愛い顔って、どんな?」
「今、キミがしてる顔」
「全然具体的じゃない。もっとちゃんと教えてよ?」
そうしたらいつだってその顔でいるから、と空もアルベドの鼻先を甘く噛んだ。
天才と謳われる錬金術師は、一瞬目を見開いてから困ったように眉を下げて、「小悪魔」と囁く。耳に心地よいアルベドの声をもっと聞きたくて、空はわざと「なあに」と聞こえないふりをして抱きついた。
「ねえ、もう一度言って?」
「……絶対、聞こえていたでしょう?」
「聞こえた気もするけど、聞こえなかった気もするの。……言いたくないなら、代わりに好きって言葉でもいいよ。それならわたし、ちゃんと聞こえるから」
ダメ? と空は猫のようにアルベドに頬擦りをする。ふわふわと空中を漂っている埃よりも軽すぎて、どこかへ飛んでいってしまいそうな益体のない会話だ。少し前までは微睡そうになったというのに、アルベドのそばで距離を埋めると、疲労感も、筋肉痛の重さすらも、まるでなかったかのように遠くへいってしまう。
だから、きっと唇も軽やかに動くのだ。空はスラスラ願いを口にして、最後にもう一度「お願い」と上目遣いをした。
リサから教えてもらった方法だ。会場ではよっぽどな乱闘騒ぎにならない限り、武力行使は絶対にしてはならないとされている。そのため、会話や仕草でなるべく危機回避をするようにと仕込まれた武器の一つだった。
習得したばかりのそれを披露してみると、アルベドは一瞬だけ声を詰まらせた後、額を重ねて「空」と口を開く。
「好き。……キミのことが、とても好きよ」
「まだ、もっと、たくさん言って?」
「……好き。大好き。……可愛い空。このまま、キスしてしまっても?」
「……うん。……いいよ。いっぱいしてね?」
静かに重なった唇が、ひどく熱かった。形を確かめるだけのふにふにした柔らかな口づけはやがて激しさを増して、口内の中に侵入したアルベドの舌が翻弄する頃には、躊躇いなく回っていた空の口は、ただ開いていることしかできなくなっていた。
「ねえ、空。キミは、私のことが好き?」
たっぷりと唾液を分けあった後で、アルベドが細めた双眸で視線を注ぐ。上がった息を整えながら、空は「だいすきだよ」と、柔らかすぎてぐずぐずに甘い、舌足らずな告白を返していた。