寂しがりやのフォロソフィー***
「類……別れよう」
震える唇から、決死の覚悟で吐き出した言葉。
屋上のフェンスを背にした類が驚いたように目を見開く。
ただただ、怖くてたまらなかった。
どんな舞台に立つ時も、こんな気持ちになることなんて今まで一度もなかったのに。
それでも、うつむきたいのを堪えてぐっと前を見据える。
目を逸らさないことがせめてもの誠意だと思ったから。
「……本気なのかい?」
「……ああ」
類は真剣な表情でオレを見つめながら、ただ一言そう口にした。
その口調は責めるというよりは、確かめるような感じで、ますます居心地が悪かった。
意思は変わらないということを伝えるように頷くと、類は迷うように一度オレから視線を逸らし、やがてもう一度目を合わせて優しく微笑んだ。
「そうか……わかったよ」
オレの言葉をあまりにもあっさりと受け入れた類に対して、どうしようもなく切ない気持ちがこみ上げてきた。
所詮、その程度だったということなのだろうか……オレへの気持ちなんて。
「今までありがとう、司くん
君と一緒に過ごす日々は楽しかったよ」
「ああ……オレもだ」
とても……とても楽しい半年間だった。
だからこそ、離れなくてはいけないと思ったのだ。
このままだと……離れられなくなってしまうから。
雲一つない晴天の昼下がり、オレは人生で初めての恋に別れを告げた。
***
恋は探すものではなく、落ちるものだと言ったのはどこの誰だっただろうか。
いつ好きになったのかなんてわからない。
けれど、気が付けば後戻りできないほどハマっていた。
気持ちを伝えるつもりなんてなかったのに、先に告白をしてきたのは類の方で。
君のことが好きだと、他の誰も目に入らないくらい君に惹かれているのだと、ひとたびそう告げられてしまえば、もう諦めることなんて出来なかった。
(本当に……心から、好きだったのに)
それから、互いに手探りで始めたお付き合いは、それなりに上手くいっていたと思う。
大きな喧嘩をすることもなく、熱は引き上げられる一方で一向に冷める気配がない。
近づけば近づくほど、どんどん類のことが好きになった。
オレと一緒にいるときにだけ見せてくれる、柔らかい笑顔がとても愛しかった。
けれど、好きになればなるほど、オレは先の見えない不安に苛まれるようになった。
はたして、オレは類に釣り合っているのだろうかと。
容姿、能力、性格共に申し分なく、少し変わっていることを除けば、類は誰もが惚れこんでしまうような魅力の持ち主なのだ。
そんなあいつの隣に立つのが、俺で良いのだろうか……そう、もやもやとしていた矢先の出来事だった。
『ねえ、あんた、ホント鬱陶しいんだけど
あんまり神代君にベタベタしないでくれない?』
ある日の放課後、あまり接点のない女子生徒から屋上に呼び出されたかと思ったら開口一番こう言われて、オレは戸惑いを隠せなかった。
『ま、待ってくれ、突然何なんだ!?
誰と仲良くしようがオレの勝手だろう!』
『はあ?私に口答えする気?
ホントウザい、神代君だって内心うざがっているでしょ、優しいから何も言わないだけで。』
『そ、そんなこと……』
『はあ、それとも何?……もしかして、あんたも神代君のこと好きなの?』
女子生徒のその言葉に、内心ドキリとした。
類と恋人同士であることは誰にも話していないはずなのだが、そんなにオレはわかりやすいのだろうか。
何も言えずに口を噤んだオレを一瞥すると、女子生徒は嘲笑うようにこう口にした。
『アハハッ、マジウケる!あんたみたいなただ声が大きいだけの目立ちたがり屋が、神代君と釣り合うわけないでしょ
わかったらさっさと彼の前から消えてよね』
女子生徒はパーマがかかったふわふわの髪を指に巻き付けながら勝ち誇ったように口元に弧を描いた。
彼女は性格こそきついが、容姿は整っていて、いわゆるスクールカーストの頂点に君臨するような生徒だった。
そんな彼女から投げかけられた言葉は、的確に柔いところを抉って、オレの心を血だらけにした。
自分だけじゃない……第三者から見ても、オレは類に釣り合っていない。
その事実は、堪えがたい痛みとなってオレを襲った。
(オレは……類に相応しくない)
このまま一緒にいても、オレでは類を幸せにすることはできないのかもしれない。
きっと、もっとあいつに相応しい人がいくらでもいるのだから。
三日三晩悩み続けて、オレはついに決意を固めた。
***
それからの日々は、自分でも驚くくらい淡々と過ぎていった。
類は恋人だったころの名残なんて微塵も見せず、友人として適切な距離感でオレに接してくれる。
仲が良いのは変わらない……けれど、二人の距離は確実に遠ざかっていった。
「類、よければ一緒に帰らないか?今日は練習もないだろう?」
放課後、廊下を歩いていた類にそう声をかけると、あいつはすまなそうに眉を下げた。
「ああ、司くんか……すまない、今日は先約があってね」
ちらりと目線を向けると、類の隣にいた小柄で可愛らしい少女がぺこりと頭を下げた。
先約とはこの子のことだろうか……少し前まではオレが一番優先だったのに。
そんなことを思ってしまって、慌ててその意地の悪い考えを振り払った。
「そ、そうか、声をかけてしまって悪かった、また明日な」
「ああ、またね」
類はそう言って愛想のいい微笑みを浮かべると、オレの横をすり抜けて女子生徒と共に廊下の奥に消えてしまう。
その後ろ姿が見えなくなるまで立ち尽くしていても、胸を刺すちくちくとした痛みは一向に消えることがなかった。
***
それからは徹底的にすれ違う日々が続いた。
どうしてこんなにも予定が合わないのだろう、もしかしたら誰かの思惑があるんじゃないかなんて思ってしまう。
いや、それはきっとオレの感覚が麻痺しているだけなのだろう。
恋人だった頃、類は誰よりもオレを優先してくれたから……今は、オレが一番ではなくなったから。
ただ、それだけのことなのだ。
(……また、あの子か)
教室の窓から仲睦まじく花壇に水をやる二人の様子を見て、思わず重々しいため息が漏れる。
類曰く、彼女は美化委員会に所属する後輩で、最近はテストが近いからと頼みこまれて勉強を教えているらしい。
勉強なんて建前で、本当は下心があるんじゃないかなんていう疑ってしまう自分が嫌だ。
……類と別れてから、オレは毎日こんなことばかり考えている。
どんどん心が狭くなって、このままでは誰かを傷つけてしまうのではないかと怖くなる。
(……あの子が、類の次の彼女になるのだろうか)
このまま仲が深まっていけば、そんな未来もあるのかもしれない。
確かに彼女なら、見た目も可愛らしいし、性格も優しそうだし。
類と……お似合いなのかもしれない。
そんなことを考えて、いつの間にか人を表面的にしか見られなくなっている自分に心底嫌気がさした。
***
炭酸の抜けたソーダ、夏休みのない八月。
オチのつかない脚本、望遠鏡を忘れた日の天体観測。
そんな、物足りない日々を少しずつ消費していく。
心を潤してくれる、そのたった一言を待ち望みながら。
「……もうこんな時間か。」
読んでいた本をぱたんと閉じてカバンにしまう。
もう少し、あと少しだけと読み進めるうちにいつの間にか一時間以上も経っていたらしい。
早く帰らなければ……。
「……ん、あれは」
校舎から出てグラウンド脇を歩いていると、校門の前で見慣れた後姿を見かけた。
特徴的な薄紫の髪に、いつも来ている灰色のセーター。
その姿を見た瞬間、オレは衝動的に駆け出していた。
「類……!」
最近は校内で見かけることさえあまりなくなっていたから、きっと喜びが先行して周りが見えなくなっていたのだと思う。
甘い言葉なんてなくてもいい、目が合わなくてもいいから……ただ、傍にいたくて。
その気持ちばかり先走って、その背中に向かって名前を呼ぶ。
そして、あいつが振り返ったその瞬間、駆け寄ろうとしていた足がぴたりと止まった。
「あ……。」
類の隣には、あの子がいた。
最近いつも類と一緒にいる、美化委員の彼女。
オレよりもずっと華奢で可憐なその姿を視界に入れた瞬間、声を奪われたように何も言えなくなった。
「司くんじゃないか、どうしたんだい?僕に何か用かな」
「……」
「……司くん?」
うつむいたままなにも言わないオレを不審に思ったのか、類が窺うようにオレの名前を呼ぶ。
何か言わなければ……二人を困らせてしまうのに。
口を開くと、誰にも明かしてはいけない秘めた想いを洗いざらい吐き出してしまいそうで。
じくじくと痛む胸をセーターの上から痛いほど押さえて、オレはただ一言ぽつりと口にした。
「な、んでもない……。」
「……そう、それなら僕はもう行くよ、また明日ね。」
類は事も無げにそう返すと、オレに背を向けて歩き出してしまう。
手を伸ばせば触れられる距離にいたのに、どんどん遠くなってしまう。
何も聞いてくれなかった……引き留めてはくれなかった。
類の隣には、あの子がいる……ほんの少し前までオレの居場所だったはずのそこには、オレの知らない誰かがいる。
その事実に胸が押し潰されそうだった……苦しくて、苦しくて、瞳の奥から何か熱いものがこみ上げてくる。
だって、オレはまだ、こんなにも……。
(こんなにも……類のことが好きなのに)
それは、今まで必死に知らないふりをして、ずっと押し殺してきた気持ちだった。
その他大勢に混ざるのは嫌なのに……オレはずっと、たった一人の特別でいたかったのに。
一度思い出してしまったら、もうダメだった。
ダメだと叫ぶ理性より一瞬だけ早く足が動いて、類の背中に向かって手を伸ばす。
そして、類のセーターの袖を両手できゅっと掴んだ。
突然のことに驚いて立ち止まった類がオレの姿を瞳に映したその瞬間、ずっと言いたかった一言がぽろりと零れた。
「……いかないで」
おいて、いかないで。
セーターの裾をしわができそうなくらいぎゅっと掴んで、唇を噛みしめる。
そろりと顔を上げると、オレを見つめる類の瞳がすっと細められて、自分が何を言ってしまったのか思い出して背筋が凍った。
「す、すまない!どうかしていた……気にしないで……」
「司くん」
オレの言葉を鋭い声で遮ると、類は隣にいた彼女に視線を向けた。
「御覧の通り、急用ができてしまってね
送ってあげられなくてすまない」
「いえ、わたしのことは気にしないでください
ひとりで帰れますから」
優しくそう微笑んだ彼女にありがとうと一言だけ告げると、類はオレの方に向き直った。
「行くよ、司くん」
「る、類?ちょ、まっ……っ!」
類はオレの手を取ると、そのまま彼女の横を通りすぎてどんどん歩いて行ってしまう。
オレは困惑しながらも、引っ張られながら類の後をついていくしかない。
一向に離される気配のない手から、類の温もりが伝わってきて始終心臓がバクバクとうるさかった。
***
手を引かれるまま連れてこられたのは類の家のガレージだった。
もはや私室と化しているそこに招き入れられると、天井から吊り下げられたロボットや床に散らばった設計図が目に入る。
見慣れたものばかりのはずなのに、久しぶりにきたせいか少し新鮮に思えた。
「司くん、ここに座って」
声のした方に目を向けると、ソファに座った類がぽんぽんと空いたスペースを叩いてそう促した。
無視するわけにもいかないので、オレはぎこちない動きでソファまで歩みを進めるとゆっくりと腰を下ろした。
オレが言う通りにしても、類は何も言わない。
しんとした静寂があまりにも居心地が悪い。
何を言えばいいのか、どう振舞えばいいのかわからないのに、ただ隣に渇望していた体温があるだけで泣きそうになる。
さすがに泣き顔は見られたくなくて、類に背を向けるようにして声を押し殺す。
すると、突然ふわりと柔らかい柔軟剤の香りが鼻を掠めた、温かな体温が俺の身体を包み込んだ。
「……僕が一緒にいない間、寂しかったかい?」
「そ、そんなことな……っ。」
「……相変わらず、嘘を吐くのが下手だね、君は」
オレを後ろから抱きしめながら、類はゆっくりと息を吐く。
熱い吐息が耳たぶをくすぐって、思わず身をすくませた。
心臓がドキドキとせわしない……抱きしめられるのなんて久しぶりすぎて、石のように身体が硬くなってしまう。
「……僕は、寂しかったよ」
「……え?」
オレの肩口にぐりぐりと頭を擦り付けながら、類はぽつりとそう零した。
「ずっと、こうして君に触れたかった、けれど、ずっと我慢していたんだ。
君の気持ちを確かめたかったから。」
「確かめる、ってどういう……。」
「……君を試すようなことをしてすまなかったね
あの時は僕も、君の気持ちがわからなくて……とりあえず少し離れてみて、君の様子に変化がないようだったら、今度こそ諦めようと思っていたんだ
けれど……予想以上に効果があったみたいだね」
そこまで言われて、オレはようやく理解した。
最近、やけにすれ違っていたのはすべて類の思惑通りだったということに。
「……どうして急にあんなことを言い出したのか、聞いても?」
きっと、類にはもうわかってしまっているのだろう……オレがまだ、類のことを好きでいることも。
もう逃げられる気がしなくて、オレはぽつりぽつりと今までの出来事をかいつまんで話す。
オレの話を聞き終わった後、類は呆れたように頭を軽く抑えて、特大のため息を吐き出した。
「まったく君は……どうしてそんな相手と自分を比べて、劣っているなんて思ってしまうのかな
いつものポジティブで自信家な君はいったいどこに行ってしまったんだい?」
「お、オレだって不安になりたくてなっているんじゃない!
ただ、どうしても……お前のことになると、いつも通りではいられなくて」
「……嬉しいことを言ってくれるね」
ちゅっと柔らかい唇が頬に触れて、びくっと類の腕の中で身体を跳ねさせる。
ああ、ダメだ……軽いキスひとつで指先まで痺れて、自分の何もかもが使い物にならなくなる。
少しずつ、オレ達を包み込む空気が甘くなって寄り添う温もりにすべてを預けたくなった。
「とりあえず、その女子生徒のクラスと名前を教えてくれるかな?」
「……言ったら泣かせに行くだろう、お前」
「当然だろう、僕の大切な人を傷つけたんだ
ただで済ませるつもりはないよ」
綺麗な笑顔に言いようのない恐怖を感じるのはきっとオレだけではないのだろう。
「あのね、司くん……一生懸命悩んでくれたところ悪いんだけど、客観的にみて釣り合っているとかいないとか、そんなこと僕にとってはどうでもいいんだ
僕が傍にいてほしいと思う人は、このセカイでたったひとりしかいないから
だから君が、そんなことで不安になる必要はないんだよ」
「……類」
「……好きだよ、君の事が大好きなんだ
だから、もし君の心がまだ離れていないのなら、僕に同じ気持ちを返してくれるかい?」
その一言で、いままでオレの心を覆っていた霧が一気に晴れていくような気がした。
心のつかえがとれたようで、ついでにずっと堪えていた涙もぼろぼろと零れ始める。
傍にいてもいいのだと、他でもない類にそう言ってもらえて、今まで悩んでいたことが馬鹿馬鹿しいくらいに心が満たされてしまった。
「……っオレも、お前のことが大好きだ……!」
「うわ……っ!」
急に泣き出したオレをみてぎょっとしたような顔をする類に衝動のまま抱き着く。
そのまま勢い余って二人してソファに倒れこんでしまった。
「類……ううっ、ひっく……るい~~~っ!」
「っふふ、くすぐったいよ、司くん」
オレの髪が首筋に触れてくすぐったいのか、類はくすくすと笑った。
ぽんぽんと優しく背中を撫でられて、思わず甘えるように類のセーターにすりすりと頬を擦り寄せてしまう。
「とりあえず、今日はいっぱいキスしてもいいかな
ずっと口寂しくて困っていたんだ」
「……ああ、オレも、したい……んっ」
塞がれた唇を味わうように、ゆっくりと目を閉じる。
その間もとめどなく頬を伝う涙を拭ってくれる指が濡れるたびに、どうしようもない喜びがじわじわと胸に広がっていった。
ああ、この感じだと今日は家に帰れないかもしれない……それでも、別にいいか。
今はただ、この男に愛してほしい……離れていた数か月分の寂しさを、たった一日で埋めることは到底叶わないだろうが。
長い夜にほんの少しだけ期待して、薄いセーターの上から肌を撫でる手の感触に酔いしれた。
***
紆余曲折あったものの、結局オレたちはもう一度お付き合いを始めることにした。
類はもう二度と不安にさせまいとしているのか、今まで以上にスキンシップが多くなって、愛情過多でそろそろ死んでしまうんじゃないだろうかと本気で思う。
そんな日々の幸せを嚙みしめていたある日のこと。
放課後、類の教室まで迎えに行くと、中から女子の泣き声が聞こえてぎょっとした。
そろりと窺うように中を覗いてみると、取り巻きの女子たちに囲まれ慰められながら、一人の女子生徒が人目もはばからずに泣きじゃくっていた。
オレが類に別れを告げる原因になったあの女子だ。
プライドの高い彼女がクラスメイトに泣き顔を晒している理由は言うまでもない……あの様子では相当キツイことを言われたのだろう。
「やあ、司くん、待たせてすまなかったね」
突然、ぽんと肩を叩かれて振り返ると、にこにこと機嫌の良さそうな類が立っていた。
散々言いたいことをぶつけてすっきりしたのかもしれない。
「さあ、帰ろうか。今日は寄りたいところがあるんだっけ?」
「ああ、ずっと楽しみにしていた映画が今日公開されるんだ!
類も一緒に見てくれるか?」
「ふふ、もちろんだよ
映画を見終わったら僕の家に来てくれるかい?
明日は休みだからね」
「ははっ、最近週末は毎回のようにお邪魔している気がするな」
「君と一緒にいたいんだよ、許してくれるだろう?」
類は悪戯っぽくそう口にすると、さりげなくオレの手を取った。
絡んだ指から伝わる感触が嬉しくて、ぎゅっと握り返す。
「ああ……オレもお前と一緒にいたい。」
この様子では、今日も家に帰してはもらえないだろう。
咲希に連絡をしておかなければ……頭の中のメモ帳にそう書き留めながらも、オレの心は浮き足立ってしまってどうしようもない。
好きの一言が聞きたくなってしまったが、それは映画が終わってからたくさん言ってもらうとしよう。
そう心に決めて、オレは類の隣を歩く幸せを噛み締めることにした。