***
「……ん」
シャっとカーテンが開けられる音で意識が呼び覚まされる。
燦燦と輝く太陽の光が目に眩しい。
日差しを避けるようにごろりと寝返りを打つと、天蓋付きのベッドがわずかに沈む。
微睡の中でうとうととしていると、不意に乱れた髪を長い指が優しく梳いた。
「……ルイ」
「おはようございます、陛下。今日も佳き太陽ですね」
「……おはよう」
指先がわずかに触れただけで、霞む視界の向こうにいるのが誰なのかすぐに分かった。
いつもと変わらぬ柔らかな声、見慣れた紫陽花色の髪と黒いタキシードが目に浮かぶようだ。
「……ルイ、起こしてくれ」
「……まったく、仕方がない方ですね、貴方は」
甘えるように腕を伸ばすと、ルイはくすりと笑みをこぼしながら手袋をするりと抜き取る。
そしてベッドに腰かけると、オレの背中にそっと腕を回した。
微睡の中からゆっくりと引き上げられると、そのまま抱き締められるようにルイの腕の中に収まる。
「……陛下」
「……まだ仕事の時間じゃないだろう」
「ふふ、そうだね。すまない」
ルイは甘えるように胸元にすりすりと頬を擦り寄せるオレの頭を優しく撫でた。
王と側近、主と従者、それが本来のあるべき姿で、表ではそう振舞わなければいけない。
恋人として過ごせるのは、朝、起き抜けのわずかな時間と、一日の公務を果たし終えた夜のひと時だけだ。
その貴重な時間を一分一秒たりとも無駄にしたくない。
「今日は来客があるからね。少し気を張ると思うけれど、僕が傍にいるから大丈夫だよ」
「ああ……確か“音楽の国”の第二王子だったか。
用件は聞いていないんだろう?」
「事前に使者を通して言伝を預かろうと思ったのだけど、どうして自分で伝えたいとおっしゃってね。
嫌な知らせでないことを願うばかりだ」
「そうだな……ん、こら……んっ」
真面目な話をしているというのに、唐突に唇が重なって反射的に瞳を閉じる。
起こされたばかりなのにまたベッドに倒されて、乱れた髪がシーツに散らばった。
「るい……っ、ふは、くすぐったいぞ……」
「まだ仕事の時間じゃないんだろう?
メイドが呼びに来るまであと三十分ってところかな」
「お前……やけに起こしにくるのが早いと思ったら」
「ふふ、すまないね。今日は忙しくなりそうだから、少しでも君と触れ合いたくて。
許してくれるかい?」
「拒否権はあるのか?」
「ないねえ」
「なら聞くな……っ、ん、ふ……っ」
軽口ごと、押し付けられた唇に飲み込まれていく。
挨拶にしては深すぎるキスを、ただ瞳を閉じて受け入れていた。
ルイはいつでも、オレがオレのままでいられる居場所を作ってくれる。
こうして愛されている間は、王として振舞わずともいいのだから。
降り注ぐ口づけの雨を受け止めていると、不意に丁寧なノックの音が部屋に響いた。
「陛下、おはようございます。お目覚めでしょうか?
朝食はいかがされますか?」
王室つきのメイドは時間に厳しい。
食事の時間は一分一秒ずれることなく知らせに来る。
「やれやれ、優秀過ぎるのも考え物だね」
「ははっ、まったくだな」
ルイは惜しむようにもう一度だけオレの唇に触れると、ベッドの枕元に放った手袋をはめ直す。
そして、扉の向こうで待機しているであろうメイドに声をかけた。
「陛下は今お目覚めになられたところだ。
お支度が済み次第、私がお連れする」
「ロゼ様もいらしたのですね。
承知いたしました、お待ちしております」
メイドがルイの言葉にそう返すと、足音がパタパタと遠ざかっていくのが分かる。
相変わらず、その場で感情を取り繕うのが上手い男だ、いつも感心してしまう。
扉一枚隔てた向こうで、王と側近(ロゼ)が抱き合っているなんて思いもしていないであろうメイドには悪いのだが……。
「陛下、お召し物はいかがされますか。
本日はいくつか謁見の申し出がありましたので、一着新しく仕立てさせましたが……」
「朝から正装は勘弁してくれ、息苦しくて敵わん。
時間まではいつもの服でいい」
「かしこまりました。お手伝いいたします、こちらへ」
ルイに手を差し出され、エスコートされるまま、ドレッサーの前の椅子に腰を下ろす。
オレの髪に触れる手は先ほどと違って温度がなかった。
ルイはロゼとして振る舞う時は、手袋越しでしかオレに触れることはない。
従者が主に直接触れることなど、普通ではありえないからだ。
恋人同士であっても、きちんと線引きをしないと互いに甘え切ってしまうから。
オレが王であるために必要なことであるとわかっている。
けれど……つい寂しいと思ってしまうのも本心だった。
「陛下、何かお悩みのことでも……?」
「……何故だ?」
「いえ、少しお顔が曇っていらしたような気がしたもので……」
「少し考え事をしていただけだ、問題ない……今日も頼むぞ、オレのロゼ」
「お任せください、貴方の笑顔のために誠心誠意尽くしましょう」
白い手袋の手がオレの髪をそっと掬い上げると、そのまま軽く口づけが贈られる。
今日の厄介な予定のことを考えると気が滅入るが、ルイが傍にいてくれるのだからきっと大丈夫だ。
そう、思っていたのだが……。
「……今、なんと?」
「言葉の通りです。私は今日、貴方様に求婚するためにやってまいりました」
件の王子と顔を合わせた瞬間、告げられたのは衝撃の一言だった。
「あ、あの……お言葉ですが、ご存じの通り私は男ですので。
子を産むことはできませんし、私と婚姻を結んだところで貴国に利益はないかと……」
「私は王子としてここに来たのではありません。
ただ一人の男として、貴方に想いを伝えるためにやってまいりました」
追い打ちをかけるようにそんなことを言われ、正装を纏っているせいで重い身体がさらに重たくなったような気がした。
こんなことは前代未聞だ、困り果ててルイの方に視線を向けるも、あまりに予想外の申し出に困惑しているのはあいつも同じようだった。
「……貴方の立場は理解しています。
夫にしてほしいなどと大層なことは申しません。
ただ、どんな形でもいい。私を貴方の傍に置いていただけないでしょうか」
思わず頭がくらりとする。
一体どうしろというのか、どんな返答をしても問題しかない。
王子という立場でありながら私情故の求婚、しかも男同士で婚姻だなんて。
仮に夫にならなくとも、一国の王子を城仕えの騎士と同じ扱いになどできるはずがない。
(……それに、オレは)
既に、心から愛する人がいるというのに……──。
「……す、少し時間をいただけないだろうか。
今すぐ結論を出すのは難しい」
「……わかりました。貴方の心が決まるまで、いつまでもお待ちしております」
返答を保留する意を伝えると、彼は案外あっさりと引き下がり、その場を後にした。
あの様子ではオレが答えを出さない限り、国に帰ることはなさそうだ。
一体どこでそこまで惚れこまれてしまったのかわからないが。
じわじわと、心が得体のしれない不安に侵食されていくのを感じていた。
***
「陛下、失礼いたします……おや、今日は可愛らしい先客がいるんだね」
ある日の夜、いつものように部屋を訪れたルイは驚いたように目を丸くする。
その反応は何となく予想していた。
なにせオレの腕の中では、毛玉のようにふわふわの子猫が体を丸くしてゴロゴロと喉を鳴らしていたからだ。
「例の“贈り物”だ。断ろうと思ったのだが、動物を押し付けられては無下に突き返すこともできないからな」
オレがそう口にすると、ルイはなるほどねと言って苦笑した。
例の王子に求婚されてからというもの、高価な美術品や希少な宝石の類が山ほど贈られるようになった。
こんな貴重なものは受け取れないとほとんど断っているのだが、たいてい強引に押し切られてしまう。
好みを把握されているのか、世界的にも珍しい戯曲の原本や翻訳された海外のミュージカルの小説本を贈られることもあった。
あの男がオレを諦めるつもりは今のところ全くなさそうだ。
「どうしたものか……何とかして引き下がってもらいたいんだが」
「……夫や恋人としてではなくとも、彼を傍に置く気はないのかい?」
「気持ちがないのに期待を持たせるような不誠実なことはできまい。
だが突き放すような真似をしてもいいものか……なにせ相手は音楽の国の第二王子だ」
「そうだね……あの国は共和国が王政に戻される前からずっと友好的な関係を築いてきた同盟国だし、この国に負けずとも劣らない大国だ。
あまり反感を買うようなことはしたくないね」
ルイの言うことは正論だった。
けれど、それはあくまで“ロゼ”としての視点だ。
そこにオレの“恋人”としての感情は存在しない。
先が見えない、こんな状況だからだろうか……そのことに、酷く不安を覚えて。
気が付けばオレはこんなことを口にしてしまっていた。
「もし仮に……あくまで、仮の話だぞ?」
「ああ、わかっているよ」
「……もし、あの人の求婚をオレが受けるとしたら、お前はどうする?」
オレがそう尋ねると、ルイは不意を突かれたように目を丸くする。
バクバクと、尋常でないほど心臓が高鳴っていた。
しんと空気が静まり返って、ほんの少しだけ後悔する。
身体を固くしながら沈黙が破られるのを待っていると、ルイが唐突にオレの左手をそっと掬い上げ、甲に優しくキスを落とした。
「……それが、貴方の幸せであるのなら」
柔らかな微笑みと共に、ルイはそう口にした。
受け入れる、ということだろうか。
その答えは、なんとなくわかっていた。
けれど、ルイの言葉はオレの心を満たしてはくれない。
どうする、なんて聞き方をしておいて、欲しい言葉は初めから決まっていた。
それなのに、試すような言い方をしてしまう自分の狡さが嫌になる。
「……明かりを消してくれ。お前はもう下がっていい」
「……もう、お休みになられるのですか?」
「今日はもう寝る。明日は起こしに来なくて構わない」
「……承知いたしました」
何か言いたげなそぶりを見せたものの、結局ルイはいつも通り丁寧に頭を下げて部屋から出て行ってしまった。
途端に空気が冷たくなった部屋の中で、オレは柔らかい羽毛布団を引き寄せる。
わかってはいたが、子猫を抱いたままベッドに潜っても、眠気は一向にやってこなかった。
「……ルイの馬鹿」
ぽつりと、そんな恨み言が口をついて出た。
オレが他の側近を連れて出かけただけで嫉妬して、束縛する癖に……肝心なところで手を繋いでいてくれない。
お前が、何が何でも手放さないと言ってくれたのなら、すぐに答えを出すことができるのに。
ゆっくりと、右の耳たぶに触れてみる。
そこにはあの日、ルイが贈ってくれた青薔薇のイヤリングが月の光を反射して煌めいていた。
『僕はね、ツカサくん……あの日からずっと、君を愛しているんだよ』
欲しいのは、そのたった一言だけだ。
……本当は、考えるまでもなく、答えなんて初めからひとつしかないのに。
それを口にすることを躊躇うのはあいつの……オレの弱さだ。
手の甲に口づけを落とされたときに移ったあいつの熱が、オレの身体をゆっくりと侵食するようだった。
***
あれから、ルイとは少し距離ができてしまった。
ちょうど仕事が繁忙期に入ったというのもあるが、それ以前にルイがどこかオレのことを避けているからだ。
原因は言わずもがな、例の求婚のせいだろう。
(……あいつめ、本当に結婚してやろうか)
思わず心の中でそんなことを呟いてしまう。
帝国と併合してまだ数年しか経っていないのだ。
ひとつの国になったとはいえ、元帝国と共和国の民の間の悪感情は完全に払拭されたとは言えないし、法整備などもまだまだ整っていない部分が多い。
解決しなければいけない課題は山積みで、仕事はどれだけしても足りない。
恋愛にうつつを抜かしている場合ではないのだ……オレは、この国の王なのだから。
けれど、多忙を極め、責任感に押しつぶされそうになる度に、ルイと触れ合う時間がオレの心を癒してくれていたのも、事実だった。
「陛下、今よろしいですか?」
「……入れ」
「……失礼いたします」
書類にサインをしながら悶々としていると、今まさに悩みの種となっていた男の声が聞こえて驚いた。
何とか平静を装ってそう答えると、キイと音を立ててゆっくりと扉が開いた。
「執務中に申し訳ありません」
「かまわん、何かあったのか?」
「件の方が、陛下にお話があると……」
「例の件ならお断りしてくれ、今は手が離せない」
「いえ、求婚ではなく、外交のお話だそうです。自国との貿易についても話したいとおっしゃって……」
ルイの言伝を聞いて、少し驚いた。
風来坊かと思っていたが、どうやらそんなこともないらしい。
ただの口実かもしれないが、外交の話と言われれば、王として聞かないわけにはいかない。
「……わかった、すぐに行く」
「陛下」
「……なんだ?」
「……いえ、何でもありません」
何かを誤魔化すように、ルイは微笑んだ。
参りましょうと、エスコートするように差し出された手を取る。
手袋越しに触れる手のひらが、こんなにも寂しいのは初めてだった。
***
談話室に向かうと、相手はすでにオレを待ち構えていた。
「陛下、私のためにお時間を取っていただき、ありがとうございます」
ニコニコと愛想のいい微笑みを浮かべる王子の周りには、自国から引き連れてきたであろう臣下たちが何人か傍に控えている。
ルイが事前に知らせていたのか、オレの椅子の背後にはネネを始めとした騎士団の護衛が張り付いていた。
「……いえ、ただ用件は手短にお話願いたい。
少し予定が詰まっているもので」
「そうですか……もっとゆっくりお話ししたかったのですが、残念です。
ではさっそく、こちらの資料に目を通していただきたく……」
王子は傍にいた部下に合図をして、何かの書類を持ってこさせる。
それを受け取り、オレに手渡そうとした瞬間……──。
「おやめください!ここは立ち入り禁止です!」
「うるさい!!わたくしを誰だと思っているの!いいからあの泥棒猫に会わせなさい!」
部屋の外からヒステリックな叫び声が聞こえて思わず振り返る。
しばらく言い合うような声が聞こえていたが、やがてバンッと勢いよく扉が開けられ、部屋の中にいた面々がどよめいた。
そこにいたのは、見覚えのない女性だった。
荒く息を吐きだして、いかにも興奮状態といった様子だ。
身に着けている装飾品やドレスはとても煌びやかなので、さしずめどこかの国の王族か貴族のお嬢様だろうか。
「……貴女は!」
「お久しぶりね、自分が捨てた女とこんなところで会うなんて、さぞ驚かれているでしょう?」
女性は吐き捨てるようにそう言うと、音楽の国の第二王子をキッと睨んだ。
会話から察するに、二人は元恋人同士なのだろうか。
何か拗れた事情がありそうだが、他国の王宮まで乗り込んでくるなんてとてつもない執念だ。
「……聞きましたわよ、どこぞの王にたいそうご執心でいらっしゃるとか。
わたくしとの婚約を破棄したのは、そこの泥棒猫にかどわかされたからでしょう?」
「そんなはずはない!貴女との婚約を破棄すると決めたのは父上です。
この方は何も関係ありません!」
「嘘よ!わたくしが、そんな男より劣っているとおっしゃるの!?
そんなこと、絶対に認めないわ!」
ぎろりと、女性がオレのことを鋭くにらみつける。
びりびりと空気を震わせるような殺気に、思わず身がすくんだ。
「……陛下、こちらへ」
「あ、ああ……」
オレの怯えを感じ取ったのか、ルイはオレの手を取って立たせると、背後に庇うように前に立った。
背の高い体躯に守られて、ほんの少し心が落ち着きを取り戻す。
女性はひどく怒り狂っているようで、このままだと何をしでかすか分からない。
張り詰めた空気の中、王子が女性を宥めようとするように、穏やかな声で切り出した。
「……貴女は何か誤解をしているようだ。
もう一度話をしましょう、とりあえずこの部屋から出て……──」
「いいえ、話をする必要なんてありませんわ」
氷の刃のように冷え切った声で、女性は一言そう口にすると、ドレスの袂から何かを取り出す。
鈍色に光るそれを見た瞬間、皆一斉に顔色を変えた。
女性が取り出したのは、刃先の鋭い銀の短刀だった。
「簡単な話だわ。その男がこの世から消えれば、貴方はまたわたくしを愛してくれるでしょう?」
「お、落ち着いてください!そんなことをしても何の意味もない!」
「貴方が悪いのよ……貴方がわたくしを捨てるから……よりにもよってそんな男にうつつを抜かすなんて。
今、その目を覚まさせてあげるわ!」
磨き上げられた短刀の刃先がオレに向けられる。
殺される、とっさにそう思って呼吸が止まる。
逃げなければ、あるいは彼女の誤解を解かなければ、ここにいる皆を巻き込んでしまう。
けれど、恐怖は一瞬のうちにオレの身体に纏わりついて、その場にオレを磔にしてしまう。
狂気と絶望に飲み込まれた彼女には、もう憎き恋敵のこと以外何も見えていないようだった。
「死になさい……──!!」
短刀を握りしめて、彼女は突進するような勢いでこちらに向かって走ってくる。
あまりにも一瞬のことで、誰も反応できない。
ネネがこちらに向かって一歩踏み出すのが見えたが、距離があるせいで間に合わない。
(刺される……!!)
鋭い痛みを覚悟して、思わずぎゅっと目を閉じる。
ひゅっと風を切る音が耳に届いた瞬間、切羽詰まった声がオレの名前を呼んだ。
「ツカサくん……!!」
オレを庇うように、長い腕にぎゅっと抱きしめられる。
一瞬のうちにオレの前に割り込んだ身体に鋭い刃が付きたてられて、鮮血が舞う。
鮮やかすぎるそのワンシーンが瞼の裏に焼き付いて、思わず悲鳴のような声が口から漏れた。
「ルイ……!!」
がくりと力が抜けた身体はそのまま床に崩れ落ちる。
白いカーペットが流れる血によって真っ赤に染まる。
頭の中が真っ白になって、まるで悪夢を見ているような心地だった。
「っ、その女を早く捕らえなさい!!」
ネネの鋭い声によってハッと現実に引き戻される。
何事か喚き散らしていた女性は王国の近衛兵に押さえつけられ、床に組み伏せられる。
オレは無我夢中で倒れているルイに駈け寄り、縋るように声をかけた。
「ルイ、ルイ!なんで……っ!」
「つ,かさくん……よかっ,た、ぶじ、みたい、だね……」
「馬鹿!なにも……何も良くないだろう!」
オレはとっさに、絶え間なく血が流れる脇腹を全体重をかける勢いでぐっと両手で強く押さえつける。
新しく仕立ててもらったばかりの服の袖口が瞬く間に真紅に染まっていく。
傷口を押さえられて痛むのか、ルイが苦しそうにうめき声をあげた。
「つかさ、く……ふく、が……よごれて、しまうよ……ごほっ」
「そんなことどうでもいい!!いやだ、るい……いやだ……っ」
これ以上ないくらい強く押さえつけているのに、手のひらの隙間からどんどん血が滴り落ちていく。
ドクドクとあふれ出すそれは生温かくて、ルイの命がどんどん流れ出ていくような気がして、恐怖と不安で涙が零れた。
「……なか、ないで、つかさ、く……」
「るい……るい!」
零れ落ちた涙がぱたぱたと降り注いで、ルイの頬を濡らしていく。
忘れていたんだ、ずっと……何度も、経験してきたことだったのに。
まだ冷たい檻に囚われていた頃、何度も、何度も……泣いたのに。
「つかさ、く……ごめん、ね……」
「……ルイ?」
オレの涙を拭おうと伸ばされた手は、頬に触れることなくぱたりと力なく落ちた。
長い睫毛が伏せられて、ゆっくりと瞼が閉ざされていく。
背筋が一気に凍り付いて、身を焦がすような激情が腹の底から湧き上がってくる。
どこにぶつければいいかわからない、この感情が怒りなのか、悲しみなのかすらもう、わからないのに。
少しずつ冷たくなっていくルイの身体に縋りつきながら、オレは胸の内で暴れまわる獣に身を任せて全力で泣き叫んだ。
***
深い海の中を揺蕩っているような心地だった。
どこまでも広く、深い海。
こんなところにいたらあっという間に迷ってしまう。
誰かの鳴き声がずっと頭の中でリフレインしている。
今すぐに、彼を泣き止ませてあげなければいけないのに。
身体が重い……指一本すら満足に動かせない。
どんどん沈んでいくような気がして、息が苦しい。
途方に暮れていると、不意に僕の手を誰かが掴んだ。
そのまま引き寄せられて、そっと唇が重なる。
たったそれだけで呼吸ができるようになって、意識がどんどん引き上げられていくような気がした。
「う……ん?」
重たい瞼を何とかこじ開けると、見慣れた自室の天井が映る。
意識が戻ったばかりだからか、まだ視界が霞んでいて、頭の中がぐらぐらする。
どうやら自分はベッドの上に寝かされているのだということがようやくわかった。
「い“……ッ!」
何とか身体を起こそうと試みた瞬間、ズキンと脇腹のあたりに鈍い痛みを感じて思わずうめき声が漏れる。
そのおかげで曖昧だった記憶が少しずつ蘇ってきた。
僕はツカサくんを庇って刺されたのだ、大分深く刺さった感触があったから正直生きて帰れる気がしなかったが、この身体は思いのほかしぶといらしい。
「……早く、ツカサくんの所に行かないと」
記憶に残っているのは、ここ数年見ていなかった彼の泣き顔だ。
綺麗な顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくる彼の表情を思い出すと、いても経ってもいられなかった。
まだ傷が癒えていない身体は動かすたびに悲鳴をあげるが、こんなことにいちいち気を取られていられない。
彼のとことに行こうとなんとか身体を起こしたとき……ガチャリと部屋のドアが開いた。
「……起きたか」
「!ツカサくん……!」
ツカサくんは僕の姿を視界に移すと、つかつかと迷いなくこちらに歩み寄ってくる。
彼は、泣いていなかった。
それどころか少しも動じていない。
正装を身に纏っていなくてもわかる。
目の前のその人は、僕の恋人の“ツカサくん”ではなく、強く凛々しいこの国の“王”だった。
「……身体は、もう大丈夫なのか?」
「……ええ、まだ少し痛みますが、この程度なら問題ありません」
「そうか……だが、あまり動かない方がいい。
傷が完全に塞がるには時間がかかるだろうと、医者が言っていたからな」
「……お気遣い、感謝いたします」
ツカサくんは僕の身体をもう一度ベッドに沈ませると、温かい羽毛布団を肩まで引き上げてくれた。
その横顔はどこか思い詰めているように見えて、嫌な予感が胸を掠める。
その予感は、本当に悪いことに当たってしまうようだった。
「……お前に一つ、伝えておかなければならないことがある」
「……何でしょうか?」
ベッドのヘッドボードに背を預けている僕を、ツカサくんはじっと見つめる。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……ルイ、今日でお前のロゼの任を解く」
「……え?」
彼の口から告げられた言葉にピタリと思考が停止する。
言われていたことの意味はすぐに分かったのに、脳が勝手にそれを理解することを拒む。
ツカサくんはそんな僕の心を置いてけぼりにしたまま、淡々と話を進めた。
「躊躇いなく自分の身を危険にさらし、死に急ぐような奴をオレの傍には置いておけない。
無駄に死人を出すわけにはいかんからな」
「ツカサくん、待って……」
「お前の処遇については後日検討する。
しばらくは休暇を取り養生しろ、わかったな」
「……お待ちください、陛下。私は……」
「話は以上だ。異論は認めない」
一方的にそれだけ告げると、ツカサくんはくるりと僕に背を向けた。
とっさに身体を起こして彼の手を掴む。
塞がりきっていない傷口の痛みさえ、今はまるで感じない。
一国の命運を握るには小さすぎる手だ。
いつも優しく僕を包み込んでくれる手……今はそれが、頼りなく震えていた。
「……我が主(マイロード)、どうかそのお顔を私に見せていただけませんか。
貴方の星空のように美しい瞳を、この目に焼き付けたいのです」
このまま彼の隣を離れるなんて、冗談じゃない。
あの日、誓ったのだ……望まれる限り、傍にいると。
僕だけは、君を一人にしないと。
「……るい」
ゆっくりと僕の方を振り返った彼の琥珀色の瞳からは、大粒の涙がとめどなく流れ落ちていた。
凛々しく厳格な王の仮面は剝がれ落ち、ただの寂しがり屋の青年に戻る。
立ち尽くしながらさめざめと涙を零す彼は、まるで魔法が解けたシンデレラのようだった。
「……おいで」
「……嫌だ」
「相変わらず変なところで意地っ張りだな君は……そういうところも可愛いけれどね」
「っ……!」
掴んだままの手を引き寄せると、彼の身体は僕の望むままベッドに倒れこんで、腕の中に収まる。
バタバタと抵抗する腕を少し押さえつけて、もう絶対に離すまいと彼の背中をぎゅっと抱き締めた。
「も、いやだ、離せ……っ」
「おや、今日はずいぶんつれないじゃないか。君は僕の恋人だろう?」
「もう、別れる……っ、こんなことになるくらいなら、もう……っ」
「へえ、それで……僕と別れて、次は誰を虜にするんだい?
まさか、あの気取った王子と一緒になる気じゃないだろうね?」
不意に思い出した、もし自分が彼の求婚を受け入れたらどうするのかと、僕にそう尋ねた時の彼の表情を。
不安げに揺らめいて、縋るように僕を見つめていた琥珀色の瞳を。
彼が欲しがっている言葉はわかっていたのに……僕は。
「……すまない、あの時の言葉を撤回してもいいかな」
「……あの時?」
格好つけたことを言って、彼の幸せを願っていると思っていたけれど……本当は、ただ意地を張っていただけだ。
他の男からの贈り物を、君が幸せそうに愛でていたから、なんだか悔しくて、嫉妬して。
同時に、不安になった……僕と君では立場が違うのだと、実感してしまったから。
このまま君の隣にいていいのか、わからなくなった。
けれど、僕が傷ついたせいで瞼が真っ赤に腫れるまで泣いて取り乱す君を見たら、そんな憂いはもう、すぐに消し飛んでしまった。
「……僕は、この命の灯が消えるその瞬間まで、君のことを離さない。
相手が王子でも、悪魔でも、神様でも関係ない……この場所はもう、誰にも譲らないよ」
君の隣、君の心の一番近いところにいつだって僕の存在があってほしい。
君がいつも僕の心を独り占めしているように、同じくらい、僕のことで頭をいっぱいにしてほしい。
「……君のことが好きだよ……この世界の誰よりも、大好きなんだ」
ツカサくんの大きな瞳がさらに見開かれ、やがてじわじわと涙の膜を張った。
近くで見ると、彼の瞼が赤く腫れあがっているのが分かる。
いったい、どれだけ泣いたのだろうか……彼をこんなにも悲しませてしまったことが不甲斐なくて、けれどそれと同じくらい愛おしくてたまらなくて、僕は彼の瞼をそっと親指で撫でた。
「っ、もっと早く言え、馬鹿……!」
「い“っ!ちょ、つかさく……!?」
頭突きをするような勢いで、ツカサくんは僕の胸元に顔を埋めた。
彼の涙が、僕のシャツをじわじわと濡らしていく。
服にしわができるほど握り締めた手が、痛々しいほど震えていた。
「……怖かった……眠っているお前を見ている間ずっと……もしかしたら、このまま目覚めないんじゃないか。
もう二度と、お前に好きだと伝える事すら、できないんじゃないかって……っ」
「……すまない、不安にさせてしまったね。
僕は大丈夫だよ。ほらこの通り、ピンピンしているだろう?」
「今回は運が良かっただけだ!
オレの傍にいたら、またこんな風に傷つくかもしれない。
次も無事でいられる保証はない……最悪、命を落とすかもしれないんだぞ」
「……ツカサくん」
「……オレは、嫌だ。オレのせいでお前が傷つけられるのは……ましてや、死んでしまうかもしれないなんて」
王と従者として、あるいは恋人同士として穏やかな日々を過ごすうちに、少しずつ思い出すことも少なくなったと思っていたのだが。
彼は元々、恋人(ラバー)人形(ドール)だ。
命じられるままに愛して、演じて、偽り、殺す。
それゆえに、人の“死”には人一倍敏感だ……今回の件で、忘れかけていたその恐怖がフラッシュバックしてしまったのだろう。
永遠に失うくらいならと、自分から僕を遠ざけようとするくらいには。
「……僕は死なないよ。
君のせいで、死んだりしない……あの時も、言っただろう?」
「……つい今しがた死にかけたばかりのくせに、どの口がそんなことを」
「そうだね……君は怒るだろうけれど、僕は少し嬉しかったよ。
やっと、借りを返すことができたからね」
「……借り?」
「ふふ、まさか忘れてしまったのかい?
僕と君が、まだ“恋人ごっこ”を続けていた時の話さ。
牢屋から脱獄しようとした僕を庇って、君が腕を撃たれただろう?」
僕にとっては、思い出したくもない苦い記憶だ。
帝国から彼を奪還した後、すぐに治療をしたものの、その傷跡は完全に消すことはできず、今もその腕にうっすらと残っている。
「何の因果かわからないけれどね……互いの身体に相手を守ろうとして受けた傷跡が残っているなんて、ロマンチックだと思わないかい?」
「……そんな馬鹿なことが言えるくらいなら、大丈夫そうだな」
おどけたようにそう口にすると、ツカサくんはやっと少し安心したようで、表情を和らげた。
彼は少し体を起こして履いていた靴をベッドの傍に放り投げると、布団にもぐりこんでくる。
そして、僕の身体に寄り添うようにぴっとりとくっついてきた。
「つ、ツカサくん……?」
「なんだ……このオレが添い寝をしてやろうというのに、不満か?」
「いや!それはぜひとも歓迎したいところなのだけど!
ほら、ここのベッドは君の部屋のものより狭いだろう?だからね……」
「二人くらいなら余裕で寝られるだろう。
それに……少しくらい狭い方が、お前とくっついていられる」
ぎゅっと抱き着かれて思わず呻き声が漏れた。
可愛い、可愛すぎる、何なんだこの生き物は。
彼の頬にそっと手を添わせると、もっと触れてほしいとでも言うように自分の手を重ねてきた。
「るい……もっと触ってくれ。
お前がここにいることを、もっと実感したいんだ。
もっとオレに触れて……愛してくれ」
「……君ねえ、どうしてよりにもよって今、そんなことを言うのかな」
いまだにじくじくと痛むこの腹の傷さえなければ、全力で抱き潰しているというのに。
もっと愛してほしいなんて、滅多に言ってくれないくせに……ろくに動けない今、そんな可愛らしいことを言うなんて酷すぎるだろう。
「……愛しているよ、これ以上ないくらい。
僕はここにいる……いつでも、君のすぐ傍にいるよ」
「ん……」
求められるままに唇を重ねると、彼の腕が僕の首に回ってより口づけが深くなる。
こんな風に触れ合うのは久しぶりかもしれない。
ここ最近、彼とは距離が出来てしまっていたから。
ツカサくんが幸せになれるのならと、一度は手放す決意さえしたというのに……こうして触れあっていると、どうして自分がそんなことをほんの一瞬でも考えられたのか分からない。
君が傍にいないと呼吸さえできないほど……溺れているのは僕の方なのに。
「離さないでくれ……もう二度と、お前と離れたくない」
「……ああ、もちろん」
もう一度、それから何度でも、触れ合う度に唇が溶けそうだった。
溜め込んだ不安を吐き出そうとするように、彼は幾度となく僕からの愛情を強請る。
求め疲れて意識が薄れてくるまで、僕は彼にひたすら想いを注ぎ続けた。
***
心配性の主に二週間みっちり休暇を取らされた後、僕はロゼの仕事に復帰した。
と言っても、一週間も経たないうちに傷はあらかた塞がり、元通り動けるようにはなっていたのだが。
どうやらそれは僕の驚異の回復力がなせる業らしく、医者は目を丸くしていた。
『生命力化け物すぎでしょ、心配して損した』
と、十年以上付き合いのある幼馴染から辛辣なコメントまでいただく有様である。
とはいえ、僕の身体が一刻も早く傷を治そうと躍起になるのもわかる。
毎夜僕の部屋を訪れては、悲しそうに眉を下げる彼の表情を見たら。
そんな優しすぎる彼が、傷が治りきっていないのに恋人らしい触れ合いを許してくれるはずもなく。
結果、二週間もまともに彼に触れていない、正直気が狂いそうだ。
そして待ち望んだ休暇明けの日、今日こそはたっぷり溜め込んだ欲求を発散しなければ気が済まない。
そんなどうしようもない煩悩を隠しながら黙々と仕事をして、そろそろ一日の業務が終わるかと思われたとき……。
待ち望んだ瞬間が、やってきた。
「ロゼ、ご苦労。今日はもう終わりでいいぞ」
「はい、承知いたしました」
決算書類その他諸々の資料が入ったファイルを棚に収めて一息つく。
僕(ロゼ)が不在の間も、執務は皆こなしてくれていたようだが、やはり公共事業や法整備などの重要な仕事は僕に頼られることが多くなる。
溜め込んだ仕事を片付けるにはもうしばらくかかりそうだ。
思わず深い溜息を吐き出したとき……不意にくいっと誰かに服の袖を引かれた。
「……ルイ」
本名で呼ばれて思わす視線を向けると、何故か頬を赤く染めたツカサくんが僕の服の袖を握っていた。
「その……今日、オレの部屋に来てくれないだろうか。
いろいろと話したいこともあるからな……それに」
「ツカサくん……?」
「な、なんでもない!その、とにかく頼む。
お前の予定が空いていればだが……」
こんな日も落ちる時間に予定などあるはずがない、仮にあったとしても強引にスケジュールをこじ開けるだろう。
いつだって僕の最優先事項は彼だ。
そんな彼から部屋に来てほしいと言われるなんて……これは期待していいのだろうか。
「……シャワーを浴びたらすぐに行くよ、部屋で待っていてくれるかい?」
「あ、ああ!待っているぞ!」
ではな!と踵を返して全力疾走する彼の後姿を見送って、思わずその場で頭を抱えたくなる。
どうやら僕は、このどうしようもない欲望と一生付き合っていかなければならないようだった。
***
部屋に戻るなりシャワーを浴びる。
煩悩まみれの脳内を洗浄するためにも、いっそ冷水で浴びたいくらいだった。
浴室から出てびしょびしょの髪を乾かしている間も、頭の中は愛しい恋人のことでいっぱいだ。
思ったよりもいろいろとキていたらしい。
仕事着よりはラフなシャツに着替え、彼の部屋に向かおうと廊下に出た時……あまり顔を合わせたくなかった人物とばったり出くわしてしまった。
「ああ、君か。ちょうどよかった。
明日、国に帰ろうと思っているんだ。よければツカサ様にもそう伝えてくれるかな」
「え、明日ですか……?」
ずいぶん急な話だ。
それに、国に帰るということは、つまり……。
「……どうやら、私に勝ち目はないようだからね。
負け戦はしない主義なんだ、引き際くらいは潔くしなければね」
「……求婚の件は、なかったことになさると?」
「そう伝えてくれて構わないよ」
どこかさっぱりした表情でそんなことを言われてつい驚いてしまう。
散々高価な贈り物をしたり、彼と接触しようとしたりしていたのだから、何かしら返事を得るまで粘るつもりだと思っていたのだが……。
「……あの方には参ったよ。
もう想いを伝える機会などないだろうと諦めていたのに、奇跡的に二度目のチャンスが巡ってきた。
だから、今度こそ物にするつもりで勇んでやってきたというのに……結局一度も、私のことを見てはくださらなかった」
「……二度目、とは?」
音楽の国の第二王子によると、前にも一度、ツカサくんに告白しようと思ったことがあったのだという。
まだほんの子供だった頃、とある夜会で偶然目にした彼に一目惚れしてしまったらしい。
遠目に眺めるだけでは飽き足らず、我慢できずに想いを告げようと、ある晩、彼はツカサくんの後を追いかけた……ところが、中庭にでると、ちょうど他の男が彼に求婚しているところだった。
「一輪の青薔薇を差し出して、僕と結婚してほしいと、そう迫っていて……二人とも、まだほんの子供だったが、私にはまるで映画のワンシーンのように映ったよ」
「……そんなことが」
「愛らしく頬を染めて、その男の求婚に頷くツカサ様を見て、私はその場から動けなくなってしまった。
目の前で想い人を奪った憎き男のことは今も覚えているよ……ちょうど、君と同じように紫陽花のような薄紫の髪を持つ子供だった」
「……っ!?」
夜の中庭、青薔薇、紫色の髪の子供、求婚。
ここまで記憶と一致しているなんて、偶然であるはずがない。
あの夜、彼に心を奪われた男がもう一人いた。
少しだけ運命が違っていたら、彼の方が先に想いを告げていたかもしれない。
そうしたら、未来は変わっていたのだろうか。
「……君が刺されて意識を失った後、ツカサ様はずっと君の傍について、神にも縋るような面持ちでその手を握っていたよ。
周りの者がどれほど休むように言っても聞かず、君の傍から動こうとしなかった。
あんな風に見せつけられてしまっては、割り込もうという気すら起きないね」
「……」
「ひとまずは、君に譲ろう……だが、負けたわけではない。
君に嫌気がさしたら、いつでも私の元へ来るよう、あの方に伝えておくれ」
「……この目が黒いうちは、そんなことは万が一にでも起こりえません」
「ふふ、大した自信だね。しかし、それくらい言ってくれる男でなければ張り合いもない。
その起こりえない未来に、期待するとしようか」
彼は軽い調子でそう口にすると、ひらりと手を振って僕の傍をすり抜けていった。
ひとまず、脅威は去ったということだろうか。
やはり諦める気はさらさらなさそうなので、胃が痛い日々はまだまだ続きそうだ。
手強い恋敵の背中を見送った後、僕は長い廊下を歩き始めた。
***
シャワーで汗も流したし、髪も乾かした。
ベッドメイキングも完璧だ、あとはあいつがこの部屋にくるのを待つだけ。
手持ち無沙汰なのに何もやる気が起きなくて、ベッドの上にちょこんと座りながらそわそわしている。
久しぶりすぎてまるで生娘のように心臓がバクバクと高鳴る。
震える手を押さえつけた時、コンコンとノックの音が耳に届いてビクンと身体が跳ねた。
「陛下、今よろしいでしょうか?」
「は、入れ……!」
緊張のあまり少し声が上ずってしまったのが恥ずかしい。
扉が開くと、ルイはゆっくりとベッドの方に歩み寄ってくる。
そっと腕を広げると、ルイはオレの身体を抱きしめたままベッドに倒れこんだ。
「……傷はもう大丈夫なのか?」
「ああ、もう完治したよ。やっぱり傷痕は残ってしまったけれどね」
「そうか……よかった」
傷のある脇腹の辺りを服の上からさらりと撫でると、くすぐったいよと笑われた。
オレより大きなこの身体に抱かれるのは久しぶりだ。
気を引き締めなければと思うときでも、どうしてもほっとしてしまう。
「……僕が、恋しかったかい?」
「……当たり前だろう」
「ふふ、僕も恋しくて仕方なかったよ……僕の恋人ときたら、夜伽はともかく、添い寝すら許してくれないのだから」
「……同じベッドに入ったとして、お前が大人しく寝てくれるとはとても思えなかったからな」
「……相変わらず君は聡明だね」
とめどなく降ってくるキスの雨を受け止めて、静かにシーツの海に溺れていく。
身体が沈まないようにルイの首に縋るように腕を回すと、少し冷たい手がするりと服の裾から入り込んできた。
「っ!きゅ、急に触るな……!」
「おや、僕に愛されたいと思って部屋に呼んでくれたんじゃないのかい?
てっきり夜のお誘いだと思っていたのだけど、違ったかな?」
「ち、ちがわないが……い、いちいち言葉にしなくていい!」
期待していたことを見透かされて、羞恥のあまり頬が熱を持つ。
恥ずかしさを誤魔化すためにルイの胸に顔を埋めると、とくんとくんと規則正しい心音が聞こえてくる。
ルイが生きている証、身体が呼吸をしているその音を聞いているのが心地よくて、オレはルイの胸元に指を滑らせると、そのまま心臓の上にぴとりと耳を当てた。
「うん……ちゃんと生きているな」
「……生きているよ、僕の心臓の音が聞こえるだろう?
君をこうして抱きしめている間は、いつも以上に激しく脈打っているんだ」
「ははっ、本当だ……いつもより、少しだけ鼓動が早いな」
とくとくと少し早くなった心臓の音を聞いて、思わず頬が緩む。
もう大丈夫だ、怖がることはない。
「これからもずっと、オレの傍にいろ。
オレに“愛”を教えた責任は取ってもらうぞ。
先に逝くことなど許さんからな」
「ふふ、もちろん……最後まで、君を一人にしたりしないよ。
望まれる限り、いつまででも傍にいるとも」
甘いキスに酔わされるまま、ふたりきりのセカイに堕ちていく。
何もかも、初めから決まっていたのかもしれなかった。
どこにいても惹かれ合う運命だ、決して離れることなどできない。
「……愛してるぞ、ルイ」
「……僕もだよ、これから先も、君だけをずっと……愛しているからね」
夜が明けるまで、オレはこうして求めてしまうのだろう。
ゆらゆらと揺らぐ意識の向こうで鮮やかに色づく青薔薇を見たような気がした。
物語は続く、オレの身体が時を経て朽ち果てるまで。
この腕に抱かれていたい、それが今は至上の幸せなのだから。
触れた唇から互いの身体が溶けあってしまいそうな幸福感を噛みしめながら、肌の上をなぞる不埒な熱に身を委ねた。