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    事故チューから始まるルツ

    ***  
    それは、神様の悪戯か、あるいは運命の気まぐれか。
    桜舞う、穏やかな春の昼下がり、その偶発的事故は突然起こってしまった。


    「司くん……!」


    類が弾かれたように立ち上がり、オレの方に駆け寄ってくる。
    けれど、間に合わないことは頭のどこかで分かっていた。
    ぐらりと体が前に傾いて、コントロールが効かなくなる。
    焦燥感に駆られた声が叫ぶようにオレの名を呼んで、伸ばされた腕の中に為すすべなく倒れこむ。
    それでも、想定外の転倒の勢いは殺せず、そのまま二人して床に転がってしまって。
    互いの顔が近づいて、あ、と思った瞬間……唇が重なってしまっていた。
     

    「ん……っ!?」


    唇に驚くくらいの柔らかさを感じるとともに、類の無駄に整った顔が目の前いっぱいに広がって頭の中が真っ白になる。
    どうして、こんなことになってしまったのだろう。
    確か、いつものように類と昼食を食べる約束をしていて。
    昨日書き上げた脚本がとてもいい出来だったから一刻も早く見てもらいたくて。
    屋上で類の姿を見つけて、駆け寄った時、段差に躓いて……それで。


    「す、すまない……!類、怪我はないか!?」

    「あ、ああ、僕は平気だけれど……」


    慌てて類の上から飛びのくと、その手を掴んでひっぱりあげる。
    困惑したような類の表情を見ると、茹で上がりそうな羞恥心と途方もない罪悪感が押し寄せてきて、オレは思わず頭を抱えた。


    「お、オレはなんてことを……っ。よりにもよってお前に、く、口づけをしてしまうなんて……!」


    ありえない、最悪だ。
    こういうことは、互いに心から愛する人と、これ以上ないくらいドラマティックなシチュエーションでするべきだというのに。
    悲劇の主人公も引くレベルの悲壮さを漂わせながら項垂れるオレを見て、類は困ったように苦笑した。


    「落ち着いてくれ、司くん。
     これは不幸な事故だよ、君が自分を責めることはない」

    「だ、だが、故意ではないとしても、友人同士でこんなこと、許されないだろう……!」

    「男同士のキスなんてノーカンだよ。互いにその気があったわけではないんだから。
     僕も気にしていないし、君も忘れてくれるとありがたいな」


    そう言ってにこにこと微笑む類は、本当に微塵も気にしていなさそうだった。
    事故とはいえ、突然友人にキスをされたというのに、少しも取り乱した様子がない。
    もしかして、こういうことに慣れているのだろうか?                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           
    さらりと受け流されて拍子抜けしていると、類は話題を変えるように朗らかに口を開いた。


    「ところで、なぜそんなに急いでいたんだい?
     僕に何か用があったのかな?」

    「おお、そうだ。昨日出来上がったばかりの脚本を見てもらいたくてな。
     今回は自信作だぞ!」

    「おや、それは楽しみだ。それじゃあ、さっそく見せてもらえるかい?」


    何事もなかったかのように仕切り直されて、流れるように次のショーの演目の話に移る。
    いろいろと案を出しながら、時々とんでもない無茶な提案をしてくる類にツッコミを入れて。
    そうしているうちに、オレは少しずついつもの調子を取り戻してきた。
    そうだな、これは不運な事故だ。
    今日はいつもより早くベッドに入って、こんなことさっさと忘れてしまおう。







    「って……そんな簡単に割り切れるかー―――!!」

    「もう!お兄ちゃん、声抑えて!下まですっごく響いてる!」

    「はっ!す、すまん!」


    家に帰って冷静になった瞬間、思わずそう叫んでしまって、階下にいた咲希に怒られてしまった。
    すごすごとベッドの方に戻り、そのままばたんと倒れこむ。


    「うう……我ながらなんてことをしでかしてしまったんだ。
     は、初めてだったのに……!」


    類はノーカンだと言って笑っていたが、オレはそんなに軽い気持ちで受け流すことはできない。 
    目を閉じれば先ほどのことが驚くほど鮮明に頭の中に蘇る。
    触れた唇の柔らかな感触、仄かにセーターから香る柔軟剤の匂い、驚いたように見開かれた金色の瞳。
    思い出すだけでそわそわと落ち着かない気持ちになる。


    「……明日、あのことを皆に話すつもりでいたのに,それどころではなくなってしまったな」


    一晩かけて決めた覚悟がめちゃくちゃだ。
    この時間が永遠であればいいと,心のどこかで願っていた。
    もっと遠く、もっと高みへ行ってみたいと思いながら、ずっと四人であのステージでショーをしていたかった。
    それでも時間はその流れを止めてくれない。
    前を向いて、大人にならなければ。
    あいつらの座長でいられる時間は……もうあまり残されていないのだから。

    ***

    「え!?高校を卒業したらアメリカに行く!?」

    「ああ!やはり世界一のスターを目指すためには、海外で経験を積むのが一番いいだろうと思ってな!」


    予想通り、寧々の素っ頓狂な声がワンダーステージに響く。
    突然のオレの話に、えむや寧々はもちろん、類までもが度肝を抜かれたようだった。


    「実は、今度ライリーエンターテイメントが後進育成のために新しくアクターズスクールを創設するらしいのだ。
     そこでライリーさんがオレを一期生に推薦すると言ってくれた。
     またとないチャンスだ、無駄にはできまい」

    「そ、それじゃあ、司くん、高校を卒業したらワンダーランズ×ショウタイムの座長さんじゃなくなっちゃうってこと?」

    「……ああ、そうなるな」


    寂しそうに瞳を伏せるえむを見て、覚悟していたはずの痛みがじわじわと胸の奥に広がっていった。
    初めにオレをこのステージと出会わせてくれたのはえむだ。
    一緒にショーをやってほしいと、そう言ってくれた。
    皆がバラバラになった時も、オレを信じて、誰よりも早くついてきてくれた。
    そんな大切な仲間の期待を裏切ることに、胸が痛まないはずがなかった。


    「伝えるのが遅くなってすまない。オレなりにずっと迷って、考えていたんだ。
     だが、夢に一歩でも近づくため、決断することにした。
     オレの個人的な事情で、お前たちにまで迷惑をかけてしまうこと、申し訳なく思っている」


    引き延ばしても仕方がないだろうと思いつつ、皆に話すのは怖くてたまらなかった。
    いつかこんな日が来るかもしれないと考えたことはあっても、真剣に悩んだことはなくて。
    ずっとこの場所にいられるような気がしていた……ネバーランドを望むピーターパンの気持ちが、今なら少しわかる。
    誰も何も言えず、いつも賑やかなステージに似つかわしくない重たい沈黙がオレ達を包んだ。


    「……素晴らしいじゃないか!」


    心なしか、いつもより明るい声で静寂を切り裂いたのは類だった。
    芝居がかった仕草で腕を大きく広げ、愛想のいい笑みを浮かべながらオレに語り掛ける。


    「司くん、君が迷う必要などないよ。海外の演劇学校で学べるなんて、とても貴重な機会だ。
     僕たちのことは気にせず、胸を張って行ってくるといい」

    「……わたしも、応援する。
    あんたが夢に向かって進もうとしてるのに、わたしたちが足引っ張ることなんかできるわけないでしょ」

    「うん……四人でショーができなくなっちゃうのは寂しいけど……すごく、すっごくさみしいけど……っ、でも、あたしも、つかさくんにゆめをかなえてほしいから……っ」

    「ああ、もう、今から泣かないでよ、えむ」


    涙ぐんでしまったえむをなだめるように、寧々が優しく桃色の髪を撫でる。
    仲間たちの温かな応援に胸が熱くなる。
    本当に、いい友に出会うことができた……皆とこの場所で巡り合えた幸せを噛みしめながら涙が滲みそうになるのを必死に堪えた。


    「君はピアノ弾きのトルぺを演じきってから、役の演じ分けができるようになってどんどん実力が上がっている。
     君ならばきっと、世界一のスターになるという夢を叶えられるよ」


    類は迷いのない瞳でそう言い切ると、オレの背中を押すようににこりと微笑んだ。
    寂しがって欲しかった、なんて……そんな甘えたことを思っていたつもりはなかったのに。
    ほんの少し、切ない気持ちになるのは何故なのだろうか。


    「……ああ、感謝する。
     だが、オレが向こうに行っても、ワンダーランズ×ショウタイムがなくなるわけではない!
     オレがもっと成長して帰ってきた暁には、またこの四人でショーをするぞ!」

    「うん……うん……っ!ぜったい、ぜーったい!また一緒にショーをやろうね!司くん!」

    「当たり前でしょ、帰ってこなかったら許さないから」

    「ふふ、その時は司くんだけではなく、僕たちも今よりずっと成長しているだろうからね。
     再開の日が今から楽しみだ」


    オレの手を握ってぶんぶんと振り回すえむに引っ張りまわされながらも、自然と笑い声が口から零れた。
    こうして皆の優しさに触れるたび、ここを離れるのが惜しくなる。
    けれど、大丈夫だ……オレがいない間、三人がオレの居場所を守ってくれる。
    だから最後までオレらしく、胸を張って笑っていよう。


    「それじゃあ、司くんとお別れする前に、いっぱいいっぱい思い出作ろうね!」

    「ああ、あと一年、悔いのないように過ごさねばな。
     と、いうわけで、今日も皆で練習に励むぞ!」

    「あいあいさー!!」

    「まったく、いつもにもまして騒がしいんだけど……まあ、これくらい賑やかな方がわたしたちらしいかもね」


    えむの元気な声がステージに響き、寧々が呆れながらも満更でもなさそうに輪の中に入ってくる。
    いつもと変わらぬ、オレの大切な日常。
    皆がオレの夢を応援すると言ってくれて、不安と緊張感から解放されたからか、オレはすっかり気が抜けてしまっていた。
    だから、気づけなかった。
    オレを見つめる類の瞳に,暗い影が差し込んでいたことを……──。


    ***

    「司くん!早く早く!」

    「ほら、もっときびきび歩いてよね」

    「わかったから引っ張るんじゃない!
     服の袖が伸びるだろうが!」


    夜の帳が落ち切った未明、オレはえむと寧々にぐいぐいと引っ張られながらフェニックスワンダーランドの園内を歩いていた。
    あれから、えむを始めとしたワンダーランズ×ショウタイムの面々は、ことあるごとにオレをどこかに連れまわすようになった。
    四人で一緒にいられる最後の一年、悔いが残らないようにたくさん思い出を作ろう。
    えむが提案してくれたそれを、みんな積極的に実行してくれているようだった。


    「それにしても、流星群を見に行こうだなんて、ずいぶん急な話だな」

    「今年は極大日が少し時期が早まったからね。
     今日を逃すと見つけるのが難しくなってしまうんだよ」
     
    「しかしな、今は深夜の二時だぞ。
     何もこんな時間に流れなくてもいいだろうに……」
     
    「ふふ、星というものは実に気まぐれなものなのさ」


    4月こと座流星群。
    4月下旬に極大を迎える流星群であり、普段の年の流星数はそれほど多くないものの、時折突発的に増加することがある。
    1945年には一時間あたり90個流れたという記録もあり、運が良ければ空を埋め尽くすほどの流星群が見られるかもしれない……らしい。
    全部類の受け売りなのだが……あいつが星に詳しいのは少し意外だった。


    「明日は学校も練習もお休みだから、ちょっと夜更かしして寝坊しても大丈夫だね!」

    「えむ、お前よくあの兄たちから夜間外出の許可をもぎ取ったな……」


    馴染みのあるフェニックスワンダーランドの園内とはいえ、こんなド深夜に鳳財閥のお嬢様が出歩くなんて、うるさく言われそうなものだが。
    大方得意のパッションで乗り切ったのだろう。
    えむに捨て猫のような瞳で見つめられると、何でも許してしまいそうになる気持ちはわかる。


    「ワンダーステージにとうちゃーく!類くん,早く早く!」

    「ふふ、そんなに急がなくても星は逃げたりしないよ、えむくん」


    類は背負っていた大きなリュックを降ろすと、中から大きなブランケットを二枚取り出した。
    ふわふわの温かい素材で作られたそれは、男女二組に分かれて使えば十分寒さをしのげそうだ。
    それから枕代わりのクッション、携帯型ランプ、えむが山ほど持ってきた菓子を用意して、準備は完了だ。


    「……ステージの床、硬くて体痛くなるかなと思ったけど、クッションあると意外と大丈夫そう」

    「えへへ、楽しみだね!お星さまいっぱい見られるといいなあ」


    馴染み深いステージの床にごろんと寝っ転がって、ブランケットを肩まで引き上げる。
    顔を上げると、吸い込まれそうな夜空が視界いっぱいに広がって、自分という存在のちっぽけさを思い知らされているような気持ちになった。


    「ほら、そろそろ始まるよ。
     空を見上げて、流れ星を見つけてみようか」

    「よーし!ぜったいお星さまを見つけるぞー!」

    「ふふ、えむ、張り切りすぎ」


    皆に倣ってオレも夜空を仰ぐ。
    今年の予想では一時間に十個ほどしか流れないらしいので、見つけるのは至難の業だろう。


    「あ!あのピカピカしてるの、お星さまかなあ?」

    「あれは……飛行機かな。残念ながら星ではなさそうだ」

    「……なかなか見つからないね」

    「お星さま、恥ずかしがり屋さんなのかな?
     じゃあ、あたしたちがお星さまと同じくらいキラキラで楽しいショーをすれば流れてくれるかも!」

    「ふふ、それは名案だね」

    「もう……こんな暗い中でショーなんてできるわけないでしょ」


    えむの突拍子もない案に類が便乗し、寧々が現実的なツッコミをしつつ満更でもなさそうに輪の中に加わる。
    いつもと同じ、もうだいぶ肌に馴染んだ光景だ。
    本当は、星なんて見つからなくても構わないと思っていた。
    こんな風に皆でじゃれ合って、笑い合うことができたのなら口実は何だってよかったのだ。


    (望み薄だろうが……オレも探してみるか)


    空を指さしてはしゃいでいる皆をよそに、目を凝らしてじっと空を見つめる。
    こうしていると、少し前の宣伝講演でトルぺの役を演じた時、そのキャラクター像を掴むためによく空を見上げたことを思い出す。
    未だかつてないほど苦労したが、結果的にオレの役者としての幅を広げる貴重な経験になった。


    (……懐かしいな)


    この場所には言葉にできないほどたくさんの思い出が詰まっている。
    ここを離れたら、これから先は一人きりの戦いだ。
    言葉も満足に通じない異国で、数えきれないほどの困難に立ち向かっていかなければならない。
    想像を絶するほどの茨の道だ。
    そういう未来を自分で選んだのに、覚悟を決めて踏み出した足がすくみそうになる。
    己を密かに奮い立たせようともう一度顔を上げた時……──。
    期待していなかった奇跡が、視界の真ん中を流れ落ちていった。


    「!ねえ、今……!」

    「うん!あたしも見つけたよ!キラキラーってお星さまが流れたね!」

    「おい!向こうにも流れたぞ!」

    「これは……すごいね」


    それは、思わず声を失うほど満天に振りそそぐ星屑の雨。
    視界の端でキラキラと弾けては消える宝石のような輝き。
    あまりにも儚く、煌びやかなワンシーン。
    目を奪われずにはいられない美しさに、全員口を閉ざしてただ夜空を見上げていた。


    「これだけ見事な流星雨は僕も初めて見るよ。
     次に見られるのは数百年後かもしれない……まさしく奇跡だね」

    「すごいすごい!お星さま、すっごくキラキラーってして綺麗だねー!」

    「綺麗だけど……やっぱり、ちょっと遠いね」

    「東京のど真ん中だからね。


    「あっ!それなら望遠鏡持って来ようよ!あたしのおうちにお父さんが使わなくなったのがあるんだ~!
     寧々ちゃん、一緒にいこう!」

    「え、ちょっと待ってよ、えむ!」

    「そうと決まればおうちまで競争だよ!よーい、どーん!!」

    「えむ!あーもう、待ってってば!」


    合図とともに全力で走り出したえむを追いかけて、寧々も慌てて駆け出して行ってしまった。
    その忙しない様子を見て、思わず笑みが零れる。

                                                                                                                                                                                                                                   
    「まったく、落ち着きがないな、あいつらは」

    「ふふ、二人とも寂しいんだよ。
     ああして明るく振舞っていないと、泣いてしまいそうになるくらいにね」


    不意にしっとりとした風が頬を撫でて、導かれるように寝返りを打つと、彫刻のように整った顔がすぐ目の前にあってドキンと心臓が跳ねた。。
    一枚のブランケットを二人で使っているのだから当然なのだが、思いのほか類との距離が近いことを実感して鼓動が早まる。
    どこか切なそうな瞳でオレを見つめる類と目が合って、何故か何も言えなくなってしまった。


    「……僕も寂しいよ。
     どうしてだろうね、何の確証もないのに。
    君とはずっと……一緒にいられるような気がしていたから」

    「……それは」


    どういう意味だと問うこともできず、目を逸らすこともできない。
    しばらくそうして静かに見つめ合っていると、不意に類がゆっくりとまばたきをした後、身体を起こした。
    なんとなくつられるようにして、オレも起き上がる。
    ブランケットを引き寄せて、白い息を吐きだしたとき、突然頬に熱い何かが押し当てられた。


    「おわっ!?」

    「ふふ、驚いたかい?
     さっき自販機でたくさん買ってきたんだ。この時期には重宝するだろう?」

    「まったく、普通に渡してくれ」


    いたずらっぽく微笑む類からココアの缶を受け取ってプルタブを開ける。
    そのまま口をつけて缶を傾けると、甘ったるいカカオの風味が口の中に広がって、灯が燈るように指先まで熱が伝わっていった。


    「……お前は飲まないのか」

    「僕は猫舌だからね。火傷したくないし、遠慮するよ」

    「……そうか」


    気まぐれで自由気まま、性格もどこか猫っぽい奴だが、そんなところまで似ているなんて知らなかった。
    出会ってからもう一年、類のことはそれなりに知っている気でいたが、どうやらそれはオレの思い上がりだったらしい。
    ちらりと目を向けると、類はかじかむ指先にはあっと白い息を吹きかけているところだった。
    自然と視線が整った形の唇に引き寄せられて、不意にあの日のことを思い出す。
    悪戯な神様によって不意打ちで奪われたファーストキスのことを。


    (……とても、柔らかかった)


    触れていたのはほんの数秒の間だけだ。
    それでもあの一瞬で、オレの心には消えない何かが刻み込まれた。
    柔らかくて、熱くて、少し乾いていて……ほんの少し、甘い香りがしたような気がする。
    オレはきっとあの時、類の心に触れたのだ。
    だから、あんなに……──。


    (気持ちよかった……って、な、なにを考えてるんだオレは!?)


    ぶんぶんと頭を振って邪な考えを振り払う。
    あれはただの事故だ、互いに忘れようと、あの時二人でそう決めたのに。
    未だに引きずって、こんな風に意識しているなんて馬鹿らしい。
    頭の中ではそうわかっているのに、視線は縫い付けられたように一向に離れない。
    自分でもどうしようもないまましばらく見つめていると、不意に金色の瞳に捕らわれて


    「……僕の顔に何かついているかい?
     そんなに熱烈に見つめられると、さすがに照れてしまうのだけど」

    「すっ、すまない……!」


    困ったように苦笑されて、勢いのまま顔を逸らす。
    ようやく体の自由が戻ってきたことに安堵しつつ、なんだか妙に気恥ずかしくて、しばらく類の方を見られる気がしなかった。


    (おちつけ、静まれオレの心臓……!)


    早くえむと寧々が戻ってきてほしい。
    二人がいてくれれば、このいたたまれない空気も吹き飛ばしてくれるのに。
    四人の騒がしさが恋しくなって思わずため息をつくと、冷たい風がオレの髪をさらっていった。


    「……君がさっき何を考えていたか、当ててあげようか?」

    「……え?」


    不意にそんなことを言われて、反射的に顔を向けると、猫のような瞳が悪戯っぽく細められた。
    星空を反射したような美しい双眼に、何もかも見透かされているような気がして心臓が嫌な音を立てた。


    「……あの時のことを思い出していたんだろう?
     忘れていいって言ったのに、ずっと覚えていてくれたんだね」

    「へ、変な言い方をするな!別にい、いやらしい気持ちで見ていたわけでは……!」

    「ふふ、本当かな?」


    唐突に、類の指先がオレの唇に触れた。
    オレがビクッと身体を跳ねさせるのも構わず、類は弾力を楽しむように押し当てた指先にわずかに力を入れる。
    困惑を隠せないオレをよそに、類は独り言のようにつぶやいた。


    「……キスには、抗うつ効果や鎮痛効果もあってね。
     ストレスの解消にもなるし、いろいろといい効果があるんだよ。
     最近ではキスフレといって、恋愛感情を挟まず、ただキスをするだけの友人を作る人もいるみたいだしね」

    「そ、そんなものがあるのか!?」
     

    最近の若者は貞操観念が緩いと聞くが、まさかここまでとは……オレもその最近の若者の中に入るはずなのだが、まったくついていける気がしない。
    同年代の爛れた現状に衝撃を受ける間もなく、不意に類との距離がぐっと縮まったような気がした。


    「……この間のキスには、まだ先があるんだよ」

    「……先?」

    「そう……あんな、ただ唇を触れさせるだけじゃない。
     もっと、もっと、深く、貪り合うように口づけるんだ。
     そうすると、思わず肌が粟立って、意識も霞むほどの気持ちよさが得られるらしいよ」


    まるで誘惑するように、熱い吐息を孕んだ囁きが鼓膜を揺らす。
    そんな……だって、ついこの間、少し触れ合っただけで、忘れられなくなるくらい気持ちよかったのに。
    あの先があるだなんて……そんなことをしたら、オレはどうなってしまうのだろう。


    「……試してみたくなったかい?
     綺麗な瞳が蕩けてしまっているよ……一体、僕に何を期待しているのかな」

    「……っ」


    おかしい……どうしようもないくらい身体が火照って、視線が目の前の男に釘付けになってしまう。
    嫌でも、わかってしまった……オレは今、欲情しているのだと。
    認めたくない、自分の中に、こんなにも浅ましく、はしたない感情があったことを。


    「ちゃんと言葉にしてくれないとわからないよ?
     僕は、君が望むことなら何だって叶えてあげたいと思っているのに」


    甘ったるい悪魔の囁きが鼓膜を揺らして、長い指が焦らすようにオレの唇を撫でる。
    何時も理性的で澄んでいる瞳は心なしか濁っていて、優しい微笑みの裏にギラギラとした獣のような獰猛さが見え隠れしているように思えた。
    類も、同じなのだろうか。
    同じように、オレを……求めているのだろうか。
    そんなことを考えると、身体がぞくりと震えて、凍えていた指先まで茹るような熱が回った。


    「男同士のキスなんてノーカンだと言っただろう?
     君が罪悪感を覚える必要などないよ……ただ、心が欲しがるままに求めればいい。
     それは、悪いことではないだろう?」


    悪いことではない?……男友達にキスを強請ることが、本当に?
    そんなはずはない、目を覚ませ。
    なんとかして、逃れる術を、言い訳を探して、この甘美な誘惑を断ち切らなくては。
    必死に叫ぶ理性の声は、目の前の甘い微笑みに搔き消されていく。


    「き、着ぐるみが近くにいるだろう……もし見られたら」

    「今日はいないよ。どうやら、えむくんが気を利かせてくれたみたいだね。
     だから、僕たちがここで何をしても……それは誰も知ることはない」


    目の前で、親友の顔をした悪魔が妖艶に微笑んで見せる。
    欲しがっていいよ、穢してもいい……どうせ、誰も知らないのだから。
    ぞくぞくと背中を這い上がってくる未知の感覚が、指の先まで甘く痺れさせる。
    背徳感という名の毒は、悶えそうなほどの劣情を引き連れてあっという間にオレの身体を支配してしまう。


    「……君はただうなずくだけでいいよ。
     全部、僕のせいにしていいから……」


    もう、拒否権なんてないも同然だった。
    巧みな言葉でその気にさせて、視線を捕らえたまま絶対に離さない。
    少しだけ、つま先だけ踏み出して。
    オレの背中を押すのは好奇心なのか、それともただの爛れた欲望なのか。
    少なくとも、恋心なんて綺麗なものではないことは確かで。
    それをわかっていながら、オレはほんの少しだけ顎を引いて見せる。
    たったそれだけで、類には何もかも伝わったようだった。


    「るっ……んぅ……っ」


    心の準備なんてする間もなく、柔らかな何かが口元に押し付けられた。
    あの時と同じようで違う、事故ではなく、意図的に重ねた唇。
    その事実が妙なくらい胸をざわつかせる。
    ドクンドクンと痛いくらいに心臓が音を立てて、止まってしまうのではないかと不安になるくらいで。
    いつの間にか、オレの手の上に、類の大きな手が重ねられていて、まるで逃げられないように拘束しているようだった。


    「るい、もう、やめ……っ、んん……っ」

    「っは……やめてほしい?僕と、こんな風にキスをするのは嫌?」

    「いや……っんん……ふ、あ……っ」


    言えない……嫌じゃないなんて。
    むしろ、もっとしてほしいなんて。
    そんなこと、言ってしまったら、今度こそ壊れてしまうような気がして。


    (……気持ちいい)


    温かくて、柔らかくて、触れ合うと、まるで磁石のように吸い付いて。
    生々しいくらいの人の温もりに、こんなにも安心するのはなぜなのだろう。
    友達なのに、ただのショー仲間なのに、こんなこと、間違っているとわかっているのに。
    類と触れ合うのが気持ちよくて、止められなくて、縋るように類のシャツをしわができるくらい握りしめる。
    ずっとこうしていたい、何度でもこうして口づけたい。
    少しむせそうになりながら、どんどん荒っぽくなるキスを繰り返す。


    (……るい)


    頭が茹ったように、何も考えられなくて、ゆっくりと瞼を下ろす。
    もう、どうなってもいい……身体の力が抜けそうになって、心がぐらりと傾く。
    まだ少し肌寒い春の夜の冷たい風にさらされて、冷えていたはずの唇はすっかり熱を持っていて、互いの温もりを押し付け合うように何度も重ねる。
    もっと、まだ足りない、もっと欲しい。
    思わずそんなことを強請ってしまいそうになった時、貪るように覆いかぶさっていた唇がゆっくりと離れていった。


    「っあ……」


    自然と惜しがるような声が漏れてしまって無性に恥ずかしくなる。
    類は熱を孕んでしっとりと湿ったオレの唇を撫でて、妖艶な笑みを浮かべたまま口を開いた。


    「……今日はここまで、ね」


    どうして……そう尋ねてしまいそうになった時、否が応でもその理由が分かった。


    「司くん、類くん!望遠鏡持ってきたよー!」

    「さすがえむくん、早かったね。競争はどっちが勝ったんだい?」

    「はあ、はあ……聞くまでも、ないでしょ」


    大きなバックを肩にかけたえむがぶんぶんと手を振っている横で、寧々が今にも死にそうな顔をして荒く息をつく。
    その様子を見れば、大体何が起こったのか察しは着いた。


    「あれれ~?司くん、ぽやぽや~ってしてどうしたの?」

    「もしかして風邪?わたしたちにうつさないでよ」

    「違うわ!さりげなく距離をとるな!」


    二人が返ってきた途端、元の騒がしい空気に瞬時に逆戻りする。
    そんなオレたちを見ながらにこにこと笑っている類もいつもと変わらない様子で、まるで狐にでもつままれたような気持ちになった。


    (……ますます忘れられなくなってしまったではないか)


    えむと寧々が早く戻ってくればいいと、少し前までそう思っていたのに。
    今は、もう少しだけあの夢のような時間が続いてほしかったような、そんな気がしていた。


    ***
    友人とキスをした。
    交際しているわけでもなければそもそも好き合っているわけでもない。
    一時の気の迷いか、思春期の男子高校生のどうしようもない欲求が先行してしまったのかは定かではないが。
    普通そんな出来事があったら多少なりともぎくしゃくしたり、相手を意識したりするものではないだろうか。
    だが、あいつは驚くほどいつも通りだった。


    「やあ、司くん!こんなところでばったり会うなんで奇遇だね。
     ついでに実験に付き合わないかい?」

    「ついでとはなんだ!ついでとは!出会い頭にさらっと人を実験台にするな!」


    顔を合わせる度に繰り広げられるこんな会話も前と変わらない。
    あまりに変化がなさ過ぎて、数日前の出来事が悪い夢だったのではないかと思ってしまうくらいだった。
    しかし、あの夜に皆で撮った写真も、夜空を大量の流星群が流れる動画も、きちんとオレのスマホに残っている。
    あのキスは……まぎれもなく現実だった。


    (……オレばかり心を乱されているようだ)


    友人としての関係が壊れてしまうのではないかと、気が気でなかったというのに。
    もし浅ましい欲に負けて、かけがえのない仲間を一人失うことになったとしたら。
    きっとオレは、オレ自身を許せないだろう。
    けれど、そんな深刻なことを考えていたのはオレだけのようだ。
    拍子抜けするほど穏やかな日々に、ほっとするのと同時に、どこかもやもやとした気持ちも感じていた。

    ]
    (うおお!遅くなってしまった!急がねば!!)


    とある日の放課後、オレは教室を飛び出し全力疾走で正門に向かっていた。
    体育祭の種目の出場者を決めるために帰りのHRが長引いたせいだ。
    用事があるときに限ってこういう間の悪いことが起こる。
    学校の玄関口から外に出ると、門に寄りかかってスマホを弄る友人の姿を見つけた。


    「類!すまん!待たせたか?」


    オレがそう声をかけると、類は顔を上げてニコリと微笑み、手にしていたスマホを鞄にしまった。


    「やあ、司くん。大して待っていないから大丈夫だよ。
     そんなに急いで走ってくることはなかったのに」

    「そういうわけにはいかんだろう。
     友人に待ちぼうけをさせるなど、未来のスターとしてあるまじき行動だからな!」

    「ふふ、君らしいね」

    「それで、オレに話したいこととはなんだ?
     お前がそんなことを言ってくるとは珍しいな」

    「ああ、大したことではないのだけどね……」


    類はなぜかそこで迷うように一度口を閉じると、何かを誤魔化すように曖昧に笑った。


    「この後、時間はあるかい?よければ、僕の家に来てほしいんだ。
     昨日、いい演出案を思いついてね。
    ショーに取り入れることも検討したいし、ぜひ君にも見てもらいたいんだ」

    「ふむ、そういうことなら断る理由はないな!
     そうと決まればさっそく出発だ!」

    「ふふ、さすがは我らが座長だ。頼もしい返事だね」 


    類の隣に並んで、いつも家に帰る道とは反対の道を歩く。
    類の方からこんな風に誘う割れることは珍しいので、少し浮かれていた。
    あの夜から日が経っていたので、気が緩んでいたせいかもしれない。
    あいつが一瞬見せた、躊躇うような表情に気づかないなんて……。
       

    ***
    「さすが我がワンダーランズ×ショウタイムの演出家だな!
     どのアイデアも素晴らしい!」

    「ふふ、お褒めにあずかり光栄だよ、座長」


    目の前に何枚も並べられた演出案や設計図を見ると、思わず心を踊る。
    類の演出を実現するのは一筋縄ではいかないが、最高のクオリティが保証されている。
    類の手のひらの上でなら、オレはもっともっと輝ける……自分でも、それが分かる。


    「ふむ……ここは思い切って、ワイヤーアクションで飛ぶ距離をもっと伸ばしたらどうだ?
     クライマックスのシーンだし、より派手にした方が盛り上がるだろう」

    「いいのかい?君にかなり負担をかけてしまうけれど……」

    「はっはっは!オレの体幹を舐めてもらっては困るぞ!
     このくらい、易々とこなして見せようではないか!」

    「まったく……君は本当に頼もしいね」


    不意に、類の手がこちらに向かって伸びてくる。
    はっとしたときには、既に頬に指先が触れてしまっていて、一瞬呼吸が奪われた。
    嫌でも思い出す……あの夜のことを。


    (……類?)


    素顔を隠すような綺麗な微笑みを張り付けて、類は優しくオレの頬を撫でる。
    いつも見えない、それでもいいと思っていた仮面の下を、今は無性に見てみたかった。
    カラフルで賑やかなこの部屋が、水を打ったように静まり返る。
    この異質な空気感に少しでも動揺を見せたら、オレと類の間にある大切なものが壊れてしまうような気がして、破裂しそうなほど高鳴る心臓を必死に押さえつけた。


    「次の宣伝公演がどういう内容になるかはわからんが、アクションシーンが映えるショーだったら、早速この演出案が使えるかもしれんな!」

    「ああ」

    「そうだ!宣伝公演だけでなく、通常公演に取り入れてみるのもいいな!
     ツカサリオンの王子と魔王の対決シーンでこの演出を使えば、迫力が出ると思わないか?」

    「そうだね」

    「……」


    必死に気づかないふりをするのにも限界がある。
    類の手はいつの間にか頬から髪に移動していて、毛先を優しく梳かれる感覚がこそばゆい。
    悪戯な指先がオレの髪をくるくると絡めとる度、心まで引き寄せられるような気がした。


    「類、その……くすぐったいんだが」

    「ふふ、すまないね」

    「……悪いと思っていないだろう」


    類はにこにこと愛想のいい笑みを浮かべながら、綺麗な指先でオレの髪を弄ぶ。
    一体何がしたいのだろう、目の前の男の真意がまるで読めないまま、じりじりと追い詰められているような気がした。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                


    「……少し心配になるよ……君はどうも無防備で、お人好しが過ぎる。
    あんなとってつけたような誘い文句で、こんなに簡単に釣られてしまうなんてね」

    「……ショーの話をしたいというのは嘘だったのか?」

    「ふふ、嘘じゃないさ。新しい演出案を見てもらいたかったのは本当だよ。
    けれど、それはただの“口実”であって、本来の目的ではない」

    「本来の、目的?」

    「……君は知らなくてもいいことさ」


    そう言って、類は話を逸らすように曖昧に微笑んだ。
    肝心なところははぐらかされて、どうも話が要領を得ない。
    もう一度頬に触れた指先はゆっくりと肌の上を滑り落ちて、そのまま唇をなぞった。
    ぐっと顔が近づいて、思わず少し後ずさる。
    額同士がくっつくくらい距離を詰められると、類の目元に、わずかにクマが出来ているのが見えた。


    (……また徹夜したのか)


    こんな状況なのに、そんな呑気な感想が頭の中に浮かんだ。
    思わず類の目元に手を伸ばして、指でそっと撫でてみる。
    すると、類の身体がビクンと跳ねて、またほんの少し距離ができた。


    「寝てないのか?……クマができているぞ」

    「……ああ、そうだね。少し、疲れているのかもしれない」

    「そうか、それなら早く寝た方がいい。睡眠をとらないと判断力が鈍るからな」


    そうか、疲れていたのか。
    だから、こんならしくもないことをするのだろう。
    始めてキスをしたあの夜も、きっと……寝不足で判断力が鈍っていたのだ。
    それなら致し方ない、きちんと生活リズムを正せばまた元の理性的なあいつに戻ってくれるはずだ。


    「さて、話も聞けたことだし、オレはそろそろ失礼するとしよう!
     いつまでも居座っていたらお前も休めないだろうからな」


    無駄に明るい声を出して立ち上がる。
    一刻も早く、この場から去りたかった。
    友人として越えられない一線のすぐそばに立っている。
    少し背中を押されたら一歩踏み出してしまいそうで、怖くなった。
    近くにあった鞄に手を伸ばしたとき……不意に左手首をぐっと掴まれる。
    強引に振り払うこともできず、ぐいっと引っ張られてもう一度すとんと床に座りこんだ。


    「ねえ、司くん……」

    「な、なんだ……?」

    「今、僕はとても疲れているんだ。
     癒しに飢えてどうにかなりそうだよ」

    「そう、なのか……?」

    「うんうん、だからね……──君に癒してほしいのだけど、ダメかい?」


    頬に添えられた手がゆっくりと肌の上を滑る。
    背後にあったソファに背中がぶつかって、逃げ場がないことを悟る。
    ドクンドクンと全身の血が巡るスピードが尋常じゃない。
    熱を孕んだ瞳に促されるように、瞼をゆっくりと下ろす。
    閉ざされた視界の中で、唇に触れた柔らかな感触が酷く生々しくて思わず背筋が震えた。


    「る、い……っ、んん……」

    「逃げないで……そう、いい子だね」

    「……っ、ん」


    とっさに掴んだ類のシャツにくしゃりとしわが寄る。
    押し付けられる唇がどんどん深くなって、じわじわと戻れない領域まで追いつめられていくような気がした。
    ぎゅっと目を瞑ったまま、甘美な拷問に耐える。
    永遠にも思えるような数分間が過ぎ去った後、ようやく離された唇はしっとりと湿っていた。


    「……溜まってるのか?」

    「……嫌だなあ、その言い方」


    オレがそう尋ねると、類は悪びれる様子もなくあっけらかんと笑った。


    「でも、そうだね。少し、欲求不満だったのかもしれない」

    「……お前でも、そういう気持ちになるんだな」

    「心外だな、これでも思春期真っ盛りの男子高校生だよ」


    その言葉はもっともなのだが、正直意外だった。
    普段の類から性欲のようなものは感じたことがなく、世間一般の男子高校生のイメージとあまり結びつかない。
    ましてや相手が同い年の男でも構わないというくらい見境がないというのも驚きだ。


    「司くん……君は、僕とこういうことをするのは嫌かい?」

    「嫌、というわけではないが……」

    「ふふ、そうだよね。本当に嫌だったら、僕は二回目を許されていないだろうから」

    「やけに遠回しだな……何が言いたいんだ?」


    真意が読めない微笑みの裏を探ろうと表情を窺う。
    けれど、類の考えなんてまるでわからない。
    やはりオレはこういうことは向いていないようだ。


    「……君さえよければ、これからも僕のストレス発散に付き合ってくれないかい?
     手近で後腐れも面倒もない、君にとっても悪くない相手だと思うのだけど」

    「突然何を言い出すかと思えば……」

    「キス以上のことはしないよ……ねえ、いいだろう?」


    大きな手がすりすりとオレの頬を撫でる。
    オレはこいつのこの顔に弱い、捨てられた猫を思わせるような何とも言えない表情。
    何を言われても、思考を止めて頷きたくなってしまう。


    「……馬鹿なことを言ってる暇があったらさっさと寝ろ。
     ストレス発散以前にお前に圧倒的に足りないのは睡眠だ」

    「わっ……!」


    オレは類を半ば押し倒すような形でソファまで追いやると、近くにあったブランケットをばさりとかけてやった。


    「オレはもう帰るからな。しっかり休むんだぞ」

    「……司くん」

    「なんだ?」

    「……すまない、やっぱり何でもないんだ。
     引き留めて悪かったね」


    鍵は開けたままでいいから、おやすみと類はオレに背を向けるようにソファの上で寝返りを打った。
    その背中はオレよりも大きくて広いのに、なぜだかひどく頼りなく思えて。
    どうにも、放っておけなかった。


    「……司くん?」


    ソファの近くまで戻ると、オレはカーペットの上に腰を下ろして、類の背中に頭を預けた。


    「……お前が眠るまではここにいてやる。
     だから安心して早く寝ろ」

    「……僕が寝るまでと言わず、一晩中いておくれよ」

    「ははっ、今日はやけに我儘だな。咲希が子供の頃でさえ、こんなに手はかからなかったぞ」


    少し癖のある後ろ髪を撫でつけるように優しく梳いてやる。
    大きな図体で、時々駄々をこねる子供のようなことを言うのだから、どうにも無碍にできないのだ。


    「……僕以外の男に、こんな風に軽々しく触れてはいけないよ」

    「安心しろ。お前ほど世話の焼ける奴は他にいないからな」

    「……そういう意味ではないんだけどねえ」


    どこか不満そうにそう呟く17歳児を寝かしつけるために、ポンポンと背中を軽く叩いてやる。                                                                                                                                                                                                                                                                       
    類の身体から穏やかな寝息が聞こえてくるまで部屋に居座っていると、思ったよりも時間が経っていたようで、ガレージを出る頃にはすっかり日が暮れてしまっていた。


    ***
    あれから、類は何かと理由をつけてオレにキスをしてくるようになった。
    一緒に下校している時の別れ際や、どちらかの家でショーの打ち合わせをしている時、先生から逃げ回っている時に隠れた空き教室でされることもあった。
    類がどういう気持ちでオレにこんなことをしているのはわからないが、ことあるごとに掠め取るように奪われる唇に執着することはあまりなくなっていった。
    もともとあいつは超が付くレベルの変わり者なのだ、何を考えているかなんてわかりはしない。
    キスをされるだけで特に実害もないので、最近はそれらしい抵抗もせず好きにさせていた。


    (これが、あいつの言っていた”キスフレ“というやつなのだろうか……)


    恋愛感情を挟まず、ただキスをするだけの友人。
    一切の情が存在しないその関係はどこか寂しく、残酷なまでに合理的なところは少しあいつらしくもあった。
    結局は、“都合がいい”の一言に尽きるのだろう。


    「んんっ、ふ、あ……」


    もはや日課のように、練習が終わった後、類と唇を合わせる。
    二人きりの更衣室にはわずかな水音と二人分の呼吸音だけが響いて、この秘め事をより生々しく演出していた。
    羞恥心とはまた別の……悪いことを覚えてしまった時の背徳感のような,あまり良くない部類の感情。
    自分が内側から変えられていくようで、時々怖くなる。


    「っ、こら、もう終わりだ」

    「おや、今日はやけにつれないね」

    「えむと寧々を待たせているんだ。さっさと行くぞ。
     明日は新しい宣伝公演についての話もあるんだからな」

    「ふふ、わかったよ」


    キスさえしていなければ、ただの友人同士の空気感に戻れる。
    だからこそ日常の中に時々挟まれるこの矛盾したひと時が、やけに異質なもののように感じられた。
    きっと、どこかで間違えてしまったのだ。
    そうわかっていても、過ちを正そうとする気は起きなかった。
    一瞬の非日常に勝手に順応していく身体が、オレ達を繋ぐ大切な何かをゆっくりと変えていった。


    ***

    「恋愛もの?」

    「そうだ、次のショーは、恋愛をメインにした演目にしてもらいたい」


    翌日の放課後、いつものようにワンダーステージに集まったオレ達のもとを訪ねたえむの兄たちは、開口一番そう口にした。
    思いがけない頼みにみんな揃って目を丸くする。


    「なぜ、恋愛ものなんですか?今までの僕たちのショーとは少し毛色が違うようですが……」

    「ああ、次の宣伝公演について話し合った結果、今回は中高生、その中でも特に女子学生をメインターゲットにすることにした。
     大型連休も近づいているし、今回は学生の集客に力を入れたいと思っている」


    慶介さんの言葉を聞いて大体察しがついた。
    来園者数が伸び悩んでいたフェニックスワンダーランドの窮地を救うべく、オレ達が行ったナイトショーがネット上で話題を呼んでから、経営陣は若年層をターゲットにした催しを多く行っていた。
    今まで、オレ達のショーの主なターゲットは家族連れのファミリー層がほとんどだったが、とうとう新たなジャンルに挑戦する時が来たということらしい。


    「なるほど、確かに、遊園地に遊びに来る学生と言ったら、僕たちと同い年くらいの女性が多いだろうね。
     彼らがSNSなどでショーの写真や動画を拡散すれば、もっと話題を呼べそうだ」

    「そっか、それくらいの年の女の子なら、確かにラブストーリーが喜ばれるかも」

    「そういうことだ、慣れないだろうが、今回はそういう方向で頼む」

    「任せろ!ワンダーランズ×ショウタイムに不可能はない!
     今回も観客の心を見事掴んで見せようじゃないか!」

    「うん!いっぱい笑顔になってもらえるショーを作ろうね!」




    そう意気込むオレ達に、えむの兄たちは頼りにしているぞと激励の言葉をくれる。
    かくして、オレ達、ワンダーランズ×ショウタイムの新たなる挑戦が幕を開けたのだった。


    ***
    えむの兄たちが帰った後、オレたちはさっそく次の演目を決めるために作戦会議を始めた。
    次の宣伝公演の舞台は渋谷に新しく作られたばかりの複合商業施設、渋谷T-SITE。
    ショッピングモールやちょっとしたアトラクション、映画館などの娯楽施設が連なり、夏場は大きな屋外プールも解放される。
    今回、公演を行うのは、渋谷T-SITEの中にあるホールだ。
    若者向けのショーをやるのに、これ以上適した場所はないだろう。


    「さて、そうは言ったものの、今回はどういう話にするか……なにぶん、この手のジャンルは経験がないからな」

    「今回ショーを見てもらうのは、あたしたちと同じくらいの年の女の子ってことだよね?」

    「ああ、だから今回はえむくんと寧々の意見が特に重要になると思うんだ。
     二人とも、何かアイデアはないかい?」


    類はえむと寧々に向かってそう問いかける。
    けれど、二人とも悩まし気に眉を下げてしまった。


    「って言われても……わたし、少女漫画とか恋愛ドラマとか、あんまり見たことないし。
     誰かと付き合ったこともないから、あんまり役に立てないかも」

    「でもでも!どんなお話でも、やっぱりあたしたちらしいショーにしたいよね!」

    「そうだな、“オレ達らしさ”を忘れてはいけない。
     そうなるとやはり、ファンタジー寄りの話にした方がいいだろうか。
     王子が囚われの姫を助け出すというような……」

    「王道だけど……ありきたりすぎて飽きそうじゃない?
     中高生の女の子に見てもらうにはちょっと子供っぽい気がするし」

    「そうだね……似たような作品がありふれているというのもあるけれど、何よりその設定だと先が読めてしまう」

    「うーん……もっとドキドキワクワクしてもらえるようなお話にできたらいいのになー」


    えむの兄たちにもらったホールの見取り図などの資料を片手にうんうんと唸る。
    どうしても妥協できないから、新しい公演のアイデア出しは毎回時間がかかる。
    けれど、こうして皆で悩んで、意見をぶつけ合う時間は好きだ。
    一人では思いつきもしなかったアイデアが飛び出すと楽しくて、自分たちの手の中でひとつの物語が生まれる感覚はいつもオレをワクワクさせてくれる。


    (……高校を卒業したら)


    もう、こんな風に皆でショーを作ることも、できなくなるのだろうか。
    そんなことを考えて、はっとする。
    分かりきっていたことだ、自分で決めたことなのだから……今更、迷ってどうする。
    慌てて頭をぶんぶんと振って、停滞した思考を霧散させる。
    それと同時に、行き詰っていた話し合いが寧々の一言で新たな局面を迎えた。


    「ねえ、それなら身分違いの恋っていうのはどう?」

    「ほえ?身分違いって?」

    「たとえば、王子と姫じゃなくて、王子と召使とか
     逆に執事と姫とかでもいいかもね」

    「ほう、禁断の恋というやつだな!」


    まあ、そういうことと寧々がうなずく。
    古今東西、身分違いの恋を題材にした作品は数多く残っている。
    参考資料も多いだろうし、ストーリーにメリハリをつけやすく、観客を飽きさせない。


    「なるほど、確かにそれは面白そうだね。
     許されない恋だからこそ、観客は物語の結末に興味を持ってくれるだろう。
     二人の葛藤や苦しみ、人間らしさも描くことができるしね」

    「そっか!それならワクワクドキドキハラハラしてもらえるね!」

    「ふむ、いいじゃないか!甘いだけではなく、より深みのある恋物語になりそうだ!
     でかしたぞ、寧々!」

    「べ、別に……思い付きで何となく言ってみただけだから」


    率直に褒められたことが照れくさいのか、寧々はわずかに頬を赤くしてふいっとそっぽを向いた。


    「それじゃあ、次の作品はそういう方向性でいこうか。
     脚本はいつも通り、司くんにお願いしてもいいかい?」

    「ああ!任せろ!ただ、如何せん今回はオレも初めて挑戦するジャンルだからな。
     苦戦するかもしれんが、その時は皆を頼らせてくれ」

    「もっちろん!!あたしでよければいつでも力になるからね!」

    「わたしも……役に立てるかは、わからないけど」

    「ふふ、もちろん僕も協力は惜しまないさ。
    けれど、一から一人で脚本を作るのは大変だろうから、大体のストーリーの流れは皆で決めてしまおうか」

    「さんせー!」


    切れてしまったシャープペンの芯を補充して、話し合いを再開する。
    登場人物はどうしようか、女の子向けなら、やっぱり王子様とか登場した方がいいんじゃない?
    そんなことを話し合っていた時、隣に座っていた類がぽつりと呟いた。


    「……禁断の恋、か」


    ふと、誰かに呼ばれているような気がした。
    切なさを噛みしめるようなその声に顔を上げて、視線を少し横にずらしてみても、いつも通り綺麗すぎる友人の横顔があるだけで。
    けれど、その金色の瞳ははるか遠く、彼方を見つめているように思えた。


    (……恋)


    美しいもの以外存在することすら許されない、まるで宝石箱のような。
    それはあまりに甘美で、綺麗な響きを持つ言葉だった。
    オレにはとても似合わない、それは気の遠くなるほど先の未来にあるのだろうか。
    呑気にそんなことを考えていたオレは、まだ何も知らなかった。
    このセカイのことを、まだ何も。


    ***
    何度か話し合いを重ねた結果、次の宣伝公演のショーは、一国の王子と、城に仕える召使いの少女の恋物語になった。
    容姿が似ているという理由で、姫の代役を務めることになった少女は、舞踏会でとある国の王子と出会う。
    二人は互いに一目で恋に落ち、少女は自分が姫の代役であると言い出せないまま、度々逢瀬を重ねることになる。
    王子と結ばれるべきなのは自分ではない、なのに、好きだという気持ちが抑えられない。
    そんな葛藤に揺れ動く少女の前に、とある貴族の男が現れる。


    「へえ……司、あんたこういう話も書けるんだ」

    「司くん、すごいすごい!あたし、胸がドキドキキューンってなっちゃった!」


    大体のストーリーが決まってから、あれこれと悩み、書き上げた脚本はかなり好評だった。
    咲希に借りた少女漫画を読んだり、普段あまり手を出さない恋愛色の強いミュージカルやドラマを見たりして四苦八苦した甲斐はあったらしい。


    「はっはっは!そうだろうそうだろう!もっと褒めてもいいんだぞ!」

    「ああ、素直に感心するよ。君の順応力は相変わらず素晴らしいね」


    満足げな表情の演出家からもお褒めの言葉を頂き、次の宣伝公演に向けた練習はスムーズにスタートした。
    脚本を書いている段階で役のイメージはほぼ固まっていたので、配役はすぐに決まった。
    姫の代役を務める召使の少女の役は寧々、彼女に恋をする王子の役はオレ。
    本物の姫の役はえむ、王子から少女を奪おうとする貴族の男の役が類だ。
    台本が書きあがった数日後、いよいよ宣伝公演に向けた練習が始まった……のだが。


    「ストップ!司くん、そこはもっと情熱的に!
     愛しいという想いを全力で台詞に込めるんだ!」

    「う、うむ……!すまん!もう一回頼む!」


    正直、かなり難航していた。
    というのも、主役であるオレ自身が“恋”というものをよく理解できていなかったからだ。


    「のわー-!!わからん!何が原因なんだ!」

    「司くん、むむむ~ってお顔になっちゃってるね~」

    「今までやったことないジャンルだし、役を掴むのが難しいのかもね……」


    台本を片手に唸るオレをえむと寧々が心配そうに見つめる。
    脚本を書くこと自体は参考資料を使えば出来るが、演じるとなるとそう上手くはいかない。
    役作りに悩むオレとは対照的に、ヒロインを演じる寧々はあっさりと役を掴んでいた。
    寧々曰く『昔劇団にいた時に似たような役やったことあるし、経験はなくてもどんな感じかは大体わかるから』とのことだ。
    いったいオレと何が違うというのだろう、やはりこういうのは経験がものをいうのだろうか。


    「ふむ、司くんも少し煮詰まっているみたいだし、この辺りで休憩にしようか」

    「そうだな、少し時間を置いた方が上手くいくかもしれん」

    「はーい!寧々ちゃん、更衣室に戻ろ!エアコンがあるから涼しいよ!一緒にレッツゴーゴー!」

    「ちょっとえむ!引っ張らないでってば!」


    えむに引きずられるようにして、寧々が更衣室に連行されていく。
    その後ろ姿を見送った後、オレはワンダーステージの淵に腰を下ろし、再度台本と向き直った。
    出来るだけ早くこの役をものにしなければ、皆にも迷惑がかかってしまう。
    膨らむ不安に比例するように気持ちが逸る。
    それでも努めて冷静でいようと紙の上の文字を目で追っていると、不意に誰かがオレのすぐ隣に腰を下ろした。


    「司くん、熱心なのはいいけれど、君もきちんと休憩は取らないと。
     あまり根を詰めすぎても上手くいかないよ」

    「む、類か。すまん……わかってはいるんだが、どうにも気持ちが先走ってしまってな」

    「ふふ、本番までまだ時間はあるし、焦らなくてもいいさ。
     慣れない役も、君ならきっと演じられるようになるよ」

    「……ああ、そうだな!」


    そう励ましてくれる類の言葉に少し心が軽くなる。
    いつだって皆で乗り越えてきた、これからもきっと乗り越えられる。
    壁にぶつかる度にへこたれていたら、とても世界一のスターになんてなれないだろう。
    ぱんっと頬を軽く叩いて気合を入れ直すと、隣に座っていた類がオレの持っていた台本を覗き込み、何故かくすりと笑った。


    「“薔薇という花を別の名前にしてみても、その美しさは変わらない”。
     本当の君にどのような名がついていようと、僕が愛した人に変わりはない、か……ロミオとジュリエットに出てくる有名なセリフのオマージュだね」

    「ああ!やはり、禁断の恋と言えばロミオとジュリエットだろう!」

    「ふふ、そうだね……眩しいほど真っすぐで、誠実な……とても君らしい愛の告白だ」


    羨ましいなと口にした類の心中は、まるで分からなかった。
    整いすぎた涼やかな横顔の下には、まだオレの知らない何かが隠されている。
    類がオレに見せまいとしているそれは、今まさにオレが求めている答えなんじゃないかと……なんとなく、そんな気がしてならなかった。


    「恋というのは、どういうものなんだ?」


    唐突に、自分でもほぼ無意識に、そう問いかけていた。
    類はオレをちらりと横目で一瞥すると、特に驚く様子も見せず微笑みながら言った。


    「おや、それを僕に聞くのかい?
     君には僕が、ロミオのように恋多き男に見えるのかな」

    「そういうわけではないが、少なくともオレよりは恋愛経験があるのではないか?
     お前、学校でも何かとモテているしな」


    類の恋愛遍歴など知らないし、別に知りたくもないのだが。
    あの妙に手馴れたキスは、なんとなく過去にそういう相手がいたのではないかと思わせる。
    それなら今までショー一筋で生きてきて、ろくにそういう経験をしてこなかったオレより、“恋”というものに対して見識が深いのではと思ったのだ。


    「恋とはどういうものなのか……ふむ、非常に受け答えに困る質問だね」


    類は困ったように眉を下げて苦笑した。
    当然だろう、恋とは何かなんて哲学的な問い、世界中の学者が集まって頭を悩ませたところでそう簡単に答えなど出るはずがない。
    きっと、人によって答えは星の数ほどあって、正解を求めるようなものではないのだろう。
    それでも、今は少しでも取っ掛かりが必要だった。
    目に見えない、この厄介な感情を少しでも掴むために。


    「……これは、僕の個人的な解釈だけれど……おもちゃ屋さんのショーウインドーを見つめている子供のような気持ち、かな」

    「おもちゃ屋?」

    「ああ、このガラスの向こうに、自分の心をこれ以上ないくらい惹きつけるものがあるんだ。
     けれど、子供のお小遣いでは高価なおもちゃなんて買えない、親に買ってほしいと強請ることもできない。
     どうしたって、手が届かないんだ。
     欲しくてたまらないものは、すぐ目の前にあるのにね」


    類は不意に言葉を切って、オレに優しく微笑みかけた・。
    なんとなく、不思議な感覚だった。
    オレを見つめる瞳はいつもと変わらない、それなのにどうしようもなく胸が高鳴る。 
    まるで、その唇から紡がれる言葉の先を、待ち望んでいるような。


    「それでも、人は欲深い生き物だから、なんとかしてそれを手に入れようとする。
     諦められなくて、もしかしたら、なんて身勝手な期待を押し付けて。
     幸せになってほしいと思いながら、自分のことだけを愛してほしいと願わずにはいられない。くて。

     たとえ……どれほど傷つけあったとしてもね」

     傷つけて、傷ついて、そうしているうちに絆されて……少しずつ、溶け合っていく」

    類の話を聞いていると、まだ輪郭すら掴めないそれは、どうしようもなく矛盾しているように思えた。
    幸せになってほしいと思うのに、たとえ傷つけても手に入れたいと願うなんて。


    「恋とは、子供の我儘のようなものなのさ。
     矛盾だらけで、ままならない。
     けれど、そんな我儘を受け入れたい、受け入れてほしいと互いに思った瞬間……恋は愛に変わるんだよ」

    「……まるで、知っているような口ぶりだな」

    「……」

    「……類は、恋をしているのか?」

    「……さあ、どうだろうね」


    一瞬の沈黙を挟んで、類はまた誤魔化すように曖昧に微笑んだ。
    最近、類はこの笑い方をよくするような気がする。

    いつからだろう、この寂しそうな微笑みを見せるようになったのは。



    (……いかん、集中力がもたなくなってきているな)


    取っ散らかった思考をとりあえず置き去りにして、もう一度手元の台本に目を落とす。
    好きだとか、愛してるとか、自分で書いたはずの言葉はまだひどく薄っぺらくて。
    オレがこの難儀な感情を理解できる日は、まだ遠いようだった。

    これは、恋じゃない。
    恋であってはいけないんだ

    ***

    「やあ、司くん。苦戦しているようだね」


    ***
    宣伝公演の練習も大切だが、ワンダーステージに遊びに来てくれる観客のために、通常公演も疎かにするわけにはいかない。
    今日は久しぶりに、一日フルで通常公演の練習に充てることになっていた。
    演目はオレ達の始まりのショーともいえるタイトル、『ツカサリオン』だ。
    ここ最近はご無沙汰だったが、脚本を手掛けたオレは自分の台詞をほとんど覚えていた。
    オレ以外の面々も、この演目は飽きるほどやっているのですぐに勘は取り戻せる。
    とりあえず通しでやって、そろそろクライマックスシーンに差し掛かるところだった。


    「……よくここまで来たな、王子」


    オレが演じる王子は、様々な試練を乗り越えて類が演じる魔王と対峙する。
    恐ろし気に顔を歪めて、いつもよりトーンの低い声で台詞を口にする類は、いつ見てもまるで別人のようだ。


    「ボロボロになって……勝ち目などないとわかっているだろう。
     どうしてそこまでして剣を振るう?」

    「どうしてだと?そんなの、決まっているだろう!」


    オレは右腕を押さえ、負傷した演技をしながらゆっくりと立ち上がる。
    ヒーローは、負けてはいけない。
    強大な力を前に何度打ちのめされても、立ち上がることをやめてはいけないのだ。
    そして、いつも決まった台詞を口にする……果てしないほど壮大で、絵空事と笑われそうな夢を。
    幼き頃、スターを志したオレも……今このステージに立っているオレも、ずっと胸に抱えていた想いだ。


    「世界中の人達を──笑顔にするためだ!!」


    剣を振り上げ、オレは高らかにそう宣言する。
    そして、目の前の魔王目掛けて駆け出した。
    悪は正義に勝てない、このステージの上ではそう決まっている。
    剣を構え、目の前の悪の権化を目掛けて全力で振り下ろした。


    「……はい、そこまで」
                                                                     

    パンっと軽く手を叩く音で現実に引き戻された。
    会心の一撃を受け倒れこんだ魔王、もとい類も寧々の合図でゆっくりと身体を起こす。


    「うん、いいんじゃない。久しぶりにやったけど、クライマックスのシーンとか前より迫力あったし」

    「うんうん!司くんも類くんも、とーってもわんだほいだったよ!!」

    「はっはっは!そうだろうそうだろう!さすがはオレ!」

    「いやいやまったく、君がこちらに向かってくるときの気迫ときたら、本気で切り殺されるかと思ったよ」


    パンパンとショー服をはたきながら、類がそんなことを言って苦笑する。                                                                                                  
    悪を打ち砕く勇者と、その正義の前に倒れ伏す魔王。
    単純で分かりやすい構図だ……けれど、最近、たまにふと頭を過ぎる。
    魔王は……勇者の前に立ちはだかって、何をしたかったのだろうかと。


    (王道であれば世界征服か?……どうにもピンとこないが)


    そんな強引なやり方で世界を自分のものにしたところで、誰もついてきてはくれない。
    結局……ひとりぼっちであることには変わらないだろうに。
    そんなことが脳内を過ぎったところで、オレははっとして思考を散らすように頭を軽く振った。
    また余計なことを考えてしまっていた、こんなことよりも考えなければいけないことは山積みだというのに。
    たとえば……未だ取っ掛かりさえ掴めない、次の宣伝公演に向けた役作りのこととか。


    「よーし、一旦休憩だ!今日は少し蒸し暑いからな、水分補給はしっかりするように!」

    「はーい!!」


    休憩を言い渡すと、皆はエアコンのある更衣室に戻っていく。
    類からきちんと休むように釘を刺されてしまったし、オレも向かおうか。
    頭を切り替えようと深く息を吐いた時、不意に背後から声をかけられた。


    「やあ、天馬くん。今日も頑張っているね」

     
    声がした方を振り返ると、40代くらいのスーツ姿の男性がにこやかに微笑みながら立っていた。


    「!こんにちは、今日はこちらにいらしていたのですか」

    「ああ、久々に現場の様子を見ておこうと思ってね。  
    この間の宣伝公演、盛況だったそうじゃないか。
    君たちのおかげでフェニックスワンダーランドも活気を取り戻し始めている、感謝しているよ」

    「いえ、お役に立てているなら何よりです!」


    この男性は鳳家の分家にあたる家の出身で、鳳グループの重役の一人だ。
    時々、視察のついでにワンダーステージを訪れる。
    フェニックスワンダーランドの経営にも携わっていて、とても優秀な人らしいのだが……。


    (む……やはり、視線を感じるな)


    この人と話していると、ただ見つめられているだけではなく、舐め回すように見られているような感じがして少し落ち着かない。
    オレのスター性が彼の視線を惹きつけてしまうというのなら自分の罪深さを嘆くばかりだが、どうもそういうことではない気がした。

    「君は最近、ますます成長が目覚ましいね。これからの君の活躍が楽しみだよ」

    「ありがとうございます!ご期待に応えられるように頑張ります」

    「うんうん、いい返事だ。そんな頑張り屋の君にご褒美をあげたいのだけど、都合がいい日に私と食事でもどうかな?」


    するりとさりげなく腰に腕が回されて、思わずびくりと体が跳ねる。
    軽いスキンシップのつもりなのかもしれないが、これは少し……。


    (ち、近くないか!?)


    類といいこの人といい、オレの周りの人間はパーソナルスペースが狭すぎではないだろうか。
    それとも、これくらいは普通のことで、オレが気にしすぎているだけなのだろうか。


    「お、お誘いは嬉しいのですが、中間テストも近いですし、次の宣伝公演の練習もしなければいけないので……」

    「一日くらい構わないだろう?ああ、もしかして私に遠慮しているのかな?  
    そんなものは必要ない、大人には甘えておきなさい」

    「い、いえ、そういうことでは……」

    「個人的に、私は君ともっと仲良くなりたいと思っているのだけどね」


    すりすりと腰を撫で回されて、思わずゾワッと鳥肌が立つ。
    これはまずい、とりあえず距離を取らなければ。
    恐怖心に追い詰められるように、密着した体を離そうと奮闘していると……不意に誰かに手首を掴まれて、ぐいっと引き寄せられた。


    「!類……!」

    「……お久しぶりです、いらしていたんですね」


    オレを抱き寄せたのは類だった。
    オレの呼びかけには答えず、類はにこやかに男性に話しかける。
    微笑んでいるのに、なぜか敵意のようなものをひしひしと感じぞくりと体が震える。
    まるで外敵から守ろうとするかのように強く肩を抱かれて、少し痛かった。


    「や、やあ。君も元気そうで何よりだよ」

    「……どういうつもりで彼に近づいたのかは存じませんが、未成年にそういう目的で声をかけるのはよろしくないかと」



    「……どういう意味かな?」

    「……いえ、お心当たりがないのでしたら構いませんが」

    「……」


    類の底知れない笑みに気圧されるように、男性は黙り込む。
    互いに笑っているのに、空気が凍り付いているのは何故なのだろうか。
    肌に突き刺さるように痛い沈黙に耐えていると、不意に背後から響いた明るい声に救われた。


    「司くん、類くーん!きゅーけい終わりだよ!」

    「ちょっとえむ!走らないで!転んだら危ないから!」


    休憩を終えて、えむと寧々がステージに戻ってきたのだ。
    いつも騒がしくて少し元気すぎるムードメイカーが今は救世主のように思えた。
    えむならきっとこの気まずい空気を一瞬で変えてくれるだろう。
    そう、期待したのだが……。


    「……あ」


    男性を見た瞬間、えむはなぜか顔を合わせづらそうに黙り込んだ。
    初対面の相手にも臆せずコミュニケーションを取ることができるえむが、こんな反応をするのは非常に珍しいことだった。


    「やあ、えむちゃん。久しぶりだね。君も元気そうでよかった」

    「こ、こんにちは……っ」


    男性はえむとは知り合いのようで、にこやかにそう話しかける。
    分家とはいえ、同じ鳳家の血を引いているのだから、顔見知りなのは当然だろう。
    けれど、えむの返事は相変わらず少しぎこちなかった。


    「練習の邪魔をしてはいけないし、私はそろそろ失礼するよ。
     天馬くん、都合がいい日があれば声をかけてくれるかい?」

    「は、はい……」

    「では、私はこれで。ワンダーランズ×ショウタイムの諸君、これからもよろしく頼むよ」


    そう言い残すと、男性は颯爽と去っていった。
    その後ろ姿を見送って、ようやく一息つく。
    ただ話しただけなのに、なんだかどっと疲れてしまった。
    身体が崩れ落ちないようにぐっと力を入れようとしたとき、類に肩を抱かれたままだということをようやく思い出した。


    「類……」

    「……」

    「類!」

    「っ……!」


    鋭い目つきで男性の後ろ姿を睨みつけている類に大きな声で呼びかけると、ようやく我に返ったようにオレの方に視線を向けた。


    「助けてくれたことは感謝する。だが、その……そろそろ離してくれないだろうか」

    「あ、ああ、すまない」


    ぱっと手は離されて、あっさりと解放される。
    いったい、さっきのは何だったのだろうか。
    目上の人を相手に喧嘩を売るような物言いをするのも、他人に敵対心を剝き出しにするのも、総じて“らしくない”。
    けれど、様子がおかしいのは類だけではなかった。


    「えむ、どうしたんだ?元気がないように見えるが」

    「うーん……あたし、あの人のことちょっと苦手なんだ~。
     なんかね、もやもや~って嫌な感じがするの」

    「へえ……えむに苦手な人なんているんだ。珍しいね」


    確かにえむは何かと本能的な勘が鋭いように思える。
    そんな彼女が嫌なものを感じるということは、やはりそういうことなのだろうか。


    「……嫌な感じ、かさすが、えむくんは勘が鋭いね」


    ぽつりとそう呟いた類の声は、オレ以外の誰かには聞こえていたのだろうか。
    ふと振り返ると、類はいつもと変わらぬ柔らかい微笑みを浮かべていた。


    「さて、通常公演の演目はほぼ完璧だし、練習はこれくらいにしようか。
     司くん。新しい演出装置の実験試運転に協力してほしいのだけど、いいかい?」

    「それはかまわんいいが……その新しい演出装置とやらは、またハードでスリリングでデンジャラスなやつじゃないだろうな!?」

    「ふふ、確かにハードでスリリングではあるけれど、デンジャラスではないから安心してくれたまえ。
     たとえ失敗したとしても、身体がバラバラになるようなことはないよ」

    「まっっったく安心できんが!?」


    そんなやり取りをしていると、ようやくいつもの肌に馴染んだ空気が戻ってきたような気がした。
    それでも、類が一瞬見せた感情的な一面は、なぜかオレの心にこびりついたように離れなかった。
    何か……オレにはまだわからない何かが、ゆっくりと形を変え始めている。
    不思議と、それだけは分かっていた。


    ***

    「つ……つかれた」

    「ふふ、お疲れ様。いつも貴重なデータを取らせてくれて感謝しているよ」

    「はあ、まったく……いつになったらお前の辞書には お前の辞書に“手加減”の三文字が載るのだろうな」

    「遠慮をするなといったのは君じゃないか。僕が手加減したら、君はきっと怒るんだろう?」


    にっこりといい笑顔でぐうの音も出ない反論をされて、言葉に詰まる。
    どれほど無茶で大変なことだったとしても、求められれば応えずにはいられない。
    類が言っていた通り、もうこの刺激なしでは楽しめなくなってしまっているのかもしれない。


    (少し甘やかしすぎたか……?)


    どうも類の手のひらの上で転がされているような気がする。
    だが、そうだとしてもそれで最高のクオリティのショーが作れるのならば文句はない。
    とはいえ、何回も容赦なく飛ばされたせいで身体の節々が悲鳴を上げている。
    明日に響かないように今日は湿布でも貼って寝るか……そんなことを考えてきたとき。
    不意に、後ろから抱き締めるように長い腕が回って、顔を上げた瞬間唇が奪われていた。


    「ん……っ!?」


    不意打ちのキス、もう何度目だろう。
    類にとっては軽いスキンシップなのかもしれないが、柔らかい唇が触れ合う感触は何度味わっても慣れない。
    同性でも惚れ惚れとしてしまうような端麗な顔がほぼゼロ距離にあって、それだけで心臓が壊れそうなほど激しく脈打ってしまう。
    苦しくてたまらないのに、癖になるような、言葉にし難い感覚だった。


    「っは、急に何だ……!」

    「ふふ、今日も未来のスターは見事に僕の期待に応えてくれたからね。ご褒美だよ
     それと、大分無茶をさせた自覚はあるから、ささやかなお詫びの気持ちでもあるかな」

    「ほう?お前がそんな殊勝なことを言い出すとは……明日はいよいよ学校が爆発するんじゃないのか?」

    「おや、それも楽しそうだねえ。早速明日やってみるかい?もちろん、安全面に配慮したうえでだけどね」

    「勘弁しろ、そろそろ反省文に書くネタが尽きそうだ」


    何度キスをしたところで、恋人らしい甘い雰囲気になんてならない。
    いつだって、仕掛けてくるのは類の方だというのに、それ以上のことは求めないよう、自分で線引きをしているような気がした。
    相変わらず難儀な男だ、思わずため息を吐くと、類は話題を変えるように明るい口調でこう言った。


    「最近、君はますます演技の腕を上げているね。君の演出家として、僕も誇らしい限りだよ」

    「はっはっは!当然だ!オレは未来のスターになる男だからな!」

    「ああ、その事に関しては思う存分褒め倒してあげたいところなんだけどね。
     でも、残念だな……僕はこれから、君にお説教をしなければならない」

    「……え?」


    先程とは打って変わって、類は途端に真剣な表情になると、オレを見つめて静かに息を吐いた


    「僕は結構真剣に忠告したつもりだったのだけど……どうやら君は、僕の言ったことをまるで理解ってくれていないね」

    「忠告、だと……?」

    「誰にでも友好的に接することができるのは君の取柄だけれど、男に対して少し無防備すぎるよ。
     心を許していない相手に優しく微笑みかけたり、気安く身体に触らせてはいけない。
    誰彼構わず甘い顔をしていると、いずれ痛い目を見るよ」

    「お前も男だろう……自分のことは棚に上げるのか」

    「ふふ、もちろん、できれば僕に対しても用心してもらいたいところなのだけどね。
     でも、僕は欲深い錬金術師(アルケミスト)だから、自分から君に距離を置かれるような真似はできないのさ」


    (欲深い、錬金術師……)


    今までも、類は自分のことをそう称することがあった。
    その言葉の意味するところはわからない、だがそう口にするときの類の表情は、どこか影があるように思えるのだ。
    オレを後ろから抱き締めたまま、長い指がオレのシャツの襟下に入り込んで、首元のクラ
    類の腕の中から逃れようと身じろぎすると、逃がさないとばかりに力が込められて戸惑った。


    「……こんな曖昧な関係に落ち着いてしまった今、僕が何を言っても、説得力はないかもしれないけれど」

    「……」

    「……僕は、君が嫌がることは絶対にしないよ。
     たとえ世界中のすべてが君を疎んだとしても、僕だけは君の味方でいる。
     君の正しさを、誰よりも信じているからね」

    「……相変わらず大げさな奴だな」

    「ふふ、そう思うかい?」


    相変わらず、感情の読めない微笑みだった。
    未来のスターであるオレが、世界中から愛されこそすれ、疎まれるなんてありえない。
    それでも、もし、万が一……そんなことが起こったとしたら。
    類は、ずっと味方でいてくれるのだろうか。


    (……恋人でも、ないというのに)


    ただの友人同士にしては、重すぎる覚悟だと思う。
    それでも、類は迷いなくそう言い切った。
    心にずしりと圧し掛かるような、その重さが。
    なぜだか、酷く心地よく感じたのだった。


    「……帰ろうか、司くん」

    「……ああ」


    何事もなかったかのように、あっさりと身体が解放される。
    波立った心が少しずつ凪いで、緩やかに元に戻っていく。
    この奇妙な関係は、いつまで続くのだろう。
    いつまで……“友人”のままでいればいいのだろうか。
    オレ達の間に引かれている明確な一線。
    一歩踏み出す勇気は、まだなかった。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   
    **
    ***
    それから一週間ほど経ったある日、オレと類は集合時間より一足早くワンダーステージにやってきていた。
    類が新しく取り入れたい演出があるというので、それが実際に実現可能か確かめるためだ。
    練習前恒例の軽いストレッチを終えた後、オレと類はハロウィンショー以来お世話になる奈落の入り口を開けた。


    「ふむ、ではやはりこのシーンはここ奈落を使うのがいいかもしれないね。
     公演場所のホールとこのワンダーステージにある奈落はほとんど同じ作りのようだしまだ二人が来るまで時間がありそうだし、本番で実際に使えるか少し確認してみようか」

    「ああ、頼んだぞ!なんならオレも一緒に行ってもいいのだが……」

    「いや、えむくんと寧々が予定より早く来るかもしれないし、君はそこで待っていてくれ」

    「うむ!承知した!」


    オレがそう答えると、類は頼んだよと笑ってするすると奈落に通じる梯子を下りて行った。


    (さて、オレはどうするか……)


    ステージ前の観客席に座ってしばし思案する。
    類が奈落を調べ終わるまで少しかかりそうだが、その間もう一度台本を読み直してみるか。
    宣伝公演の王子の役はまだまだ完全に掴んだとは言い難いが、少しずつ感覚的にわかるようになってきたような気がする。
    “恋”とはどういうものなのか……今のオレにとって一番の難問であるその問いの答えに、少しずつ近づいているような気がするのだ。
    だが、もしそうだとしたら……。


    (……オレは、どうしてその感覚を掴みかけているのだろうか)


    手っ取り早い方法は実際に経験することだが、オレは今誰かとそういう関係を結んではいない。
    誰かを、そういう意味で好きになったことも、ない……はずなのだが。
    日々を送る中で、時々ふと、頭に過ぎる顔があった。
    縄梯子を使って起用に降りていく。


    (……類)


    何故なのだろう、類のことを思い出すと、胸がきゅうと縮むような、不思議な感覚に襲われることがある。
    それは、少し後ろめたいような……くすぐったくてたまらないような、言葉にし難い感情だった。
    この感情の名前を知らなければいけない、探さなければいけない。
    何故か、そんな焦燥がずっと胸の内にあった。


    「司くーん!聞こえるかいー?」

    「む!?類!どうしたんだ!?」


    物思いにふけっていると、不意にステージ下の奈落から類の声が聞こえた。


    「僕としたことが、うっかりメジャーを忘れてしまってね。
    悪いのだけど、僕の荷物の中から探して、奈落の上から落としてくれないかい?」

    「ああ、わかった!」


    オレは立ち上がると、すぐ傍にあった類の鞄を開けた。
    相変わらず混沌としているというか、持ち物に統一性がまるでない。
    演出のアイデアノート、タブレット、予備の手袋、ラムネの瓶、謎の工具、それに加えて何故かバルーンアート用の風船と空気入れまで入っている。
    風紀委員の白石が見たら卒倒しそうだ。


    「ふむ、メジャーは……と、これだな!」


    コンパクトな工具箱の中を開けると、手のひらサイズの黄色いメジャーを発見した。


    「類―!見つけたぞ!いま届けてやるからな!」

    「ありがとう、助かるよ」




    「るいー!大丈夫そうかー?」

    「ああ、問題ないよ。司くんも来てくれるかい?
     上り下りがどれくらいのスピードで出来るか確認したいからね」

    「ああ、類に届けてやろうと、奈落の入り口まで足を進めた、その時……
    バキッと、木材が折れるような音が聞こえたような気がした。


    「ッ!?司くん……!」


    下の方から珍しく切羽詰まったような類の声が聞こえて、気が付いたら重力に従って身体が下に落ちていた。
    この感覚を、知っている……あの時も、こんな風に。


    「っ、司くん、手を伸ばして!」

    「おわああああっ!?」


    とっさに腕をめいいっぱい広げるも、落下のスピードはどんどん速くなっていく。
    このまま床に叩きつけられたら無事では済まない。
    鈍い痛みを覚悟し、ぎゅっと目を閉じる……けれど、その瞬間、誰かがオレの身体を捕まえるように腕を伸ばすのが見えた。


    「……ッ!」

    「類!?」


    尻もちをついた時に打ち付けたのか、顔を歪めて腰の辺りをさする類を見て、さあっと青ざめる。
    そんなオレを見て、類は痛みに耐えながらも気丈に笑って見せた。


    「ったた……司くん、怪我はないかい?」

    「あ、ああ、オレは問題ないが、お前は大丈夫なのか!?」

    「ふふ、心配ないよ。こう見えて、意外と頑丈なんだ。
     君に大事がなくてよかった」


    類はそう言って立ち上がると、ぱんぱんと練習着についた埃を払う。
    どうやら大きなけがなどはしていなさそうでほっとした。


    「さて……これからどうしようか」


    見上げると、奈落の入り口付近に大きな穴が空いている。
    ちょうど床が抜けたところが縄梯子を下ろしていたところだったので、上に戻る手段がなくなってしまった。


    「自力で登る……のは無理だよな」

    「無理だねえ……登れるところもないし、僕が君を肩車したとしても、少し届かないかな。
     携帯とか、持っていないかい?」

    「練習中に持っているわけないだろう」

    「ふふ、そうだよねえ……これぞ、絶体絶命ってやつかな」


    そんな悲観的なことをいいつつ、類の表情はいつもと変わらなかった。
    さして焦っているようにも、ましてや諦観しているようにも見えない。


    「その割にはずいぶん余裕だな」

    「まあ、もうすぐ寧々やえむくんが来るだろうし、床が抜けたステージを見たら異変に気付くだろうからね。
     誰かの足音が聞こえたら、君の大声で助けを呼んでもらえばいい」

    「なるほど……それならやはり待つしかないか」


    最悪の場合、二人が来なかったとしても、夜までオレと類が家に戻らなければ家族が放っておかないはずだ。
    正直、そこまで大事にするのは避けたいところだが……今はとりあえず、一刻も早く誰かに見つけてもらえることを祈るしかない。
    仕方がないので、奈落の床に並んで座り込んで、助けを待つことにした。


    「……前にも、こんなことがあったな」

    「……ポテトゴーストの時の話かい?」

    「ああ、まさか二度もこの奈落に落ちることになるとは思わなかった」


    どうもオレはこの場所に縁があるらしい。
    そう言って笑って見せたが、類はいたって真面目な表情でこう返した。


    「言っておくけれど、あれは未だに僕のトラウマだからね。
     奈落に引きずり込まれたまま目を覚まさない君を見た時は、本気で心臓が止まるかと思ったよ」


    気を失っていたオレはその時の類の様子を知る由もないが、翌日の様子を見ればあの一件が類に多大な影響を与えたことはわかる。
    結局大事にはならなかったし、気にすることはないと言っても……きっと、無駄なのだろう。


    「……あの時、初めて恐怖を覚えたんだ。
     君を……失ってしまうかもしれないって」

    「……大げさだ、あの程度のことで」

    「そうかな……ねえ、このままずっと、誰も助けに来なかったら、どうしようか?」


    類は悪戯を仕掛ける子供のように微笑みながら、そんなことを訊ねてくる。
    何を縁起でもないことを……そう、いつものように返してやればよかったのに。
    なぜか、はくりと唇が動いただけで、言葉を発することはできなかった。


    「そうしたら……君とずっと、二人きりだね」


    あまりにも自然伸ばされた手は、オレの横髪を静かに掬い上げる。
    真意の見えない微笑みに覆い隠された本心は、まだ見えない。


    「い、いや、それは困るだろう、さすがに……水も食料もないし、いつか死んでしまうぞ」

    「ふふ、君と一緒に死ねるなら本望……かな」


    どこまで本気なのか、類はさらりとそんなことを言ってのける。
    餓死なんて嫌だ、きっと苦しくてたまらないに決まっている。
    それに、オレはまだ道半ばだ……死んでしまったら、幼い頃からずっと抱えてきた夢も叶えられなくなる。
    リアルな想像をしてしまって思わず身体が震える。
    反射的に類から距離を取ろうとすると、ぐっと腕を掴まれ身動きが取れなくなった。


    「……冗談なんかじゃない。僕は本気だよ。
     このまま君と離れ離れになって……君がいつか僕を忘れてしまうくらいなら。
     君の心が、僕以外の誰かのものになるなら……その方がいいって、本気で思ってる」

    「……る、い」


    近い、近すぎる。
    いくらなんでも、そう、たとえオレたちが戯れにキスをするようなあまり健全とは言い難い関係だとしても。
    この瞳は……その視線は、あまりにも熱っぽくて。


    「……嘘でいいよ。今この一瞬だけでいい……僕のことを見ていて」


    触れる、触れてしまう。
    今まで何度も重ねたそれとは違う、明確な意思を持った何かが。
    どろどろに溶けたその瞳を見ていられなくて、思わずぎゅうっと目を瞑る。
    熱い吐息が唇に触れる。
    頬に触れた指の冷たさに身体が強張る。


    『恋とは、子供の我儘のようなものなのさ』


    あの日、類が言ったことの意味が、ようやく分かったような気がした。
    こんなに近くにいるのに、遠くて。
    肝心なところで隠される心は、見えないままで。
    手に入れたいのに、その方法もわからない。


    (……触れたい)


    もっと、触れてほしい。
    けれど、オレ以外の誰にも触れてほしくない。
    大切にしたいものはたくさんあって、その中でもほんの少し特別な存在。
    惰性で続けてきた関係に、そろそろ名前を付けてみたい。
    そう思ってしまうのは……我儘だろうか。
    どうせ、手放さなければいけないものなのに……。
    激しく脈打つ心臓が破裂してしまうのではないかと不安になり始めた時、ふと頭上で聞き覚えのある元気な声が聞こえた。


    「つかさくーん!るいくーん!きたよー!」

    「ちょっとえむ!走らないで……って、なにこれ!?」


    えむと寧々の声だ。
    そう気づいたとき、触れていた指がぱっと離れた。


    「……残念、思ったより早かったね」


    そっと目を開けると、どこか自虐めいた微笑みを浮かべた類の姿が目に入った。
    触れ合っていた体温が離れて、何故か少し心細くなる。


    「司!類!そんなところで何してるの!?」

    「わわっ!司くん!類くん!大丈夫!?」


    上を見上げると、穴を覗き込んだ二人が心配そうにこちらを見ていた。


    「やあ、寧々、えむくん。見ての通りうっかり落ちてしまってね。
     誰か人を呼んできてくれるとありがたいのだけど」

    「それはいいけど……怪我とかしてないの?」

    「ああ、僕も司くんも無事だよ。
     けれど、自力ではそちらに戻れそうになくてね」

    「わ、わかった!すぐにお兄ちゃんたち呼んでくるね!!」


    えむと寧々は慌てたようにぱたぱたと走っていった。
    それからしばらくして青い顔をしたえむの兄たちが梯子をもって駆けつけてくれたおかげで、オレ達は何とか事なきを得た。
    救出されてからの類はいつもと変わらず、まるで奈落でのあんなやり取りはなかったかのようで。
    そんなあいつの様子に少しほっとしながらも……どこか寂しく思っている自分もいた。

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