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    溺惑性シンドローム
    全年齢ver

    epilogue溺惑性シンドローム***
    何故この職業を選んだのかと問われると、単に自分に適性があると思ったから、と答えるしかない。
    この国の将来を担う若人たちを導きたいとか、学生の頃、恩師に救われた経験があるからとか、そんな崇高な理由はなく。
    ただ昔から人より少し頭の出来が良くて、隣に住んでいる一つ年下の幼馴染に何かと物を教える機会も多かったから。
    比較的安定していて、両親に苦労を掛けない職種、その中で僕に出来そうな仕事が教師だった。


    「はい、皆席について。授業を始めるよ」


    始業のベルが鳴るとともに、教室内に散らばっていた生徒たちがそそくさと席に戻る。
    欠席者はゼロ、この学校に赴任してきてからもう二か月ほど経つが、全体の出席率はなかなか優秀だ。


    「みんな教科書の57ページを開いて。領域問題の続きからやるよ」


    パラパラと紙を捲る音が響く。
    涼やかな春の風が白いレースのカーテンをふわりとなびかせる。
    いつもと変わらぬ、平穏な風景だ。
    僕は黒板に放物線を描いたグラフを書くと、その上に真っすぐ線を引いて、ぐりぐりと二か所に点を打つ。
    そして、その横に教科書に書かれている問題文を写した。


    『放物線y=x²と直線y=m(x+1)が異なる二点A,Bで交わるとき、線分ABの中点の軌跡を求めよ』


    「こういう問題を解くとき、判別式を使うことはこの間の授業で話したね。
     それじゃあ、肝心の判別式を誰かに答えてもらいたいのだけど……」


    一度言葉を切って教室を見回す。
    自信ありげに目を輝かせている子、逆に少し俯いたり、視線をそらしている子もいる。
    昔から何かを観察する癖がついているせいか、こうして顔を見るだけで相手の感情がわかる。
    さて、誰に当てようか……密かに吟味していると、不意に視界の隅で、キラリと星が瞬いたような気がした。
    最前列の一番端、そこに座る生徒は、ただぼーっと窓の外を見つめていた。
    籠の中の鳥が外の世界に焦がれるように、その瞳にはどことなく切なげな哀愁が漂っているように思えて。
    自分でもほとんど無意識に、彼の名前を呼んでいた。


    「……天馬くん、わかるかい?」


    名前を呼ばれて僕の方に視線を戻した彼は、不意を突かれて少し驚いたような表情を見せた。
    けれどすぐににっこりと人好きのする笑みを浮かべて、大きな声でこう言った。


    「はい!わかりません!」


    彼が元気よくそう答えた瞬間、どっと教室内で笑いが起こった。
    あまりに潔い回答に思わず僕も苦笑いする。


    「ははっ、さすが司だな~」

    「ホント、普通馬鹿正直に言うかよ」


    クラスメイト達の呆れたような声がどこかから聞こえてくる。
    この子はこういう生徒だった。
    いつもクラスの雰囲気を明るくしてくれる、まさにムードメーカーという言葉がしっくりくるような。


    「正直でよろしい。この後解説をするから、きちんと聞いておくようにね」

    「はい!」


    元気のいい返事を受けて、僕は黒板にチョークで数式を書いた。
    カリカリとノートを取る生徒たちのシャーペンの音が静かな教室に響く。
    不意に視線を感じたような気がして目を向けると、他の生徒と同じようにノートにメモを取る天馬くんの姿が目に入る。


    (……不思議な子だな)


    時々目立ってはいるが、そこまで特別視されるような子でもない。
    それなのに、なんとなく視線を惹きつけられる。
    出会ったときから、少し不思議な魅力を持っている子だった。

    ***
    「神代先生、お疲れ様です。そろそろ授業も慣れてきたんじゃありませんか?」

    「そうですね。まだ少し粗削りですが、生徒たちがみんないい子なので、何とかやれています」

    「そうですか。いいクラスを持たれたんですな」


    ようやく昼休みになって、職員室の自分の席に腰を下ろすと、隣の席の英語教師が声をかけてくれた。
    この学校に勤めてもう十年ほど経つベテランの先生で、赴任してきたばかりの頃からよくお世話になっていた。


    「生徒たちの名前はもう覚えた頃でしょう。誰か気になる子はいますかな?」

    「そうですね……一人だけ。
     素直すぎるのがたまにキズですが、明るくて元気ないい子なんです」

    「ははっ、それはいいですな。子供は元気が一番ですから……おっと、失礼。妻から電話が」

    「いえ、僕のことはお気になさらず」


    ベテランの先生は僕に軽く会釈してから席を立つと、携帯電話を片手に職員室を出ていった。


    (さて、そろそろ僕もお昼にしようかな)


    小テストの採点をキリがいいところで切り上げて、今朝コンビニで買ってきたフルーツサンドが入っている袋を手に取る。
    休み時間とはいえ、年中慌ただしい職員室では、落ち着いて食べられそうにない。


    (……外に出ようかな)


    裏庭にでも行けば、少なくともここよりは落ち着いて食事ができるだろう。
    そう思い立ち、職員室を出る。
    グラウンドを横切るように歩きながら、頭の中を占めるのは次の授業のことだった。


    (三角関数が終わったら、次は微分積分か……ややこしいところだし、教え方を工夫しないとね)


    ふと頭をよぎったのは、今日の授業での出来事だった。
    わかりません!と元気よく答えた彼を思い出して、思わずくすりと笑いが零れる。
    あれくらい潔く開き直られると叱る気にもならない。
    あの素直で真っすぐなところは彼の取柄だろう。
    そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか裏庭についていた。


    (さて、どのあたりで食べようかな……)


    きょろきょろと辺りを見回して、日陰になっている場所を探す。
    その時、近くの物陰からふと内緒話をするような囁き声が聞こえた。


    「なあ、マジでタダでヤらせてくれんの?」

    「ああ、好きにしろ。ただ……」

    「わーってるって、見えるところに痕つけなきゃいいんだろ?」


    わずかに耳に届いた会話の内容から何か不穏なものを悟る。
    ほどなくして、衣擦れの音と鼻にかかるような色を帯びた声が聞こえて、つい身体が勝手に動いてしまった。
    声の聞こえた物陰を覗き込むと、二人の男子生徒がいた。
    二人とも上半身の衣服がはだけていて、片方の生徒の鎖骨の辺りには赤く鬱血した痕が点々と浮かび上がっている。
    先程までここで何が行われていたのかは明白だった。


    「君たち!何をしてるんだい!?」

    「やべっ!!」


    思わず声を荒げると、男子生徒の一人は厄介事はごめんだとばかりに一目散に逃げ出していく。
    とっさにその背を追いかけようと思ったが、できなかった。
    とても受け入れ難い衝撃的な事実を、目の前に突きつけられていたからだ。


    「君、は……」


    もう一人の男子生徒は、逃げも隠れもせず、淡々とはだけたシャツのボタンを留めて、衣服の乱れを直している。
    その生徒の顔を、僕はよく知っていた。


    「……天馬くん、どうして君がこんなところに?」


    夜空の星を思わせるように鮮やかな金糸の髪、くりくりとした愛らしい瞳。
    彼の見た目はいつもと何も変わらないのに、その表情はまるで違う。
    太陽を思わせるような明るく朗らかな笑顔は消え失せ、代わりに浮かんでいるのはまるで宵闇の月のような大人びて艶やかな微笑みだった。


    「ああ、見つかってしまったか……運が悪かったな」

    「……何を、していたんだい?」

    「そんなこと言わせるのか?……見せた方が早いと思うが」


    天馬くんは一番上までボタンを止めたシャツの上から、鎖骨の辺りを指でなぞった。
    先程まで彼の肌にあったはずの痛々しい鬱血痕は、もう少しも見えない。
    いつもそうだ、彼はシャツを第一ボタンまできっちりと留めていた。
    単に真面目な性格ゆえのことだと思っていたけれど……もしそれが、人に見られたくない何かを隠すためだったとしたら?
    いつも明るくて人気者のムードメーカー、彼に抱いていた印象がガラガラと音を立てて崩れていくのが分かった。


    「……先ほどの彼とはどういう関係なんだい?恋人には見えなかったけれど……」

    「ただの同級生だ。誰でもいいから相手をしてほしいと言われてな」

    「まさか、それで了承したのかい?こういうことは、何度かしているの?」

    「ああ、それなりに」


    あっけらかんとそんなことを言われて思わず頭が痛くなった。
    この貞操観念に問題がありすぎる生徒をどこから指導すべきか。
    それ以前に、自分が少し前に抱いていた印象と、今目の前にいる彼のイメージにあまりにもギャップがありすぎてかなりショックを受けていた。


    「……もうこういうことはやめなさい。気持ちがないのに容易く身体を差し出すような真似をしてはいけない」

    「……どうしてだ?」

    「どうしてって……普通、こういうことは好きな人とするものだろう?
     そういうことに興味が湧く年頃なのはわかるけれど、一時の快楽に身を任せると後で後悔するよ」

    「……まるで経験したことがあるような言い方をするんだな」


    追及するような鋭い眼差しを向けられて、思わず心の中で苦笑いする。
    昔、少し荒んでいた時期にそれなりにやんちゃをしていた経験があるなんてことは、教職に就いた今、口が裂けても言えないのだが。


    「とにかく、君はもっと自分を大事にするべきだ。
     悩み事があるなら聞くから、もうこういうことはしないように。わかったね?」

    「……オレは、自分を大切にすることなんて出来ない。
     先生がオレの代わりに大切にしてくれればいいのにな」


    一歩、呼吸をする間もなく詰められた距離に動揺する。
    身体に押し付けられた温い体温と、髪が首筋をくすぐるこそばゆい感触。
    まるで、悪い夢でも見ているような心地だった。


    「先生はモテるんだな……始業式の時からずっと噂になっていたぞ。
     オレも……神代先生は好きなタイプだ」

    「……大人を揶揄うものじゃない。教え子に手を出すほど相手に困ってはいないよ」

    「ははっ、さすが、手強いな。ますますオレの好みだ」


    天馬くんの肩をぐいっと押して身体を引きはがすと、少し距離をとるように一歩後ろに下がった。
    彼もそれ以上しつこくする気はないようで、あっさりと僕から離れる。


    「こんなことを繰り返していたら、ご家族も心配するだろう。
     親御さんには黙っておくから、素行は改めなさい。いいね?」

    「……優しいんだな、先生は」

    「……僕は教師だからね」


    自分の生徒が道を外れそうになっていたら、正しい方向へ導くのが僕の仕事だ。
    彼のような子がどうしてこんなことをしているのかわからないが、どんな理由があるにしろ放ってはおけない。
    どうしたものかと思案していると、不意に始業十分前を知らせる予鈴が耳に届いた。


    「……教室に戻りなさい。くれぐれも僕の言ったことを忘れないように」


    そう言うと、天馬くんは素直に僕に背を向けて校舎の方に向かって歩き出す。
    その後ろ姿を何とも言えない表情で見送っていると、不意にくるりと振り返って僕に笑いかけた。


    「……オレは、先生に叱ってもらえて、少し嬉しかったぞ」


    ありがとなと言い残し、彼は少し小走りで教室に戻っていった。


    (……お昼、食べ損ねたな)


    目の前の現実から目を逸らしたいのか、そんな呑気なことがふと頭を過ぎった。
    この数十分でいろいろなことが起こりすぎて脳が少しキャパオーバー気味だ。
    素直で、明るい良い子。その印象はきっと間違いではないのだろう。
    けれど、そんな彼の表の顔の下には、もっと深くて悲しい何かが隠されている。
    そんな気がしてならないのだった。


    ***
    天馬司、神山高校2ーAに在籍する高校二年生。
    明るく活発な性格で、クラスのムードメーカー的存在。
    交友関係が広く、クラスで学級委員長を務めるなど、積極的な姿勢も見せる。
    学業の成績は全体の真ん中くらい、現時点では良くも悪くもないが、まだまだ伸びしろはあるだろう。
    ただ運動神経はずば抜けていて、体育の成績はかなり良い。
    家族構成は父、母、妹。家庭環境は良好、経済的にも豊かで特に問題は見受けられない。


    「……はあ」


    書類を最後まで読み終えて、思わず重たい溜息が漏れた。
    あんな現場を目撃してしまった手前、教師として放っておくこともできず、僕は天馬くんについていろいろと調べ始めた。
    だが、結果は先の通りだ。
    家庭環境、普段の学校生活共に問題なし。
    他の先生に聞いてみても、返ってくるのは、明るくて元気な子だとか、調子のいいこともあるけれど素直ないい子だとか、同じような答えばかりだ。


    (……いったい、何が目的であんなことを)


    若さゆえの好奇心だけで悪いことに足を突っ込むようなタイプには見えない。
    愛に飢えているとか、お金に困っているとか、何かしら理由があると思うのだが。



    「この感じだと、そういう線は薄そうかな……」


    ご家庭は裕福なようだし、家庭環境も悪くなさそうだ。
    理由などなくとも、彼自身がああいうことを好きでやっているということもありえるけれど……。


    『……オレは、先生に叱ってもらえて嬉しかったぞ』


    (……あれは、楽しんでいるような感じにはとても見えなかった)


    理由はどうあれ、あんなことは早急にやめさせなければ。
    彼がどういう相手と何をしているのか、まだ具体的にはわからないが、もし金銭のやり取りが発生していたら援助交際ということになる。
    あんな若いうちから他者に性的に搾取されることを覚えてしまったら、取り返しのつかないことになるかもしれない。


    (……早急に対策を練らなければね)


    手元のファイルをパタンと閉じて、深く深呼吸する。
    まずは、あの子のことをもっと知るところからだろうか。
    いくつか対策案を考えつつ、僕は出席簿を手に午後の授業に向かった。


    ***
    「天馬くん、少しいいかい?」


    翌日、帰りのHRが終わった後、僕は教室の隅で友人と談笑している彼に声をかけた。
    天馬司という生徒のことを、表向きだけではなくもっと深くまで知ること。
    心を開いてもらうには、こちらから歩み寄って警戒心を解かなければならない。
    一晩で様々な案を考えたが、結局一番無難で初歩的なところから始めようと思ったのだ。


    「はい!なんですか?神代先生」


    表向きしっかりものの学級委員長で通っている彼は、僕の呼びかけに笑顔で答える。
    こうしていると、どこにでもいる普通の男子高校生しか見えない。
    彼の友人たちが気を利かせて席を外してくれたタイミングで、僕は話を切り出した。


    「天馬くん、君に一つ頼みたいことがあるのだけど……」

    「……なんですか?」

    「君さえよければ、先生助手として僕の手伝いをしてくれないかな?
     ほら、僕の授業ってプリントとかの配布物が多いだろう?
     だから資料作成を手伝ってくれる生徒が欲しいと思っていたんだ」

    「……なぜ、その役目をオレに?」


    探るような眼差しを向けられて、少し心が揺らぐ。
    わずかな動揺を悟られぬよう、僕はにこりと柔らかい笑みを浮かべてそれを覆い隠した。
    愛想笑いは割と得意な方だ。
    表向きだけでも人の輪の中に馴染むために必要な処世術のようなものだから。


    「クラスの学級委員長でしっかり者の君に頼むのが一番いいと思っただけだよ。
     手伝ってくれたら内申点もあげるし、悪い話じゃないだろう?」


    何も悪いことはしていないはずなのに、年下の子を拐かしているような罪悪感があった。
    真実の中にわずかな嘘を混ぜているからだろうか。
    天馬くんは少し考えこむように俯くも、ほどなくしてこくりと頷いた。


    「はい!オレでよければお手伝いします!」

    「ありがとう、助かるよ。早速だけど、明日の昼休み、昼食を食べ終わったら数学準備室に来てくれるかい?
     手伝いをするのは午後に授業があるときだけでいいから」

    「わかりました!」


    では、失礼します!と元気よく教室を去っていく背中を見て、ようやくほっと一息つく。
    とりあえず、第一関門は突破出来ただろうか。
    授業準備の手伝いという名目があれば、雑談の合間に少しずつ切り込んだことも聞けるようになるかもしれない。


    (……これで、少しでも良くなるといいけどね)


    今から考えてみても先が長すぎて頭が痛いのだが、首を突っ込むと決めた以上、手は尽くさなければならない。
    手元の資料にもう一度目を落として、人知れず重い溜息をついた。


    ***
    翌日の昼休み、約束通り、天馬くんは数学準備室にやってきた。


    「先生、失礼します!」

    「やあ、来てくれてありがとう。早速だけど、この資料をホチキス留めしてくれないかい?」


    「はい!」


    テーブルの上に並んだ資料を指さして、ホチキスを渡す。
    天馬くんは素直にそれを受け取り、資料をまとめ、黙々と手を動かし始めた。
    僕も机に向き直り、採点途中の小テストに赤ペンで丸を付ける。
    しばらくそうして互いに作業に勤しんでいると、不意に淡々とした声が静寂を切り裂いた。


    「それで……何故オレを呼んだんだ?」

    「え……?」


    書類をトントンと揃えて、手際よくホチキスで止めながら、天馬くんは僕の方に顔すら向けずそう訊ねた。
    裏の一面を知られて、隠すことを諦めたのだろうか。
    この少し陰のある横顔が、本来の彼の姿なのかもしれない。


    「何か話したいことがあるのだろう?内容は察しがつくが……」

    「……いくつか、聞きたいことがあるのだけど」

    「ああ、構わない。答えられることなら答える」


    察しはついていても、直接的な言葉で尋ねるのは憚られた。
    仕方がないので、少し遠回りな聞き方をする。
    それでも、当事者である彼には十分伝わるだろう。


    「君はなぜあんなことを?何か理由があるんだろう?」

    「……いや、特にはない。ただ求められるままに応じているだけだ。
     金銭を受け取ったことはないから、安心してくれ」


    あっけらかんとそんなことを言われて、困惑する。
    予想はしていたが、やはりお金が目的ではないようだ。
    その辺りを弁えてくれているのは幸いだが……それなら尚更分からない。
    そんなことをするメリットが、彼には全くないように思えるからだ。


    「見ず知らずの他人に身体だけ好き勝手にされて、辛くないのかい?
     君はまだ高校生だ。きちんと恋人を作って真っ当な恋愛をした方が、よっぽど有意義だと思うけどね」


    不意に、紙を重ねる音がぴたりと止んで、教室がしんとした静けさに包まれる。
    どうしたのだろうと思い、顔を上げてちらりと目を向けると、天馬くんはプリントを手にしたまま何かを思い出すように遠い目をしていた。
    その憂いを帯びた横顔はやけに大人びていて、思わず目線を惹きつけられる。
    僕の視線に気づいたのか、天馬くんは僕の方に顔を向けると、曖昧に微笑んで見せた。


    「……もう、恋はしたくないんだ」


    どうして、と気軽には訪ねられない雰囲気があった。
    それはきっと、彼の一番隠したい秘密なのだろうと。
    なんとなく、そう思った。


    「大丈夫だ、先生に迷惑をかけるようなことはしない。
     気にかけてくれるのはありがたいが、あまり心配しなくてもいい」

    「そういうことを心配しているわけではないのだけどね」


    パチンと、最後のプリントの束をホチキス留めすると、司くんはふうと息を吐き出してにこやかに僕に向き直った。


    「……先生、これで大丈夫ですか?」

    「……ああ、お疲れ様。助かったよ」

    「いえ、用事があればまた声をかけてください!失礼します!」


    そう告げると、司くんは踵を返してスタスタと教室を出ていった。
    その背中はすべてを拒絶するようで、ますます気になってしまう。


    (……逃げられたのかな、これは)


    椅子の背もたれに身体を預けて、思わず深いため息が漏れる。
    ああ見えて、かなりガードが固い様だ。 
    これは長期戦を覚悟しなければいけないかもしれない。


    ***
    「では、今日の授業はここで終わりにしよう。
     宿題はきちんとやってくるように」

    「はーい!」

    「起立!気を付け、礼!」


    いつもと違う生徒が授業終わりの号令をかける。
    というのも、今日の授業は学級委員長を務める天馬くんが欠席だったからだ。


    (あの子が授業を休むなんてね……)


    担任になってから、天馬くんが僕の授業を休んだことはただの一度もなかった。
    学校には来ているようなので、なおのこと不審だ。
    具合でも悪いのだろうかと、授業を終えた後に保健室を覗きに行ってみたが、天馬くんはいなかった。


    (……いったい、どこに行ったのだろう)


    幸い、僕の授業の後は昼休みだったので、昼食を取るのを後回しにして彼を探すことにした。
    注意喚起はしたが、またこの前のような悪い遊びをしていたら困る。
    何となく嫌な予感がして裏庭に行ってみると……当たってほしくなかったそれが的中してまったことを嫌でも察した


    「天馬くん……!」


    裏庭のベンチに身体を預けて、うずくまるようにしながら、天馬くんがぐったりとしていた。
    明らかに具合が悪そうだ、顔色が真っ青で、全身びっしょり汗をかいている。


    「天馬くん!どうしたんだい!?何があったんだ……!」

    「あ……かみしろ、せんせ……」


    うっすらと目を開けて、天馬くんが少し舌足らずに僕の名前を呼ぶ。
    助けを求めるように伸ばされた腕を首に回させて、横抱きにした。
    事情を聞かなければいけないが、とりあえずこのまま放置はできない。
    僕は天馬くんを抱えたまま、全力で保健室まで向かった。


    ***
    保健室に着くと、天馬くんの靴を脱がせてベッドに寝かせた。
    間が悪いことに保険医の先生が留守だったので、あとを任せることもできない。
    具合が悪そうだということしかわからず、僕には医療的な専門知識もないので、大した力になれないことが歯がゆかった。


    「天馬くん、大丈夫かい?どこかが痛いとか、気持ちが悪いとかはあるかい?」

    「……おなかが、いたい」

    「お腹……?」


    明らかにただの腹痛にしては度が過ぎている。
    それに、寝返りを打つたびに痛みを堪えるように顔を歪ませるのも気になった。
    少し頭を回して、たどり着いた最悪の可能性に、僕は思わず顔をしかめざるを得なかった。


    「……天馬くん、すまない。少し触るよ」

    「え、せんせ、いやだ……っ」


    僕は天馬くんの制服のシャツのボタンに手をかけると、一つずつ外していく。
    必死に抵抗する彼の様子を見るに、何かを隠しているのは明らかだった。
    少し強引に手首を押さえながら、ボタンを外したシャツを少しくつろげて、思わず息を飲んだ。


    「……天馬くん、これは?」

    「……言っておくが、虐待とかではないぞ」

    「わかっているよ、でも立場上、僕はそういうことも疑わなければいけない。
     ……何があったのか、話してくれるね?」


    彼の上半身には、痛々しい痣が点々と浮かび上がっていた。
    明らかに人為的につけられた暴力の痕だ。
    見ているだけでどす黒い感情が胸の内に広がっていくのを感じて、思わず右手を強く握りしめた。


    「……先生は、怒るだろう?」

    「怒られるようなことをしたという自覚があるのかい?
     どちらにせよ、事情を聞かないことにはね」

    「……昨日相手をした男がハズレだっただけだ。
     こういうことは初めてではない。放っておけば治る」


    そう言って、天馬くんは毛布を引き上げ、すっぽりと顔を隠してしまった。
    おおよそ見当がついていた答えだったが、いざ本人の口から言われるとひどく頭が痛んだ。
    体調不良の原因である腹痛は、行為が終わった後の処理が甘かったといったところだろうか。


    「……その様子だと、朝から具合が悪かったんだろう?
     なぜ学校を休まなかったんだい?」

    「……休んだら、家族に心配をかけてしまう。
     こうなったのはオレの自業自得だ。迷惑をかけるわけにはいかない」


    人に流されやすい癖に、こういうところはやけに頑固だ。
    確かにこんな明らかな体調不良をご両親が放っておくはずがないだろうし、その原因が性行為だなんて言えるはずもないだろう。


    (……事態は思ったよりも深刻だ)


    もう少し様子を見ようと思っていたけれど、そんな悠長なことは言っていられない。
    彼はきっと、この行為に依存してしまっている。
    原因はわからない、けれど、たとえ一時的にでもその気持ちを他に向けてくれたのなら。


    (……少なくとも、こんな風に自分の身を傷つけるようなことはなくなるだろうか)


    生徒の身を案じることは、教師として当然のことだ。
    けれど、今はそんな形式的な使命感より、もっと優先したい想いがあった。


    「……僕に何かできる事はあるかい?これ以上君が傷つくのを、黙ってみているわけにはいかない」


    毛布から少し見えている彼の頭を優しく撫でる。
    ぎゅっと、毛布を掴む彼の手に力がこもり、くしゃりとしわがよる。
    しばらくそうして撫でていると、不意に天馬くんがもぞりと毛布から顔を出した。


    「……先生が、甘やかしてくれたら」

    「え?」

    「先生が、代わりになってくれたら、いいぞ」


    そんなことを口にする彼を見て、思わず眉間にしわが寄った。
    教師が生徒に手を出すなんてこと、許されるはずがない。
    変な気を持たせて、無駄な期待をさせることも。
    けれど、今は……。


    (……迷っている時間はない)


    彼の抱えている痛みを、少しでも和らげることができたのなら。
    その閉ざされた心の奥にある想いを、いつか知ることができるだろうか。


    「……どうしても辛くなったら、数学準備室に来なさい」

    「!いいのか……!?」

    「言っておくけれど、そういう行為はしないよ。
     あくまで常識の範囲内での話だ。
     その代わり、こういうことはもうやめること。約束できるね」

    「……わかった」

    「……いい子だ。とりあえず今は休みなさい。
     次の教科の先生には僕から話を通しておくから」


    くしゃりと髪を撫でると、天馬くんはくすぐったそうに笑った。
    彼の自然な笑顔を見たのは、思えばこれが初めてかもしれない。


    (……いつも、そういう顔をしていればいいのに)


    クラスのムードメーカーとして過ごしている時に張り付けている、やたらと朗らかな笑顔や、時折見せるやたらと大人びた微笑みよりも。
    年相応の子供らしい笑顔は、僕の目にはやけに魅力的に映ったのだった。


    ***
    それから、僕の日常にはささやかな変化が起きた。
    もっとも、それがいいことなのか悪いことなのかは定かではないのだが。


    「失礼します!神代先生はいらっしゃいますか!」

    「……天馬くん、今日は手伝いをしてもらう日ではないのだけど」

    「お忙しそうだったので何か力になれればと思ったのですが……お邪魔でしたか?」

    「……いや、どうぞ入って」


    扉の前から一歩退くと、天馬くんははい!と元気よく返事をして教室に入ってくる。
    そして、後ろ手にドアを閉めて器用に鍵をかけると、僕の方に歩み寄ってきた。


    「……それで、何の用かな?」

    「……わかっているくせに」


    蜂蜜色に蕩けた瞳が、僕の視線を捕らえる。
    まるで脅迫だ、相手は自分よりずっと年下の男の子だというのに。
    深い溜息を吐き出して、望まれるまま彼の前に腕を広げる。
    すると、次の瞬間頭突きでもするような勢いで天馬くんが僕に抱き着いた。
    一切の遠慮もなく激突されて頭がぐらぐらする。


    「っ、君ねえ……僕は“どうしても”辛くなったら来なさいと言ったはずだけれど?
     最近はほぼ毎日じゃないか」

    「いいだろう?……先生とこうしていると、安心するんだ」

    「……君を安心させるのは僕の役目ではないのだけどね」


    あれから、天馬くんは毎日のように数学準備室を訪れては、こんな風に抱き着いてくる。
    けれど、その行為に僕から応えることはない。
    キスもセックスも、恋人同士がするような行為は当然、抱き締め返すことすらしない。
    それは僕が決めたルールのようなものだった。
    教師と生徒だと言い張るのは少し不自然な関係で、それでも明確な一線は越えない。
    そんな中途半端な状況でも、彼は不思議と少しずつ落ち着きを取り戻しつつあるようだった。


    (不特定多数と関係を持つようなことは控えているようだけれど……だからと言って、ずっとこのままというのもね)


    普通、こんな風に甘やかすのは教師ではなく、家族や恋人の役目だろう。
    学生らしく、好きな相手でも見つけて真っ当な恋愛をしてくれればいいのだが。
    僕がそう言う度に、彼から帰ってくる答えはいつも同じだった。


    『……もう、恋はしたくないんだ』


    どこまでも聞き分けのない困った生徒だ。
    それなのに、どうしても放っておけない。
    それは、僕が自分で思っている以上に世話焼きな性格だったせいか。
    それとも、彼が纏う寂し気な雰囲気が僕にそうさせるのか。


    「……ほら、そろそろ離れなさい。
     自分から来たのだから、手伝いはしてもらうよ」

    「……もう少しだけ、ダメか?」

    「それ以上我儘を言うなら出禁にするよ。
     僕も暇じゃないからね」

    「……つれないな、先生は」


    不満を隠さず、しぶしぶといった様子で司くんが密着させていた身体を離す。
    そして、何も言わずに部屋の片付けを始めた。


    「いつも思うが、どうしてこんなに短期間で部屋が汚れるんだ?
     先生の周りだけ散らかりすぎだ」

    「掃除は苦手なんだよ、昔からね」


    数学科の教師は何人かいるが、この準備室を使っているのは僕一人だけだった。
    もともと、僕が来る前はあまり使われておらず、ただの物置と化していたらしい。
    いつも騒がしい職員室だと仕事に集中できないので、上に許可を取って埃を被っていたこの部屋を使わせてもらっていた。


    「対する君は片付けが得意だね。君と結婚した人はとても助かりそうだ」

    「なんなら先生がオレの旦那さんになってくれてもいいんだぞ」

    「冗談だろう?君だって、相手がこんなおじさんじゃ嫌だろうに」

    「……オレは」


    不意に、忙しく動いていた彼の手がぱたりと止まった。
    違和感は一瞬だった。
    僕が目線を向けた時にはもう、彼は涼しい顔で机の上に積みあがったファイルを棚に戻していた。


    「……おじさんを名乗るには、まだ若すぎるんじゃないか?」

    「高校生からすれば、五歳も年上の男なんておじさんだと思うけれどね」


    冗談めかしてそう口にして、痛いほど実感する。
    僕とこの子の間には差がありすぎる。
    年齢だけじゃない、立場も、価値観も、何もかもが違う。
    どうせあと一年と半年程度で終わる関係だ。
    そこから先は、もう守り切れない。


    「先生、これはどこに置けばいいんだ?」

    「え?……ああ、その辺りに積んでくれればいいよ。
     どうせ今年度はもう使わないから」

    「その辺りじゃどの辺かわからないだろう!まったく、相変わらず適当だな……」


    文句を言いながらも、天馬くんは僕の曖昧なニュアンスを汲み取って段ボールを置いていく。
    彼に関しては問題が山積みで、この先どうなっていくかまだわからないけれど。
    僕の周りをパタパタと駆け回って、散らかし放題の部屋を片付けている彼の姿を見ていると、なんだか新婚の奥さんと暮らしているような、悪くない気分で、自然と笑みが零れた。


    ***
    「じゃあ、神代先生。見回りお願いします」

    「はい、わかりました」


    六月に入り、雨模様が続いている今日この頃。
    最終下校時刻を回り、僕はいつものように教室の見回りをしていた。


    「ここも異常なし、と……」


    ひとつひとつの教室を覗いて誰もいないのを確かめ、鍵をかけていく。
    勉強や作業などで居残っていた生徒たちに帰宅を促し、そろそろ確認する箇所も残り少なくなってきた頃。
    ある教室で、彼の姿を見つけた。


    「天馬くん……まだ残っていたのかい?」


    数学準備室の僕がいつも使っている机の上に天馬くんは顔を伏せていた。
    なぜ彼がこんなところにいるのか。
    謎は残るが、とりあえず眠っているらしい彼の肩を軽く揺さぶる。


    「天馬くん、起きて。もう帰る時間だよ」

    「ん……せんせ?」


    寝起きの彼はまだ少しぼーっとしているらしく、目元をセーターの袖で擦って小さくあくびをした。
    天馬くんの顔は少し覇気がなかった。
    もしかしたら寝不足なのかもしれない。


    「どうして君がこんなところにいるんだい?
     もうとっくに帰ったものだと思っていたよ」

    「……この部屋に来ても、せんせいがいなかったから。
     待っていようと思ったんだが、いつの間にか寝てしまった」

    「ああ、すまなかったね。今日の午後はずっと職員会議だったんだ。
     君に伝えるのをすっかり忘れていたよ」


    拗ねたようにむくれている彼を宥めるように頭を撫でる。
    こうして見ると、なんだか実年齢より子供っぽく見える。


    「とりあえず、今日は帰りなさい。
     もう六時を回っているんだ。あまり遅くなると、ご家族が心配するだろう」

    「……問題ない。今日は家に誰もいないからな」


    どこか遠くを見つめながら、天馬くんはぽつりとそう口にする。
    その瞳はどこか不安げに揺れていて、切なげな色を湛えていた。


    「……ご家族はお仕事かい?」

    「……いや、妹が体調を崩してしまってな。
     危険な状態ではないらしいが、念のため両親も病院に泊まり込むらしい」

    「妹さんが……それは心配だね」

    「こういうことは昔からよくあるんだが。
     やはり……何度同じような経験を重ねても、不安にはなるな」


    らしくないなと笑う彼に、いつもの元気はない。
    この一夜を超えるために、彼はどうするのだろうか。
    誰もいない広い家に一人でいたところで、不安は増すばかりだろう。
    こんな憂いの夜を、彼は幼い頃からずっと繰り返してきたのだろうか。


    「……夕食はどうするんだい?」

    「ふむ……オレは料理ができないからな。
     外で適当に食べようと思っているが」

    「……それなら、僕の家にくるかい?
     あまり凝ったものは作れないけれど」

    「いいのか!?」


    思わずぽろりとそう零してしまうと、眩しいほどキラキラとした瞳で見つめられて、数秒前の自分の発言を悔いた。
    放っておけないとはいえ、あまりに軽はずみな言動だった。
    ここまで世話を焼くのは教師として果たすべき役割の範疇を超えている。
    けれど、そんなことは今更だった。


    「……夕飯を一緒に食べるだけだよ。そのあとはまっすぐ家に帰って、もう外出はしないこと。
     約束できるね」


    こくこくと何度も頷く彼に苦笑して、先に下で待っているように言いつける。
    どうも甘やかしすぎているような気もするが、不安に駆られてまた不純な行為をされても困る。
    問題児の監視という名目なら、ある程度の言い訳が効くだろうか。
    機嫌よさげに鼻歌を歌う彼の後ろ姿を見つめて、人知れずため息を吐いた。


    ***
    「天馬くん、待たせたね。ほら、乗って」


    駐車場に止めていた車のロックを解除して、天馬くんを助手席に促す。
    見慣れない車の車内が珍しいのか、天馬くんはきょろきょろと忙しなく視線を彷徨わせていた。


    「先生は車で通勤していたんだな、初めて知ったぞ」

    「自宅が駅から少し遠いからね。免許は大学時代に取ったし、満員電車も好きではないからちょうどよかったけれど」

    「そうなのか……車を運転する先生は、何だかかっこいいな。
     いつもより大人に見える」

    「ふふ、おかしなことを言うね。僕はもうとっくに大人だよ」


    そんな会話をしながら、見慣れた道を走る、
    何故か横から熱烈な視線を感じて、どうも集中が途切れがちだ。
    万が一にも事故を起こしたら大事なので、彼の興味を逸らすために新しい話題を振った。


    「夕食のリクエストはあるかい?そういえば、君の好きな食べ物を聞いたことはなかったね」

    「ははっ、そういえば話したことがなかったかもしれないな。
     好きな食べ物はアクアパッツアと生姜焼きだ!」

    「ふふっ」


    元気よく返された彼の答えに思わず笑ってしまう。
    そんな僕の態度が気に入らなかったのか、天馬くんは何がおかしいんだ!とむくれた。


    「すまないね。あまりにも正反対なものだから、おかしくて。
     ほら、魚料理と肉料理だし、洋食と和食だろう?
     それにアクアパッツアなんて、男子高校生が好物に挙げる料理じゃないと思うけれどね」

    「名前がかっこいいだろう!見た目も華やかなんだぞ!」

    「ふふ、そうだね。アクアパッツアは作るのが難しいけれど、生姜焼きなら僕にもできるかな」

    「本当か!?」

    「あまり期待しないでおくれよ。所詮は一人暮らしの男の料理だからね」


    あまりにも期待に満ちた眼差しを向けられて、いよいよ逃げ場が無くなったなと内心苦笑した。
    もっと簡単な料理は他にもあっただろうに、自分で自分の首を絞めているような気がする。
    それでも、素直に瞳を輝かせる彼を見ていると、それも悪くないかなんて思ってしまうのだから不思議だった。


    ***
    近くのスーパーで買い物をしてから、オレは先生の自宅へと初めて足を踏み入れた。
    普段の数学準備室の惨状を見るに、まずは掃除から入らなければいけないのではと覚悟していたのだが、予想に反して先生の部屋のリビングは綺麗だった。
    先生もきちんと片付けられるんだな!とつい口にしてしまうと、なんとも微妙な顔をされたので、これは失言だったかもしれない。
    リビングの奥にある部屋には絶対に入らないようにと念を押されたので、おそらくそっちが仕事部屋なのだろう。
    察するに、中には目も当てられないほど悲惨な光景が広がっているに違いない。


    「夕食ができるまで少し時間がかかるから、君はリビングで暇を潰していてくれるかい?
     といっても、面白いものはあまりないだろうから、宿題でもやっておいてくれると僕としては助かるかな」


    スーツのジャケットをハンガーにかけて、先生は先ほど買った食材をキッチンの上に並べる。
    何か手伝えることはないかと聞いてみたが、作業自体はさして大変でもないからと断られてしまった。
    仕方がないので、先生の部屋の中をぐるぐると見て回る。
    薄型のテレビとソファ、ダイニングテーブルの上には白いクロスが敷かれている。
    壁側にある大きな本棚の中には分厚い本が何冊も収められていて、オレが見てもまったく内容が分からないものばかりだ。
    モノトーンスタイルを基調として整えられた部屋は落ち着いた雰囲気で、大人の男性の部屋という感じがする。
    リビング以外の立ち入りは許されていないので、部屋探索も早々に終わってしまって、オレは言われた通り大人しく宿題をすることにした。


    「先生、問四の不定積分の答えを教えてくれ!」

    「出題者に回答を聞く生徒がどこにいるんだい。公式は授業で教えたはずだよ」

    「ノートを見てもどの式を使うかわからないんだ。公式の種類が多すぎるだろう!」

    「それを僕に言われてもね……」


    八つ当たりのようにそう口にすると、キッチンで豚肉の下ごしらえをしていた先生は困ったように苦笑した。


    「仕方がないね。ヒントをあげようか。
     そのタイプの問題は式に当てはめる数が偶関数か奇関数かによって答えが変わるんだ」

    「そうか!それならこっちの式を使えばいいんだな!」

    「ふふ、さすが呑み込みが早いね。
    公式だけ丸暗記していると、いざというときにどの式を使えばいいかわからなくなってしまう。
     数学は暗記よりも問題をたくさん解いた方が身につくよ」


    とても教師らしい真っ当なアドバイスを受けて思わずため息が漏れる。
    やはり地道な努力無くして結果が出ることはないのだろう。
    どれだけ努力しても、先生のようにはなれないだろうが。


    (……先生のように、か)


    教師という職に就く人間は、皆その分野を極めた者ばかりだが、神代先生はその中でも特別だ。
    その凄まじい学歴と才能については生徒の間でもたびたび噂になっていた。
    化学でも物理でも英語でも、高校で習う程度のことなら先生に教えられないことはない。
    おまけにあの絵画の中から出てきたような整いすぎた容姿だ、神は先生に二物を与えすぎている。


    (……先生にはきっと、叶えられぬ夢などないのだろうな)


    オレと違って……先生なら、きっと。
    その気になればどんな生き方でもできるのだろう。
    羨ましい、なんて……そんな風に想うのはおこがましいだろうか。
    あの日から……一歩も進めていないオレが。


    「おまたせ、夕食が出来たよ」

    「あ……すまない、今片付ける」

    「ああ、きちんと解けたんだね。えらいよ」


    くしゃりと、先生の大きな手がオレの頭を撫でる。
    先生がよくする仕草だ。髪を優しく梳かれると、安心感を覚えると共に、まだまだ子ども扱いされているようで少し複雑な気持ちになる。
    教科書とノートを鞄にしまって、香ばしい香りを漂わせる生姜焼きの皿を二人分、テーブルの上に置く。
    それから諸々の準備を終えて食卓に着くと、オレはいつものようにパチンと手を合わせた。


    「いただきます!」

    「ふふ、どうぞ、召し上がれ」


    すり下ろししょうがを使ったしょうゆベースのタレがたっぷりかかった豚肉を口に運んで、思わず感嘆の声が口から洩れた。


    「美味い……!!」

    「そう、よかった」

    「先生は天才だな!こんなに美味いものが作れるとは!」

    「ふふ、大げさだよ。食材をそろえてレシピを見れば大体の料理は出来るさ」


    褒めちぎるオレを見て、先生はおかしそうに笑う。
    先生はなんてことないように言うが、これはきっと常人には簡単なことではないだろう。


    「先生は本当に何でもできるんだな。苦手なこととかはないのか?」

    「掃除は苦手だよ。あとは、単純作業も苦手かな。
     頭はいつでも回しておきたいんだ」

    「むう……その程度では弱点にはならんな」

    「まったく、君は僕に奇襲でもかけるつもりなのかい?」


    冗談めかしてそんなことを言いながら先生は笑った。
    そんな他愛もない話をしながら、和やかに食事は進む。
    しょうがのタレが絡んだ豚肉は白米との相性が抜群だ。
    もぐもぐと食べ進めていると、不意にあることに気が付いた。


    「そういえば、どうして先生の皿にはキャベツがないんだ?」


    オレの皿の方にはこれでもかというほど山盛りに盛られた付け合わせのキャベツが、何故か先生の皿には全くなかった。
    そう指摘すると、先生は珍しくバツが悪そうな顔をした。
    その顔を見て確信する、これは何かあると。


    「先生、何か隠しているな!吐け!さっさと吐いた方が楽になれるぞ!」

    「どうして尋問されているのかな……わかったよ」


    昔、テレビで見た刑事ドラマのセリフを引用して詰め寄ると、先生は案外あっさりと白旗を上げた。


    「単に嫌いなだけさ。理由はそれだけだよ」

    「嫌い?キャベツが?」

    「いや、僕は野菜全般何でも受け付けないんだ。昔からどうしても味が好きになれなくてね」

    「や、野菜全般だと!?」
     

    思わず絶句してしまった、とんでもない偏食家だ。
    そういえばスーパーに寄った時に、ものすごく嫌そうな顔をしてキャベツをかごに入れていたような気がする。
    なぜそんな偏った食生活をしているのにここまで背が伸びるのだろう。
    神様はやはり理不尽だ……しかし、これは……。


    「ふっふっふ!見つけたぞ、先生の弱点を!」

    「僕の弱点なんか見つけてどうするんだい?まさかよからぬことを企んでいるわけではないだろうね?」

    「いや、単に嬉しかっただけだ……オレの知っている先生は完璧だからな。
     何でも出来るし、誰にだって優しいだろう?
     そんな先生の弱点が、まさか野菜だなんてな」


    あまりにも普通というか、いつもの完璧超人のような先生からは想像もつかない。
    それはオレに、不思議な安心感を抱かせてくれた。
    初めて先生の弱さや、人間らしさのようなものに触れた気がして。
    先生もオレと同じ世界の住人なのだと、実感できた。


    「……僕は完璧などではないよ。出来ないこともたくさんある。
     なぜか昔から、周りは僕のことを何にでも恵まれている存在のように扱うけれどね」


    本当はそうでもないんだよと、先生はどこか寂しそうな眼をして笑った。
    先生は、自分のことをあまり話さない。
    何を願い、何に悩み、どうやって生きてきたのか。
    少し近づけたような気になっていても……オレはまだ、この人のことを何も知らない。
    知りたいと言ったら、教えてくれるだろうか。
    直接訊ねる勇気は、まだオレにはなく、ただ黙々と手を動かすことしかできなかった。


    「ご馳走様でした!」

    「ふふ、お粗末様でした。食器はシンクの中に置いておいてくれるかい?後で洗うから」

    「いや、皿洗いくらいはさせてくれ。散々世話になってしまったからな」

    「そうかい?それなら、お願いしようかな」


    制服のシャツの袖をまくって、シンクの中の食器を手に取る。
    生姜焼きなどの肉料理を作った後は、油を落とすのがかなり骨が折れる。
    ぬるぬるとした油の感触がなくなるまで繰り返し洗い、一仕事終えた後はちょっとした達成感があった。
    リビングの時計に視線を向けると、時計の短針は8を指していた。


    (もうこんな時間か……そろそろ帰らねばな)


    結局、なんだかんだで結構長居してしまった。
    だが、先生と楽しい時間を過ごしたおかげで、胸の内に巣食う不安は少しずつなくなりつつあった。
    これなら、一人で家に帰ってもそれなりに眠れるだろう。


    (何も連絡がないということは、咲希の容態は落ち着いているのだろうか。
     念のためメッセージを送っておくか……)


    制服のズボンのポケットからスマホを取り出すと、両親に咲希の様子を訊ねるメッセージを送る。
    すると、ほどなくして検査にも問題がなかったので心配しなくて大丈夫だという返信が来た。
    その一文を見て、ようやくほっと胸を撫で下ろす。


    「天馬くん、食器洗いありがとう……おや、嬉しそうだね。どうしたんだい?」

    「先生……いや、妹のことなんだが、今は落ち着いていて、明日には家に帰ってこられるらしい」

    「そうか、それはよかった。君も安心して眠れそうだね」

    「ああ、本当にいろいろとありがとう。長居してしまってすまなかった。オレはそろそろ失礼する」

    「ふふ、大したことはしていないよ。帰るなら送って行こう。
    君はこの家に初めて来たんだし、帰り道が分からないだろう?」

    「何から何まですまない。頼む」

    「ああ、忘れ物はないかい?確認が終わったら外へ……」


    その時、先生の言葉を遮るように稲光が空を引き裂いた。
    窓の外を眩い光が一瞬走り抜けて、大地を揺らすような轟音が耳に届く。
    ほどなくして、大粒の雨が叩きつけられるような音が少しずつ大きくなっていった。


    「これは……参ったね」


    先生が困ったように額に手を当てる。
    何故か、図ったようなタイミングで天候が崩れた。
    まるで、オレをここから帰さんとするかのように。


    「こんなに酷い雨が降るなんて、予報では言っていなかったのに。
     さて……どうしたものか」

    「オレなら大丈夫だぞ。傘を貸してもらえば、歩いて帰れるからな」

    「ダメだよ。かなり風も吹いているし、徒歩で帰るのは危険だ。
     だからといって、この視界の悪い中車を出すのもね……」


    思案するように、先生は自分の口元に人差し指を当てる。
    その端麗な横顔を、オレはどこか祈るような気持ちで見つめていた。
    もっと、許されるならいつまででも、一緒にいたいだなんて。
    もしかしたら、そんなオレの邪な願いを、天が叶えてくれたのかもしれない。
    そんな非科学的なことをぼんやりと考えながら、先生の判断を待った。


    「……仕方がないね。天馬くん、今日はここに泊まっていくといい。
     幸い明日は祝日だし、そこまでバタバタしなくても済むだろう?」

    「え!?」


    数分後に下されたまさかの判断に、思わず素っ頓狂な声が口から飛び出した。
    もっと一緒にいたいとは思ったが、正直そこまで高望みはしていなかった。
    雨宿りの建前があったとしても、家に置いてもらえるのは良くてあと一時間程度だと思っていたのだ。
    まさかあの神代先生が一晩も同じ屋根の下で過ごしてくれるとは……。


    「い、いいのか……!?さすがにそこまで世話をかけるのは……」

    「この雨がいつ止むかもわからないしね、致し方ないだろう。
     僕に遠慮はしなくてもいいよ、君一人くらい増えたところで大した違いはないから」


    なんてことないようにそう口にする先生を見ていると、嬉しい気持ちと何とも言えない感情が混ざり合って少し複雑だった。
    五歳も年下の男子高校生なんて、眼中にないのは当然だが……ここまであっさりとした対応をされるとそれを嫌でも思い知る。
    しかし、期待以上の提案を断る理由はなかった。


    「すまない……一晩だけ、お言葉に甘えてもいいだろうか」

    「ああ、もちろんだとも」


    柔らかな笑みを浮かべて、先生は頷く。
    こんなに甘えてしまっていいのだろうか。
    仕方がない、甘やかす先生が悪い。
    けれど、あまり優しくしないでほしい。


    (優しくされると……オレは)


    縋ってしまう、心をすべて預けてしまう。
    もう、あんなことを繰り返すのは嫌だ。
    それなのに……懲りずに信じたくなってしまうから。


    (……どうして、”先生“なんだろうか)


    どうして……いつも。
    手の届かない人ばかり、求めてしまうのだろう。


    ***
    お風呂を頂いた後、オレは一冊の本を片手にリビングのソファでくつろがせてもらっていた。
    貸してもらったパジャマは先生がもっているものの中で一番小さなサイズだったが、それでもオレには大きすぎて手が半分以上袖に隠れてしまっていた。
    ズボンはかなり裾をまくって何とか普通に歩けるようにはしたものの、やはり少し不格好だ。
    それでもとりあえず寝る準備を整えた後、オレは先生の本棚から拝借した本のページをめくる。
    背表紙をざっと見た時に偶然目に留まったそのタイトルは、ずいぶん懐かしいものだった。


    『やらなければならないすべての物事の中には楽しみの要素が含まれているものよ』


    帽子をかぶった婦人がそう口にする。
    子供のころから、飽きるくらい読み返した物語だ。
    先生の本棚には、分厚い参考書や指導者向けの教本の他に、ショーに関する書籍や雑誌が何冊かあった。
    もしかして、先生もショーが好きなのだろうか。
    またひとつ、先生の知られざる一面を知ったような気がした。


    (……雨は、まだ降っているのか)


    ちらりと窓の外に視線を向けると、未だ大粒の雨がガラスを叩いていた。
    あれからもう三時間ほど経ったが、一向に止む気配がない。
    おそらく、今日中には治まらないだろう、どうやら先生の判断は正しかったらしい。


    (……こういうのは、なんと言うのだったか)


    少し前に古典の授業で習ったような気がする。
    帰ろうとする人を引き留めるかのように降ってくる雨。
    確か……名前は。


    「……遣らずの雨」

    「おや、随分ロマンチックな言葉を知っているじゃないか」

    「おわ!?」


    ぽつりとそう呟いた瞬間、急に背後から声をかけられてびくりと身体が跳ねる。
    振り返ると、オレと入れ違いに風呂に入った先生が濡れた髪をタオルで拭いているところだった。
    先生はオレの手にしている本を見て、満足げに微笑む。


    「メリー・ポピンズか。良いセンスだね」

    「す、すまない!勝手に借りてしまって……!」

    「ふふ、かまわないよ。この部屋のものは好きにしていいと言ってあったしね」


    先生は髪を拭いたタオルを首にかけると、オレの隣にすとんと腰を下ろした。
    ぐっと近づいた距離に心臓の鼓動が一気に早まる。
    いつもかっちりしたシャツとネクタイの組み合わせしか見たことがなかったので、緩いスウェット姿はなんだか新鮮に見える。
    リラックスした服装の先生は、いつも学校で教鞭を執る先生とまた違った魅力があるように思えた。


    「……先生も、ショーが好きなのか?」

    「……好きだよ。君もかい?」

    「……ああ、オレも好きだ」


    先生の本棚にあった『メリー・ポピンズ』の原作本は、背表紙が少し擦れて文字が消えかけていて、何度も読み返したであろうことが容易に想像できる。
    役者でも脚本家でも演出家でも、ショーに関わる仕事を志す人間にとってはお手本のような一冊だ。
    何年経とうと色褪せない名作、オレも台詞が暗唱できるくらい読み込んだからよくわかる。


    「……昔は、スターになりたかったんだ」

    「スター?」

    「……華やかな舞台で、見る人すべてを笑顔にする、世界一のショースターだ」

    「へえ、それはとても素敵な夢だね」

    「……笑わないんだな。子供の絵空事のような、果てしない夢なのに」

    「笑わないさ……僕も昔、似たような夢を持っていたからね」


    また、大きな手が優しくオレの頭を撫でた。
    先生の夢……先生は、どうして“先生”になったのだろう。
    何でも出来る、何だって持っている。
    先生に叶えられない夢なんて、ないはずだろうに。


    『……僕は完璧などではないよ。出来ないこともたくさんある。
     なぜか昔から、周りは僕のことを何にでも恵まれている存在のように扱うけれどね』


    そう言ったときの先生は、少し寂しそうに見えた。
    きっと、そこには先生にしかわからない苦しみがあるのだろう。
    持って生まれて“しまった”がゆえの苦悩が。


    「……もう寝なさい。夜更かしはあまり感心しないよ。
     君は寝室のベッドを使うといい」

    「いや、世話になっている身だからな。オレはソファでいい。
    ベッドは先生が使ってくれ」

    「成長途中の教え子をそんなところで寝かせるわけにはいかないよ。
     子供は大人しく甘えなさい」


    また子供扱い、実際先生から見ればオレなんてまだまだ子供なのだろうが。
    甘やかされてばかりで、一生手なんて届きそうにない。
    優しく背中を押されてしまうと、これ以上食い下がっても無駄だろうと察してしまって、大人しく先生の厚意に甘えることにした。


    「……先生はまだ寝ないのか?」

    「うーん、もう少し仕事をしてからにするよ。大丈夫、日付が変わる前には寝るさ」

    「そうか……では、先に休ませてもらう。おやすみ、先生」

    「ああ、おやすみ、天馬くん」


    借りた本を棚に戻し、先生に背を向けて寝室の扉を開けた。
    リビングと同じように白と黒とグレーで整えられた部屋はシンプルでまとまりが良いものの、華やさに欠けている。
    部屋の明かりを消して、一人暮らしにしてはやけに大きなベッドに潜り込む。
    どこまでも身体が沈んでしまいそうなほど柔らかいマットレスはとても寝心地がよかった。
    これならとても上質な睡眠がとれることだろう……そう思って、目を閉じたのだが……。


    (……寝れん!!)


    予想に反して、オレの意識はしっかりと覚醒してしまっていた。
    それもそのはずだ、このベッドはどこもかしこも先生の香りがするのだから。
    抱き着いたときに首元から香るシトラスの匂い。
    肌触りのいい羽毛布団にくるまっていると、まるで先生に抱き締められているような錯覚をしてしまいそうだ。
    甘やかしてはくれるけれど、絶対に抱き締め返してはくれない先生に。


    (……神代先生)


    心の中で、そっと呼んでみる。
    先生にとって、オレはどういう存在なのだろう。
    ……オレにとって、先生はどういう存在なのだろう。
    手のかかる生徒?都合よく甘えられる大人?……それだけだったら、どんなに。


    (……どんなに、よかっただろう)


    そう割り切れないから、いつも苦しい思いをすることになるというのに。
    先生の香りに満たされた身体が疼く。
    愛してほしいと、醜い欲望を剥き出しにして。
    粟立つ肌をなぞって、頭の中の不埒な想像に思わず色を含んだ吐息が漏れる。
    このままでは不味い、どう考えてもこのベッドで大人しく眠るのには無理がある。


    (……やはり、ソファを貸してもらおう)


    先生はまだ起きているだろうか?
    ベッドに入ってからまだ三十分程度しか経っていない、熟睡している可能性は低いと思うが。
    身体を起こして、カーペットに足をつけると、オレは立ち上がって寝室を出た。


    ***
    「ふう……こんなものかな」


    数週間後に迫った期末テストの問題を粗方作り終え、ほっと一息吐く。
    基本は教科書と学校指定の問題集を勉強すれば解ける程度のオリジナル問題を出題する。
    それだけだと国公立大の合格を目指すような生徒たちには簡単すぎるので、終盤に二十点分くらい少し難しめの応用問題やひっかけ問題を混ぜて難易度を調整した。


    (さて……あの子には期待していいのかな)


    パタンとノートパソコンを閉じて、ほっと一息つく。
    中間の結果を見るに、天馬くんは基礎は理解しているようだが全体的に詰めが甘い。
    ケアレスミスが結構あるし、文章問題のひっかけにかかりやすいように思う。
    彼のような生徒は何人か見受けられるし、もう少し教え方を工夫しようか。
    そんなことを考えながらソファに寝転がっていると、不意に寝室の扉がガチャリと開いて驚いた。


    「……先生」

    「天馬くん、どうしたんだい?」

    「その……眠れなくて、だな。やはりソファで寝てもいいだろうか?」

    「おや、寝心地が悪かったかな?」

    「い、いや!寝心地はとても良いんだ。ただ、その……良すぎて落ち着かない」


    天馬くんは少し恥ずかしそうにそんなことを口にした。
    なぜそこで照れるのかわからないが、もしかしたら彼は枕が変わると眠れない性質なのかもしれない。
    あるいは……人肌恋しいのだろうか。
    元々、よく知りもしない相手と一夜を共にすることを繰り返していた彼のことだ。
    傍に人の温もりがないと落ち着かないのかもしれない。


    (いや、さすがにそれは……)


    ふと頭を過ぎた考えに、いよいよ本格的に教師失格なのではと自嘲する……しかし、既に一晩を一つ屋根の下で過ごしているのだから、これくらいならもう今更だろうか。
    どうも彼の我儘に振り回されることを言い訳にし始めている自分がいるような気がする。


    「……仕方がないね。僕もそっちで一緒に寝るから、寝室に戻りなさい」

    「は!?」

    「え?」


    そう告げると、両目を見開いて素っ頓狂な声をあげるものだから、僕の方が驚いてしまった。


    「どうしたんだい?このソファで二人で眠るのは無理があるし、一緒に寝るなら寝室のベッドの方がいいだろう?」

    「い、いや!どうしてそうなるんだ!?オレはただソファを貸して欲しくてだな……!」

    「さっきも言ったけれど、君をあんな硬いところで寝させるわけにはいかないよ。
    身体を痛めてしまうだろう。ほら、もう夜も遅いから早く行きなさい」


    何故かさらに駄々をこねる彼の背中を押して寝室に押し込める。
    我ながら殺風景な寝室にはダブルサイズのベッドがひとつ。
    普段ろくに寝ないんだからせめてゆっくり休めるスペースを確保するべきだと、世話焼きな幼馴染のありがたいアドバイスに従って買ったものだ。
    少し狭いかもしれないが、男二人くらいなら普通に寝られるだろう。


    「先生……本当にここで一緒に寝るのか?」

    「寝られないといったのは君だろう。ほら、もう少しこっちにこないと落ちてしまうよ」

    「う、うう……」


    天馬くんの腕を引いて引き寄せると、何故か恨めし気なうめき声が聞こえた。
    リビングから持ってきた比較的柔らかめのクッションを枕代わりにしてベッドに横たわる。
    最近は仕事が忙しくて、資料を片手にソファで寝落ちすることがほとんどだったので、こっちでゆっくり休むのは久しぶりだ。


    「……先生、起きてるか?」

    「うん?……起きてるよ」


    不意に、服の裾をくいっと引かれて、微睡の中から意識が引っ張り上げられる。
    辺りが夜の闇に包まれているせいで彼の顔は見えないが、僕より小さな手の感触はきちんと感じ取ることができた。


    「……こんな風に、誰かと一緒に眠るのはとても久しぶりだ。
     うんと幼い頃以来だな」

    「……子供の頃は、ご両親と別々の部屋で寝ていたのかい?」

    「別々の部屋、というか……そもそも、あまり家にいなかった。
     昔から、妹の身体が弱くてな。物心ついたときから、両親は妹にかかりきりだったんだ」

    「それは……寂しかったんじゃないかい?」

    「……そうだな、幼心にそう思うこともあった。
     だが、咲希の……妹の方が、ずっと苦しく、寂しい思いをしたはずだ」


    妹さんのことは、彼から何度か聞いたことがある。
    人より体調を崩しがちな彼女を、天馬くんはいつでも案じているようだった。
    孤独の経験を重ねても、彼にとって家族はとても大切な存在なのだろう。


    「……先生は、恋をしたことがあるか?」

    「唐突だね……どうだろう、あまり考えたことがなかったな」

    「ふはっ、先生はモテるからな。追いかけられる方には、追いかける方の気持ちはわからんかもしれんな」


    追いかけられる方……確かに、そうかもしれない。
    自分から、誰かを追いかけたことなんてなかった。
    だからいつもひとりぼっちだったんだ、誰かが離れていくたびに、諦めて割り切っていたから。


    「……オレが最初に好きになった人も、教師だった」


    何の脈絡もなく、彼は唐突にそんなことを口にした。
    思わずドクンと心臓が跳ね上がる。
    かつてないほど揺さぶられた心に、僕自身が一番驚いていた。



    「……先生のことではないぞ?別の人だ」


    揶揄うようにそう言った彼の言葉を聞いて、ほっとしたようなモヤモヤするような何とも言えない気持ちが胸に広がった。
    なぜこんなに心の中が忙しいのか、僕自身もわからない。


    「……その人は、どんな人だったんだい?」

    「先生とは全くタイプが違ったな。あの人はいつも明るくて、前向きで……まるで太陽みたいな人だった。
     先生は、どちらかというと月みたいな人じゃないか?」

    「……そんなこと、初めて言われたよ」


    明るくて、前向き……太陽みたいな人、か。
    確かに、僕とはまるで正反対だ。
    彼が好きだった人……もう恋はしたくないとまで言った彼が、一番最初に愛した人。
    天馬くんは、そんな……僕とはまるで真逆のタイプが好きなのだろうか。


    「太陽も月も……恋をするには遠すぎるな。
     手が届くまでどれだけかかるのだろうか」

    「……太陽はともかく、月ならスペースシャトルで行けばそこまで時間はかからないよ。
     地球との距離は38万㎞、秒速11㎞で飛べば4日と6時間で到着できる計算だ」

    「おお……数字で表すと全く現実味がないが、思ったより近くにあるんだな。
     太陽はもっと遠くにあるのか?」

    「ずっとずっと遠くだよ、距離は1億4960万㎞。今の技術でも到達するまでには一年程かかるだろうね。
     そもそも生身の人間が太陽に近づけるのは300万マイル手前までが限界なんだ。
    それ以上近づくと、太陽の熱であっという間に熱中症になって死んでしまう」

    「そうか……近づきすぎてはいけなかったんだな、オレは……」

    「……天馬くん?」


    不意に天馬くんが黙り込み、部屋の中がしんと静まり返る。
    ほどなくして穏やかな寝息が聞こえてきて、彼が眠りに落ちたことが分かった。
    月明かりがあどけなく愛らしい寝顔を映し出す。


    (……可愛い)


    そんな感情が自然と湧き上がってきて、自分でも驚いた。
    この”可愛い“はきっと、赤子や小動物を見た時に感じる庇護欲のようなものなのだろう。
    ……そうでなければならない。


    (……今なら、誰も見ていないよ)


    頭の中の悪魔が、そう囁きかける。
    いつもならそんなこと、考えもしないのに。
    触れたいという衝動が、僕の心をおかしくする。


    (……少しだけ、だから)


    もっと、君のことを知りたいと、思っていいのだろうか。
    君が僕に隠している何かを。
    無理やり暴くようなことはしないから……ただ傍で見守ることは許してほしい。
    本当に……危なっかしくて、放っておけない。


    (……あたたかい)


    腕の中にすっぽりと収まった体躯は、幼い子供のように温かかった。
    サイズ感も抱き心地も、抱き枕としてあまりにも優秀なので、このままずっとベッドにいてほしいくらいだ。
    彼が起きる前に離れなければいけないのに……もう体が動かない。
    緩やかに微睡に堕ちていく中、彼の形の整った唇が、ゆっくりと弧を描いたような気がした。


    ***
    その日の朝の目覚めは、未だかつてないほど最高だった。
    柔らかな温もりに包まれて、このままずっと目を閉じていたい。
    それでも、当然朝はやってきて、意識は自然と覚醒してしまう。


    「ん……?」


    重たい瞼をこじ開けると、ぼやけていた視界が自然にはっきりしてくる。
    もやが綺麗に晴れた時、とてつもなく整った顔が目の前にあって思わず叫びそうになった。


    「な……な……!?」


    そこでようやく、先生の腕がオレの背中に回って、がっちりと抱き締められていることに気づく。
    当の本人はまだ夢の中で、気持ちのよさそうな寝息を立てていた。


    (っ、ぐ……!びくともせん……!)


    厚い胸板をぐぐっと全力で押してみるも、全くの無駄だった。
    一体なぜこんなことになっているのか……大方、オレが寝ている時に起こった不慮の事故なのだろうが。
    仕方がない、こればかりはオレに責任はないだろう。


    (……先生の腕の中、温かいな)


    早々に抵抗を諦めたオレは、開き直って先生の胸元に顔を寄せた。
    どれだけ甘えても、絶対に抱き締め返してはくれなかった先生。
    その人が、たとえ事故だとしても、オレを抱きしめながら綺麗な寝顔を無防備に晒している。
    ……幸福感を覚えないはずはなかった。
    自分がこの人に甘えすぎていると自覚していても、甘やかしてくれる限り縋り続けてしまうだろう。
    これは、ただ依存先が変わっただけではないのか。
    結局……オレは”あの人“の代わりを先生に求めているだけで。
    これは、“恋”なんて綺麗で醜いものではないのではないか。
    自分の気持ちさえ、まだ霧に包まれていて全く掴めなかった。


    「……ん」


    不意に先生の瞼がぴくりと動いて、固く閉じられていた瞳がゆっくりと開く。
    オレは慌てて密着させていた身体を離すが、先生はまだかなり寝ぼけているようだった。


    「……先生、起きたのか?」

    「……てんまくん?」

    「とりあえず、離してくれないか?このままでは身動きが取れんのだが……」

    「ふふ、やーだ」

    「なぬ……!?」


    目が覚めたはずなのに、何故か先ほどより強くぎゅうううっと抱き締められて苦しい。
    髪も頬も背中も、ありとあらゆる場所を撫でまわされてこそばゆい。
    ぐりぐりと頭を押し付けられてさすがに焦りを感じた。 


    「ふふ、てんまくんはあったかいねえ……それにやわらかくて、ほんと、かわい……」

    「せ、先生!!やめてくれ!くすぐった……!」

    「いいだろう?やすみだし……もうすこし、このまま……」

    「~っ、いい加減起きろ~っ!!」

    「う……っ」


    腹に力を込めて、最大音量でそう叫ぶと、さすがに耳に響いたのか先生は顔をしかめる。
    そこまでしてようやく目が覚めたらしく、腕の中でぐったりしているオレを見てすべてを察したように髪を掻き上げた。


    「あー……すまない、天馬くん。少し寝ぼけていたみたいだ」

    「少しどころではないだろう……先生、もしかして寝起きが悪いのか?」

    「……そう言われることが多い、かな」


    先生はオレを腕の中から解放した後、居た堪れなさそうにそう答えた。
    偶然にも発見した、先生のもう一つの弱点。


    「ははっ、先生は朝が弱いんだな!」

    「そんなに笑わないでおくれよ……これでも昔よりはだいぶマシになったんだから」


    少し恥ずかしそうに先生はそう言って頬を掻く。
    今まで、完璧超人で、欠点なんてひとつもなくて、オレとはずいぶん遠く離れたところにいる人だと思っていた。
    それなのに、オレより劣っているところもある……それが分かった今、こんなにも近くに感じられる。


    「ほら、目が覚めたなら起きなさい。軽いものでいいなら、朝食を作ってあげるから」

    「んん……休みなのだから、もう少しだけいいだろう?」

    「まったく、僕の寝言を揶揄うのはやめてくれないかい?」

    「む……ダメか?」

    「そんな顔をしてもダメだよ、二度寝は生活リズムを崩す原因になる。
     人間は体温が上がることで覚醒するから、眠いなら手足を動かしてみるといい」


    そういうことではないのだが。
    惜しむ間もなく、先生の体温が離れていく。
    その背中が扉の奥に消えたのを見送った後、仕方がないのでアドバイスに従って、ベッドの上をごろごろしてみた。


    「天馬くん、目玉焼きの固さはどれくらいが好みだい?」

    「先生に任せる!」


    そんな細かいことまで好みに合わせようとしてくれるのだから、やはり先生は面倒見が良すぎる。
    先生が使っていた枕に顔を埋めて、爽やかで甘いシトラスの香りを吸い込んだ。
    甘えさせてくれる限り、甘えてしまう、その優しさはあまりにも罪だ。
    先生の香りはまるで遅効性の甘美な毒のように、オレの身体をゆっくりと巡って、犯していくような気がした。


    ***
    六月下旬、期末テストを終え、生徒たちは解放感に溢れていた。
    数学準備室で手伝いついでに少し勉強を見てもらっていたこともあって、数学は中間より出来が良かったと思う。
    それ以外は普通、平均を超すかギリギリ越さないかといったところだろうか。
    学生生活において大きな山場である定期テストを終えてもなお、オレの心は悩ましく揺れていた。


    (……プレゼント、何がいいのだろうか)


    そう、あと少しで神代先生の誕生日なのだ。
    先生には常日頃からお世話になりっぱなしなので、お礼もかねて何か贈ろうと思ったのだが……。


    (先生の欲しいものがわからん……!)


    物欲を感じないというのもあるが、先生は普段あまり自分の話をしないので、好みが分からないのだ。
    前にショーが好きだと言っていたから、関連する書籍やチケットも考えたが、欲しいものは自分で買ってしまっているかもしれないし、どの公演に興味があるのかもわからない。
    いっそ本人に聞くことも考えたが、正直に訪ねたらこちらの意図がまるわかりで、かえって気を遣わせてしまうかもしれない。
    諸々の可能性を考えて、食べ物か、普段使いできるものがいいのではと考えたのだが……。


    (……選択肢が多すぎるな。どうしたものか……)


    昼食を食べながらいろいろと考えたがなかなかいいアイデアが思い浮かばず、オレは弁当を食べ終わった後、気分転換のために外の空気を吸いに行くことにした。


    (む?あれは……?)


    庭に出てみると、レンガ造りの花壇の前に見慣れた後ろ姿を見つけた。


    「神代先生!」

    「やあ、天馬くん。お昼はもう食べたのかい?」

    「はい!もう済ませました!先生は何を?」

    「見ての通りだよ、花壇の花に肥料をあげているのさ」


    先生は足元に置いた袋から肥料を取り出すと、それを花壇に撒いた。
    数学の先生がなぜこんなことをしているのだろうか。
    そんな疑問が顔に出ていたのか、先生は肥料の袋を閉じると、オレの方に視線を向けた。


    「僕は緑化委員会の担当でね。校内の植物の世話も僕たちの仕事なんだ」

    「そうだったんですか、初めて知りました」

    「ふふ、これでも高校時代は緑化委員だったんだよ。昔から花は好きだからね。
     彼らはただそこに咲いているだけで、人々を笑顔にすることができるだろう?」


    類は花壇の傍にしゃがみ込むと、水に濡れた花びらを指で撫でた。
    その手つきはとても優しくて、慈しみに満ちている。
    対するオレは偶然にも貴重な情報を手に入れたことを密かに喜んだ。


    (しかし、花、か……)


    さすがに生花の花束を学校に持ち込むのは無理があるし、おそらくすぐに枯れてしまうだろう。
    どうせなら出来るだけ長く手元に残るものが良い……どうしたものか。
    またしても頭を悩ませていると、不意にいつか咲希が見ていた雑誌のページの写真が頭を過ぎり、天啓のように一つのアイデアが浮かび上がってきた。


    (これだ……!)


    「先生!用事を思い出したので失礼します!」

    「あ、ああ、気をつけて戻るんだよ」

    「はい!ではまた!」


    オレは先生に一礼すると、この素晴らしいアイデアをもっと詰めるために教室に向かって全力疾走した。
    さすが我が妹だ、咲希に感謝しなければ……。


    ***
    放課後、オレは早速近くの百円ショップや雑貨店、フラワーショップなどを回って必要な材料を買い集めた。
    家に帰って机の上に材料を並べると、咲希から借りた雑誌のあるページを開く。
    手先は器用な方だ、これくらいなら問題なく作れるだろう。


    「ふむ……必要なものはこれで揃ったな。よし、始めるぞ!」


    まずは長方形のガラス瓶の中を軽くアルコールのウエットティッシュで拭き、余分な水滴を拭きとる。
    そして頭の中で描いたイメージ通りにピンセットでドライフラワーを下から順に詰めていく。
    アストランティア、ライラック、アネモネ、ビオラ。
    先生のイメージに合う花たちをガラス瓶の中に閉じ込める。
    ピンセットで位置や花材同士の引っ掛かりを調整し、ミネラルオイルをゆっくりと瓶の中に注いだ。
    花弁がふわりと水中を漂うように揺れる。
    そのまま五分ほど放置して空気が抜けるのを待ち、ガラス瓶のふたをきゅっと強く締める。
    仕上げにガラス瓶の首の付け根にリボンを結べば、手作りのハーバリウムの完成だ。


    「完璧な出来だな!さすがはオレ!」


    出来上がったそれは我ながらとても美しかった。
    これなら、喜んでくれるだろうか。
    先生の笑った顔を思い浮かべると、自然と心が躍る。
    ハーバリウムが割れないようにクッション材を敷いた小さな箱にゆっくりと入れて、リボンで結んだ。
    誰かのために贈り物を作るなんて、いつぶりだろう。
    その人のために悩んで、迷って、想像して……それはこんなにもワクワクすることだったのだと、今更思い出した。


    ***
    その日のオレは朝からご機嫌だった。
    当然だ、今日は待ちに待った先生の誕生日なのだから。


    (どんな反応をするだろうか……笑って、褒めてくれるだろうか)


    自分の生まれた日でもないのに、朝からそわそわして、いつもより入念に身だしなみを整えてしまう。
    鏡の前で鼻歌交じりに髪をいじっているオレを見た咲希に、今日のお兄ちゃんはご機嫌だね!と言われて少し恥ずかしくなった。
    忘れ物がないか確認した後、先生へのプレゼントを最後に鞄に入れる。
    窓の外はオレの心をそのまま表したような、雲一つない快晴だった。


    ***
    その日の午前中は、いつもの何倍も長く感じた。
    授業の終わりを告げるチャイムが鳴った後、オレは昼食をできるだけ手早く済ませ、数学準備室に向かった。


    (先生はいつものところにいるだろうか……捕まらなかったら放課後だな)


    準備室の前にたどり着くと、緊張をほぐすように深く深呼吸する。
    覚悟を決めて扉をノックしようとしたとき、中から女子生徒の声が聞こえて思わず踏みとどまった。


    「え~!なんで受け取ってくれないんですかあ?」


    どうやら先客がいたらしい。
    悪いことだとは知りつつ、少しだけ扉を開けて中を覗いてみる。
    中には女子生徒が三人と、椅子に座った神代先生がいるのが見えた。


    「さっきも言っただろう、生徒からの個人的な贈り物は受け取れないよ。
     君たちの気持ちは嬉しいけれど、決まり事なんだ。すまないね」

    「そんなあ、せっかく先生のために選んだのに~!」


    先生が申し訳なさそうに笑うと、女子生徒たちは残念そうに肩を落とす。
    知ってはいたことだが、神代先生は生徒たちからとてつもなくモテる。
    容姿端麗で性格も優しくて授業もわかりやすいので人気があるのだろう。
    それにしても、教員が生徒からの贈り物を受け取ってはいけないなんて知らなかった。


    (……それならば、オレのプレゼントも受け取ってはくれないかもしれない)


    期待していただけにがっかりしてしまう。
    女子生徒たちは一度断られてもなおめげずに、先生に贈り物を押し付けようとしていた。


    「誰にも言わなきゃバレませんよ!私たちも黙っておきますから!」

    「ダメだよ、生徒は皆、平等に扱いたいんだ。気持ちだけ受け取っておくよ」

    「そんなこと言って、好きな人でもいるんじゃないですか?」


    女子生徒がそう訊ねた瞬間、何故か先生は唐突に口を噤んだ。
    その沈黙に、何故かとてつもなく嫌な予感が胸を掠める。
    最悪なことにその予感が的中してしまったこと悟ったのは、それから数秒後のことだった。


    「少し気になる子ならいる……かな」

    「え!?誰ですか!?」

    「わかった、草薙先生でしょ!」

    「やっぱり!仲いいもんねー!」

    「えー、嘘!ショックー!」


    女子生徒たちは勝手に盛り上がっては先生を置いてけぼりにして騒いでいる。
    草薙先生……音楽を教えている非常勤の女性教師だ。
    確か、神代先生とは幼馴染だと聞いたことがある。


    (……あの人が)


    先生の……好きな人なのか。
    何故か、胸が刃物で刺されたようにズキンと痛んだ。
    先生が誰を好きでいようと、オレには関係ない。
    それなのに……どうしてこんなにも苦しいのだろう。


    「ほら、もうすぐ昼休みも終わるから教室に戻りなさい。
     くれぐれも事実無根の噂を広めたりしないように」

    「……はーい」


    ようやく諦めたのか、女子生徒たちは力なく返事をして踵を返すと、教室を出ようとする。
    扉の前にいたオレは慌ててそこから離れると、教室横の掲示板を見ているふりをして覗き見していたことを誤魔化した。


    「ねー、結局誰なのかな?神代先生の好きな人って」

    「あの感じだと草薙先生で決まりでしょ。幼馴染らしいし」

    「悔しいけど、お似合いだよねー。
     草薙先生可愛いし、神代先生ってああいう守ってあげたくなるような女の人が好きなのかなー」


    自分の教室へと戻っていく女子生徒たちの言葉が、容赦なくオレの胸を刺す。
    手に持ったプレゼントの袋の取っ手をぎゅっと握りしめる。
    プレゼントを受け取ってもらえなくても、気持ちを伝えることはできるはずだ。
    それなのに、先ほどの女子生徒たちと同じように突き放されるのが怖くて、どうしても教室に入れなかった。
    しばらくその場に立ち尽くしていると、予鈴のチャイムが校内に鳴り響く、
    戻らなければ……震える足を叱咤して、オレは教室の方に向かって歩いた。


    ***
    放課後、帰りのHRを終えて、オレは授業準備の手伝いをするために数学準備室で先生を待っていた。
    窓の外は未だに雲一つない快晴だ。
    それなのに、朝の浮かれ具合はどこへやら、今のオレの心は深く沈んでいる。
    午後の授業は、ぐるぐると考え事ばかりしていて、全く耳に入ってこなかった。
    ずっとオレの頭を占めているのは、神代先生のことだ。


    『少し気になる子ならいる……かな』


    あの時の神代先生の言葉を思い出すたびに、胸に刺さる棘が少しずつ増えていく。
    なぜあの時、ショックを受けてしまったのか。
    先生がオレをただ生徒以上に見ていないことなんて、とっくに知っていたはずなのに。
    自分でも気づかないうちに、あの女子生徒たちと同じように、物で取り入ろうとしていたのだろうか。


    (……オレがプレゼントを作ったのは、そんな邪な理由ではなかったはずだ)


    ただ、先生に喜んでほしいだけだった。
    感謝を伝えて、先生が生まれた日を祝わせてほしくて。
    それだけのはずだったのに……いつの間にか、もっと違う種類の感情が混ざってしまっていた。
    褒めてほしいとか、もっとオレのことだけを見てほしいとか、心を傾けてほしいとか。
    オレが先生を想う気持ちは、このハーバリウムのように透明で澄んだ、美しいもののはずだったのに。
    いつの間に、こんなにも醜く濁ってしまったのだろうか。


    「天馬くん、すまないね。待たせてしまったかい?」


    不意にがらりと教室のドアが開いて、思考が中断される。
    いつもの椅子に腰を下ろした神代先生は、少し疲れているように見えた。


    「先生、どうしたんだ?何かあったのか?」

    「ああ、いや……ありがたいことに、プレゼントを渡そうとしてくれた生徒が何人かいてね。
     何度断っても聞き入れてくれないから、逃げてきてしまったんだ」


    気持ちは嬉しいのだけど、規則だからねと、先生は困ったように笑った。
    その顔を見て、またつきんと胸が痛む。
    今日のオレは少し変だ、こんな小さなことでいちいち傷つくほど、繊細な性格でもないというのに。


    「……今日は、先生の誕生日らしいな。おめでとう」

    「おや、君もお祝いしてくれるのかい?ありがとう、この年になると少し照れ臭いものだね」


    数学の教科書にマーカーを引きながら、先生はオレに微笑んでくれる。
    本当は用意していたのは言葉だけではなかったのだが。
    あと一歩、勇気が出なかった。


    「そういえば天馬くん、期末の成績、中間よりもかなり上がっていたね」

    「!本当か……!」

    「ああ、正直驚いたよ。この前教えたところもきちんと出来ていたし、よく頑張ったね」


    先生が手を伸ばして、オレの頭を優しく撫でる。
    その手つきは相変わらずとても優しくて、なんだか涙が出そうだった。
    いつでも、この手に救われてきた。
    あの日に気持ちが捕らわれたまま、ずっと進めていなかったオレの手を引いてくれた。
    いつも寄りかかることしかできない自分が不甲斐なくて、先生に少しでも何かを返したくて。
    そう思った純粋な気持ちは、きっと偽りではないのだ。


    「……先生、渡したいものがあるんだ」

    「え?」


    オレは鞄の中にしまい込んでいたプレゼントの袋を取り出すと、先生の前に差し出す。
    そんなオレを見て、先生は驚いたように目を丸くした。


    「……先生の生まれた日を祝わせてほしくて、用意したんだ。
     要らなかったら捨てても構わない……だが、先生への感謝と、幸せを願う気持ちは受け取ってくれないだろうか」


    緊張で指先が震えるなんて経験は久しぶりだった。
    やはり、生徒からの贈り物は受け取れないと言われるかもしれない。
    それでも、伝えたかった。
    たとえ醜く濁ってしまったとしても、オレの胸の内にある想いは変わらない。
    どんな形であれ、先生には幸せになってほしかった。


    「……生徒からのプレゼントは受け取れないよ」

    「う……」


    予想通りの返答をされて思わず肩を落とす。
    当然だ、オレも生徒の一人なのだから、特別扱いを強要することなどできない。
    このハーバリウムはどうするか……咲希にあげたら、喜んでくれるかもしれないな。
    そんなことを考えながら、あからさまにしゅんとした顔を隠せずにいるオレに、先生はくすりと笑みを漏らした。


    「……と言いたいところだけど」


    先生の長い指が、オレの差し出した袋の取っ手を握る。
    信じられない気持ちで手を離すと、先生は内緒とでも言うように唇に人差し指を当てた。


    「君の秘密を黙っておいてあげている対価として、これは受け取っておこうかな」


    パチンと片眼を閉じながら悪戯っぽくそう言われると、ぎゅんっと心臓が縮み上がるような感覚があった。
    一見冷たく聞こえる言葉は、オレの想いを無下にしないためだとわかっている。
    先生のそういうところにたまらなく胸を締め付けられて、優しくされるからいつも甘えてしまう。
    開けてもいいかい?と訊ねた先生に頷くと、綺麗な指先が袋から箱を取り出して、するりとリボンを解く。
    そして箱の中のハーバリウムを取り出すと、驚いたように目を丸くした。


    「これは……まさか、君が作ったのかい?
     僕が花を好きだと言ったから……」

    「ああ、初めて作ったから、少し苦労したが」

    「すごいね、まるで売り物のように綺麗だ。君は手先が器用なんだね」


    先生はガラス瓶を軽く指ではじくと、心から嬉しそうに笑った。
    ずっと、その顔が見たくて、隣にいるだけで空っぽの心が満たされていく。
    先生はハーバリウムを大切そうに箱に戻すと、オレの頬を大きな手のひらで撫でた。


    「僕のためにありがとう、とても嬉しいよ」


    そう言ってオレに微笑みかけた先生の表情は、言葉にし難いほど優しくて、酷く甘ったるい。
    抑えられない気持ちが溢れて止まらなくて、オレは先生に思いきり抱き着いた。
    もう自分でも誤魔化しが効かなくて、どうしようもなくなってしまう。


    (……先生が、好きだ)


    何故か唐突に自覚した気持ちは、もうずっと前からオレの心の内にあったような気がする。
    先生と生徒じゃ、もうとっくに足りなくて。
    先生が好きな人に嫉妬して、オレだけを見てほしいなんて思ってしまって。
    そんなどうしようもないエゴすら受け止めてくれる先生をもっと好きになってしまう。
    相変わらず抱き締め返してはくれなかったが、それでも構わなかった。
    叶わないとわかっていても、先生がオレの想いを受け止めてくれた今は、まぎれもなく幸せなのだから。


    ***
    自分の気持ちを自覚してから、少し前までひどく単調だった日々が、急に目まぐるしくなってしまった。
    授業中、黒板に公式を書く先生の横顔を見ているだけで酷く心臓が痛む。
    名前を呼ばれる度に胸が高鳴って、褒められでもしようものならあっという間に舞い上がってしまう。
    もう恋なんてしたくないと思っていたのに、我ながら呆れてしまうほどだ。
    あれから、ただ甘えたい欲求を発散していただけの放課後は、オレにとって特別なひとときになった。


    「こら、天馬くん。そろそろ離れなさい。仕事が進まないだろう」

    「後でいくらでも手伝う……だから、もう少しだけ」


    椅子に座って小テストの採点をしている先生に後ろからぎゅっと抱きつく。
    離れなさいといつも言われるが、本気で突き放されたことはなく、なんだかんだ好きにさせてくれる。
    オレが何をしても顔色ひとつ変えない先生は、オレの心境が以前と百八十度変わったことなど知る由もないだろう。


    「そうだ、君に渡したいものがあったのを忘れていたよ」

    「……渡したいもの?」

    「まずは離れてくれないかい?このままでは身動きが取れないだろう」


    先生はぽんぽんとオレの腕を軽く叩くと、困ったように苦笑する。
    仕方がないので抱き着いていた腕を解くと、先生は足元の鞄から財布を取り出して、その中からチケットのようなものを抜き取りオレに渡した。


    「これは……?」

    「ショーのチケットだよ。知り合いが出ていてね、いつもチケットをくれるのだけど、今回は無理を言って二枚もらったんだ。この前くれたプレゼントのお返しだよ」

    「メリー・ポピンズじゃないか!もらってもいいのか?」

    「むしろもらってくれないと困るよ。余ってしまっても譲る当てがないしね」


    先生は手に持った赤ペンをくるくると回しながらそう言って笑った。
    チケットには公演日時と開演時間が書いてあり、右下に劇団のロゴが入っている。
    規模はそこまで大きくないが、最近話題になることが多く、名が知れてきている劇団だ。


    (ショーのチケットか……自分で見に行くのは久しぶりだな)


    一年前は暇を見つけては劇場に足を運んでいたが、今年に入ってからはほとんど行っていなかった。
    少し距離を置いていても、ショーという単語を聞くとやはりワクワクしてしまう。
    それに……他でもない先生からのプレゼントだ。
    嬉しくないはずがなかった。
    心が弾んで、浮かれていたから……こんな思い切った提案をすることができたのかもしれない。


    「……先生も、この舞台を見に行くのか?」

    「え?ああ、もちろん。公演期間中に時間を見つけて行こうかと思っているけれど……」

    「そうか、それなら……い、一緒に行かないか!?」


    緊張で声を上擦らせながらそう言ったオレを見て、先生はきょとんとしたように目を丸くする。
    対するオレは高鳴る心臓の音が大きすぎて、周りの環境音が一切聞こえなくなりそうだった。
    期待をしないように言い聞かせても頭は勝手に先生のことを考えてしまう。
    一瞬が永遠に思えて、いよいよ気が触れそうだと思ったとき……不意に先生が小さくため息をついて、くすりと笑った。


    「まあ、チケットを渡したのは僕だし……同じ公演をバラバラで見に行くというのも、少し味気ないね」

    「!一緒に行ってくれるのか……!?」

    「誰にも内緒だよ。教師としては、あまり褒められたことではないからね」


    いつものように、先生の大きな手がオレの頭を優しく撫でる。
    生徒の我儘を聞くことの延長線上だと思われているかもしれない。
    それでも、公になったら責められるのは先生だというのに……オレのために背負う必要のないリスクを冒してくれる。
    その事実だけで、オレの心を満たすには十分だった。


    ***
    その日は一日中有頂天で、何度かホチキスで止めるプリントの順番を間違えて先生に笑われた。
    浮かれすぎてスキップしそうな勢いで帰宅したオレを見て、勘のいい我が妹が何も気づかないはずはなく。
    ただ事ではないと察した咲希に質問攻めにされ、オレは今日の出来事を話す羽目になってしまった。
    一緒にショーを観に行く約束をしたこと、ただ相手が先生だということは伏せたのだが、オレの口調や態度から何かを感じ取ったらしく、目をキラキラさせながら興奮気味に言った。


    「お兄ちゃん!それってデートだよ!」

    「でっ……!?」

    「二人きりでお出かけなんて、それはもうデートだもん!
     だからとびっきりおしゃれしていかなくちゃ!
    アタシがお洋服コーディネートしてあげる!任せて、お兄ちゃん!」

    「お、おお……よろしく頼む」


    何故かはしゃいでいる咲希はオレより気合十分だった。
    デート……そうか、これはデートなのか。


    (ん!?ということは、オレは先生にデートの誘いをしてしまったということなのか……!?)


    そんなつもりはなかったのだが、先生はそう受け取ったのだろうか?
    そう思うと、途端に恥ずかしくてたまらなくなった。
    だが、それでもオレの誘いに応じてくれたということは……期待してもいいのだろうか?


    (……早く、先生に会いたいな)


    チケットに書かれていた日付はまだ数週間以上先だ。
    だというのに、今からそわそわして落ち着かない。
    どうやら夏休みに入るまでは、こんな情緒が揺らぎっぱなしの日々を送ることを覚悟しなければならないようだった。


    ***
    前期の授業を終えて、高校二年生の夏が来る。
    ひととき与えられた長い休息に、生徒は皆、心を躍らせていた。
    その中でもオレの浮かれようは周りから見ても異常だっただろう。
    先生とショーを観に行く約束をした日の朝、オレは誕生日の時とは比べ物にならないほどウキウキしていた。


    「咲希、どこかおかしなところはないだろうか?ちゃんとキマっているか?」

    「うん、バッチリ!とってもカッコいいよ!お兄ちゃん!」

    「そうかそうか!さすがはオレ!どんな服でも似合ってしまうな!」


    パチパチと手を叩きながら褒めちぎってくれる咲希の前でポーズを決める。
    咲希が選んでくれた服はもちろん、ヘアスタイルも変えて少し背のびした格好だ。
    それでも、鏡に映る自分はいつもより大人びて見えて、悪くない気分だった。


    「少し早いが、そろそろ行ってくるぞ!咲希、いろいろとありがとうな!」

    「うん!いってらっしゃい!頑張ってね、お兄ちゃん!」


    心強い妹の声援を受けながら、家を出る。
    駅まで歩いている時も、電車に揺られている間も胸の高鳴りは止むことはなく、心の中が常に忙しかった。
    家を出る前では楽しみな気持ちばかり膨らんでいたのに、目的地に近づくたびに少し緊張のようなものも混ざってくる。
    忙しない数十分を乗り切り、待ち合わせ場所の劇場へ向かう途中、何やらはしゃいだ様子の二人組の女性とすれ違った。


    「ねえねえ、さっき劇場の前にいた男の人めちゃくちゃカッコよくなかった!?」

    「わかる!超イケメンだったよねー!もしかして芸能人とか?」

    「やばーい!やっぱり声かければよかったー!」


    その会話だけで全てを察して、オレは思わず駆けだした。
    劇場の前の広場に着くと、なにやらたくさんの女性たちが皆、同じ場所にちらちらと視線を投げては、ひそひそと小声で話したり、うっとりとため息を吐いたりしている。
    熱烈な視線が集中するベンチに座っているその人の姿を見て、やっぱりかと思わずため息を吐いた。


    「せん……神代さん!」


    いつもの癖で先生と呼んでしまいそうになるのを何とか抑えて、先生の座っているベンチに近づく。
    これだけ注目されているのに気づかないのか、あるいはあえて反応しないようにしているのかはわからないが、本人は涼しい顔でスマホを弄っている。
    先生は声をかけられてようやくオレに気づいたらしく、顔を上げてにこりと微笑んだ。


    「やあ、おはよう、天馬くん。
    まだ待ち合わせの時間にはなっていないから、そんなに急いで来なくてもよかったんだよ」

    「はあ……いや、緊急事態かもしれんと思ってな」


    もしナンパされてそのまま連れていかれてしまうようなことになれば大変だと思い、つい全力で走ってきてしまったが、無用な心配だったかもしれない。
    実際、当の本人はけろりとしているし、先生がモテるのなんていつものことだ。
    あしらい方だってきっと心得ているのだろう。


    「少し早いけれど、中に入ろうか、もう開場はしているはずだからね」

    「あ、ああ……」


    先生は手に持っていたスマホを鞄の中にしまうと、ベンチから立ち上がってすたすたと歩き始めた。
    その後を追って隣に並んだところで、思わずため息を吐く。
    なんだか、開演前からどっと疲れてしまった……だが、それも致し方ない。
    私服姿の先生は新鮮で、なぜだかいつもより大人の男のという感じがして思わず見惚れてしまうほどカッコよかった。
    グレーのTシャツに紺の半そでサマージャケットを合わせたシンプルでカジュアルなファッション、テーパードタイプの黒のパンツがスタイルの良さを強調している。
    少し背伸びした服装でちょっと大人になった気分でいた自分が恥ずかしくなるくらいだった。


    「そうだ、今日一日は“先生”呼びは禁止だからね」


    先生は不意にホールの扉の前で立ち止まると、オレに釘を刺すようにそう言った。
    それはそうだ、教師が個人的な事情で生徒と外出するなんて、バレたら問題になってしまう。
    それはわかっているのだが、いつもとあえて呼び方を変えるというのは少し慣れないものだった。


    「わかった。それなら何て呼べばいいんだ?」

    「うーん……神代さんはよそよそしすぎて僕が落ち着かないな」

    「そうか……それなら、類さん、か?」

    「類でいいよ。それくらい気軽に呼び合っていた方が違和感がないし、兄弟だと思われるかもしれないだろう?」

    「よ、呼び捨てか!?」


    それはいきなりハードルが高い……だが、リスクを少しでも減らすためなら仕方がない。
    とはいえ、自分の先生で五歳も年上の男性を友人のように気軽に呼ぶというのは難しかった。


    「る、るい……?」


    慣れていないのがバレバレだったが、一応そう呼んでみる。
    すると、何故か先生は機嫌がよさそうに口角を上げた。


    「ああ、なるほど……これは悪くないね」

    「?何か言ったか?」

    「いや、とりあえず今日一日はそれで頼むよ……司くん」


    先生がいつもと同じようにオレの頭を撫でる。
    日常的に慣れ親しんだ仕草なのに、今日は何故だか少しこそばゆく感じる。
    先生の形が整った唇でオレの名前を呼ばれると、喜びと恥ずかしさがぶわりと押し寄せてきた。


    (これでは、本当にデートみたいではないか……!)


    理由があるとはいえ、先生から下の名前で呼んでもらえる喜びは筆舌に尽くしがたかった。
    自分が一番近くにいるのだという優越感と満足感が胸の内を支配する。
    心なしか先生もご機嫌なように見えて、少し甘ったるい雰囲気を噛みしめながら一歩踏み出した。


    ***
    薄暗い劇場の中、ふいにぱっと明るくなった舞台の上に、帽子を被った美しい女性が立っている。
    物語はロンドンに住むバンクス一家のもとに、傘を差した魔法使いがやってくるところから始まる。


    『スプーン一杯の砂糖で苦い薬も平気で飲める、どんな薬もへっちゃらよ』


    仕事や趣味にかまけている両親にほったらかしにされ、寂しい思いをしているバンクス家の子供たちに、メリー・ポピンズは不思議で楽しい体験を与えていく。
    キラキラと輝くステージを見ていると、まるで夢の国に迷い込んだような気持ちになった。
    ドキドキとした胸の高鳴りが抑えられなくてどうしても笑顔になってしまう。


    (すごいな!あの花火を打ち上げる演出はどうやって可能にしているんだ!?
    役者陣の演技も素晴らしい……特にメリー・ポピンズを演じている女優の歌唱力は凄まじいな)


    幼い頃、この作品のミュージカル映画を何度も見たことを思い出す。
    オレも子供の頃は家に一人でいることが多かったので、バンクス家の子供たちに心のどこかで共感していたのかもしれない。
    寂しくて、甘えたくても、それを素直に言えない感情。
    大好きな両親を困らせたくなかったのと、病気で辛い思いをしている妹に対する引け目もあったのかもしれない。
    それでも、病院で即興のショーをすると、咲希はいつも笑ってくれた。
    技術なんて子供のお遊び程度しかなくて、ストーリーも何もかもめちゃくちゃで……それでも、すごいすごいと目を輝かせて褒めてくれた。


    (……そうだ、だからオレは、スターになりたいと思ったんだ)


    富や名声が欲しかったわけでも、目立って世間にちやほやされたかったわけでもない。
    ただ、大切な人を笑顔にできる自分でいたかった。
    たったそれだけの小さな決意が、オレの子供の絵空事のような果てしない夢の原点だったのだ。


    (この感覚……ずっと、忘れていたな)


    オレが憧れた場所……オレの心が、ショーに取り憑かれた瞬間。
    こんな風に、皆を笑顔にしてみたかった。
    笑って、泣いて、ドキドキして、ずっとこの時間が続けばいいと願うほど。
    そういう幸せを、オレも誰かに与えたかった。


    (……何をしていたんだろうな、オレは)


    目の前の舞台を見ながら、思わずそう自嘲する。
    恋だ愛だにかまけて、いつの間にか大切な夢が埃を被っていることにすら気づかなかった。
    “あの出来事”があってから、自然と目を逸らすようになってしまっていた。


    (……だが、それでも、オレは……)


    ショーが好きだ。
    いつかあの煌めくステージに立ってみたい、たくさんの笑顔が客席で花開くのを見てみたい。
    今はただ強く、そう思った。
    舞台では魔法使いがくるくると綺麗なターンを決めながら歌を口ずさんでいる。
    歌詞の意味が頓珍漢なめちゃくちゃな歌だ、それでもその歌には人を笑顔にする力がある。
    大笑いする子供たちにつられるように思わずオレも笑顔になる。
    その時、座席のひじ掛けに置いていた右手に、誰かの手が触れた。


    「え……?」


    思わず隣を見ると、先生の月色の瞳と視線がかち合って思わず息を飲んだ。
    本物の月は黄色ではないらしいから、この表現は少しおかしいかもしれない。
    けれど、オレには先生はまるで月そのもののように思える。
    とても美しくて、いつも傍にいてくれるけれど、手が届きそうで届かない。


    「……類?」


    小声でそう声をかけてみても、先生の視線がオレから離れることはなかった。
    こんなにも美しく華やかなセカイがすぐ目の前に広がっているというのに、先生は舞台の方には目もくれず、オレのことだけを見つめている。
    この暗がりの中でも、先生の顔ははっきりと見えた。
    不意に先生の角ばった指がオレの頬に触れた。
    少し距離が縮まって、前髪同士が軽くキスをする。
    そのまま本当に唇まで重なってしまいそうで、オレは思わず先生の腕を掴んだ。


    「……っ」


    先生ははっと我に返ったように瞬きをして、オレから少し距離を取った。
    熱を帯びた指が頬から離れても、心臓が信じられないくらいバクバクしている。
    今度はオレの方が先生から目が離せなくなってしまった。
    ふいと顔を背けた先生は、一瞬だけちらりとオレの方を見ると、少し笑って“ごめんね”と唇の動きだけで伝えてきた。
    それが何に対する謝罪なのか、オレにはまだわからない。


    (……顔が、熱い)


    劇場の中が暗くてよかった、こんな顔、とても見せられない。
    今、先生は何をしようとしていたのだろう。
    もし、オレがあのまま何の抵抗もしなかったら……そのまま、目を閉じていたら。
    オレ達の関係は、何か変わってしまったのだろうか。
    そんなことを考えると、臆病風に吹かれてしまった自分が少し恨めしい。
    もう一度舞台に目を向けても、今度は少しも集中できなかった。


    ***
    「素晴らしかったな!とても良い舞台だった!」

    「ふふ、楽しんでもらえたのなら何よりだよ」


    駅に向かう道を先生と歩く。
    劇場を出た時にはもう夕暮れ時だった。
    なんだかんだ全力で楽しんでしまって、興奮冷めやらぬオレの話を先生はにこやかに聞いてくれる。
    観劇中に起こったあの出来事については、二人とも触れることはなかった。
    なんとなく、話題に出してはいけないような気がしたのだ。


    「……類」


    もうすぐで駅に着くという時、何だか惜しくなって立ち止まった。
    先生のことを名前で呼べるのも、あと少しだけだ。
    先生と生徒の垣根を越えて話ができるのも、今日だけ。
    だから、何も飾らない、ありのままのオレの気持ちを話しておきたかった。


    「……オレは、ショーが好きだ。いつかは世界一のショースターになるのだと、本気でそう思っていた」

    「……ああ、前に話してくれたね」

    「ずっと、そのために努力してきた……だが去年、ある出来事がきっかけでオレは心に深い傷を負って、すべての気力をなくしてしまった。
     大切な夢を追いかけることも、何かを頑張ることも出来なくなってしまって……先生に出会うまでずっと、そんな無気力な日々を送っていたんだ」


    ぽつぽつとそう話すオレを、先生は真剣な、温かい眼差しで見守ってくれた。
    この話を人にしたのは初めてだ。
    ずっと、誰にも言えない苦しみを一人で抱えてきた。
    寂しいと縋ることも、本当のことを打ち明ける事さえ、周りにはできなくて。
    胸にぽっかり空いた穴を埋めることを、見ず知らずの他人に求めることしかできなかった。


    「……だが今日、先生と一緒にショーを観て、あの頃胸に抱いていた想いを思い出したんだ。
     オレはただ、妹を笑わせたかった……同じように、皆を笑顔にしたかった。
     何があっても、それは変わらない」

    「……そうか、どうやら今日の出来事は、ただのお返し以上の価値があったようだ。
     君は、大切な気持ちを思い出すことが出来たんだね」
     
    「ああ!全部、先生のおかげだ。今日までずっと、オレに寄り添ってくれて……どれほど感謝してもしきれない。
     何も返すことができないのが不甲斐ないが、せめてもう少し自分自身と向き合ってみようと思う。
     せっかくの夏休みだしな!オレが本当にしたいことは何なのかを、考えてみることにする」

    「ああ、それはいいね。どんな夢でも、君ならきっと叶えられる……応援しているよ」


    先生の綺麗な指がするりとオレの横髪に差し込まれて、優しく毛先を梳く。
    オレの夢の話を聞いて、笑わずにいてくれたのは、家族を除けば先生が二人目だ。
    胸がきゅうと痛くなる……やはり、オレは先生が好きだ。
    今はまだあまりに不釣り合いで、到底告白なんてできそうにないのだが……。


    (いつか、オレが世界一のスターになったら……先生も振り向いてくれるだろうか)


    恋のために夢を追うわけではないが、もしたくさんの人々の笑顔と共に先生の心まで手に入ったとしたら。
    それは、どれほど幸せだろう。
    おそらく遠い未来の……もしかしたら絵空事のままで終わるかもしれない夢の話だが。
    それでも、そんな将来を頭に思い描くだけでワクワクする。
    停滞していた時間が、緩やかに動き出すのを心のどこかで感じていた。


    ***
    僕の人生は、いつでも孤独と共にあった。
    昔から少し……いや、他者から見れば少しどころではなかっただろうが、僕は周りの人間と何かが違っていた。
    それはいつでも僕を助けてくれたが、同時に僕を人の輪から切り離した。


    『こんなのおもしろそうってだけでやれないよ!』

    『そうだよ!類くん、おかしいよ!』


    小学生の時、クラスメイト達に一緒にショーをやろうと提案したときのことは今でも覚えている。
    今思えば、彼らの反応は当然だった。
    僕は自分のやりたいことしか考えられていなかったから。
    寧々のように、僕の個性を受け入れてくれる人間の方が珍しいのだ。


    『自分の好きなことを大事にしていけば、いつか類にも仲間ができるよ。
    お母さんがお父さんに出会ったみたいにね』


    ひとりぼっちのガレージで、僕の頭を撫でながら母さんはそう言ってくれた。
    このセカイに神様は確かに存在して、出会うべき人にはきちんと出会わせてくれるんだよ。
    その言葉は、今でも僕の心の中にお守りのように刻み込まれている。
    だから、ずっと待っていた。母さんが父さんに出会って恋に落ちたように、僕にもいつか仲間ができるかもしれない。
    未来のことは誰にも分からない、だから信じていたかった。
    けれど、待てど暮らせど……そんな人は現れなかった。


    『神代くんって変わってるよね~。イケメンなのにもったいないな~』

    『あいつには関わらない方がいいぜ。意味わかんねえことばっか言ってて気味悪いしよ』


    自分の好きなことを貫こうとすればするほど、みんな僕の周りから離れていった。
    そのおかげで様々な学びを得て、自分の感情を抑えることも、相手の機嫌も取ることも人一倍上手くなって。
    けれど、そんなことをしてみたところで心が満たされるはずもなく。
    中学の頃にはもう開き直って、一人でいることが当たり前になっていた。
    ひとりだけ、こんな僕の話し相手になってくれた変わり者の友人がいたが、高校に入ってからは居場所ができたらしく、僕とは少し疎遠になった。
    一度学校を変えてみてもやはり上手くはいかず、高校時代は自作のドローンを使ってひとり、ショーをする日々を繰り返していた。


    (それでも結局……ひとりでは、最高のショーは作れなかった)


    やりたいことができないのなら、意味がない。
    自分の限界を悟って、僕は高校を卒業すると同時に夢を手放した。
    あれほど心惹かれて、自分のすべてと言っても過言ではなかったものから離れるのは当然辛かったが、一度捨ててしまえばあとは時が傷を癒してくれた。
    国内でもトップクラスの大学に進んで、教員免許を取って、順調に実績を積み重ねて。
    そんな一見誰もが羨むような人生は、ひどく空虚だった。
    それでも、周りは僕を何にでも恵まれた人間のように扱い、勝手な理想と面倒な期待を押し付けてくる。


    『神代先輩って何でも出来てすごいですよね!』

    『ホント、こんなに完璧な人っているんだ~って感じ!』

    『やっぱり本物の天才は違うよなあ~』


    中高生時代、あんなに遠巻きにされたのが嘘のように、何をせずともいくらでも人が寄ってきた。
    ほんの少し振る舞いを変えただけでこの変わりようだ、人の心ほど移ろいやすく扱いやすいものもない。
    僕の苦しみなんて誰にも分からない。挫折も失敗も、何一つ経験したことがない人間のように扱われて、何もかもが酷く滑稽に思えて。
    表向きは完璧な優等生を演じながら、心はいつも荒んでいた。
    気まぐれに寄ってきた女性と関係を持つことはしょっちゅうで、告白されて付き合ってみたこともあったけれど、彼女たちとの触れ合いが心の琴線に触れることは一度もなかった。
    学歴、才能、容姿、実績……そんな目に見えるだけの薄っぺらいものと引き換えに、人を愛する心すら失ってしまったような気がして。
    空っぽの心を引きずりながら大学を卒業して、就職して、全く期待していなかった未来の先で……──彼に出会った。


    「ん……」


    深い海の底から浮かび上がるように、意識がゆっくりと目覚める。
    目を開けると、見慣れたリビングの天井が映った。
    また書類を眺めながら寝落ちしてしまったらしい。
    身体を起こすと身体の節々がわずかに痛んで、早くもガタが来ていることを悟った。


    (……ずいぶん、懐かしい夢だな)


    夢というか、走馬灯のようなものかもしれない。
    過去の記憶を自分で遡っているような感覚だった。
    振り返ってみてもろくなことがなくて思わず苦笑してしまう。
    全く期待なんてしていなかったのに、やたらともてはやされてやさぐれていたあの頃より、今の方がずっと充実しているのはなぜなのだろう。


    (……きっと、君に出会えたからかな)


    教師として放っておけない、そんな義務感ゆえに始まった縁。
    あの日、たまたま彼を見つけてしまってからすべてが狂った。
    彼のことをひとつ知る度に、一緒に過ごす時間が増えるたびに、僕の心はあの一等星の原石に惹きつけられていった。
    僕の欠点を見つけて、嬉しいと笑ったあの子は、今まで出会った他のどの人間とも違っていた。


    (あの笑顔は……あまりにも罪だ)


    一緒にショーを観たあの日、舞台を見つめる彼のキラキラと輝く表情は僕の心に鮮明に焼き付いている。
    今まで見た中でも、彼の笑顔は一級品だ。
    不意に思い出した。昔、胸に抱いていた、まるで子供の絵空事のような果てしない夢を。
    誰も見たことがないような演出で、すべての人が笑顔になれるショーをすること。
    昔、寧々と観たショーの演出家のように、僕も誰かを笑顔にしてみたかった


    (そんなこと、もうずっと忘れて……いや、思い出さないようにしていただけなのかもしれないな)


    諦めてしまった方が楽だった、追い続けるのが苦しくて、いっそ捨ててしまえたらとずっと思っていた。
    もし、僕があと五年遅く生まれていたら。
    君と一緒にショーをやる未来も、あったのだろうか。
    神様は、出会うべき人には出会わせてくれたけれど……少し遅すぎた。
    今更、どうしろと言うのだろう。
    深く息を吐いてソファの背もたれにもたれかかると、不意に目の前のローテーブルに飾られたガラス製のテラリウムが目に入った。


    (……綺麗だ)


    彼が誕生日に贈ってくれたハーバリウム。
    まるで既製品のように美しいが、不思議と手作りならではの温かさがある。
    紫系統の花で綺麗にまとめられた花材、誠実、信頼、憧れ、誇り。


    「“星に願いを”か……」


    吸い寄せられるように、手の中のハーバリウムに軽く口づけた。
    ガラスの硬くて冷たい感触が唇に伝わる。
    笑ってほしい、もっともっと、触れたい、抱きしめたい。
    教師である僕が、こんなことを考えていると知ったら、君はどう思うんだろう。
    もう僕は君にとって、安心して甘えられる相手ではないというのに。


    (……末期だな)


    自分でも自覚している。これは、まるで病だ。
    原因も治療法もわからない、厄介で難儀な症候群シンドローム
    五歳も年下の子に、どうしてこうも惹きつけられる?
    この熱病の正体が、まさか“恋”なんてものだとしたら、僕が今まで経験してきたものは何だったのか。


    「……先生は月みたいな人、か」


    ことりとハーバリウムをテーブルの上に置くと、僕はソファから立ち上がる。
    ベランダに続く扉をがらりと扉を開けると、夏特有の生ぬるい風が頬を撫でた。
    外に出ると、夜の闇に少し歪な形の月がぽつりと浮かび上がっているのが見える。
    少し頼りなくて、闇に揺らいでいるその姿は、まさしく今の僕を表しているように思えた。


    ***
    夏休みが明けて、新学期が始まった。
    束の間の自由なひとときを惜しみながら、生徒たちは皆、制服に腕を通し学校に登校する。
    そんな少し憂鬱な九月上旬、僕はいつものように一日の授業を終えて、数学準備室に向かった。


    「……おや」


    ガラリとドアを開けて、少し驚いた。
    天馬くんが、何故か準備室にあるソファのひじ掛けに頭を預けて横たわっていたからだ。
    どこか具合でも悪いのかと一瞬不安になったが、彼の穏やかな寝顔を見る限りその心配はなさそうに思える。


    (……ぐっすりだねえ)


    ソファの傍に近寄り、膝を折ると僕はその愛らしい寝顔を覗き込んだ。
    手を伸ばしてそっと髪を撫でてみても、起きる気配はない。
    あまりにも無防備だ、こんな誰が来るかもわからない場所で隙だらけの姿を晒して、襲われても文句は言えない。
    それとも、他でもない僕のテリトリーだから、安心しているのだろうか。


    (……ダメだよ、僕に気を許したら)


    僕はもう、君のことを教え子の一人として見てあげられないんだよ。
    君が最も警戒しなければならない相手は、何食わぬ顔をしてすぐ傍にいるというのに。
    こつんとおでこを軽く合わせてみると、規則正しい寝息が聞こえてきて、こちらまでうとうとしてしまいそうだ。


    (……早く、気づいて)


    気づかれるとまずいのだが、少しは警戒してほしい。
    あと一年と数か月、僕一人でこの感情を制御できるのか少し自信がない。
    君にとってはただ身近な大人に甘えているだけに過ぎなくても……僕にとっては、違う。


    (……柔らかいな)


    少しかさついた唇を軽く人差し指で押してみる。
    指先に伝わるふにふにとした感触に、なんだか仄暗い欲が腹の底からじわじわと湧き上がってくるような気がして、思わず心の中で自嘲した。
    五歳も年下の、しかも自分の教え子だ。こんなあどけない寝顔を見せる子供に本気になるなんて、我ながらどうかしている。


    (……君が悪いよ)


    ただ、放っておけなかっただけなのに。
    無邪気に甘えてくるのが可愛くて、僕のために頑張ってくれるのがいじらしくて、何気ない一言で僕のすべてを肯定してくれる。
    もともと見た目はかなりタイプだし、もしかしたら自分で思っているよりも早い段階で彼のことをそういう目で見ていたのかもしれないけれど。
    ただ可愛いだけの子なら、きっとこんなに好きにはならなかった。


    (……キス、してしまおうかな)


    準備室には鍵をかけたし、誰かにいきなりドアを開けられる心配はない。
    彼がこのまま寝ていてくれれば、バレることはないだろう。
    まさかこの年になってこんな誘惑と戦う羽目になるなんて。
    柔らかい頬を手の甲で撫でてみる。
    理性と欲望を天秤にかけて、わずかに右が傾いたような気がした。
    ぐっと身体を前に押し出して、唇を触れさせようとしたその時……。


    「ん……」


    触れようとしていた唇からわずかに声が漏れて、反射的にばっと身体を離す。
    もぞりと彼の身体が動いて、溶けた蜂蜜のような瞳がゆっくりと開いた。


    「ん……うわっ!?せ、せんせい!?」

    「やあ、おはよう。ずいぶん気持ちよさそうに眠っていたねえ」

    「す、すまん!先生を待っていたらついうとうとしてしまって!」


    すぐ傍に片膝をついていた僕を見て、司くんは素っ頓狂な声を上げる。
    それから悪戯を見つかった子供のようにあわあわと慌てだす彼を見て、思わずくすりと笑みを漏らした。


    (残念……神様は見ている、ということかな)


    やはり悪いことはできない。
    一瞬完全に魔が差してしまったことを彼に気づかれていないのがせめてもの幸いだ。
    割と本気で残念だと思う気持ちもあるが。


    「起きたなら、またいつものように手伝いをしてくれるかい?
     授業資料はそこの机にあるから」

    「あ、ああ……」


    僕は立ち上がって彼に背を向けると、いつものように自分の席に座った。
    あまり彼と目を合わせていると、また妙な気持ちになって、教師としての体裁すら取り繕えなくなりそうだったから。


    「……先生」

    「なんだい?天馬くん……?」


    突然、司くんが腕を伸ばして、ぎゅっと後ろから僕に抱き着いてきた。
    これももう慣れたものだが、以前と心境が百八十度変わってしまった今はだいぶ心臓に悪い。


    「……夢を見ていたんだ」

    「夢?」

    「……先ほど、眠ってしまったときに、夢を見た。
     先生が出てくる夢だ」

    「へえ……それは少し気になるな。
     いったいどういう内容の夢だったんだい?」

    「……内緒だ!」


    司くんは何故か少し照れ臭そうに笑うと、ぎゅっと僕に抱き着く力を強めた。
    君のそんな顔を今まで見たことがあっただろうか。
    その表情を引き出した夢の中の自分に嫉妬してしまうなんて、我ながらなんて心が狭いのだろう。


    「だが、とても幸せな夢だった……いっそ覚めなければいいと思うほどにな」

    「……おかしな子だね、君は」


    夢は、夢のままにしておいた方がいいのかもしれない。
    だから、それ以上は聞かなかった。
    この一線を踏み越えるのは簡単だ、君をどんなに傷つけてもかまわないというのなら。
    けれど、僕の心に残った最後の良心が……僕と君を隔てる壁が、それを許さないから。


    (優しい“先生”を演じていてあげよう……今だけは、ね)


    獰猛な獣の牙は隠して。
    無邪気に甘えてくる子ウサギの頭を優しく撫でる。
    秘密を抱えているのはお互い様だ。
    僕の患っている病の話を、いつか君に打ち明けられる日は来るのだろうか……──。



    ***
    夏の暑さから解放され、少し過ごしやすくなってきた今日この頃。
    校内ではとある噂で持ちきりだった。


    「ねえねえ、聞いた?あのウワサ!」

    「あー、神代先生と草薙先生が付き合ってるってやつ?」

    「そうそう!仲良く一緒に歩いてるところ見た子がいたんだって!
     マジショックなんだけど!」


    廊下ですれ違った女子生徒たちがそう話しているのを聞いて、またかとげんなりする。
    きっかけは本当に些細なことで、休日に二人が街で一緒にいるのを見たという生徒が、二人は交際しているのではないかと言い出したことだった。
    神代先生も草薙先生も人気者なので、その情報はあっという間に広まって、あることないこと話に尾ひれがついてしまったのだ。
    一緒に歩いていただけで付き合ってるんじゃないかなんて邪推をされるのは気の毒だが、そういう話題には敏感な年頃だ。
    現にオレも、その噂には多少なりとも心を乱されていた。


    (……神代先生は、やはり草薙先生のことが好きなのだろうか?
    少し前に気になる子がいると言っていたしな……)


    二人は幼馴染らしいし、休日に二人きりで出かけるくらい仲がいいなら、そういうことも……。
    いやいや、確証もないただの噂だ。そもそもそれが本当のことなのかもわからない。
    それでも、事実がどうあれ、二人が並んでいると“お似合い”に見えるのは事実だった。
    少なくともオレが隣にいるよりよほど自然だろう……そんなことを考えてまた凹んでしまう。
    思い切って先生に交際している相手はいるのかと訊ねてみることも考えたが、もし、いると言われてしまったら立ち直れる気がしなくて聞けなかった。


    「失礼します!」


    がらりと数学準備室の扉を開けると、椅子に座って書類とにらめっこしていた先生が顔を上げてにこりと笑った。


    「やあ、天馬くん。来てくれてありがとう。
     授業用のプリントはそこにあるから、人数分まとめておいてくれるかい?」

    「ああ、わかった」


    いつものように先生の隣の机に置いてあるプリントを何種類か重ねてホチキスで止める。
    この作業ももうかなり手慣れたものだった。
    手を動かしながらちらりと先生の方を見やると、相変わらず真剣な表情で書類を見つめている。
    その横顔を見ていると、恋人はいるのか?なんて浮ついた質問はとてもできそうになかった。


    「おっと……僕としたことが」

    「どうしたんだ?」

    「いや、花壇の水やりをするのをすっかり忘れていてね。
    新しい種を植えたばかりだから、こまめに見てあげないといけないのだけど……」

    「それは行ってきたほうがいいんじゃないか?オレは一人でも大丈夫だぞ!」

    「そうかい?すまない、少し席を外させてもらうよ。
     すぐに戻るからね」


    そう言って先生は書類を机の上に置いて準備室を出ていった。
    ひとりきりになった部屋で、オレは作業を再開する。
    静まり返った空間にホチキスが紙の束を留める音だけが淡々と響いて、何だか少し落ち着かない。
    こういうところにひとりでいると、どうしても余計なことを考えてしまう。
    あの噂は、先生の耳にも入っているのだろうか。
    それなら、なぜ否定しないのだろう……それとも、事実だから否定できないのだろうか。


    (あ“-!!まったくもって集中できん!!)


    キリがいいところでオレはホチキスを机の上に置くと、ぱんっと自分の両頬を軽く叩いた。
    このままではいけない、心を乱されて日常生活に支障が出る。
    せっかく、先生のおかげで立ち直りつつあるというのに……こんなことでまたあんな怠惰な日々に逆戻りするわけにはいかない。


    (……本当のことを、先生に聞こう)


    結局、この胸のモヤモヤをなんとかするにはそれしか解決法はない。
    いろいろ考えたところで、それらはすべて憶測にすぎない。
    真実を確かめなければ……たとえ、どんな答えが返ってきたとしても。
    そう決めたら善は急げだ。今ここで動かないと、決意が鈍ってしまいそうだった。
    オレは作業を中断すると、先生の後を追って校庭に向かう。
    芝生のグラウンドでは陸上部が掛け声を合わせながら走り込みをしていた。
    その脇をすり抜けて、緑化委員が管理している花壇の方に向かう。
    ……──その選択を、後悔することになるとも知らずに。


    「……え?」


    校舎の脇にある花壇の前に先生の姿を見つけた。
    だが……そこにいたのは、神代先生だけではなかった。
    近づこうとしていた足が止まる、名前を呼ぼうとしていたのに、できなかった。
    口を開いた瞬間、草薙先生が神代先生に抱き着いたからだ。


    (……なん、で)


    二人はさして間もなく身体を離すと、少し言葉を交わして仲よさそうに笑い合っていた。
    会話の内容はここからでは聞き取れないが、先生の愛おしそうに細められた瞳を見ればわかる。
    きっと、愛の言葉でも囁いているのだろう……先生のあんな表情、オレは見たことがない。


    (……聞くまでも、なかったな)


    欲しかった答えは与えられた。
    これ以上、一秒だって目の前の光景を見ているのは耐えられないのに。
    幸せそうに笑う先生の表情から目が離せず、オレはただその場に磔にされたかのように佇んでいた。


    ***
    「きゃっ!?」

    「おっと……」


    僕に駆け寄るのと同時に案の定綺麗に前につんのめった幼馴染の身体を反射的に抱き留める。
    司くんも小さかったが、寧々はそれ以上に背が低いので腕の中にすっぽり収まってしまう。


    「あっ、ごめん、類……!」

    「いや、僕は大丈夫さ。それにしても、花壇に躓くなんて、君は相変わらずおっちょこちょいだね」

    「うるさい、いいでしょもう……」


    ぱっと身体を離すと、寧々が少し恥ずかしそうに頬を赤くする。
    昔からあまり運動神経がよくなかった寧々は、いろんなものに躓いて転んではよく泣いていた。
    そんな幼少期の記憶を思い出すと微笑ましくて、思わず笑ってしまう。


    「それで、僕に何の用だったんだい?」

    「あ、うん。この前、わたしの舞台見に来てくれたでしょ?
     その時一緒に来てた子、楽しんでくれたかなってちょっと気になって……」

    「ああ、それはもう……写真に撮って部屋に飾っておきたいくらい良い笑顔だったよ。
     君のおかげでいい刺激を得られたみたいだ。あの時は無理を聞いてくれてありがとう」

    「ううん、喜んでくれたならわたしも嬉しいし……笑顔になってくれてよかった」


    僕がそう言うと、寧々はほっとしたように笑った。
    観客の笑顔は、役者にとって一番の生きがいだ。
    司くんが言っていたように、寧々にとってもそうなのだろう。


    「チケットをプレゼントしたい子がいるからもう一枚確保してほしいなんて言われたときは驚いたけど……類にそこまでさせるなんて。その子、すごくお気に入りなんだね」

    「教師として褒められたことではないのはわかっているんだけどね……あの子はどうしても、特別なんだ」

    「どうでもいいけど、あと一年は我慢しなさいよね。生徒に手出したら普通に懲戒免職だから」

    「……参ったな、君に隠し事はできないね」


    呆れたようにそう言う寧々には、僕が想う相手が誰なのかもわかっているのだろう。
    見た目だけ取り繕うことは得意なはずなのだが、これほど長い付き合いだとなかなか欺きとおすのは難しい。


    「あの日の公演、とても素晴らしかったよ。本当はじっくり感想を伝えたいのだけど、生徒を待たせているんだ。
     その話はまた今度でもいいかい?」

    「うん、また一緒に飲みにでもいこ」


    話が一段落したところで校舎に戻ろうかと視線を戻すと、不意に蜂蜜糸の瞳と目が合って心臓が跳ねた。


    (……司くん?)


    校舎の陰から僕たちを見ていたのだろうか。
    司くんは僕と目が合うと、はっとしたように瞬きをして、勢いよく踵を返して走り去ってしまう。
    逃げるように立ち去る寸前に見せた彼の表情は今にも泣きだしそうで、僕は本能的にマズイと感じた。


    「すまない、寧々!急用を思い出した、後を頼むよ!」

    「え!ちょっと、類!?」


    突然ものすごい勢いで走り出した僕を見て、寧々は困惑しているだろう。
    それでも、彼女のことを気遣う余裕はなかった。
    司くんのあの顔、きっとただ事ではない。
    自分の足はこんなにも早く走ることができたのか。
    思わずそう感動するほど全力で駆けて、グラウンドに出る寸でのところで彼の手首を掴むことはできた。


    「司くん……!」

    「……ッ!?」

    「っは、はあ……やっと捕まえた。
     どうして逃げるんだい?そもそも、どうして君があんなところに……」

    「先生」


    僕の言葉を遮るように、司くんが僕のことを呼ぶ。
    頑なに背を向けたまま、少し震えた声で切り出す彼は、まるで僕を全身で拒んでいるようだった。


    「……すまない、先生に恋人がいたなんて知らなかったんだ。
     知っていたら……甘やかしてほしいなんて言わなかった」

    「恋人?まさか寧々のことかい?」

    「……名前で呼ぶんだな。恋人なら当然か」


    司くんは自嘲するように笑うと、どこか投げやりにそんなことを言う。
    何が彼にそんな態度を取らせるのかはわからないが、何かとんでもないすれ違いが起こっていることだけは察することができた。


    「待ってくれ!君は何か勘違いをしているよ。僕と彼女は別にそういう関係じゃ……」

    「っ、聞きたくない……!!」


    ばっと勢いよく腕を掴んでいた手を振り払われ、ようやく彼の顔を見ることができる。
    琥珀のような瞳から零れ落ちる大粒の涙は、自分でも信じられないくらい僕の心を乱した。


    「つかさ、く……」

    「……“あの人”も同じことを言ったんだ。
     そういう関係じゃない、僕が好きなのは君だけだって……でも、嘘だった」

    「あの人……?いったい、何の話を……」

    「……いいんだ、気にしないでくれ。オレと先生は恋人でも何でもない。
     オレが先生に何か言う権利も、先生がオレに気を遣う義務もない」


    一度開いた距離はどんどん広がっていく。
    いつも子供っぽい我儘を言って僕を困らせるくせに、こんなときばかりやけに物分かりがいい。
    どれが本当の君なのかわからない……その姿をあっという間に見失ってしまいそうだ。


    「……すまない、もうあの教室には行けない。
     内申はいらないから、誰か代わりの生徒を探してくれ」


    涙を流しながら、彼は無理やり口角を上げて、笑って見せた。


    「……今まで、本当にありがとう。先生」


    まるで袂を分かつように、司くんは再び踵を返してどこかに消えてしまった。
    追いかけなければと思うのに足が動かなくて、どんどん遠くなる背中を僕は見ていることしかできない。
    彼が何か大きな傷を抱えていることも、心に絡みつく過去を振り払おうと藻掻いていることも、知っていたのに。
    泣き顔を見たことは一度もなかった……僕の前では意地でも見せまいとしていたのかもしれない。


    (……どうして)


    どうして、急にこんなことになってしまったのだろう。
    今までずっと、上手くいっていたのに。
    爛れた日々を送っていた彼が、前を向いてくれるようになったのが、本当に嬉しかったのに。
    突然僕たちの間に入った亀裂に心が追い付かなかった。


    ***
    あれから宣言通り、司くんは数学準備室に来なくなった。
    それどころか、僕と話すことも、ましてや目を合わせる事すらなくなった。
    授業はきちんと出席しているが、終わった後はすぐどこかに消えてしまって、接触することすら叶わない。


    「はあ……」


    昼休み、買ってきたコンビニ弁当に手を付ける気すら起きず、僕は思わず深いため息を吐いた。
    徹底的に避けられている……理由もわからぬまま豹変した彼の態度にどう対応すればいいかわからず、単純にメンタル的にもかなりしんどかった。
    どうも彼と出会ってからは悩みっぱなしのような気がする……思わずくしゃりと髪をかき乱したとき、ぽんと誰かに肩を叩かれた。


    「やっほー、類!うわ、どうしたの?今にも死にそうな顔しちゃってさ~」

    「……瑞希」


    顔を上げると、桃色のサイドテールが印象的の旧友が驚いたように目を丸くしていた。
    瑞希は僕と同じこの神山高校のOBで、今はこの学校で非常勤講師として働いている。
    四年制大学を出た僕とは違い、瑞希は短大を卒業して一足早く社会人になったので、教師としては少し先輩だ。


    「ちょっと、厄介な生徒のことで頭が痛くてね」

    「へ~、そんなに類を悩ませる子がいるなんてちょっと興味湧いちゃうな~。
     何て名前の子?」

    「うちのクラスの、天馬司って子なんだけど……そういえば、瑞希は去年からこの学校にいたんだったね。
     彼が一年生の頃のこととか、何か知っていることはないかい?」

    「天馬……もしかして、綺麗な金髪で、やたらと声が大きい子?」

    「十中八九、その子で間違いないだろうね」

    「あ~……あの子か~」


    瑞希はなぜか言いにくそうに口ごもると、迷うように視線をうろうろさせる。
    これは何か知っているに違いない、そう確信した僕が黙ってじっと見つめていると、瑞希はとうとう降参とばかりに両手を上げて、内緒話でもするかのように僕の耳元に手を添えた。


    「この話は誰にも言わないで欲しいんだけど……」

    「ああ、もちろんだとも」

    「……ボクさ、去年その天馬って子と、ある教師が物陰で抱き合ってるところ見ちゃったんだよね~。
     正直、普段そういう感じ全然しない子だったから驚いちゃってさ」

    「……ある教師?」

    「類が来る前に数学教えてた若い先生だよ。一年と三年の授業を担当してて、3-Aの担任だったんだ。
     でも今年度に入るのと同時に学校辞めちゃったんだよね~。噂では結婚したとか聞いたけど」

    「結婚……」

    「本人に聞いたわけじゃないから詳しい事情とかわかんないけど……まあ、察しはつくっていうか。
     あの子、カワイイ顔してるし、悪い大人に漬け込まれちゃったのかもね~」


    その一言だけで察しがついてしまってみるみるうちに渋面になる僕に、瑞希はわかりやすいなあと笑った。
    もしその予想が当たってしまったとしたら、僕の精神衛生上大変よろしくない。
    平静を失いそうになる自分を何とか抑えつけて、僕は瑞希に訊ねた。


    「瑞希、去年の卒業アルバムってどこにあるか分かるかい?」

    「職員室に保管されてるはずだけど……そんなの見てどうするの?」

    「……少し、確認したいことがあってね」


    どうせ彼の事情に首を突っ込むことは避けられない。
    荒治療かもしれないが、一度傷口を開いて中の膿を掻き出さなければ永遠に苦しいままだ。
    何としてでも捕まえる、今度は僕が救って見せる。
    それはまさしく執着と言って差し支えない感情で、何もかも捨てたと思っていた自分の中に、まだこんな想いが眠っていたことに少し苦笑した。


    ***
    オレの初恋は、本当に散々だった。
    相手は高1の時の数学の先生だ。
    爽やかで整った容姿に、気さくで優しい性格。
    面倒見も良くて、生徒たちからも人気の先生だった。


    「司、最近頑張ってるみたいだね。えらいえらい」


    その人も、オレの頭を撫でるのが癖だった。
    いつもオレのことを褒めてくれて、少し点が取れたテストには花丸を書いてくれたり、他愛もない話を笑って聞いてくれたり。
    ……今思えば、全部オレをその気にさせるための演技に過ぎなかったのかもしれないが。
    そんなことを露ほども知らなかった当時のオレは、そんな先生に少しずつ惹かれていった。


    「へえ、司は役者になりたいんだ」

    「ああ!しかもただの役者じゃないぞ、世界一のショースターだ!」

    「それはすごいなあ。きっと、司なら出来るよ。応援してる」


    何より、オレの夢を聞いても笑ったりせずに、応援していると言ってくれたことが、好きだと自覚するきっかけになった。
    今まで、誰にこの話をしても、そんなの無理に決まっていると言われるばかりで、誰一人本気にはしなかったのに。
    その時は本当のオレを受け入れてもらえたような気がして、本当に嬉しかったのだ。
    だから、いつものように空き教室で話しているとき、不意に先生からキスをされても……驚きこそすれ、嫌だとは思わなかった。
    好きだ、付き合ってほしいと言われた時も、二つ返事で頷いたのはオレも本気で好きだったからだ。


    (……そう、好きだった……間違いなく、あの頃のオレは)


    初めて体を重ねたのは、告白をされた時と同じあの埃っぽい空き教室だった。
    いきなり押し倒されて、何の準備もなしに身体を暴かれた。
    今思えば酷い話だが、当時のオレは好きな人と触れ合えることが嬉しくて、色んな感覚が麻痺していた。
    初めて胸の内に生まれた感情に振り回されて、溺れて、先生のことしか考えられない。
    先生との触れ合いは、両親が与えてくれたものとは違う種類の愛情を教えてくれた。
    そんな盲目の日々を繰り返してお付き合いを始めてから半年ほど経ったある日、オレは先生の誕生日プレゼントを買いに街へと出向いた。
    どんなものなら気に入ってくれるだろう、喜んでくれるだろうか。
    そんなことを考えながらワクワクしていた時、ふと視界の隅に大好きな人の姿を見つけた。


    (!先生……)


    こんなところで会えるなんて、なんて幸運なんだろう。
    そんなことを思っていられたのは、その一瞬だけだった。


    (……え?)


    背中を追いかけようとした足が、思わず立ち止まる。
    先生の隣には綺麗な女の人がいた。
    二人は腕を組みながら仲良さげに歩いていて、どう見ても兄妹や同僚の距離感ではない。
    やがて二人が立ち止まったのはジュエリーショップのショーウインドーの前だった。


    「あ、これ可愛い~!これに決めっちゃおっかな~」

    「まだ式まで時間もあるし、ゆっくり決めていいんじゃない」

    「それもそっか~、えへへ、結婚式楽しみだね!」


    そんな会話が耳に届いたとき、オレの心がどす黒い何かに染まっていくのをどこか他人事のように感じた。
    結婚まで考えている女性がいるのに、平然とした顔でオレを抱いて、愛の言葉を囁いていたのか。
    彼女と結ばれた後、オレは捨てられるのか……それとも、何事もなかったかのように関係を続けるつもりなのか。
    どちらにせよあまりの身勝手さに反吐が出そうだった。
    今日たまたま知らなければ、オレはずっと盲目的にこの人を慕っていたのだろうか。
    高波がさあっと引いていくように、不自然なほど冷めていく熱はひどく物悲しかった。


    ***
    「司、どうしたの?急に呼び出したりして」

    「……先生」


    あの出来事から数日、いつもの空き教室で顔を合わせた先生はただならぬ様子のオレを前に困惑したようだった。


    「ずいぶん怖い顔をしているね。いったい何が……」

    「触らないでくれ」


    宥めようとするように頬に伸ばされた手をぱしんと軽く払う。
    そんな反抗的なオレの態度に、先生は驚いたように目を丸くした。


    「……先生、先週の土曜日、どこにいた?」

    「……学校で仕事をしていたよ。君たち生徒は休みでも、教師の僕にはいろいろとやることがあるからね」

    「……先生」


    まだ、心のどこかで信じたいと思っていた。
    もしかすると二人は兄弟で、妹の結婚式の指輪選びに付き合っただけなんじゃないかなんて、無理のある想像で自分を納得させようとしたりもした。
    そんな風に足掻いてみたところで、結局は裏切られたわけだが……。


    「……どうして、嘘を吐くんだ?」


    オレのその一言で、先生はすっと顔つきを変えた。
    そんな風に感情が読み取れない表情なんて、今まで見たことがなかったのに。


    「……あの日、先生は街で女の人と一緒にいただろう?
     ジュエリーショップのショーウインドーの前で、幸せそうに笑いながら……」

    「待って、誤解だよ。僕とあの女性はそんな関係じゃない。
     僕が本当に好きなのは君だけだよ、司」

    「っ、これ以上嘘を吐かないでくれ!」


    全てを拒絶するように耳を塞いだ。
    もう何も聞きたくなかった。
    あれほど心を震わせた愛の言葉は、今やただの呪いだ。


    「……考えてみればおかしな話だったな。先生みたいな人が、オレみたいな子供に本気になるはずがない。
     最初から、オレのことは遊びだったんだろう?何も知らずに浮かれているオレの姿を見るのは楽しかったか?」

    「違うよ、そんなんじゃない!司、話を聞いてくれ」

    「これ以上話すことはない……オレはもう、先生のことを好きでいられない」


    それだけ言い捨てて、オレは逃げるように教室を出た。
    もう何もかも、どうでもよかった。
    誰かを不幸にするとわかっていて、それでもなお縋ろうとするほど図太くはなれない。
    何より、人の心を弄んで平然と嘘を吐くような人間に、今まで本気で惚れていたという事実が悔しくて、情けなくて、ひどく虚しかった。


    (……もう春、か)


    どれだけ待ってみても、本気で愛した人に裏切られた傷が癒えることはなく、何も出来ないまま時間だけが無情に過ぎていった。
    先生は新学期になると同時に学校を辞めた。
    その理由について本人は明らかにしなかったが、結婚したのだという風の噂を聞いた。
    きっと、相手はあの女性だろう。
    大嫌いな『先生』……これでオレとあの人を繋ぐものは何もなくなった。
    それでも、一方的に傷ついたボロボロの心を誰かが救ってくれるわけでもなく、抱かれる快感を覚えてしまった身体は貪欲に求めるばかりで、オレは大人には言えないような世界に足を踏み入れた。
    ただ、胸にぽっかり空いた穴を埋めてほしくて……そんな『愛』のない行為で満たされるはずもないのに。
    そんなことをしている間にいつの間にか一つ学年が繰り上がって、オレはこれから先もこんな風に縛られ続けるのかとぼんやり思っていた時……。
    もう一度……──“先生”に出会った。


    ***
    「司、そろそろ行ってくるな」

    「ごめんね、司一人に任せちゃって」

    「気にするな!久しぶりの夫婦水入らずの旅行なんだ、存分に楽しんできてくれ!」

    「司~!!こんな優しい子に育ってくれて、父さん嬉しいぞ!」

    「本当ね~、さすがお兄ちゃん!頼りになるわ~」


    褒めちぎってくれる両親に頭を撫でまわされて、くすぐったいぞと笑う。
    何歳になっても、こうして褒められるのは嬉しいものだ。
    困ったことがあったらすぐ連絡するんだぞ!と言う父さん達の背中を見送って、静かに息を吐く。


    (……優しい子、か)


    きっと、両親は本気でそう思ってくれているのだろう。
    オレにとって大切な人達だ、だからこそ……本当のオレの姿は見せられない。


    (今日から二日間、一人きりか……)


    世間は三連休、この休みを利用して、両親は久しぶりに二人きりで旅行に行った。
    咲希はバンドのライブが近いとかで、連休中は一歌たちと一緒に強化合宿をするらしい。
    そういうことなので、この家に残っているのはオレだけだ。


    (……静かだな)


    一人ぼっちの家の中はやけに広く感じて、とたんに心細くなる。
    この時間が嫌いだった……ひとりでいると、どうしても考えたくないことばかり考えてしまう。
    昔は咲希のことだった、オレがこうしている間に苦しんでいたら……最悪死んでしまったらどうしようと。
    今は……──。


    (……先生)


    フラれることすら出来ずに終わった恋の残滓は、未だにオレの心にこびりついている。
    嫌だ、考えたくない。
    あの愛しいものを見るような瞳は……オレには絶対に向けてくれない目だ。


    (……苦しい)


    ずっとこの静かな部屋にいたら、気が狂ってしまいそうだ。
    もっと騒がしいところに行きたい、余計なことを考える暇もないくらい、賑やかな場所に。


    「……」


    衝動に突き動かされるまま、オレは薄いパーカーを羽織って靴を履いた。
    もっと賑やかで、煌びやかで、何もかも忘れられるところ。
    そんな都合のいい場所は、ひとつしか知らなかった。


    ***
    (……ここに来るのは久しぶりだな)


    渋谷駅の近くにある繁華街、昼夜問わず人で賑わっているが、夜はまた違った風貌を見せる。
    チカチカと目に眩しい派手なネオンが明滅して、客引きをする甲高い声が耳に響く。
    高校生がぽつんと一人でいるには似合わない場所だ。
    だからこそ、ここにいる人間には自然と“そういう目的”なのだと思われる。


    「君、可愛いね。いくつ?お兄さんが相手してあげようか?」

    「すまない、そういうのではないんだ。家に帰るのにこの道が近いから通っただけで」

    「ふうん、そっか、残念だな~。ここにいる連中はわりと見境ねえから、襲われたくなけりゃ今度から別の道行きな」

    「……ああ、忠告感謝する」


    次から次へと声をかけてくる相手を上手くかわしながら、オレは心の中で自嘲する。
    自分のことを大切にする、見ず知らずの人間に簡単に自分の身を差し出したりしないこと。
    先生に甘えさえてもらう代わりに交わした約束……そんなものを、まだ律儀に守っているなんて。
    それでも、先生のことを裏切りたくなかった。


    (……そろそろ、帰るか)


    もうだいぶ時間も遅くなった。
    今日はやけにいろんな人間に声をかけられるし、しつこいのに捕まっても困る。
    そう思い、繁華街を出ようと足を動かすも……こういう気分の時ほど、悪いことは重なるもので。
    これぞまさに、弱り目に祟り目といったところだろうか。


    「……司?」


    背後から誰かに名前を呼ばれ、思わず立ち止まる。
    聞き覚えのある声だった、もう二度と、聞きたくなかった声。
    大嫌いな……『先生』の声だった。


    「……先生」

    「司!やっぱり司じゃないか!久しぶりだね」


    振り返ると、そこにはかつての“恋人”がにこやかに微笑みながら立っていた。
    まともに話すのは先生を一方的に責めて別れたあの日以来だ。
    何事もなかったかのような顔をして、いったいどういうつもりでオレに声をかけてきたのだろう。


    「まさかこんなところで会えるなんて思ってなかったよ、少し大人っぽくなったかな」

    「……先生は変わらないな。奥さんを放って、こんなところで何をしているんだ?」

    「人聞きの悪いことを言わないでよ。ちょっと息抜きに来ただけさ」


    先生の薬指には、あの日ショーウインドーに飾ってあった指輪がはまっている。
    誤魔化すような笑みを浮かべながら、それを外してズボンのポケットにしまう姿を見て、すうっと心が冷えていくのが分かった。
    この人は全く変わっていない、平気な顔をして人を裏切り、その想いを踏みにじる。
    同じ『先生』なのに……“先生”とは全然違う。


    「それにしても、会えてよかった。僕は君に謝りたかったんだ。
     あんな風に傷つけたまま終わってしまったから」

    「……もういい。全部終わったことだ」

    「そんなことを言わないで、ゆっくり話をしよう?
     こんなところにいるってことは、君だってどうせその気だったんだろう?」

    「……っ!」


    突然腰に腕を回されて、さわりと撫でられる。
    生理的な気持ち悪さに鳥肌が立って、思わず距離を取ろうとするもがっちり抑え込まれて動けない。


    「離せ!オレはそんなつもりでここに来たのではない!」

    「んー?嫌がるフリなんてして、いじらしいね。ちょうどいいところを知ってるんだ。
    久しぶりに可愛がってあげようか」


    どこからその謎の自信が湧いてくるのか、どんなに嫌がってもまるで効果がない。
    嫌だ、こんな男に指一本だって触れられたくない。
    醜い欲望で穢れた手は、“先生”がオレの頭を撫でてくれた温かい手とはまるで違う。


    (……嫌だ……いやだ!)


    助けてほしい、どうしてオレばかりこんな目に合うのだろう。
    身の丈に合わない人を愛した代償なのだろうか。
    それなら、やはり……もう二度と恋なんてしなければよかった。
    もう抵抗しようとする気力も尽きて、どうにでもなれと思い始めた時……唐突に、祈りが通じた。


    「……僕の生徒を誑かすのはやめていただけますか?」


    ぐいっと強い力で手首を掴まれて、思わず身体が固まる。
    またしても知っている声だった……大好きな“先生”の声。
    ここまで偶然が重なると、驚きを通り越してもはや笑えてくるレベルだった。


    「……先生」


    振り返ると、そこには今まで見たことのないくらい怖い顔をした先生が立っていた。
    先生のような人が、なぜこんなところにいるのだろう。
    なぜ、そんなにも怒っているのだろう。


    「君は……?」

    「この子の担任です。教師として、生徒に相応しくない行為を見過ごすことはできません」


    「司、そうなのか?」

    「……」


    どうすればいいのかわからず黙り込む。
    先生にだけは、こんな姿を見られたくなかった。
    どうして、よりにもよって先生なのだろう。
    酷く惨めだ、思わず俯くと先生は業を煮やしたように強い口調で言った。


    「司くん、その男から離れなさい、今すぐにだ」

    「……っ」


    ピリッとひりつくような緊張が身体に走る。
    腕の力が緩んだ隙に抜け出して、先生の圧に引っ張られるように一歩踏み出した。
    あと少しのところまで近づくと、オレは手を伸ばして先生に思い切り抱き着く。
    すると背中に温かい腕が回って、ぎゅっと抱き締め返してくれた。


    「……それでいい、いい子だね」

    先生が自分の意思でオレを抱き締めてくれたのは初めてだった。
    教師として生徒を守ろうとしているだけだとわかっていても、嬉しくてたまらない。
    子供を宥めるような優しい声に、思わず泣きそうになった。
    どうして、いつも助けてほしいと思ったときに来てくれるのだろう。


    「……ああ、もう新しい男を捕まえたのか。
     君も大変だな、そんなビッチに好かれて」

    「……自分の生徒の心を弄んで、欲を満たそうとするような人には言われたくありませんね。
     見境がないのはそちらでしょう」

    「はっ、よくそんな口が利けるな。僕がこのことを学校にタレこんだら、君は終わりだよ?」

    「そちらこそ、彼とのことが奥様の耳に入ると何かと不都合なのでは?
     いろいろと人には言えない事情をお持ちのようですしね」

    「ぐっ……!」


    図星だったのか、『先生』は悔しそうに黙り込む。
    何も言えない相手に対して、先生は毅然とした態度できっぱり言い放った。


    「金輪際、司くんに近づかないでください。これ以上、彼の人生を狂わせることは僕が許さない。
     この子は、貴方のような人にはあまりにもったいないので」


    ぎゅっと抱き寄せる腕に力が籠って、甘やかされるまま胸に頬を摺り寄せる。
    『先生』は何か言おうと口を開くが、結局黙り込んだまま背を向けて去っていった。
    その後ろ姿を見て、思わず詰めていた息を吐き出す。
    しばらく抱き締められたままでいたが、先生がふいにぐっと身体を離した。
    その表情にはまだ苛立ちが滲んでいる。


    「……送っていくよ。家の場所はどこだい?」

    「……あ」


    本能的な恐怖に身体が固まる。きっと誤解されているのだろう。
    嫌だ、このまま先生と別れてしまったら、連休中は気が気ではいられない。
    離れたくなくて、オレはとっさに先生のシャツの袖を掴んだ。


    「……帰りたく、ない」

    「……君ねえ」

    「今日、家に誰もいないんだ。休みの間はずっとひとりで……だから、その、だな」


    言い淀むオレをしばらく眺めていた先生は、やがて呆れたように大きく息を吐き出す。
    そして、唐突にオレの腕を掴むとぐいっと引きながら歩き始めた。


    「うおっ!先生、どこに……っ」

    「いいから、黙ってついてきて」


    口を挟む間もなく引っ張られるまま足を動かす。
    ギリギリと痛みが走るくらい強く掴まれた腕は、先生の怒りをひしひしと伝えてくるようで。
    恐怖と期待が入り混じる複雑な心境のまま、オレは先生の広い背中を見つめていた。


    ***
    適当に入ったホテルのフロントで額も確かめずに何枚か札を出してキーを受け取ると、司くんを半ば引きずるようにして部屋に向かう。
    オートロックの部屋にカードキーを差し込んで中に入ると、そのまま司くんをベッドに押し倒した。


    「い“……っ!?」


    ぐっと力強く手首を掴んだのが痛かったのか、司くんは反射的に眉を寄せる。
    その表情を見てもなお、僕の内側で燃え上がっている炎はとどまる気配を見せない。


    「もうこういうことはやめなさいって何度も言ったよね?
     どうして僕の言うことが聞けないんだい?」

    「せんせ、まっ……いっ!」

    「君は悪い子だね。口で言ってもわからない生徒には別の教え方をしないとダメかな」


    司くんの両手首を片手で拘束して自由を奪うと、もう片方の手で彼の服のボタンを外す。
    そこまでされてようやく危機感を覚えたのか、嫌がるように身をよじるも全く抵抗になっていない。


    「嫌だっ、や……っ!」

    「どうして嫌がるんだい?本当はこうしてほしかったんだろう?
     寂しさを埋めて、甘やかしてくれる男なら、君は誰でもよかったんだ」

    「違う!オレはそんなつもりじゃ……」

    「僕はさぞ都合のいい男だっただろうね。けれど、それなら僕でいいだろう?
     お望み通り、思う存分可愛がってあげるよ」


    するりと手を忍び込ませて、すべすべした肌に直に触れる。
    自分でも割とやけくそな気持ちだった。
    どんなに追い払っても悪い虫は寄ってくるし、あれほど同じ時間を共に過ごして心を通わせられたと思ったのに、こんなに簡単に掠め取られそうになって。
    先ほどの反射的な抱擁を除くなら、僕はまだ一度も抱き締め返すことさえできていないというのに、よりにもよってあんな男に触らせたりして。
    教師だから、生徒だからなんて、体面を必死で保とうとしていたのが馬鹿馬鹿しくなって、いっそ既成事実でも作ってしまえば逃げられなくなるんじゃないかなんて、大人として最低なことを考え始めた時……不意に彼の両目からぼろぼろと涙が零れ始めて、思わずぎょっとした。


    「ひっく、う……やだって、いってるだろお……っ!」


    綺麗な顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくる彼を見てようやくはっと我に返る。
    慌てて手を離すと、司くんは次から次にあふれる涙を乱暴に袖で拭いながら掠れた声で言った。


    「……せんせいとだけは、こんなふうにしたくない」


    涙声でそう口にする司くんを見て、ようやく少し心が落ち着いてきた。
    冷静さと共に自己嫌悪まで帰ってきてメンタルが瀕死ではあるのだが、先ほどの危うい熱はもうない。


    「……すまなかった、怖がらせてしまったね。
     泣かせるつもりはなかったのだけど」

    「……せんせい」

    「目先の快楽に縋って、心が満たされても、それは一時的なものに過ぎない。
     時間が経てばかえって虚しくなるだけだ。君は賢い子だから、もうとっくにわかっているんだろう?」


    濡れた頬に手を添えて、乾いた彼の唇を親指でなぞる。
    本当は、心のどこかで分かっていた。彼はきっと、生理的な欲求を満たしたかったわけではない。
    けれど、彼にその感情を与えられる人間は、この世に数えるほどしかいないだろう。


    「“愛”なんて、見ず知らずの他人に求めるものじゃない。
     恋愛なんて、無理やりするものじゃないんだよ。
     本当に好きな人とじゃないと、意味なんて……」

    「……できない」


    司くんは僕の言葉を遮るようにそう口にすると、ふいっと顔を背けてぽつりと呟いた。


    「……オレの好きな人は、オレのことを好きになってはくれないんだ」


    その言葉が耳に届いたとき、眩暈がした。比喩ではなく、本当に視界が揺れた。
    彼に好きな人がいたなんて初耳だ。
    もしかして、あの男のことが今でも好きなのだろうか。
    だとしたら腹立たしいなんてレベルではない、いや、ひとまず私情を差し置いたとしてもなんとかして目を覚まさせなければ。


    「……君の好きな人って、誰?」

    「……先生には関係ないだろう」

    「教えて」


    自分で思っていたより数段低い声が出て、びくりと司くんの肩が跳ねる。
    余裕のなさが前面に出ていて嫌になるが、不甲斐なさを噛みしめているゆとりすらなかった。


    「……優しい人、だ」


    僕の圧に背中を押されるように、司くんは一言そう口にした。


    「……初めて、本当のオレに気づいてくれた。
     オレの醜い一面を知って、それでもなお手を差し伸べてくれた。
     優しくして、甘やかしてくれた……だが、抱き締めても、絶対に抱き締め返してはくれなかった」

    「……え?」

    「……優しい人だから、きっと放っておけなかっただけなんだ。
     あの人を慕う人はたくさんいて、オレでは、あまりに不釣り合いだ。
     そもそも、オレみたいなのに……」

    「……君みたいな子供に、本気になるはずがないって?」


    全てを理解して、なんだか溜息が出そうだった。
    まるで神様に仕組まれたのではないかと思うほど見事なすれ違い。
    もう限界だ、知ってしまったからには、無関心ではいられない。


    「……お馬鹿さんだね。返答次第では、まだ逃がしてあげられると思っていたのにな」


    おかげで数か月分の涙ぐましい努力がすべて水の泡だ。
    驚きも、喜びも、ほんの少しの罪悪感も、様々な感情が混ざり合って心が乱れている。
    それでも、何故かすがすがしい気分だった。


    「……その男が君に寄り添うような真似をしたのは、優しさからでも使命感からでもない」


    残念ながら、そんな綺麗で真っ当な理由ではなく、もっと人間らしい、醜い感情だ。
    君には失望されるかもしれない、けれど、君だって今更僕が優しいだけの男だなんて思っていないだろう。


    「……ただ、気に食わなかっただけさ。君が他の男を想って泣いているのが。
     ろくでもない恋を引きずって、そんな男のために夢も希望も、未来さえ手放そうとしているのがね」


    感情がすぐ表に出るくせに意地っ張りで。優しすぎてすぐに傷ついて。
    甘えたがりで愛されたがりで、頑張り屋さんだけれど、寂しがり屋で。


    「……君みたいな子は、本当に……僕にとっては可愛くて仕方がないんだ。
     可愛くて可愛くて、際限なく甘やかして、僕だけでいいって言わせたくなる」


    それでも、本気にはならないようにって、ずっと言い聞かせてきた。
    君は生徒で、僕は教師だ。
    君を守り、教え導く立場の僕が、恋心なんて私欲の塊である想いをぶつけるわけにはいかない。
    そんな我慢強い僕の殊勝な覚悟を、君はものの見事にぶち壊してくれたわけなのだけど。


    「……君が僕を悪い大人にするなら、僕も君を悪い子にする。
     恋愛なんてギブアンドテイクだよ。無償の愛はあり得ない」


    タダではあげられない、愛した分、君も愛してくれないと。
    天秤の重さが釣り合わなければ片方が潰れてしまうのだから。
    ずっと狭い心の中に押し込めてきた想いは膨らみすぎて、今のままだと、君を潰してしまう自信しかないのだけど。


    「……僕のものになるのなら、一切の目移りは許さない。
     だけど、僕は一途だよ。これ以上ないくらい大切にする。
     君は流されやすくて、すぐどこかに行ってしまうから、僕くらい重い男が手を握っておいた方がいいかもしれないね」


    年齢差、立場の違い、歩んできた過去、窮屈な現実。
    何もかも、今はどうでもいい。
    この感情の前では、人は無力だ。
    抗うことなど、できるはずがない。


    「……回りくどいのはなしで、もっとわかりやすく、シンプルにまとめようか」


    こんなことを、僕が本心から誰かに言う日が来るなんて、誰が想像できただろう。
    本当の気持ちを打ち明けるのは少し怖くて、無駄に言葉を飾ってしまう悪癖はまだ治りそうにない。
    けれど、こうでも言わなきゃ肝心なところで壊滅的に鈍い君には伝わらないだろう。


    「……君のことが好きだよ。ずっと僕の傍にいてほしい。
     君が僕の生徒じゃなくなって、僕が君の先生でいられなくなっても、ずっと」


    涙で滲んでいた蜂蜜色の瞳が、少し不安になるほど大きく見開かれた。
    まさかそんなことを言われるなんて思ってもみなかったという顔だ。
    表では出さないようにしていたつもりだが、そんなに分かりづらかっただろうか。
    寧々には速攻でバレて釘まで刺されたというのに。


    「それは、生徒としてではなくて……その、だ、抱きしめたいの方の好きか!?」

    「もちろん、抱き締めて、キスをして、それ以上のこともしたい、の方の好きだよ」


    こつんと額を合わせると、白い頬が瞬く間にほんのりと赤く染まる。
    教師として最低のことを言っている自覚はあるが、体裁はもうとっくに捨ててしまったので許してほしい。


    「だ、だが先生は草薙先生と付き合っているんだろう?
     この間抱き合っていたじゃないか!」

    「いつ!?そんなことした覚えはないし、そもそも付き合ってないよ!?」


    いきなりとんでもないことを言われて思わず必死に否定すると、司くんは僕の勢いに押されるようにきょとんと目を丸くした。


    「そ、そうなのか?この前、花に水をやりに行くと出て行ったあと、先生が花壇の前で草薙先生を抱き締めているのを見たんだ……だから、オレはてっきり」


    記憶を辿って、またしても頭を抱えたくなった。
    おっちょこちょいな幼馴染を今だけは恨んでもいいだろうか。


    「あれはただ、寧々が花壇に躓いたからとっさに抱き留めただけだよ。
     本人に聞いてみればわかると思うけれど、本当に彼女とはただの幼馴染なんだ」

    「そ、そうだったのか……」


    まさかそんなことで避けられていたとは……真相を知って思わず脱力してしまう。
    何か嫌われることをしてしまったのではないかと考えてみても思いつかないし、それがわからないと謝ることもできないから、どうしたものかと散々頭を悩ませたというのに。
    けれど、あんなに取り乱すほど派手にやきもちを焼いてくれたということは、期待してもいいのだろうか?


    「それで、君の答えを聞かせてほしいのだけど」

    「っ、い、言わなくてもわかっているだろう……!」

    「僕だけに言わせて君はそうやって逃げるのかい?
     それなら卒業までこれ以上はお預けかな」

    「まっ、言う!言うから……!」


    ひしっと必死な様子で僕の腕を掴む司くんが可愛くて、もっといじめたくなってしまう。
    けれど、これ以上泣かれても困るので何とか堪えた。
    司くんは落ち着かない様子であちこちに視線を彷徨わせていたが、やがて決心したように口を開いた。


    「……オレも、先生のことが好きだ」

    「……ああ、嬉しいよ」

    「本当に、すごく好きだ
    好きで好きでたまらなくて、苦しくて……もう、どうすればいいのか、わからな……っ」


    司くんの腕が僕の首に絡みつく。
    信じられない、夢なら覚めてほしい、じわりと溶けた蜂蜜色の瞳はそんな彼の心境を物語っている。


    「たすけて……せんせい」


    掠れた声でそう乞われて、改めて実感する。
    これは本当に、厄介な病だ。
    熱に浮かされて、欲しくてたまらなくて、窒息しそうなほど苦しくて。
    この難問は数式では解けない。
    なぜなら、治療法はたった一つしかないのだから。


    「せんせ……っんん!」


    雛鳥のように少し舌足らずに僕の名前を呼ぶ甘えたがりな唇を塞ぐ。
    己でも抱えきれないほど育ってしまったこの想いを、言葉で何割伝えられるというのだろう。
    それなら心に触れるしかない、一番合理的で効率的だ。


    「……ちゃんと息を吸って。そんな呼吸の仕方をしていたら過呼吸になるよ」


    角度を変えて啄むたびに、もっともっと甘えられて、じゃれつくように唇を押し付けられると、酷使して疲れ果てた理性がいつ役目を放棄するか気が気ではない。
    とろとろに蕩けた眼差しで見つめられて、思わず降参だと両手を上げて跪きたくなった。


    「……これ以上、僕を悪い大人にしないでほしいな」

    「……先生は、悪い大人ではないだろう」

    「……悪い大人だよ。良い大人は、自分の教え子を本気で好きになったりなんかしない」


    この年になるまで本気の恋なんてしたことがなかったけれど、僕たちの関係が正常ではないことはわかる。
    それでも仕方がない、できる限りの努力をしても結局こうなってしまうのだから。


    「……好きになってごめんなさい」

    「……そんなことを言わないで。さすがに、傷ついてしまうよ」

    「ふふ、すまない。一応、先生を悪い大人にしてしまったことは謝っておこうかと思って。
     きっと……先に好きになったのは、オレの方だったんだ」

    「……さあ、どうだろう。僕もだいぶ前から、君には参っていたけれどね」


    いつから好きだったんだろう、ハーバリウムをもらったときか。
    いや、きっともっと前……あの雨の夜に二人で過ごした日から、僕の心の中には既に君がいた。
    気づいていなかっただけで、本当はあの時からこの感情は育ちつつあったのかもしれない。


    「……類」

    「……なんだい?」

    「これからは……そう呼んでもいいか?」

    「……いいよ、二人きりの時だけね」


    改めて問われると少し気恥ずかしい。
    たったそれだけでぱあっと笑顔になってぎゅうと抱き着いてくる彼は可愛くてたまらなくて、この子が僕の恋人になるのかと思うと、嬉しいやら感慨深いやらやっぱり各方面に申し訳ないやらで心の中がぐちゃぐちゃになってしまう。
    そんな僕の心情など露ほども知らない彼は、甘えるように頬を擦り寄せて、僕のシャツのボタンに指をかける。
    またぐらぐらと揺らぎ始める理性を叱咤して、僕はその小さな手を掴んで押し留めた。


    「こら、ダメだよ。そういうことは卒業するまでしないからね」

    「どうしてだ!!類とオレは、その……恋人、なのだろう?」

    「まさか恋人同士の愛情表現がそれだけだと思ってるのかい?
     肌を合わせなくても好きだと伝える方法はたくさんあるんだよ。
     そもそも未成年だとわかっていて手を出す大人なんてろくな人間じゃないからね?」


    キスをしてしまった時点で手を出していることには変わらないのでは?と正論で殴られると堪えるのだが、それは良識のラインの問題だ。
    身体目当てだなんて思われたくないし、彼の過去を思えばもっとゆっくり丁寧に愛情を育みたい気持ちもあった。


    「僕はもっと君といろんなことをしてみたいよ。もっと君のことを知りたいし、僕のことも知ってほしい。
     僕たちはもう、同じ秘密を守る共犯者だからね。禁断の恋もロマンチックでいいだろう?」

    「ふはっ、先生は思ったよりも夢想家ロマンチストなんだな……もっと現実主義者リアリストなのかと思っていた」

    「夢からはとっくに覚めたと思っていたのだけどね……もっとも、君とのことは夢で終わらせるつもりはないけれど」


    少し格好つけてそんなことを言ってみたら、本当に夢なんじゃないかと不安になってきた。
    けれど、腕の中にある彼の温もりがそれを紛れもない現実だと教えてくれた。


    「……好きだよ」

    「んん、るい、もういっかい」

    「まったく、何回言わせるんだい?子守歌ではないのだけどね」


    結局その日は、強請られるままに彼が寝落ちするまで愛の言葉を囁き続ける羽目になった。
    このたった四文字を口にするのさえまだ慣れない。
    けれど、いつか息を吸うように言えるようになるのだろうか。
    明日の、そして少し先の未来の僕たちはいったいどう変わっているのだろう。
    もしかしたら、生涯この熱病におかされ続けるのかもしれない。
    それでもかまわない、それはきっと、“幸せ”と呼んで差支えないものなのだろうから。


    ***
    あの日からまたひとつ、誰にも言えない秘密が出来た。
    誰にも言えない、内緒の恋だ。
    恋人としてお付き合いを始めるうえで、先生はいくつかルールを決めた。
    浮気と夜遊びは厳禁、先生の家に遊びに来ていいのは週に一度だけ。
    学校では関係を知られないように気を付ける、学生の本分を疎かにしない、家族に心配をかけないようにする等々。
    いかにも教師らしい、決まり事で雁字搦めの関係で……それでも、不思議と前よりずっと満たされていた。


    「不正解、やり直しだね」

    「うおー!なぜだー!」

    「ふふ、単純なケアレスミスだよ。もう一度ゆっくり計算してごらん。
     四則計算の間違えにくい解き方は前に教えただろう?」


    今日は週に一度、先生の家を訪れることを許された日だ。
    オレはその権利を行使して、数学の宿題を見てもらっていた。


    「出来たぞ!これでどうだ!」

    「……正解、よく頑張ったね」


    大きな手がくしゃりとオレの髪を撫でる。
    先生の手に触れられるのは好きだ。
    オレより少し骨ばっていて、皮膚の固い大人の男の手。
    先生とオレを隔てる年の差の壁を実感するとともに、この手に触れてもらえるのが自分だけなのだと思うと、なんとも言えない優越感を覚えて気分がいい。


    「まったく、労働時間外なのにこき使ってくれるね」

    「う、すまん……高校に入ってからずっと勉学に身を入れてこなかったからな。
     次のテストは頑張りたくて……」

    「ふふ、冗談だよ。教師が生徒の勉強を見るのは当然のことさ。
     君が僕を頼ってくれるようになって嬉しいよ」


    先生が手の甲で優しくオレの頬を撫でる。
    この甘い微笑みも、特別扱いも、先生の時間を独り占めできるのも、全部オレだけの特権で。
    本当はずっと、こういうものが欲しかったのかもしれない。
    身体の関係なんてなくても、オレ一人だけに独占させてくれるような。
    そんな世界にひとつだけの“特別”が。


    「……先生」

    「ん?」

    「オレ、きちんと出来ただろう?だから……その、だな」


    自分からこういうことを強請るのは、まだ少し恥ずかしい。
    先生だって、オレが何を言いたいのかはわかっているはずなのに、言葉にするまで絶対に行動を起こしてはくれない。
    悪戯っぽく細められた瞳に促されて、オレは仕方なく覚悟を決めて、消え入りそうな声で口にした。


    「……ご褒美とか、欲しいのだが」

    「……いいよ、君は特別にしてあげる」


    先生は少し意地悪に笑って、オレの額に軽くキスを落とした。
    どうせそんなことだろうと、わかってはいたのだが。
    どうしても、不満が顔に出てしまう。


    「……おや、不服そうな顔だね」

    「……わかっているくせに」


    拗ねるようにふいっと顔を背けると、先生はオレを宥めるように後ろから腕を回してきた。
    幼い子の機嫌を直そうとするような仕草が、余計にオレを意地っ張りにさせる。
    先生からすれば、オレなんてまだまだ眼中にないほどの子供で。
    先生が伝えてくれる“好き”の重さが、どうしてもオレが抱えている気持ちと釣り合ってないような気がしてしまうのだ。


    「……先生は」

    思っていても、なんとなく言ってはいけないんだろうなと思っていた言葉が、喉元までこみ上げる。
    もうこの際、拗ねたふりをして言ってしまえと、オレの中の悪魔が唆した。


    「……本当に、オレのことが好きなのか?」


    その一言を口に出した瞬間、部屋の温度が数℃下がったような気がした。
    これは何か、先生の気に障ることを言ったのだろうか。
    沈黙がやたらと痛い、言った傍から後悔して、何か別の話題を振ろうと口を開いたとき。
    ぐるんと視界がひっくり返って、気が付けばリビングのカーペットの上に押し倒されていた。


    「……まったく、人の気も知らないで……困った子だ。
     こんなに傍にいるのに、我慢するのも楽ではないのだけどね」

    「せんせ……っん……っ!」


    かぷりと首筋を甘噛みされて、ビクンと身体が跳ねる。
    ただでさえ体格がいいうえに五歳も年上の男の身体を押し退けるのはそう簡単なことではなくて、どんなに腕に力を入れてもびくともしなかった。


    「僕が君に手を出さずにいてあげているのは、君が僕の生徒だからなんだよ。
     君が無邪気に甘えてくるたびに、いつも僕がどんな気持ちでいるか、君は知らないだろう」

    「……そんなの、知らな……っ」


    前髪を掻き上げて、もう一度キスが落ちてくる。
    勢いで告白をしてしまったあの日から、先生が唇にキスをくれたことは一度もなかった。
    教師と生徒という壁は、今だオレ達の間に高く聳え立っている。


    「……愛情は、有り余るほどあるんだよ。
     今はまだ、全部はあげられないけれど……君が僕の生徒を卒業した、その時は」


    悪戯な指先がオレの唇をゆっくりとなぞる。
    たったそれだけの仕草で身体が痺れるような感覚に襲われて指先が震えた。


    「……壊れるくらい注いであげるよ。僕が抱えている想いの重さを、嫌というほど思い知ればいいさ」


    腹の下の方を撫でられて、ぐっと軽く押されると、ぞくりとした感覚が身体を走り抜けた。
    経験したことはあるし、何をどうするのかも、もう全部知っているのに。
    もらってくれるのなら、オレに与えられるものは何もかも捧げてしまいたいくらいだった。


    「……早く、卒業したい」

    「ふふ、焦らなくても自然とその時は来るよ。
     君に先生なんて呼んでもらえるのも今だけだろうしね……もう少しだけ、この関係を楽しむのも悪くないだろう?」


    オレの背中に腕を回して、先生はオレの身体を起こしてくれる。
    そのまますっぽりと、長い腕の中に包み込まれて、広い胸元に顔を寄せる。
    やっぱり、先生は大人だった。
    もどかしさも楽しめる余裕を見せつけられると、まだまだ追いつける気がしなくて少し面白くない。


    「どうにもならないことはわかっている……だが、その……もう少し、恋人らしいこともしてみたいというか」


    ダメだろうか?と捨てられた子犬のような目で先生を見つめてみる。
    駄々をこねて、困らせて、ますます子供っぽくて嫌になるが。
    先生は、きっと無下にはできないであろうことも知っている。


    「……少しだけだよ」


    先生はオレの横髪を耳にかけて、頬に手を添えると、そのまま軽く唇を押し付けた。
    ただ重ねるだけの、子供みたいなバードキスだったけれど、それでもようやく恋人らしさを感じられる触れ合いだった。


    「っ、司くん……」

    「……せんせい、もっと……」

    「……本当に、困った子だね」


    呆れたように笑いながら、それでも先生はもう一度だけキスをしてくれた。
    今は、これが限界なのだろう
    好きな人だから、ただ一緒にいられるだけで嬉しいのだが。
    どうしても、卒業の日が待ち遠しくなってしまうのは許してほしい。
    モラトリアムのキスを心に刻み付けながら、オレはゆっくりと瞼を下ろした。


    ***
    季節は巡り、先生と出会って二度目の春が来た。
    雲一つない快晴、絶好の卒業式日和だ。
    校舎を出た時には、もう空は茜色に染まっていた。
    堅苦しい式典を終え、新たな門出を皆で祝う。
    手の中にある黒い筒が、オレの三年間のすべてだと思うと、それがやけに重たく感じた。


    (……なんだか、不思議な感覚だな)


    今日で何もかも終わりだなんて、信じられない。
    もう数学準備室に行って先生に会うことはない。
    オレはもう生徒ではないし、先生もオレの”先生“ではないのだ。
    それでも、ちっとも寂しくはなかった。
    終わりは始まりだ……ずっとずっと我慢して、今日、ようやく始められる。


    「……ここにいると思ったよ」


    声がした方を振り返った時、春風が桜の花びらと共に薄紫色の髪を巻き上げる。
    ベンチとゴミ箱が一つだけおいてある殺風景な裏庭に、その人の姿はやけに馴染んで見えた。


    「……先生」

    「……卒業おめでとう、司くん。
     今まで、よく頑張ったね」


    大きな手がくしゃりとオレの髪を撫でる。
    大人になれば、こうして触れてもらえることも少しずつ減るのだろうか。
    この場所に捕らわれていることが煩わしくて、早く終わってしまえばいいと思っていた。
    それでも……いざ離れるとなると、ほんの少し惜しい気持ちもある。


    「……先生、この後ちゃんと空けてあるよな?」

    「もちろん、約束したからね……けれど、何も今日でなくてもよかったんじゃないかい?
     せっかくの卒業式だし、君も友人たちと最後の思い出を作った方が……」

    「いい……オレにとっては、先生が一番大切だからな」


    先生の背中に腕を回して、ぴっとりと身を寄せる。
    もう限界だ、これ以上待てない。
    それは、先生が一番わかっているはずだろうに。


    「……少し野暮用を済ませてくるよ。
     君は駐車場で待っていて、くれぐれも見つからないように、ね?」


    オレの髪に軽く唇を落として、軽く頬を撫でると、先生は踵を返して行ってしまった。
    こんな日でも、教師という立場上何かと忙しいのだろう。
    それでも、今日半日スケジュールを空けるために、仕事を前倒しで終わらせてくれたのを知っている。
    そういうところが、狡い。
    先生に言われた通り、駐車場の物陰に隠れるように座り込む。
    暇を持て余していたので、スマホを開いて、学校の前で友人たちと撮った写真をメッセージアプリの家族グループに送る。
    咲希はすぐに既読をつけて、可愛らしいペガサスのスタンプと、おめでとう!のメッセージを返信してくれた。
    連投される様々なスタンプを見て思わず笑いが零れた時、不意に足元が陰って思わず顔を上げた。


    「こんなところにいたんだね、少し探してしまったよ」

    「……先生、用事は済んだのか?」

    「ああ、万が一にでも邪魔をされないように、不安の芽を摘んできただけだからね。
     待たせてすまなかった、ほら、乗って」


    先生は手にした車のキーでロックを解除すると、いつものようにオレを助手席に促す。
    この車に乗せてもらうのは初めてではないのに、何故かいつも少し胸が高鳴る。
    ほどなくして走りだした車は、いつも歩いていた通学路を瞬く間に通り過ぎていった。


    「……そんなに熱心に見つめて、僕の顔に何かついているかい?」

    「いや、そういうわけではないんだが……先生の横顔につい見惚れていたんだ」

    「おや、可愛いことを言うね。両手が空いていないせいで抱きしめてあげられないのが惜しいよ」
     

    右にハンドルを切りながら、先生はそう言って微笑んだ。
    先生の車に乗せてもらうのは好きだ、隣を許されているのだと、実感できる。
    それに、こんなに長く横顔を見つめていられる時間もなかなかない。
    車はずっと順調に走っていたが、交差点で信号に引っかかってしまった。


    「ああ、僕としたことが失敗してしまったね。
     この信号、待ち時間が長いんだ」


    小さくため息をついて、先生はハンドルから手を離し、車のシートに背を預けた。
    軽く伸びをするその姿を見て、つい悪戯心が顔を出す。
    それに、小さな不安が後押しして、オレは先生のシャツの裾を軽く引いた。


    「……類」


    そう呼ぶと、先生は少し驚いたようにオレの方に視線を向けた。
    生徒でいるうちは、本来の名前で呼ぶことなんてほとんどなかった。
    けれど……本当はずっと呼びたかった。


    「……約束、守ってくれるんだよな?」


    信じていないわけではない、それでも、優しくて思慮深いこの人のことだから。
    この期に及んで、まだ最後までしないとか、君に負担をかけたくないとか、言い出すのではないかと。
    どうしても、わずかな不安が拭えない。
    類はそんな心を見透かしたように微笑むと、オレの肩に腕を回して軽く引き寄せた。


    「……もちろん。僕がどれほどこの日を待ち望んだと思っているんだい?
     君が僕の“生徒”じゃなくなるこの日を……まさか、今更怖気づいたわけではないだろう?」

    「……そんなはずないだろう。オレも、ずっと待っていたんだ。
     類が“先生”じゃなくなる日を」


    首元のネクタイを掴んでぐっと引き寄せると、勢いのまま唇が重なる。
    類の首に腕を回すと、同じように長い腕がオレの腰に回されて、よりキスが深くなった。


    「んん……っふ、あ……っ」


    類の大きな手がオレの腰をすりすりと悪戯に撫でる。
    その感覚にぞくぞくして、思わず身体が震えた。
    待ち時間の長い信号でよかった、一度こうなってしまうとなかなか止められない。
    ランプが青に変わるまで何度も唇を重ねて、類に軽く背中を叩いて促されるまで離れらなかった。


    「ふふ、そう焦らないで。君を可愛がるのはもう少しお預けだ。まずは夕食にしようか」

    「夕食?もしかして、また手料理を作ってくれるのか?」

    「いや、せっかく僕の生徒を卒業したからね。
     少し背伸びをした場所に連れて行ってあげるとしよう」


    先生は悪戯っぽく片眼を閉じると、車を発進させる。
    どこに連れて行ってくれるというのだろう、類からそんなことを言ってくれたのは初めてだ。
    まるでクリスマスイブの夜にプレゼントを待つ子供のような、ワクワクした気持ちが抑えられなかった。


    ***
    車は見覚えのない道をひたすら走り続ける。
    それから三十分ほど経って、先生が車を止めたのは小さなパーキングエリアだった。


    「少し歩くよ、おいで」


    車を降りると、類は優しく導くようにオレの方に手を差し出した。
    こういうところは、やっぱり“先生”だ。
    誘われるまま手を伸ばすと、そっと握られてやんわりと引かれる。
    類に先導されながら歩くと、華やかな音楽が鳴り響く路地にたどり着いた。


    「類、ここは?」

    「君には馴染みがあまりないかな。ここはビビッドストリート。
     ミュージシャンの卵たちが腕を磨く、賑やかな通りだよ」


    ミュージシャンの卵……道理で、歌ったり楽器を演奏している人がそこら中にいるわけだ。
    こういう活気に満ちた場所は慣れていないので少し臆してしまうが、類はなんてことないようにスタスタと歩いていく。
    手はずっと繋がれたままだ、夜とはいえこの通りは賑わっているし、オレはまだ制服を着ているのにいいのだろうか。
    一瞬、そんなことが頭を過ぎったが、すぐに思い直した。
    類がダメだと言わないのだから、きっと良いのだ。もう我慢はしない、そう決めたのだから。


    「着いたよ、ここだ」


    類が足を止めたのはレンガ造りの洒落た建物の前だった。
    雰囲気から察するに、喫茶店だろうか?
    表に店名を記した看板が置いてあり、木製の扉にはopenの札がかかっていた。


    (WEEKEND GARAGE……?)


    それがこの店の名前らしい。
    類は何度か来たことがあるらしく、慣れた手つきで扉を押し開けた。


    「いらっしゃい!あ、神代先輩!」

    「やあ、白石くん。久しぶりだね」

    「お久しぶりです!今日はどうしたんですか?
     そんな可愛い子連れちゃって!」


    明るい声で出迎えてくれたのは、コバルトブルーの髪の女性だった。
    類とは知り合いらしく、何やら親しげに言葉を交わしている。


    「今日はこの子の卒業祝いなんだよ。
     だから君のとっておきをお願いできるかい?」

    「はーい!わかりました!
     あ!神高の制服だ!懐かし~!」


    カウンターの奥のキッチンで手を動かしながら、その女性はオレを見て嬉しそうに声を上げる。
    ノリのいい音楽が鳴り響く店内は賑やかすぎてまだ少し慣れない。
    落ち着かない様子のオレを宥めるように、類はオレの髪を優しく撫でると、カウンターの方に視線を向けた。



    「彼女は君の四つ上の先輩だよ。瑞希の友人でね、この店のマスターさ」

    「マスターは気が早いですよ、先輩。父さんにはお前はまだまだだって、毎日しごかれてますから」                                                                                                                                        


    忙しく手を動かしながら、その女性は少し照れ臭そうに笑った。
    暁山先生の友人で、オレの先輩……四つ上だから同じ時期に学校に通うことは叶わなかったが。
    類が神山高校に在籍していたのが五年前だから、彼女は後輩ということなのだろうか。
    同じ学び舎で過ごした元生徒が目の前にいるというのは、不思議な感覚だった。


    「そういえば、ちゃんと自己紹介してなかったね。
     私は白石杏!君と同じ神山高校の卒業生で、一応、ミュージャンやってるんだ。
     君の名前は?」

    「天馬司です。る……神代先生の教え子で、今日卒業しました」

    「へえ~、司くんか~。よろしくね!」


    白石さんはそう言って朗らかな笑顔を浮かべる。
    そして忙しなく動かしていた手を止めると、オレの方に向き直った。


    「はい、おまちどおさま!いっぱい食べてね!」


    目の前のカウンターに白石さんがどんどん料理を並べていく。
    デミグラスソースで煮込んだハンバーグと、カリカリに焼いたジャガイモのガレット。
    優しい甘みが魅力のカボチャのボタージュに、色とりどりの野菜を使ったサラダ、レモンとライムの香りが爽やかな魚介のマリネ。
    いきなり豪華なコース料理がドドンとお目見えして戸惑ってしまう。
    これはもしかしなくても、かなり値が張るのではないだろうか……。


    「遠慮しなくていいよ!お代は君の先生にしっかり請求するから!」

    「白石くん、そういうことを言うと、余計に遠慮するんじゃないかい?」

    「あっ、そっか!」


    類と白石さんの気の抜けた会話を聞いて、自然と笑みが漏れた。
    少しリラックスできるようになったような気がする。
    好意を遠慮すると、類はいつも機嫌が悪くなるから、甘えさせてもらうのが吉だろう。
    先程から、美味しそうな料理を前に胃袋が悲鳴を上げている。


    「ありがとうございます、いただきます!」

    「うん!召し上がれ!」


    春野菜のサラダにフォークを入れると、類が少し顔を曇らせる。
    最初に手を付けるのがそれなのかい?とでも言いたげな表情だ。
    相変わらずだなと心の中で苦笑した。


    「そういえば、瑞希から聞いたよ。メジャーデビュー、決まったんだね。おめでとう」

    「ありがとうございます!でも、まだあの夜を超えるには力が足りないから、もっともっと練習しないと!」


    白石さんは意気込みを示すようにぐっと拳を握る。
    ハンバーグを口に運びながら、メジャーデビューという単語に内心ぎょっとした。
    これからプロになるなんて、何気にすごい人と知り合ってしまったのかもしれない。


    「それで、神代先輩とこの子って、どういう関係なんですか!?」

    「え!?」


    好奇心が抑えられないとばかりにキラキラとした目でそう尋ねられて、思わずむせてしまった。
    まさかそんなことをどストレートに聞かれるとは思わなかったのだ。
    ちらりと、隣にいる類の方を見やる。
    曖昧に誤魔化すのは心苦しいが、卒業したとはいえ、赤の他人に気軽に話していいものか。


    「大丈夫だよ。彼女の口の堅さは信用していい」


    オレの不安を見透かしたように、類は優しく微笑む。
    そして、オレの頬を手の甲で撫でると、ゆるりと目を細めて口を開いた。
     

    「そうだな……言葉で表すのは、少し難しいけれど。
     シンプルにまとめるなら……僕にとって大切な子、かな」


    大切で仕方がないものを慈しむような視線にドクンと胸が高鳴る。
    すり、と肌を撫でられる感覚がこそばゆくて思わず俯いてしまった。


    「ベタ惚れじゃないですか!
    司くん、真っ赤になっちゃって、素直なんだから~」

    「ふふ、可愛いだろう?彼は意外と初心だから、あまり苛めないでおくれよ」


    年上の二人に揶揄うようにそんなことを言われて、オレは照れくささを誤魔化すように最後に残っていた魚介のマリネを口に突っ込む。
    二人でも到底食べきれないのではと思っていた料理達は、予想に反してオレと類の胃袋の中に綺麗に収まった。


    「積もる話もあるけれど、今夜はそろそろ失礼させてもらうよ。
     この後、大切な用があるんだ」

    「そうなんですか。久しぶりにお話しできて楽しかったです!
     よければ、また二人で来てください!いつでも待ってますから!」

    「ふふ、ありがとう」


    類は白石さんに微笑みかけると、来た時と同じようにオレに手を差し出す。
    オレはその手を取ると、少し高めのカウンターの椅子から降りる。
    オレ達が店のドアを出るまで、白石さんはずっと手を振り続けてくれていた。


    ***
    『僕もシャワー浴びてくるから、寝室で待ってて』


    オレと入れ違いにバスルームに向かった類の背中を見送った後、オレは寝室の扉を開けて大きなベッドにダイブするように倒れ込んだ。
    枕を抱えてごろんと仰向けになる。
    ずっと胸がおかしいくらい高鳴っていて、どうにかなってしまいそうだ。


    『僕にとって大切な子、かな』


    先程の類の言葉を思い出すと、自然と口角が上がってしまう。
    自分でもどうかと思うくらい浮かれていた。
    好きとか、愛してるとか、類はいつも言葉にしてくれた。
    行為で伝えることができないから、オレが不安にならないように気を配ってくれていたのだろう。
    けれど、五歳もの年の差はどうしても些細な事とは言えなくて。
    大人の余裕を見せつけられるたびに、オレでは釣り合わないんじゃないかと思ったことも何度もあった。


    (それでも……大切と言ってくれた)


    互いの大切なものを守るために、この関係はずっと秘密にしてきた。
    外ではいつでも、ただの教師と生徒を演じて。
    好きな時に好きだと言い合うことさえ、許されなかった。
    けれど、今日初めて、類は人前でオレのことを大切な子だと言ってくれた。
    手を繋いで、頬を撫でてくれた。
    たったそれだけのことが、思わず舞い上がってしまうほど嬉しかったのだ。


    (ああ、まったく……この程度のことに振り回されている場合ではないというのに……!)


    類がシャワーを浴びて戻ってくるまで、あと五分とかからないだろう。
    そうしたら……初めて肌を重ねることになるのだ。
    我慢も覚悟も散々してきたはずなのに、いざその日を迎えると、いろんな感情が混ざり合って胸がパンクしそうだった。


    (し、深呼吸……とりあえず、落ち着かねば……!)


    大きく息を吸って、吐き出したとき、ガチャリと部屋のドアが開いて思わず飛び起きた。


    「司くん、すまない。待たせてしまったね」

    「……いや、大丈夫だ」

    「ふふ、可愛いね。緊張しているのかい?」


    類は首にかけていたタオルをその辺に放り投げてベッドに上がる。
    はっとする間もなく力強い腕に抱き寄せられて、頬が胸にぴっとりとくっつく。
    類はオレの髪に顔を埋めながら、心を鎮めるようにふうと息を吐いた。


    「……これ見よがしに僕の服を置いておいたのに、着てくれなかったのかい?
     少し期待したのだけどね」

    「自分の服があるからな……それに類の服はオレにはサイズが大きすぎるだろう」

    「ふふ、それがいいんだよ。僕の服に包まれている君を見ていると、とても気分がいいんだ。
     まるで、君がまるごと僕のものになったような気がしてね……袖が余っているのも可愛いし」

    「……類がそう言うのなら、次は着てやらんこともない」

    「ふふ、ぜひそうしてくれ。けれど、今日はこのままでよかったかな。
     どうせ脱がしてしまうし……じっくり堪能する余裕は、なさそうだからね」

    「っ、わ……!?」


    突然、視界がぐるんと回って、背中がぼすんと柔らかいベッドに沈む。
    押し倒されると同時に深く唇を塞がれて、呼吸を奪われた。


    「んっ、んん~~っ!」


    唇が重なると同時に舌を入れられて、ゾクゾクと身体が震える。
    ぬるりとした舌が絡まって、いやらしい水音を立てながら吸い付かれると、悶えるような快感が指先まで走り抜けた。


    「っは……んぅ、あ……っ」

    「っ、いい子……今日は簡単には寝かせてあげないから、そのつもりで、ね?」


    五歳年上の恋人が拒否権なんて与えてくれるはずもなく、いったいどうなってしまうのだろうと怯える隙すら与えられないまま、身体の中心を揺さぶるような熱に突き落とされるように溺れた。
    声が枯れるほど容赦なく愛でられて、いつまで意識を保っていられたのか自分でもわからない。
    それでも、間違いなく……十八年の人生の中で一番幸せな夜だった。


    ***
    「……ん」


    温かい、まるで遠い昔、母さんに抱き締められて眠った時のような幸福感が胸を満たす。
    この幸せを知っている。状況は、あの時とは全く違うのだが。
    ああ、もっとこの心地いい微睡に浸っていたい。
    だが、早く愛しい恋人の顔が見たい。
    二つの天秤はぐらぐらと揺れ動いて、わずかに後者に傾く。
    眠気に抗って無理やり瞼をこじ開けると、寝起き特有の少し掠れた色っぽい声がオレの耳に届いた。


    「……起きたのかい?」

    「……おきた」


    「ふふ、おはよう、司くん……僕も今起きたばかりなんだ。
     もう少し、君の可愛い寝顔を見つめていたかったのだけどね」


    温かい手のひらがオレの頬を優しく撫でる。
    ぼやけていた視界が少しずつクリアになると、金色の瞳が溶け落ちてしまいそうなほど甘く煮詰めた類の表情が目に飛び込んできて思わずドクンッと心臓が跳ねた。


    「るい……」

    「おや、もう“先生”とは呼んでくれないのかい?
     ふふ、昨日の君はとても可愛らしかったよ」

    「わ、忘れてくれ……!」


    不意に昨夜の記憶が戻ってきて、ぼふんと茹でダコのように首まで真っ赤になった。
    理性という理性が飛んでいたせいか、相当恥ずかしいことを口走ってしまったような気がする。
    こんな情けない表情を見られたくなくて類の胸に顔を埋める。
    すると類の大きな手がごめんねとあやすようにオレの髪を撫でた。


    「意地悪はこのくらいにしておいて……身体は大丈夫かい?
     あまり優しくしてあげられなかったから」

    「……腰が痛い」

    「だよねえ……すまなかった、今日は誠心誠意、君に尽くさなければね」


    案の定といった様子で苦笑した類が、申し訳程度に優しくオレの腰を撫でる。
    おそらく今日一日はベッドの上から動けないだろう。


    「……その、類があんなに激しいなんて、少し意外だった。
     いつでも理性的で、もっと淡白なものだと思っていたのだが……」

    「……いや、あそこまで理性が飛んだのは今回が初めてだよ。
     きっと、相手が君だったからかな」


    つい本気になってしまったよと笑う類の頬を軽くつねる。
    照れ隠しと、毎度こんな風に抱き潰されたらもたないからなという警告を込めて。


    「司くん、お腹は空いているかい?
     軽めのものでよければ何か作ろうか?」

    「……いや、いい。昨日たくさん食べたからな。
     それに…今は類と一緒にいたい」

    「……ふふ、本当に、僕の恋人は可愛すぎて困るよ。
     昨日はピロートークのひとつも出来なかったからね。
     今朝はもっと君を感じたいなと思っていたんだ」

    「るい……んっ」


    ちゅっと軽く触れるだけのキスをされて、反射的に目を閉じる。
    まるで挨拶のような軽い口づけだ、昨日とは全く違う。


    「……ダメだな、どうしても欲が出る。
     こうやって毎朝君とおはようのキスがしたいよ」

    「っ、そ、それは……その……」

    「ふふ、近々君のご両親を攻略するとしようか。
     本当は成人するまで待ってあげるつもりだったのだけど……どうやら僕がもたなそうだからね」


    こつんと軽く額を合わせて、類の大きな手にきゅっと両手が包み込まれる。
    こうやって、毎朝同じベッドで目覚めて、キスをして、おはようと笑い合って。
    そんな未来がすぐそばまで迫っているなんて、いったいどうすればいいのだろう。
    幸せすぎて正気を保てる気がしない。


    「……好きだよ。逃げるチャンスは散々あげたのに、君は僕を選んだのだから……もう離してあげないからね」

    「……オレも、類のことが好きだ。そんなこと、もう飽きるほど確かめただろう?」

    「ふふ、それもそうだね」


    ぎゅうと抱き合って、全身を巡る幸福感に思わずため息を漏らす。
    一年と数か月、教師と生徒から始まった関係を守り続けて、互いにどれだけ本気かなんてもうわかりきっている。
    オレが幸せに浸っている間、“先生”が少なからず罪悪感と自己嫌悪に苛まれていたことも。


    「……離さないでくれ、ずっと傍にいたいんだ。
     オレの我儘、聞いてくれるだろう?……先生」

    「……君ねえ、そんな状態で朝から襲われたいのかい?
     君さえよければ僕は一向にかまわないのだけど?」

    「ふはっ、それはさすがに勘弁してくれ」


    煽ってしまった自覚はあったが、いよいよ本気で泣かされる羽目になるのは困るのでキスで我慢してもらった。
    一向に覚める気配のない熱は、きっと生涯オレを苛み続けるのだろう。
    それでもいい、こんなにも幸福な病ならば、治らなくても構わない。
    結局そんな調子で昼過ぎまでベッドの上で触れ合って、これ以上なく怠惰で幸せな時間を過ごしてしまったのだった。

    epilogue***
    「ただいま~」


    一日の仕事を終え、自宅の扉を開けて帰宅を知らせる。
    だが、いつもならすぐに帰ってくるはずの返事が返ってこない。


    「類~?いないのか?」


    靴を脱いで揃えると、恋人の姿を探して名前を呼ぶ。
    リビングを覗くと、ソファの上で横になって目を閉じている類の姿を見つけた。


    「なんだ、寝ているのか……?」


    ソファの前にあるローテーブルには書きかけの論文が表示されたノートパソコン。
    近くにリモコンも置いてあったので、大方テレビを見ながら寝落ちしたというところだろうか。


    「まったく……こんなところで寝ると風邪をひいてしまうぞ」


    すうすうと穏やかな寝息を立てている類の頬を軽くつつく。
    帰ってきたら抱き締めてもらえると思っていたのに、少し残念だ。
    仕方がないのでその場にぺたんと座って、類の胸の上に顔を乗せる。
    規則正しく上下する胸元からはとくんとくんとわずかに心臓の鼓動が伝わってきて、心が落ち着いた。


    (……温かいな)


    もっと触れあいたい、キスがしたい。
    この状況で、一方的にするのは狡いだろうか。
    そう思いつつも我慢できなくて、類の唇に自分のを押し付けると、不意にぐいっと腕を引かれて心臓が飛び出すかと思った。
    急なことに力が入らず、そのまま類の身体の上に倒れ込む。


    「うおっ!?」

    「ふふ、随分可愛いことをしてくれるね?」

    「るっ、お前、起きてたのか……んっ!?」


    後頭部を押さえつけられて、もう一度唇が重なる。
    今度はただ触れるだけの生易しいものではなくて、もっと奥深くまで侵そうとするような深い口づけだった。


    「っふ、るい、くるし……っ」

    「ふふ、すまないね……君があまりにも可愛いものだからつい」


    ちゅっと頬に軽くキスをされて、髪を撫でまわされると、どうも子供扱いされているような気がしてならない。
    オレももうとっくに成人して、あの頃の“先生”と同じくらいの年になったのというのに。
    五歳年上の恋人にとって、オレはいつまで経っても可愛い生徒のままなのだろうか。


    「君の主演映画の舞台挨拶がテレビでやっていたから見ていたんだけれど……番組が終わった後、寝落ちしてしまったみたいだ」

    「ああ、もうやっているのか……ああいう場はまだ慣れんから、少し恥ずかしいのだが」

    「ふふ、確かに珍しく緊張していたみたいだね。
     けれど、とても格好良かったよ。さすが僕の恋人だね」


    真っすぐな誉め言葉と共に頬を優しく撫でられると、何だかくすぐったい気持ちになる。
    演劇を学べる大学を卒業し、オレは念願叶って役者としてデビューすることができた。
    まだまだ駆け出し中の若手だが、遅れた分を取り戻そうと必死に努力した結果、今回初めて主演の座を手にすることができたのだ。


    「映画も完成したし、これから少し長めに休みを取るんだろう?」

    「類が休め休めとうるさいからだろう。別にどこかを悪くしたわけでもないというのに……」

    「あんな激しいアクションシーンを何度もやっていたら身体がもたないよ。
     それに、最近ずっと仕事に君を独り占めされていたんだ。そろそろ僕の腕の中に戻ってきてくれてもいいだろう?」


    類の大きな手が慈しむように優しくオレの髪を梳く。
    恋人になってから分かったことなのだが、類は意外と独占欲が強い。
    先生と生徒だったときは、とても大人な人だと思っていた頃もあったのだが、仕事に明け暮れていると拗ねたり、他の男の話をしただけで腰が砕けるくらいキスをされたこともあった。
    同じ大人という立場になってみれば、意外と子供っぽくて可愛い一面も見えてくる。


    「休みの間は何をしようか、二人でデートをするのもいいけれど、いっそぶらりとどこかに旅行に行くのもいいね。
     ああでも、家でずっとこうして君を抱きしめながらだらだらするのも捨てがたいな」

    「ふはっ、どっちもやればいいだろう。ひと月も時間があればデートも旅行も行けるし、家で好きなだけだらけることもできる」

    「ふふ、そうだねえ……毎日君が一緒にいてくれるなら、それだけで幸せだよ」


    惹き合う様に、もう一度唇が重なる。
    強欲なのか無欲なのかわからない、相変わらず掴みどころがない恋人だ。
    けれど、これ以上ないくらい大切にしてくれている……その幸せは、オレも痛いほど感じているのだ。


    「……ねえ、今日久しぶりにシようか?」

    「ん……お前……最初からそれが目的だったな?」

    「心外だな、今日は本当に休ませてあげようと思っていたんだよ?
     けれど、君を抱きしめてキスをしたら我慢できなくなってしまったんだ」


    本当だよ?と何故か言い訳がましく再度口にする類を見て思わず笑ってしまう。
    恋人だから、別にそういうことをしたいと言ってもいいのに、一応気を遣ってくれているらしい。


    「……ベッド」

    「え?」

    「さすがにソファでやるのは勘弁してくれ、明日腰が立たなくなる」

    「ふふ、ベッドでもそれは変わらないと思うけれど?」

    「やかましい、まだスペースにゆとりがあるだけましだ」


    どうやら一切手加減してくれるつもりはないらしい。
    少し甘やかしすぎただろうか、今更少し後悔する。
    けれど、変に遠慮されるよりはずっといい。


    「お姫様抱っこしてもいいかな」

    「絵面的にきつくないか?」

    「ふふ、大丈夫だよ、可愛い可愛い」


    とっくに成人済みの男二人のお姫様抱っこのどこが可愛いんだと思いつつ、好きなようにさせてやる。
    身長差のせいか、映画のために体重を絞ったせいか、それとも単純に類が意外と力持ちなのか。
    どれが原因なのかわからないが、ひょいっと軽々持ち上げられて同じ男として少し物悲しくなった。
    そのまま寝室のベッドまで強制的に連行されて、これ以上ないくらい丁寧にシーツの上に下ろされる。
    ぐっとオレの身体の上に覆いかぶさる類の金色の瞳と目が合うと、どうしても心臓が縮み上がるような感覚を覚えてしまうのだった。


    「……こうやって君を見下ろすのは久しぶりだな。この体勢、君の全部が見えるから好きなんだ」


    ちゅっと前髪を搔き上げられてキスをされると、くすぐったくて思わず首をひっこめてしまう。
    こうやって類を見上げるのは久しぶりだ、類がいつもより格好よく見えるから好きだなんて、口が裂けても言えないのだが。


    「……類」

    「……なんだい?君は本当に僕を焦らすのが好きだね」

    「違う……今日、言い忘れていたのを思い出したんだ」


    服のボタンを外そうとしていたのを止められてわかりやすく拗ねる類に少し笑ってしまう。
    けれど、これだけは正気を失う前に言っておかなければ……照れくさいのだが、約束は約束なのだ。


    「……好きだぞ」


    ぎゅっと背中に抱き着いてそう告げると、ものすごく深い溜息を吐かれた、何故。


    「君ってさあ……ホント、そういうところだよね。やけに男心をくすぐってくるというか」

    「お前が言えと言ったんだろうが、なんだその微妙な反応は」

    「これが溜息を吐かずにいられると思うかい?僕は毎日胃が痛いよ」


    オレの二、三倍強い力でぎゅうううっと抱き締め返されると、さすがに息が苦しくて抗議するようにぽんぽんと背中を叩いた。
    一日一回必ず好きだと言う、このやけに恥ずかしい約束は前に類が『司くんって全然好きって言ってくれないよね。昔はたくさん言ってくれたのに、最近は僕ばっかり言っている気がするのだけど』とめちゃくちゃに拗ねたときに決められたものだ。
    いい年した大人が何を、と思わなくもなかったが、確かに言葉で気持ちを伝えるのは大切だし、こういう小さなことが円満な関係を築く秘訣なのだ、おそらく。


    「……僕も好きだよ、君の全部を愛してる」


    だから、全部ちょうだいなんて乞われたら、何もかも差し出してしまいたくなるだろう。
    ぜんぶあげたくて、ぜんぶほしい。
    心を奪われて、惑わされる、惑えば狂わされる。
    熱に浮かされて、深みに嵌って、もう逃げ出そうと思う気力すらない。
    これは、まるで病だ。
    難儀で厄介な、溺惑性の症候群シンドローム


    「好きだ、類……オレも、全部、あいしてる」


    病に侵されて、譫言うわごとのようにそれしか言えない。
    共に過ごす日々を重ねるたびに、どんどん症状が悪化しているような気がする。
    それでもいい、ずっとこの月と溺れていたい。
    身体を蝕む熱に火照る身体を抱かれたまま、目を閉じる。
    視界が夜に覆われる瞬間、耳元で囁かれた声に幸せを噛みしめた。

    溺惑性シンドローム
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