「で、相談なんだが……アー…」
ジョンと名乗った男は、けれども唐突に言葉を濁す。母音ばかりを発し、イライの頭から胸元まで不躾に視線をくれる。言葉だけでいうなら、先程の豪胆さとは裏腹な有様だ。
口には出しにくい話題なのだろうか。イライが首を傾げていると、男はやや罰の悪そうな顔をして口を開いた。
「クラークってさ、恋人いる?」
イライは青い瞳を丸めた。突拍子のない問い掛けに驚いただけではない。男の指に竦み上がったのだ。片側ふたつの指で円を作り、その中に人差し指を差し入れる……下世話なハンドサインだ。それが男の発した恋人という意味合いを明白に深めている。
鼻頭から頬へ、耳へと熱が広がっていく。その感覚を、イライはよくよくと自覚できた。急速に広がる血の色が、白い肌へ如実と現れていくことも理解できていた。しかし抑えることができない。こんなにも大胆な仕草を、大学という公的な場で目の当たりにするとは思わなかったのだ。加えて、イライは丁度彼との行為を望んでいる。それを指摘されたかのような錯覚にも見舞われて、顔中に広がった血の色は引くことを知らない。
「ア〜……や、実はさ」
言葉よりも如実に白状した赤い面持ちを見て、男は薄い笑みを口に浮かべた。微笑ましいというよりは呆れや苦笑に近いものだ。その面持ちの意図を察し、いっそう恥じらいを深めながらイライは目を上げる。今は羞恥よりも相談に意識を向けるべきだ。男も、これ以上は待てないらしい。イライの声での返答を待たないまま、その口は開き始めていた。
「二ヶ月前に恋人が出来たんだけど、まだ手ぇ出してないんだよ」
イライは僅か瞬きの間だけ、視線を横へと逸らした。恥じらいが募ったのは勿論、図星を突かれたような心地だったのだ。イライも同じように、数か月手を出されないままでいる。状況は似たようなものだ。
挙動の可笑しい心臓を悟られまいと、イライはフォークでレタスを刺しながら目を上げる。どうして? そう問いかける代わりの視線を男は汲み取ったのだろうか。はたまた、喉から溢れかえり口の中に収まりきらない言葉を留めておけないのか。その口は再び開かれる。
「そいつ、処女らしくてさ。めんどくさくて」
カツ。と、フォークの切っ先が皿に触れる。行儀の悪い軽やかな音だ。ほんの小さく零れ落ちた音である。この食堂に人は少ない。対面に座った男の耳など、その音の欠片とて拾ってはいなかったろう。けれどもイライは耳を澄ませた。音もなく体中を硬直させ、周囲を、眼前を伺った。その音こそが、己の胸の裏で転げ跳ねた心臓の音に違いなかった為に。
「処女って言ってもまあ男なんだけど……勘弁して欲しいんだよなぁ…」
男の声は殆どぼやきと言って正しかった。ポケットから取り出した携帯に目を落とし、舌を打つような口ぶりで声を紡ぐ。イライは幾度か、口を開こうとしていた。薄く開き、閉じて、また開こうとして、やはり止めた。何と言うことが正解か、まるで解らなかった。ああ、だとか、うん、だとか、そういった肯定に聞き取れる相槌を打つことは憚られた。かといって、否定を明確に口にすることなど出来なかった。否定や非難を口にして、この男に舌でも打たれたら、睥睨でもされたら、どうすればいいというのだろう。今、イライの目には、この男の目があの赤と黒の眼差しに見えて仕方がないというのに。
「最近じゃ珍しくもねえし、こういう店とかで慣らしてきてくれりゃ楽なんだけど」
男は言いながら、携帯をイライへと突き出す。不躾に差し出された液晶にはひとつのサイトが映し出されている。薄桃色の背景にきらびやかな夜景の画像が文字張られ、黒字にピンクなどで文字が記されたサイトだ。強調されている文字を見る限り、夜の店のサイトなのだろう。最も明白に映し出されている店名を虹彩に焼き付けられながら、イライは瞬きもできないままでいる。眼前に広がる小さな桃色の世界とは裏腹に、その場に立ち尽くすような、愕然とした心地が思考にまで広がり切っていた。
「でもさあ、初めてを大事にしたい~って奴もいるじゃん? よくわかんねえけど。色々話聞いた方がいいかなと思ってさあ」
液晶が遠のいていく。すげなく去っていった知りもしなかった世界を網膜に見ながら、イライは青い瞳で眼前をも映していた。瞼が一瞬だとしても下りることを許さなかった為だ。眼前に在る現実を受け止めるべきだと悲痛に叫ぶ鼓動がそれでも訴えた為である。
それだから、男が携帯を見下げていた視線をこちらへ擲つ様も、ほんの一拍は伺うようだった眼差しがすぐに呆れと億劫に移り変わっていった様も、ともすれば睥睨と言っても良いほどの目色と成った様も、全てありありと映し込んでいた。
「と思ったけど……クラークにはまだ早かったな。悪い、忘れていいわ」
男は言いながら腰を擡げる。一度差し向けられた視線はもう再び投げられることない。背を向け、手をぶらぶらと肩越しに揺らして、それきりだった。下品に足音を立て、大股で去っていく男の背が消えて、その足音すら失われる。厨房の調理音が微かに聞こえる静寂の中、カツ、と、軽やかな音が零れた。幾度か聞いた音だ。此度、それはカツ、カラ、カランと立て続けに落とされていく。音を立てたフォークは皿の上にも、どころか机上にもなく、床に転げ落ちていった。イライは仕舞いまで、それに目を向けることが出来なかった。震えの止まらない手が宙で揺れる。震えるように大きく脈打つ鼓動が聞こえる。網膜に焼き付いた睥睨が赤と黒の双眸を模り始めて、ようやく瞼が強く下りた。眼の縁が濡れた気がして、どうしようもなかった。