青の園I「夏の夜(洛竹視点) 人間たちが川辺の近くに暮らし始めてから、数年が経った。初めてみる人間たちは皆痩せて泥だらけ。軽羅の小扇も貂錦も持たない、詩経もよくは知らない素朴な農民たちだった。
古書に出てきた人間たちとは、随分違うな。風息は俺よりもよほど読書家だったから、始めは少し残念そうにしていた。
彼らには寒さから身を守る毛皮もなく、鋭い牙も爪もないけれど、代わりによく働いた。荒れた土地を耕し、朝から晩まで森を歩いて薪や食べ物を集めて暮らす。豊かな森は彼らにも等しく恩恵を分け与え、彼らもまた森を慕い森に尽くした。次第に妖精と人間の間にも、徐々に交流が生まれ始めていた。これはそんな頃の話だ。
風息が居ない事に一番最初に気が付いたのは、きっと俺たちだ。
「風息ってば、何してるんだろう。今日は竹笛を教えてくれるって約束なのにな」
「約束なのになあ〜」
唇を尖らせてぼやくと、のんびりとした天虎の声が重なる。風息は人間の所に行くと出掛けたきり、なかなか戻ってこない。天虎と羽根蹴りや駆け競べをしながら風息の帰りを待ったけれど、あんまりにも遅いから、今は野原に寝転がって、ぶうぶうと文句をこぼしている。
それにしても遅い。返景が黒々とした木々の間を真っ赤に染めあげて、今はもう二重緑色の空にぽっかりと白い月が浮かんでいる。正直もう目蓋が重たくなってきたけれど、文句の一つ位は言いたい。
森のあちこちに撒いた種霊を使って、風息の気配を探してみたけれど、風息の縄張りや、人里近くに撒いた種霊でも風息の行方を掴む事は出来なかった。
普段なら山を降りても、大抵日没までには戻ってくる。最近は集落で夕餉を馳走になる事もあるけれど、それでもこんな時間になっても戻らない事なんて、唯の一度も無かった。
次第に不安が大きくなっていく。風息は今何処で、誰と居るのだろうか。黄昏時を過ぎれば、森に漂う霊気は益々濃くなり、夜の森は妖精たちのものだ。もし森の中で人間と妖精が出会ったら、大変な事になるかもしれない。
虚淮に相談しようかと思って、迷った。虚淮は妖精が人間と関わる事にあまり良い顔をしない。風息の事を告げ口をするみたいで少し気がひける。
「……よし決めたぞ天虎。まずは俺たちで風息を探しに行こう」
「風息、探す」
同意、と天虎が肉球をあげる。夜の森はちょっと不安だけど、毎日風息や虚淮相手に手合わせしているし、天虎だって立派な虎の妖精だ。最近はあぐあぐと甘噛みされるだけでもそれなりに痛い。大丈夫。大丈夫だ。うんうんと頷き合う。
霊魚がいるだろう水辺を迂回して、誰にも告げず山を降りる。……後から考えれば、俺たちの行動なんて虚淮には筒抜けだっただろうけれど。
武器代わり、いやお守り代わりに棒切れを拾って、鬱蒼とした深い森をかき分け進む。初夏の森は夜でも生気に満ち満ちていて、月光に光る木の葉が揺れる度に、藪から大きな獣でも飛び出してこないかと心臓に悪い。駆け出したくなるのをグッと堪えて慎重に歩を進める。
暫く歩いて、峠に着く。ここを下ればいよいよ人間の集落が近い。意を決して進もうとしたその時、大きな橅木の枝から、だらりと垂れ下がった黒い尻尾を発見する。
「風息!」
弾かれた様に木に向かって呼びかけると、暗がりにはっと息を飲む気配がした。
「洛竹、天虎まで。どうしてここに」
少し掠れているけれど、やっぱり風息の声だった。緊張が一気に解けるのが自分でも分かる。幹に抱きつく勢いで駆け寄る。
「風息! どうしたの、怪我してない?」
「……そうか。探しにきてくれたのか。お前たちにまで、心配をかけてしまったな」
沈黙の後、大きく葉が揺れる音がして、目の前に風息が立っていた。それが青年の姿ではなく、大きな黒豹の姿だったから面食らう。
どうしたの、と問おうとすると、風息が突然ひくっ、と大きな吃逆をした。……同時に鼻先を掠めたこの匂いは。
「風息、酒臭い〜!」
天虎とほぼ同じタイミングで絶叫する。風息の立派な耳と尻尾が、申し訳なさそうに垂れ下がる。
「……畑を手伝った礼にと、酒を振る舞われた」
風息が重々しく語る。この土地に来たばかりの頃は酷く娯楽の少ない生活を送っていた人間たちだけど、最近は夜な夜な集まって酒を囲む事もあるそうだ。貴方もどうぞ、と注がれた白酒は、清水みたいに口当たりが良く、飲めば飲むほどふわふわと腹に温かいものが広がっていく。一日働いて喉も乾いていたから、一口、二口と夢中で杯を傾けた。美味い酒に、すっかり気が緩んでしまった。馬鹿な事をした、と思い出しながら風息が頭を抱える。
こんなに美味い酒ははじめてだ、と顔をあげた風息の鼻は黒々と濡れていたし、頭には丸い耳が二つ飛びでていた。
自分の変化が解けている事に、風息は村人たちの大きく見開いた目、それにあんぐりと開いたままの口をみてようやく気が付いた。やってしまった。頭が真っ白になる。
折角の杯をひっくり返して、そのまま逃げる様に集落から飛び出した。四肢で地面を蹴って、一匹の黒豹は森へ森へと駆けていく。
風息はそのまま森の住処に帰ろうとしたけれど、風息の正体を知った人間たちが後を追ってくるかもしれないと気が付いた。夕刻を過ぎた森に人が足を踏み入れれば、双方何が起こるか分からない。敵意を持った相手なら尚更だ。
迷って、森には戻らず見晴らしの良い大樹に登って様子を伺う事にした。ひんやりとした枝葉の間に身を埋めて、いざその瞬間が訪れたのなら、自分が何をすべきか、ずっとずっと考えていた。
「そ、それってまずいんじゃないの?」
「ああ、まずいな」
俺たちはきっと隠者や木樵の類だと思われている。人間に獣の姿を見られた事はまだ一度も無かった。古来より狐や虎が美しい女に化けて人間と交わる昔話は幾つも存在するけれど、大抵正体がバレたら酷い目に遭う。
どうしよう、どうしよう。俺と天虎があまりにもおろおそするから、それまで眉を八の字にして落ち込んでいた風息はかえって冷静になった様だった。安心させる様に俺の頭を撫でた。
「大丈夫だ。俺が、彼らと話をしてみるよ。何もしなければ、こちらからは危害を加えないと約束する。二度と互いに関わらない様にすれば良い」
その時、暗闇に鬼火が一つ、ぽつりと現れた。一つ、また一つ。緋色の光は、ゆらゆら揺れながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。鬼火なんかじゃない、あれは提灯の灯りだと気が付く。風息は俺と天虎を抱き抱えて、再び橅木の枝に登った。
相手が武器を持っていたらどうしよう。心臓の音がうるさい。息を殺して、相手の出方を伺う。
ふと、違和感を覚えた。提灯の光は、ふらふらと揺れて妙に覚束ない。それに風に混じって聞こえてくるのは、殺気とは程遠い能天気な明るい声だ。
「酒だ、酒だあ。おーい誰か、一緒に飲まないか。美味い酒だぞお」
ついに峠まで人間たちがやって来た。明るい提灯に照らされたその姿を見て、思わず絶句する。村人たちの顔は、桑の実を潰して塗りたくって、鼻の上まで真っ黒だった。それに頭には葉っぱを二枚、蔓で巻いて、動物の耳みたいに立てている。その姿はほんの少しだけ、風息に似ていた。それに風息と一緒で、ぷんぷんと酒臭い。
「ああ、みんな酔っ払ってるからこんな姿だ。これでは宴に豹が混じっていたって、誰にも分からないな」
「そうだそうだ。これはこの土地の水と大地で作った、みんなの酒だ。だから、みんなで飲もう。またいつでも飲みに来い〜」
酔っ払いたちは、峠に何かを置いてから、また今来た道を戻っていった。高らかに歌を歌いながら。俺たちは呆気にとられたまま、その姿を茫然と見送る事しか出来ない。
「ええっと、大丈夫なの……かな?」
再び静寂が戻ると、ようやく喉から声が出た。橅木から下りてみると、そこにはずっしり重たい酒壺と、何故か鳩麦や小豆の匂いがするお茶や果物。
それを眺めた風息が、どんな表情をしていたのかは分からない。ただ、くく、と押し殺した笑いが漏れた。
「……今宵は大丈夫だろう。さあ、帰ろうか」
「うんっ。ねえねえ風息、俺も酒飲んでみたい〜!」
「お酒」
「二人にはまだ早いよ。大人になったら、皆で酒を飲もう。勿論虚淮も一緒にな」
月光が照らす森を今度は三人で歩いた。いつか起こる悲劇の予兆など何一つ無い、優しい月夜だった。