青の園Ⅱ「冬の朝(モブ視点、天虎と风息) 私が生まれたのは、深い森に覆われた山間にある小さな村だ。祖父からは、ここは神様の住う土地だと教えられてきたけれど、そんなの昔話だ。皆が神様の事を思い出すのは、今はもうお祭りの時くらいで、勿論私は神様を見た事なんて無い。
東の空が白む頃、私は布団に包まったまま、姦しい鶏の鳴き声を聞いている。カンの上に布団を敷いているから、寝台はぬくぬくと温かく離れがたい。
あと五分、いいえ十分。ようやく決心して、えいと体を起こすと腊月の寒さに身震いする。井戸から汲み貯めた水で顔を清めると、指先が千切れそうな程冷たい。
朝餉の支度は、私の仕事だ。竈門に乾燥させた果樹の枝を放り投げて、鉄鍋に湯を沸かす。粥を炊くのと一緒に魚と野菜も蒸してしまう。
私の母はとても料理が上手だったらしいけれど、私は母に似なかった。魚はすっかり硬くなって青菜はしなしな、なのに粥は芯が残って硬い。
「上手くいかないなあ」
一口味見をして、その出来栄えにため息を零す。
その時、窓の外からガサガサと葉っぱが揺れる音がして、あぁまただ、と思った。
台所の外には、裏山へと続く竹藪があって、昼間でも薄暗い。台所で炊事をしていると、乾いた笹と笹の間から、何かがじっとこちらを覗きこんでいる様な、そんな気配がする。小さい頃から、度々ある感覚だった。
私はじっと目を凝らして竹藪を睨み返すけれど、こんもりと盛り上がった笹の間で動くものは何も無い。……熊とかだったらどうしよう。私が大きくなって食べ頃になるのを待っていたりして。
「ねえお爺ちゃん、あの竹藪には化物がいるよ。今度爆竹を投げて脅してみよう」
「お前はなんて事を言うんだ。何か悪さをされた訳じゃ無いだろうに」
鶏の世話を終えて戻ってきた祖父と、二人だけの朝餉を囲む。産みたての卵がねっとりと甘くて嬉しい。
この家で、私と祖父はたった二人で暮らしている。私が今より幼い頃、母は流行病であっという間に亡くなってしまった。母の事はあまりよく覚えていないけれど、俺がもっと裕福だったら、大きな村の病院まで連れていけたなら、母さんを助けてやれただろう……、と悔しそうに背を震わす父の姿を、何度も見てきた。
母を亡くしてすぐ、父はこの村を離れてしまった。今は遠くの街で出稼ぎをしている。春節の頃には会えるだろうか。
「大体爆竹だなんて、どこで覚えてきたんだ。いいかい、この森には昔からね……」
卵をかき混ぜながら、はいはい、と祖父のお説教を聞き流す。どうせいつもの様に、俺は神様と一緒に酒を飲んだ事もあるんだぞ、なんて出鱈目を言い出すに決まっている。
本当に神様が居るのなら、お母さんの事を助けてくれれば良かったのに。どうしてうちには父さんも母さんも居ないの。貧しく寂しい生活の中で、時折そんな不満を覚えた。
そんなある日の事だ。事件は突然起こった。
その日私は、干し肉を作る為に、塩と香辛料に漬けた兎の肉を軒先に干していた。プルプルと爪先立ちになりながら、なんとか重たい肉を順番に干していく。
ふと何かの気配を感じて後を振り向くと、家の影から、スッと縞縞模様の、毛だらけの腕が伸びてきて、まさに今、干してある肉に触れようとする寸前だった。
私があっ、と声をあげると、縞縞の腕も驚いた様にざっと毛を針みたいに逆立てた。
次の瞬間、ドスン! と家ごと揺れる様な地響きが周囲に響く。私は堪らず悲鳴をあげて、その場に蹲る。その間にも、ドスン! ドスン!と大きな地響きを響かせながら、とてつもなく巨大な何かが、裏山の方へと逃げていった。
「おい、一体何の音だ」
「大変お爺ちゃんお爺ちゃん、化物が出た!」
家の中で籠を編んでいた祖父が慌てて飛び出してきて、私は祖父に向かって半狂乱で叫んだ。その後、何度も何度も周囲を見渡したけれど、辺りはすっかり平穏を取り戻し、変わった事は何も無い。祖父が首を傾げる。ふと並んだ干し肉を見て、呆れた様に呟く。
「お前、もう少し均等に干さないか。これじゃあ肉がしっかり乾かないだろう」
その後友達の皆にも同じ話をしたけれど、誰も私の話を信じなかった。皆、どうせ白昼夢でも見たのだろうと笑う。
私はどうしても納得できなくて、ついに決意した。もう一度あの化物に会うんだ。化物を捕まえてみせれば、皆だって信じるしかなくなるだろう。
遊びに行ってくると告げて、大きな籠を背負って家を出る。遅くならない様にな、と叫ぶ祖父の声を背中で聞き流して、勇み足で山へと向かう。あの大きな化物が消えていった方角を目指して進んだ。
硬く凍った雪で足を滑らせない様に気をつけながら、半日は雪に埋もれた木々の間をうろちょろして手掛かりを探した。けれど、これといった成果は見当たらない。
冬の日暮れはあっという間だ。夕暮れが雪原を一面桃色に照らして眩しい。もう帰らないと、と思ったその時、視界の端で何かが揺れた。
よくよく目を凝らすと、枯れ木の間を、大きな竹籠を背負った男が歩いているのが見えた。古い籠に古い着物。だけど足取りは軽く、ひょいひょいと木の根を跨いで軽快に進んでいく。
誰だろう。あんな格好の人、村で見た事がない。
気がつけば、その背中を追いかけていた。雪に残された足跡を頼りに、足跡を踏んづけながら進む。、周囲はすっかり暗くなり、村からどんどん離れていくのが分かったけれど、今更一人ぼっちで真っ暗な山道を引き返す事はとても出来なかった。
他人の歩幅に合わせて歩く事は、想像以上に時間を要し体力を消耗させた。歩きなれた山道の筈なのに、葉を落とした裸の木々はどれも同じに見えてしまう。次第に自分が今何処に居るのかよく分からなくなっていく。泣きそうになりながらも、歯を食いしばって残された足跡を頼りに、男を追いかける。
どれくらい歩いただろうか。私はついに男に追いついた。
木々が途切れた広い場所に出たかと思えば、暗闇にぽつんと焚火の橙色が浮かんで、四、五人の大人が集まって炎を囲んでいた。
揃いも揃って、奇妙な集団だった。全員が古めかしい着物を着て、それぞれが赤や黒の、京劇で使う様な色鮮やかな面を被っている。大きな竹籠を下ろして、今は焚火で掌を温めている男の顔が、ようやくはっきりと見えた。何故か男は、パンダを模した大頭頭を被っていた。
あんなヘンテコな人達、勿論村には居ない。旅芸人だろうか。だけどこんな山奥で、お祭りの日でも無いのに。勿論笛の音も艶々光る山楂の飴売りも周囲に見当たらない。
もしかして、化物の仲間かも。ずっと寒さで縮まっていた心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
男達は、炎の上に大きな鍋を吊るしていた。肉も茸も山菜も、ああ、あんなに沢山! 湯気のたつ鍋の中で、ぐつぐつと美味しそうに煮えている。凄い御馳走だ。
ぱちぱちと音をたてて燃える炎はどんなに温かいだろう。肉が煮える良い匂いがこちらまでぷんと漂ってきて、もう我慢出来なかった。化物探しなんてもうどうだって良いから、せめて少しでも焚火で温まりたい。気が付くと私は、自分でも意識しないまま、ふらふらと男達の方に向かっていた。
ざくりと、雪を踏む音に大頭頭を被った男が気がついて、視線がかちりとあった。瞬間、黒で縁取られた両目がギョロリと剝く。ぶるぶると唇が震え、そして大きく開かれた口から、黄色い牙や鮮やかな喉彦までもがはっきりと覗いた。
「人間だ!」
男がそう叫ぶと、他のお面達も弾かれた様に一斉にこちらを向いた。精巧なお面だと思っていた男達の顔が、どれも驚愕に歪む。私達は、互いに悲鳴をあげた。
「人間が何をしている! お、俺達の事をここから追い出そうっていうのか!」
「助けて風息! 誰か風息を呼んで!」
阿鼻叫喚が響いたその時、凍てつく雪まじりの風が強く吹いて、焚火の火をかき消した。視界が真っ暗になったかと思えば、びょうびょうと雪まじりの暴風に遮られて、今度は何もかもが真っ白になってしまう。何も見えない。聞こえない。私は恐怖のあまり、その場にへたりこんで動けなくなる。
「お前達やめないか、相手はまだ子供だろう」
雪の嵐に紛れて、低い男の声が響いた。声は続けて問う。
「……お前、ーーの娘だろう」
男が口にしたのは、祖父の名前だった。聞き慣れた名前に、私はようやく少し正気を取り戻した。慣れ親しんだ響きは酷く懐かしく、思わず涙がこぼれそうになる。
「お、お爺ちゃんを知っているんですか」
私がそう言うと、お爺ちゃん、と平坦な声が繰り返した。沈黙が流れる。
「……成程、私も歳をとるわけだ。どうする風息。お前が決めろ」
低い声が風息、と問いかける。すると今度は、少し若い男の声が答える。
「……村に送る。虚淮、皆の事は任せた。ああ天虎、お前はついて来てくれ。この子供の事、よく気にかけてただろ」
その声に応じる様に、突然風が止んだ。次に目を開くと、怪しい男達は跡形もなく姿を消していた。静寂を取り戻した森の中には、私と、そして見知らぬ青年だけがそこに居た。宙を舞う雪片だけが、先程までの名残みたいに、きらきら月光を受けて光っている。
青年は古めかしい紫紺の装束を纏っていたけれど、獣の頭も腕も持たない、人間の姿をしていた。その事が、何よりも私を安心させた。あんまりに安心して、本当は青年に縋りついて泣いてしまいたい位だったけれど、私を見下ろす青年の目はしんと冷たく、それを躊躇させた。
「……天虎、何故出てこない」
青年が、私では無くもっと向こう側、森の方に向かって問う。すると暗闇の中から、青年よりもさらに若い、柔らかな子供の声が返ってきた。
「……怖がせるから、離れてついて行く」
「……分かった。おい、立てるか。いいか、決して後ろを振り向くな。約束が守れるのなら、お前を人間の村まで送り届けよう」
青年が今度は私を見下ろして告げる。有無を言わせない冷淡な物言いに怯みながらも、私は必死で頷いた。今この人に見捨てられたら、このまま山を彷徨い続け凍え死んでしまうと直感で理解していた。
「こっちだ」
背を向けて歩き始めた青年の後ろ姿を、慌てて追いかける。
暫くすると、どんどん、と大きな足音が後ろから聞こえてくる。とても大きな何かが、一定の距離をおいて後ろからついて来ている様だった。初めはあれ程化物を見つけてやると張り切っていたのに、恐ろしい出来事を経験した今では、もう何もかもが恐ろしい。今すぐにでも駆けて逃げだしてしまいたいのを、必死で堪える。寒さではなく、恐怖で歯ががちがちと鳴る。
「……あまり怯えるな。お前が凍えない様に、帰路を照らしてくれるのは彼だ」
私の様子を見て、青年は諌める様に言った。言われて意識してみると、確かに周囲はいつの間にか真昼の様に眩しく、乾いた暖風が寒さに悴んだ体を指先まですっかりと温めてくれていた。後ろから大きな角灯でも吊るしているのだろうか。それにしても、どうしてこんなにも暖かいのだろう。気にはなったけれど、後方を振り向く勇気はない。不思議だ。不思議な事ばかりが起こる。
温かさは、私に少しずつ活力を取り戻させてくれた。段々周囲に気を配る余裕も出てきて、ふと少し離れた木の影から、じっとこちらを見つめる双眼が光っている事に気が付いた。ひっ、と小さな悲鳴が反射的に漏れる。
「あの、あの木の影に何かがっ」
慌てて青年に告げる。青年は木の方を見て、ああ、と平坦な声を漏らした。
「ただの狐じゃないか。見た事位はあるだろう」
「近くで見るのは、初めてです」
「……ここ数十年で随分と数が減ったからな。好奇心が強いから、何事かと見に来たんだろう」
早くおかえり、と青年が暗闇に向かって呼びかけると、確かにふわふわとした焦げ茶色の尻尾が闇の中に消えていくのが見えた。その後も狐だけではなく、色んな動物が代わる代わる、まるで私達の事を見に来ているかの様に、道中に現れた。青年は饒舌ではないけれど、私が尋ねる事にはきちんと答えてくれた。初めてみる動物も多く、真冬の山にこんなにも生き物がいるのかと驚く。
「知らない事ばかりなんだな。 お前本当にーーの孫か?」
青年が呆れた様に言う。
「お爺ちゃんの事を知っているんですか」
「よく知っているよ。ーーもよく山奥にまで迷い込んで来たからな」
青年は祖父よりもずっと若い筈なのに、まるで見てきたかの様に語るからおかしかった。
山に関する事で、青年に知らぬ事はなかった。この地に暮らす生き物や植物、彼が語る言葉はまるで御伽噺の様で、どれも優しくて美しかった。同じ様に彼の口から語られる、祖父や母の事を少し羨ましく感じた。
「お前の母親が祭の時に作ってくれた栃餅があまりに硬くて、洛竹の乳歯が抜けた」
「嘘、お母さんは料理上手だったよ、って父さんいつも自慢していたのに」
「練習したんだよ」
青年がなあ、と私の後方に向かって投げかけた。すると後ろから、返事の代わりに笑い声が返ってくる。その笑い声が本当に愉快そうで、誇らしげで、どうしてか私は胸がドキドキとしてしまった。
見慣れた峠までついに戻ってきた時、私は嬉しくてまた泣きそうになった。
不意に煌々と周囲を照らしていた灯りが消えて、夜の闇と冷たさが戻ってくる。暗闇の中には、まだ二人の気配が近くあったけれど、もう別れが近い事をどうしてか私は悟った。
「あのっ、いつも竹藪から私の事を見ていたのは、貴方ですかっ」
別れる前に、ちゃんと伝えないといけない。前を向いたまま、青年と「天虎」に語りかける。ぎゅっと拳を握ると、心臓がドクンドクンと脈を打つ。
「化物なんて酷い事を言ってごめんなさい。助けてくれて、本当に有り難う」
良かった、言えた。安堵に大きく息を吐く。ドキドキしながら、ずっと耳を澄ませて返事を待ったけれど、子供の声が返ってくる事は無かった。どう答えれば良いのか、迷っている様にも思えた。
「……天虎は沢山悲しい思いをしてきた。すぐには答えが出せないみたいだ。待ってやって欲しい」
返ってきたのは、青年の声だった。分かりました、と震える声で返事をする。すると初めて、青年が微笑んだ気がした。青年の大きな掌が、私の頭を撫でた。
「ありがとう」
さようなら、とその声を聞いたのが最後だった。不意にミシミシと何かが軋む音が乾いた音が聞こえて、私の頭を優しく撫でてくれた筈の青年の掌が、黒々とした木の根に変化する。木の根は、なお軋んだ音をたてながら爆発的に成長し、あっと言う間に視界が遮られる。叫び声をあげる間もなく、私は気を失っていた。
同じ頃、私が行方不明になった事は、村でも大変な騒動になっていた。隣の主人に担がれて山の中まで探しに出ようとした祖父が、峠にある橅木の枝の間で眠っていた私を見つけたそうだ。私は枝葉にたっぷりと包まれて、寒さに凍える事も無く、ぐっすりと眠っていたらしい。家に戻ってから、何があったのかと皆から尋ねられたけれど、今度は誰にも話さなかった。
それからは、本当にあっという間だった。あっという間すぎて、私には何が良い事で悪い事なのかも、分からないままだった。
山を幾つも越えた街の方から、重機を積んだ大きな車が何台もやってきて、山の木を切り倒し、土を削った。次々と新しい道路が作られて、丁度その頃から、原因不明の事故が多発する様になって、村の開発に反対する一部の村人と業者の間では酷い抗争が何年も続いた。死者こそ出なかったものの、ピリピリとした空気は私達子供にも伝わってきた。
しかしある日を境に事故は突然ぴたりと止んで、何事も無かったかの様に開発は再開された。そこからは、もう誰にも止める事は出来なかった。線路が開通すると、沢山の人が行き来する様になって、家も店も爆発的な勢いで増えていく。祖父はすっかり落胆して、無気力になってしまった。
今では、あの竹藪も峠の橅木ももう無い。生活は豊かになって、私は井戸汲みも薪集めももうする必要が無くなった。幼い頃から慣れ親しんだ場所が消えてしまうのは寂しかったけれど、父が村に帰ってきて、ずっと一緒に過ごせる様になった時は、やっぱり嬉しかった。
それから数年が経ち、私は婚姻を機に村を離れた。私は幼い頃に母を亡くし、兄妹も居なくて随分と寂しい思いをしたから、生まれてきた子供達が誰も離れ離れになる事なく、健やかに育ってくれる事が何よりも嬉しかった。少しずつ良い時代になっていく。そう信じる事しか、出来ない。
あの日から、青年も、不思議な男達も、二度と姿を見せなかった。
あの冬の日に出会った彼らは、神様だったのだろうか。
答えは分からない。分からないけれど、あの森を失くしてしまった時、私は同時に、私達家族の事を見守り、そして母を悼んでくれた誰かを失ってしまったのだと直感した。私は母を、そして祖父をもう一度失ってしまった様な気がして、胸が痛んだ。
ごめんなさい、いつも見守ってくれていてありがとう。
今でも時折、思い出しては一人呟く。返事は未だ返ってこない。