青の園Ⅲ「迷い子の鈴/夜に蠢くもの(虚淮視点、虚淮と风息)」 故郷を去ってから、数十年の月日が流れた。あてなき旅路の中で、美しいと思えるものにも、醜悪なものにも多く出会った。放浪に果ては無く、私達は失ったもの、残されたものにも未だ名前をつけられずにいる。
旅の途中で出会った妖精の話を頼りに辿り着いた地だったが、全く期待外れだった。かつて龍が住うとされた豊かな水源は工場からの排水で濁り、美しい森は、故郷を離れ寄り辺ない者たちが集う、歪に積み重なった街と化していた。曇天の下を、物売りの自転車が土煙をあげながら駆け抜けていく。
人間が暮らす街では、若い男が昼間からふらふらと出歩けば悪目立ちするものだが、この街では誰もよそ者ばかりなので他人への関心が希薄だ。その点に限れば、私達にとって都合が良かった。露天で汚れた古着を選んで買い揃えて、長い髪も尖った耳も大きな帽子ですっぽりと覆ってしまえば、やや不健康そうではあったが、人間にみえない事もない。街で妖精として振舞う事が禁忌とされていた。
しかし、ここには妖精が命を育む様な森も泉もない。束の間体を癒す場にもならない。私達がここに留まる理由は、もはや何も無かった。
「水源の方まで見に行こうぜ。種霊を撒いておけば、いつか誰かが見つけるかもしれない」
洛竹と、彼に竹籠で背負われた天虎は、落胆しながらも未だ諦めきれぬ様子で風息を強引に引っ張って水源の方へと向ったが、私は街に留まった。水流を辿れど、霊気の欠片さえ見つからない事はもう分かっていた。何より、水辺に近寄って淀んだ水の気に触れる方が良くない。
私は着実に弱っているのだろう。満足に気を構築出来ない体は気怠く、思考は酷く散漫で目蓋が重くて仕方がない。人目を避ける様に雑踏を彷徨い、暗い路地裏に腰掛けてつい一時、目を瞑る。
それは束の間の瞑想に過ぎなかったが、次に目を覚ますと、見知らぬ女がぬっと顔を近づけてこちらを覗きこんでいたのだから、白状すれば驚いた。無論人間が接近してくる気配に全く気が付かず、呑気に眠りこけていた自分の間抜けさに対してだ。
私達はどちらも黙ったまま、しげしげと互いを眺めた。日に焼けた肌に幾重にも刻まれた皺、曲がった腰。七十年ほど生きた人間だろう。肉刺が潰れた両の手に武器の所持は無く、殺気の気配も無い。物盗りか、と私は思った。
「生憎文無しだ。金の無心なら風息か洛竹に頼む」
「違う、違うのよ。私はただ……を探していて……。そうしたら、貴方が倒れていたから……。ねえ、こんな所に居たら駄目。人攫いに遭うわよ……」
ボソボソ、と口の中で女が呟く。聞き取り辛い声だ。随分親切な物盗りだな、と思っていたら突然女が眉を寄せた。
「貴方、酷く顔色が悪いわ。それになんて冷たい手」
「生まれつきだ」
「家にいらっしゃい。体を温めないと」
のそのそ、と女が立ち上がって何処かに向かう。私に構うな、と曲がった背中に投げかけたが、女が振り向く事は無かった。聞こえていないのかもしれない。
女に従った事に、明確な理由はない。女からどこか懐かしい気配を感じたからかもしれないし、単純に、物盗りに邪魔をされずに眠れるならここよりはましだろう、と考えたからかもしれない。
目的地にはすぐ着いた。今にも崩れそうな古屋の扉をくぐると、中は夥しい物で溢れかえっていた。シミの浮いた古着に埃を被った古い電化製品、まだ新しい子供の玩具に白黒の家族写真。価値がつく様な物は何一つなかった。古くなって捨てられて、誰にも省みられない物ばかりがそこに横たわっていた。
床の物を踏まない様に、クッションで埋もれていた椅子をみつけて座る。チリン、と軽やかな鈴の音が聞こえて、気が付くと足元に金色の鈴をつけた白い猫がいた。これだけは、ちゃんと生きていた。
「……私も人間が捨てたものに埋もれて暮らした頃があったが、あれは心底不愉快だった。お前も少しは片付けた方が快適だろう」
「お腹は空いているかしら? 昨日のスープがまだ残っている筈だけれど……」
女が暖炉をつけて、鍋を温める。痩せた魚の骨と僅かばかりに身が浮いた、濁ったスープをこちらに差し出す。水も魚も酷いもので、生臭さを誤魔化す為にふんだんに盛られた香辛料が鼻を刺激する。それでも、白い湯気をたてたそれは、飢えた子の腹を満たし温めるものに違いなかった。私は眉を顰めて、ようやく一口舐める。大層無作法な客だが、それでも女は安心した様に顔を緩ませた。
「貴方の瞳は綺麗ねえ。ねえ、ここの人じゃないでしょう。何処から来たの?」
どうせ聞こえてはいないだろうと思いながら、龍游、と正直に答える。何か返事を期待していた訳では無かったが、女はまぁと呟いて目を丸くした。
「私の父も龍游の生まれよ。開発が進んで農家で食べていけなくなったから、村を出たの。だけれど、結局貧しいままで亡くなってしまった。最後には帰りたいと泣いていたわ」
「そうだろう。あそこは楽園だった」
水底にいるかの様な、静かな時間が流れる。猫は小骨を狙って足元で暫くニャウニャウ鳴いていたが、諦めたのか棚の隙間に丸まって居眠りを始めた。温かな部屋、白い湯気の向こうに、かつての故郷の情景が浮かんでは消えていく。
遠くから、微かに鈴の音が聞こえた。するとそれまで椅子に腰掛けたまま微睡んでいた女がスッと立ち上がり、真っ直ぐに玄関の戸を開いた。扉の向こうには、金色の鈴をつけた真っ黒な猫がもう一匹現れて、にゃおんと鳴いて女の腕におさまる。ぼろの毛並みをシミの浮いた手が撫でる。
「まあまあ、貴方はちゃんと帰ってきてくれるのね。偉いわ」
「……もう帰る。あまり遅くなると兄弟が心配する。馳走になったな」
最後に女は、衣嚢から紐で括られた古びた鈴を取り出して、私の掌に乗せた。私の事を未だ小さな子供だと思っているらしい女が囁く。家族とはぐれないように、ちゃんと持っていなさい。
家を出て少し歩くと、風息が待っていた。ずっと近くに気配はあったので、驚きはしない。私は人間の匂いをぷんぷんさせていただろうが、風息は何も問わなかった。だから私も、何か成果はあったのか、と風息に問う事はしない。
「洛竹と天虎は宿で待っている。明日にはここを発とう」
「そうだな」
風息がそれだけ言うから、私も頷く。りんりんと掌で鈴を転がす私をみて、風息は少しだけ不思議そうな顔をした。
「迷子防止の鈴らしい。お前にやろうか、首につけてやる」
「冗談だろ」
「勿論冗談だ」
風息は笑わなかった。それきり互いに黙ったままで、私が歩を進める度に鈴だけが軽やかな音をたてる。
月日が流れる度に風息は寡黙になり、その意識はずっと内側へと深く沈みこんでいく。幼い頃はそれこそ鈴の様に忙しなくあちこち跳ね回っては喧しかったのに、今ではじっと黙ったままでずっと何かを考え込んでいる。
かつてのお前は、目に見えるもの全てに驚き心を震わせ、喜びも悲しみも、怒りさえ率直に口にした。あの途方もない言葉の塊は、未だお前の中に溶けずに残っているのか。
「虚淮は、人間が憎いか」
「……どうだろうな。憎み続けるには人間の生は短すぎる」
唐突にそう尋ねられて、私は正直に答えた。私達の故郷を破壊した人間達はもうすっかり年老いて、産まれてくる子供達はかつての楽園を誰も知らない。似た様な悲劇はいく先々で繰り返され、いかなる激昂も悲嘆も、時の流れを前に透明にされていく。そんな諦念を口にすれば、それこそ人間の真似事だろうか。
私はこの鈴をそれなりに気に入っていたのだが、旅の途中でどこかに失くしてしまった。持ち主を失って尚、風が吹けば此処に居るよと鈴の音は何処かで鳴るだろうか。
夜になり、私達は泉へと赴いた。この街を発つ前に、かつてこの土地に在ったかもしれない龍神への弔いのつもりだった。窮屈な帽子を脱ぎ捨てて、漢服を纏う。
美しい泉は、すっかり姿を変えていた。虹色に光る油膜に覆われた黒い水に近付くと、異臭が鼻をついた。ここは妖精が生きていける場所では無い。命すら蝕む毒の水だ。
「酷いものだ」
「何十年、何百年待てば美しい泉が戻ってくるかもしれない」
「気が遠くなる話だ」
「いっそ月にでも安息の地を探すか」
湖面に映る純銀の月を掴む。掴もうとする。指先が触れたと思った瞬間、白銀の月は波打って消える。夜の闇よりなお暗い漆黒に指が吸いこまれていく。おぞましい感覚だった。住処を汚された神々の怨嗟が溶け出した黒い水が骨の髄にまで染みこみ、私の体を繋いでいたものが崩れていく。体が呑まれていく。宙を飛ぶ事すら出来ずに、水面に堕ちた羽虫の様に、身をひきつけせる事しか出来ない。
瞬間、突如現れた枝に救い上げられる。岸辺に打ち上げられた体がそれだけで軽い音をたてる。ヒビ割れた肌の隙間から黒々とした水を吐き出し続けた。亀裂、亀裂していく。崩落は止まない。
駆け寄った風息が、目を丸くしたまま絶句する。とうに背丈を追い越し、霊力でも上回っても尚、私は彼にとって絶対的な存在だった。そうだった筈だ。傷ついた表情の風息を見上げて、裏切ってしまった、と思った。
「虚淮」
風息が私の前に膝をつく。強い風が吹いて、黒髪が闇に蠢く。
虚淮、俺はずっとずっと考え続けてきた。答えを出すのは苦しい、苦しいさ。何もかもを忘れたふりをして、いっそ諦めてしまえばどんなに楽だろうと分かっている。それでも、俺は。
「……俺は許さなくて、いいよな」
何を、と問おうとして止めた。お前から故郷を奪った人間を。人間の味方をした館の妖精たちを。強い兄のままでいる事が出来なかった私を。お前達を置いて消えるかもしれない私の運命を。
「そうだ、お前は何一つ許さなくて良い」
それが長い流浪の果てに辿り着いたお前の答えなら、誰にも否定はさせないよ。時ごと静止した暗い夜の底で、お前だけが震えて轟いて、光っている。何かが終わって、そして何かが始まる。そんな夜だった。