ロマンスなんかじゃない「なんだろう……ムラっとするな……」
ベッドから上半身を起こした直後、無意識に口からこぼれ落ちた言葉。身も蓋もないその内容に、カイン・ナイトレイは苦笑いをした。昨夜、散々そういった行為をしたばかりだというのに。……否、その時の熱を――自分にしては珍しく――まだ引き摺っているのだろうか。
(昨日は微妙に酔ってたしな……。オーエンがシャイロックから変わった酒を貰ったとかで)
薄い桃色の甘いような苦いような、不思議な飲み口の酒だった。オーエンから晩酌の誘いがあること自体大変珍しいことで、つい飲み過ぎてしまった自覚がある。
そのオーエンはというと、既に姿はない。朝早く任務に出掛ける予定があると言っていたので、カインが寝落ちるとすぐに出ていったのだろう。まあ、予定の有無に関係なく彼が朝まで部屋にいることはほとんどないのだが。ベッドの下に脱ぎ散らかしたはずのカインの衣服が、ぐしゃぐしゃの状態のまま布団の上に乗せられていた。相変わらず微妙に律儀な男だ。
「……鍛練すれば収まるかな」
頭を振る。二日酔いがなさそうなことを確認すると、カインはベッドから跳び降りた。
カインの予想――もとい希望に反して。
一通り朝の鍛練をこなしてみても、「ムラっとする」という感覚はなくなることはなかった。
カインとて健康な男子である以上、性的欲求をもて余す時は当然ある。普段は軽く運動をすることで、ほとんど解消できていたのだけれど。
(そんなに溜まってるのか、俺……?)
ここ最近、三日と空けずオーエンと体を重ねておいて?
(いらいらしてると八つ当たりかよってノリでしたがるからな、あいつ)
一度、押しに負けてつい受け入れてしまったのが多分良くなかった。八つ当たりの割には手酷くされるわけでもなく、他人をなぶるのが好きだと嘯くオーエン相手なのに、妙に心地が良いのだ。
もちろん恋人ではない。愛がある……かどうかはわからない、お互いに。
それなのにだんだんと歯止めがきかなくなってきている……と思う。
(こうなったらオーエンに頼……いやいやいやいや)
ない。それだけはない。
恋人でもない――そして恐らくそういう意味では好かれてはいないであろう――相手にムラっとするから相手をしてくれだなんて、普通に最低だ。オーエンが好き勝手してくるからといって、自分もそうしていい理由にはならない。
さて、どうしたものか。
庭の真ん中で腕を組み、魔法舎の建物の二階を見上げる。すると突然、視界に入っていた窓がけたたましい音をたてて割れた。割れた窓から飛び出すように、大きな塊が庭に落ちてくる。それなりに強めに地面にぶつかったはずのそれは、カインが「大丈夫か?」と声をかける前にむくりと立ち上がった。
さすが北の魔法使いミスラである。目立った外傷はなさそうだ。……多少ふらついているような気はするけれど。「オズめ……」と苦々しく呟いているあたり、彼に挑んで返り討ちに遭ったらしい。ここでは良く見る光景で、当のミスラは二階にいるであろうオズに再び立ち向かうでもなく、急に興味を失ったように欠伸をし始めた。
「……なんですか」
一部始終を見守っていたことに気付かれていたようだ。眠そうな声と視線を向けられたカインは、そうだと思い当たる。丁度良い機会だ。よく「ムラっとするな」と言っている彼にアドバイスを求めてみよう。
「ミスラ、ちょっといいか?」
「はぁ。面倒だな……」
「人生の大先輩として、あんたに訊きたいことがあるんだ」
「いいですよ。大先輩なので」
「ありがとう」
協力的な彼に笑顔で礼を言い、さっそく「ムラっとした時、どうやって解消しているのか」を尋ねてみた。
「オズを殺しに行きます」
「あー……できれば俺にできそうなのを教えて欲しいんだが……」
「確かに、あなたがオズに挑んだところで瞬殺ですよね。ちょうど良さそうな相手を大先輩の俺が用意してあげますよ。感謝してください」
「ん?」
用意?
「アルシム」
ミスラの呪文と共に、目の前にカインの二回り以上は大きいであろうトカゲのような見た目の魔物が現れる。
「ええっと……こいつと戦えってことで合ってるか……?」
「はい。あなたでもギリギリ生き残れそうなのを選んであげましたよ。……ああ、でもやっぱりギリギリ死ぬかもな。運は良い方ですか?」
「え」
「まあ、死ねばムラムラも何もなくなりますし、けっかおーらい? ……でしたっけ? 頑張ってください」
「あ、おい、ミスラ! うわっ!?」
去っていくミスラを止めようとしたタイミングで魔物が火を噴いた。それを寸でのところで避けながら、考える。
(確かに生きるか死ぬかの状況に立たされればそれどころじゃなくなるかも……って、考えてる余裕もないな!?)
剣を抜き、構えた。
何にせよ、今は戦うしかない。
「よし。来い!」
どうやら自分は運が良い方らしい。
最後の一撃を決めたのは自分ではなく、ちょうど任務から帰ってきた通りがかりのオーエンだったけれど。否、一人でも勝つことはできたはずだ。……多分。
助かりはしたが、若干の悔しさを覚えるカインに向けて、不敵な笑みを浮かべたオーエンが尋ねてくる。
「ねぇ、騎士様。今、どんな気分?」
いつものように煽るのが目的なのかと思いきや、続いた言葉はどうにも方向性が違っていた。
「興奮してるとか、体が熱いとか、なんかあるだろ」
「……?」
意図がまったくわからなかったので、とりあえず感じたままを伝えることにする。
「あー……まあ、かなりの強敵だったからな。確かに体は熱いし、興奮してるぞ」
「……」
「……」
「……ん?」
信じられないものを見るような目でカインを凝視するオーエン。彼の表情がみるみる歪んでいく。怒りではなく、恐らく呆れで。
「おまえ、頭だけじゃなく体も馬鹿なの?」
「なんで罵られたんだ……? あ、そういえば礼を言ってなかったよな。ありがとう、オーエン」
「そうじゃない」
「じゃあ、なんなんだよ」
「冷水をしぬほど浴びてからよーく考えてみれば」
冷ややかな声を残して、オーエンは姿を消してしまった。
……考えてみろと言われても。
ヒントくらいくれよと思いつつ、風呂場で冷たい水を頭から被る。これはオーエンに言われたからではなく、体に籠った熱を冷ますためだ。
しかし、冷水を山ほど浴びたところで、今朝から感じている欲求は残り続けていた。
良く考える。考えて――オーエンの暴言の意味はわからなかったけれど――結局は最終手段に出るしかないのではという結論に至った。……できることなら色んな意味で避けたかったのだが。
昨夜したばかりなのに。元来、ここまで性欲が強いわけではない。たまたまだからな……と、自分に言い訳をしておく。
(まあ、嫌がってるのに無理に……は良くないが、合意を得れば問題ないよな……?)
要するに、オーエンをその気にさせればいいわけで。
(どうやって……?)
すぐさま新たな問題にぶち当たり、頭を抱えたくなった。怒らせてみれば良いのだろうか。……否、最悪殺され――はしなくとも、半殺しにされる恐れがあるし、意味のない争いは避けたい。
実際に頭を抱えて唸りながら部屋に戻ると、ベッドの上にオーエンが座っていた。
「えぇ……」
まだまったく作戦が固まっていないというのに。
反射で思わず顔をしかめてしまう。人の嫌がる顔が大好きだと日々口にしている彼は、満足げに「ふふっ」と笑った。
……機嫌が良くなってしまったじゃないか。
「さすがに気付いただろ? ほら、はやくおまえがするべきことをしろよ」
オーエンは上機嫌なまま、また良くわからないことを言い始める。「何の話なんだ……?」と問いかけると「はぁ!?」と、彼にしてはかなり大きめな声が返ってきた。
「本気……?」
「何に対してのことなのかわからないんだが……俺は冗談を言っているつもりはないぞ」
「うわ……」
……なんだろう。めちゃめちゃ引かれている気がする。同時にとてもがっかりさせてしまっているような――。現に何かを諦めたかのように「もういいや」と言って立ち上がるオーエン。
いなくなられたら困るので、咄嗟にカインは彼の右腕を掴んでいた。
「……何」
「あ……いや、今はその……イライラはしてないのか? すごい八つ当たりしたいことがあったりとかさ!」
「別にないけど」
「ないかぁ」
「……」
オーエンの口の端にほんの少しだが笑みが戻る。彼はカインの手を振り払うと、こちらの腕に指を這わせてきた。どういうわけか普段よりも肌が敏感になっているようで、体が跳ねそうになる。
「ねぇ、なんでもない顔してるけどさ。実は体に違和感があるんじゃない? しんどいんだろ? ほら」
「……っ」
「みっともなく乞うてみろよ。特別にきいてあげる」
――あまり耳元で囁かないで欲しい。
ぞくぞくと。まるで全身が性感帯にでもなったみたいだ。オーエンを前にしてから明らかに体の調子が悪化している。
いっそのこと素直に抱いてくれと言えば良いのだろうか。……それはそれで結構、いやかなり抵抗あるな!?
「あー……なんつーか……昨日の今日であれなんだが……あれなんだよなー」
「あれ」
「いやでもな……真っ昼間からってちょっと不健全じゃないか?」
「お……っまえさぁ!」
突然。胸ぐらを掴まれた。引き寄せられるままに、オーエンと唇が重なる。
「んん……っっ!?」
舌を軽く吸っただけで顔を離したオーエンは、カインの胸をやや強めに突き飛ばした。
「へたくそ過ぎない……!? なんで僕が誘導してやらなきゃいけないわけ? ヤりたいんだろ!?」
「ああ! まあ、そうだ!」
「急にレスポンス良くなるなよな!?」
「あ」
しまった。つい勢いに押されて。
何やら割と最低な流れで要望が伝わってしまったような気がする。ただでさえ、あまり品があるとはいえない内容だというのに。
カインは手のひらで顔を覆うと、その場にしゃがみこんだ。
なんだろう。めちゃめちゃ居たたまれない。
「あー……」
「……何してるの」
「いや、情緒も何もないことを言っちまったな、と」
「おまえ、僕相手にそんなの気にしてるわけ?」
「まあ……多少は?」
「ふーん」
ばかみたい。
と、オーエンは続けた。魔法使いは欲望のままに生きるものでしょ、と。
それならば……いいのか。早くもっと触れたいと……触れて欲しいと、思ってしまっても。
顔から手のひらをどけると、再びベッドの上に腰かけたオーエンがこちらを見下ろしていた。少し恨めしい気持ちでそれを見上げる。
「俺、性欲は強くない方だと思ってたんだがなぁ……」
「うわ。まだ気付かないんだ。こわ」
「だから何の話なんだ!?」
「……教えてあげないよ」
「恋人の可愛らしいおねだりは見られましたか?」
「は? 僕に恋人なんていないけど」
カウンターに血のような色のカクテルが入ったグラスを置きながら、シャイロックは「おや」と片眉を動かす。
「いつも自分からなので、たまには相手から情熱的に求められたい……というお話だったのでは? そういうことであればと、西の国の魔女お手製の強力な媚薬入り果実酒を提供したつもりだったのですが」
「……」
概ねは合っているのだが、オーエンの思うそれとは絶妙にニュアンスが違うはずだ。どうにも西の国の魔法使いは、些細な話でも恋だの愛だののロマンスにしたがる。
媚薬を盛られていたことに最後まで気付かず、今頃ベッドの上でぐーすか色気のない寝息をたてているであろうカイン相手に、ロマンスなどあって堪るか。
オーエンは「はっ」と鼻で笑って見せた。
「だって、いつも僕からじゃまるで僕があいつのことを好きみたいじゃないか」
そんなの、絶対に有り得ないのに。
「……ふふ」
何が楽しいのか、シャイロックは目を細めた。
「まるで切ない片想いでもしているようですね」
「……うるさいよ」
……別に。
全然そんなんじゃないし。