つゆのはれまに 玄関のチャイムが明るい音を鳴らしたので壁の時計を見ると、二十時を少し過ぎていた。やっと来たかと思うより先に怒りの感情が湧くのは、腹が減っているせいだけではない自覚があった。
乱暴にドアを開けると視界に紙袋が飛び込んできて、思わずのけぞってしまう。紙袋の横から金髪の義弟が顔を覗かせ、「遅くなってごめんね」と眉を下げた。
「夕方にはあがれるって言って、なんでこんなに遅いんだよ。お前は約束をなんだと思ってんだ」
「オレの後の子が急病で来れなくなったんだよ。そんなに怒んないでよ、ちゃんと連絡してるし。これ、お詫びにって店長が奮発してくれたからさ!」
「知るか、喚くな。近所迷惑だからさっさと中に入れ」
「うっわ、機嫌わる。お腹空いてるよね。ごめん、すぐ温めるから」
義弟は俺の脇をするりと抜けて靴を脱ぐと、慣れた足取りで台所に向かった。紙袋から弁当を出す姿を横目で見ると少し怒りがおさまったので、俺は奥の部屋で荷造り作業に戻った。
「ねーぇ、食器ほとんど片付けちゃったの?」
「コップすらいらねぇだろ。そこの紙食器使え」
ほとんど、というより台所用品は全てダンボールに入れた。明日の朝飯はコンビニに買いに行けばいい。冷蔵庫は昼に電源を切ったから中は空っぽだ。飲み物はクーラーボックスに入れてるから朝までは冷たいだろう。
電子レンジのピーという音が聞こえて、やっと晩飯にありつけるとため息が出た。
「お待たせしましたぁ、晩御飯ですよぉ」
間抜けな声の主は紙製の弁当箱を二つ抱えて部屋に入ってくるなり、「ベッドとダンボールしかないな!」と叫んだ。
「これならオレ明日来てもよかったんじゃない? 邪魔しに来ただけの気がする」
「寝坊されたら困るんだよ。朝イチでベッドの解体もしなきゃなんねぇし、力仕事しか残してねぇよ」
自分でもあまり物を持っていないのはわかっているが、それでも家具など色々ある。たかだか電車で三駅の実家に戻るのに引越し業者なんか勿体無い。明日は借りたトラックで往復して荷物を運ぶ予定だ。
どうぞ、と差し出された弁当箱の中を見ると、確かに店長が奮発したんだろう、テイクアウトにしては豪華なイタリア料理が箱いっぱいに詰まっていた。大事な人手を貸してやったんだ、これが妥当と思い黙って受け取り、割り箸を二つに裂いた。
黙々と弁当を食べる俺を、ぼうっとした顔の義弟が見つめてくる。
「兄貴、本当にうちに帰ってくるんだね」
「なんか文句でもあんのか」
「突っかかんないでよ。……爺ちゃん、すっごく喜んでるんだからさ。オレだって、兄貴が帰ってきてくれるの嬉しいし」
「嬉しいのか」
「そりゃあ嬉しいに決まってるでショ! だって、去年、の」
そこまで言うと真っ赤な顔をして黙り込む。どうした、と視線を向けると、目を泳がせながらボソボソと喋り出した。
「ちょうど、一年前なんだよね、ここに初めて来たの。七夕なのに台風で、ビショ濡れで来ちゃってさ。お風呂入らせてもらって、言ってないのに告白したみたいになって、さ」
「短冊使って告白したんだろう? なんだったっけ、『獪岳に会いたい』だったよな?」
「ああ、もう、言わないでよ恥ずかしいんだから!」
ううう、と唸りながら頭を抱え込む姿を見て、腹の底から湧き立つ欲をグッと堪えた。この一年で随分我慢が効かなくなったもんだと内心笑ってしまう。こんな自分がまた実家に帰ってもいいのかと思うが、帰ってこいと強く言ったのは養父だった。
善逸とこれからもちゃんと付き合いたければ家に戻りなさい。
正月の挨拶に行った時に言われ、何も言い返せなかった。善逸は付き合ってることは言ってないと言ったが、毎週ここに泊まりに来てることは隠してないからバレるのは当然だ。
「お前は呑気だな」
少し恨みを込めた目で善逸を見る。幼い頃より厳しくも優しく育ててくれた養父が、娘を奪いに来る男を見るような目で自分を見るとは思わなかった。いや、それは考えすぎなのはわかっている。わかっているが、少しだけ気が重い。
「兄貴は考えすぎだと思うんだよね」
弁当の蓋をパタンと閉じて、にこりと笑いかけてくる。お前、口の端にソースついてるぞ。
「爺ちゃんはさぁ、兄貴に戻ってきてもらうためにオレを出しにしたんだよ。また三人で一緒に暮らしたいんだよ。織姫と彦星と違って、俺たちの天帝様は優しいよね。会いたきゃ一緖に住みなさい、だもんね」
ソースのついた間抜け顔に呆れて、言ってることが頭に入らない。仕方がないから舐めとって、ついでに軽くキスをしてやる。何回しても慣れないのか、真っ赤になって俯いて、誤魔化すように話題を変えてくる。
「あ、あのねっ、今年は晴れだから織姫と彦星が会えそうだよ! 良かったよね!」
「地上の天気は関係ねぇと去年説明したはずだが?」
「もう、アンタはそういうとこだよ!」
今年は一緒に見ようね。そう言ってベランダに引っ張られる。そこは今年からだろうと訂正してやると、濃い蜂蜜色の瞳がゆらゆらと揺れて、うん、と力強く頷いた。