汚-kega- 「本当に生きている」と阿呆らしいほどに驚愕したあの瞬間をよく覚えている。日常生活においてたまに発生する、小さな怪我によってピリッとした鋭い痛みが右手の人差し指の腹の部分に訪れ、容態を確認しようと目線を下げた、あのときだ。
「…………」
「類、どうした? ……って、おい! 血が出てるじゃないか!」
「え? 大丈夫?」
「あ、あたし絆創膏持ってくるね!」
「ああ、いや、そんな大した怪我ではないから気にしなくていいよ」
「颯爽と走り去っていったぞ、えむの奴」
放課後、ワンダーランズ×ショウタイムの仲間であるえむくんと寧々、それから司くんとステージで台本の読み合わせをしていたとき、ページをめくった途端に怪我をした。紙で指先を切ってしまったのだ。経験したことがある者なら分かるだろうが、スパッと皮膚が裂かれたその一点にジクジクと集中する痛みは見た目の割に結構なつらさがある。さらに指先は日々さまざまな場面で頻繁に使われる部位であるため、他の部位を怪我したときよりも煩わしく思うのだ。特に僕は機械いじりをしたり演出装置の整備を毎日のようにおこなっているため、変に気になってしまって仕方ない。急いで戻ってきた彼女からの絆創膏はありがたく頂き、心配そうに僕を見る彼らに「傷は浅いから平気だよ」と言った。
やがて、ぷく、と傷口から血が溢れ出してきて、ぽたりと落ちた。その先には大事な台本があり、真っ白なページの一部分が円形に赤黒く変色していくその光景に、なぜか目が離せなくなった。
「…………血…………」
「早く水で洗ってこい。菌がついたりしたら大変だからな」
「…………」
「……? 類?」
「……そうだね。行ってくるよ」
ぼうっとしている僕を怪訝な目で見つめる司くんに促されて立ち上がった。ドッドッドッ、と速まる鼓動に合わせて歩く速度も加速したため、少々ぎこちない姿を見せてしまったかもしれない。近くの水道まで行って蛇口をひねり、出てきた水で患部を洗い流している間も妙にざわついた感覚に襲われていた。無色透明な水と混ざって呆気なく肌から離れていく赤いそれを名残惜しく見てしまう自分に気がついてからは、地に足がついていないような気持ちになって、落ち着かないまま彼らのもとへ戻ったのだ。
――目線を下げた、あのとき。血を見た瞬間。冒頭に綴った感想が頭に浮かんで、こびりついて離れなくなった。
別に、死んでいると思ったことがあるわけではない。ただ、普段の生活において自分が生きていることを強く意識しながら息をしていたわけでもない。いちいちそんなことを気にしていたら周囲で起こる目まぐるしい毎日についていけなくなってしまう。
しかし、自分の身体から流れ落ちる血を見たとき、今までにないくらい"生"を実感した。自分の血を見る経験は何度もしたことがあるというのに、初めて、「本当に自分の中には血液があるのだ」と思って、全身が熱を帯びた。きっと他の生物にも皮の中にはありったけの赤が巡っているのだろう、と思うと口角が上がりそうになったが、司くん達を怖がらせるわけにはいかないのでなんとか抑えた。
嬉しかったのか、楽しかったのか、なにも分からないけれど、とにかく「もっと血が見たい」と思ったのだ。倫理観の欠如したこの気持ちを満たすのはなかなか難しく、かつ僕自身も痛い思いはしたくなかったし他の人間や動物にさせたいという異常な願望もなかったため、想いを抱えたままなあなあと生活していったわけだが、物足りなくて、スパイスが欲しくて、いわゆる欲求不満に陥っているかのような小さな苛立ちすら感じている。それが今現在の僕の状態である。
要するに「生きている」と実感したいがために血を求めているのだ。そこに"誰の"という条件は特になかった。
ただ――そう、絆創膏を貼る僕に「早く治るといいな」と声をかけてくれた大切な友人を見て、「彼にも血は流れているのか」とごく当たり前のことをふと思ったら、目を逸らせなくなって、自分の血を見た瞬間と同じくらい胸が熱くなったのも、事実だった。
司くんは僕にとって、陽のあたるあたたかく居心地の良い場所へ手を引っ張って連れ出してくれた恩人である。僕の考える演出に、「役者にはこうであって欲しい」という期待に、全力で応えてくれるのだ。彼といればこの高校生活――ひいてはその先の未来も楽しく過ごせるのではないかと思わせてくれるほどの影響力を持った存在。人間関係に煩わしさを感じていたこの僕が、これからも司くんとは良い関係を築いていきたいと思っているのだ。
神様なんて目に見えないモノは信じていないけれど、もしも特定の人間に"神様"と呼称していいと言われたら僕は迷わず司くんを神様だと断言するだろう。僕の人生を変えた彼にはそれほどの価値があった。
演出家と役者という関係性。友人の1人という立場。それでも、なぜか僕は司くんを神聖化してしまうきらいがある。あまりよろしくないと分かってはいるが、彼がこんな僕と同じ人間であると思いたくなくて、つい遠ざけてしまう。だから、司くんにも血が流れているのかもしれない(「かもしれない」ではなく当然の事実であるが、どうも、信じきれていない自分がいる)と考えた瞬間、沸々とした熱が現れたのかもしれない。
***
「待たせたな、類!」
「やあ、司くん」
燻る思いを抱え、発散できないまま時は過ぎた。司くんとショーの打ち合わせのために集まった昼休みの屋上でいつものように語り合いながら昼食をとる。
あたたかくて優しくて、平穏な日常を送っていることの喜びを噛み締めながら微笑んだ。ただ、それと同時に…………。
物足りない、と思った。
「――――ッ、痛ッ」
靄がかかった思考の森に足を踏み入れそうになった瞬間、隣に座る司くんの声が耳に入り、意識が完全にそちらへ向いた。見ると、目を細めながら眉をひそめる顔が忌々しげに指先を凝視している。
「どうしたんだい?」
「……紙で指を切ってしまった」
いてて、と言いながら立ち上がり、校舎内にある水道に向かおうとする司くんの腕を掴んで動きを止めたのは、なぜだろう。
「……? なんだ、る……」
「見せて」
「は?」
「見せてくれ」
類、と自分の名前を呼びかけた声を遮ってまで放った言葉の意図が分からない。ドクドクと全身の血が沸騰しそうになっているこの感覚はなんだ。熱い。熱い熱い熱い。熱くて、熱くて、息が、猛暑のなか口から出てくる二酸化炭素のように熱くて、手が震えて、どうにも落ち着かないのだ。
「…………? 怪我を、か?」
パッと目に映る司くんの指先はあのときの僕のように赤い血がツゥ、と流れていて、思わず目を見開いた。
"生きている"。
司くんも、生きている。
純粋で、清らかで、真っ白で、僕とは正反対の人間にも同じ"赤"が身体の内側にたしかに存在しているというのか?
汚れた、"赤"が。
「…………ッ、は……ッ」
頭上に雷が落ちたような衝撃が全身を支配し、甘美な快感となって僕を包み込んだ。これは紛れもない興奮である。自分の血を見たときの感情の根幹にあったのもこれだろう。血を見て興奮していたのだ。目の前にある生命の液体に昂ったのだ。
――司くん。
司くん、にも、血、が。
途端に息が荒くなる。司くんの腕を掴む力が自然と強くなって、その少量の血を穴があくほど凝視してしまった。
僕は血であれば誰のものでもいいから見たいと思っているのだろうか。答えは否。司くんの血だから、こんなにも興奮するのだと確信している。僕に道を示してくれた光にも流れているそれは非常に魅惑的で、背徳的だった。まるで真っ白な台本に落ちた一滴の血を見たあのときと同じ高揚感。清らかな水に垂らされた、濁った毒。
生きているのだ。天馬司は。
「早く離してくれ。そう黙って見られていると怖いんだ……が……」
――――ああ。
舌に広がった鉄の味は心なしか美味しく感じられて、これが僕の唾液と混ざって溶けていくのだと思うと……そう、なんだか、とっても、気持ちが良い。