糸【糸屑】糸の切れ端。糸のくず。
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「……む」
とある平日の朝。いつものように登校し下駄箱を覗いた司は少しの驚きと「またか」という意味を込めたトーンでそう呟いた。司が上履きを履いてくるのを廊下で待っていた類は、彼が手に持っていたある物を見て「おやおや」と口にし、顎に手を当てた。
「相変わらず人気者だねえ。何回目?」
「うーむ。4回目、だったか。オレを好きになる気持ちは十分理解できるが、少々申し訳ないな」
「……どうして?」
「いやそれは……」
「分かっているくせに」と類を睨みつける。満足そうに目を細めた類は司の手にある物にそっと視線を移した。それはラブレターとかいう、意中の相手に愛を伝える清らかで大切な手紙だった。
その封筒に小さく書かれていたのは、類と同じクラスのある女子生徒の名前である。
類の眉がピクリと動いた。
「……忠告したんだけどなあ」
「ん?なんか言ったか?」
「なんでもないよ。また糸屑の数が増えてしまうなあと思っただけさ」
「はあ?」
にこりと笑って歩き出した類の真意が全く分からぬまま、司は「恋人がラブレターをもらっているというのに、なんとも思わんのかあいつは……」と口を尖らせて類の背中を追いかけた。
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昼休み、可愛らしい文字で書かれた「昼休みに校舎の裏庭で」という言葉の通りに司はその場所で待っていた。自分に恋人がいることを知らない女子生徒の気持ちを考えればやはり申し訳ない気持ちが込み上げてくるが、それ以上に類を愛している想いの方が明らかに強いため、はっきり断ることが自分のためにも女子生徒のためにもなると司は考えていた。
しかし、待てども待てども女子生徒はやってこない。返事を聞くのをやめたのかもしれないと思い、授業が始まる5分前まで待って、それでも来なかったら大人しく教室に戻ろうと決める。
「…………。来ない……」
向こうから時間や場所を指定してきたというのにやって来なかったことに疑問を抱きながらも、スマートフォンで始業5分前であることを確認して歩き出す。教室へつながる廊下を歩いていると、類が壁に背中を預けて立っているのが見えた。
「類」
「おや、司くん。もしかして今朝のラブレターの返事を……」
「いいや。何故かは分からんがいくら待っても来なかった。お前、彼女と同じクラスだろう?なにか知らないか?具合が悪くて早退したとか……」
「……。特になにもなさそうだったよ。たしかに顔色は少し悪そうだったけれど、早退するほどじゃないみたいだ」
とりあえず「返事を聞くのが怖いから来なかった」ということにして司は類と別れた。あとでわざわざ教室を覗いても嫌がられるだけかもしれないと判断する。向こうがアクションを起こすまでは自分から動かないよう配慮をするところが司の優しさを表していた。
***
――鋏の音。細い糸が断ち切られる音。
(……司くんには他に好きな人がいるからやめておいた方がいいよって言ったのに)
その糸は、赤にならない、ただの繋がりの糸。
("気持ちだけでも伝えたい"って……。それなら許されると思っているのが驚きだ)
容赦なく、簡潔に、無駄なく断ち切る。
類は始業のチャイムを耳に入れながら、今まで自分が糸を切ってきた回数を頭の中で数えていく。それは、司自身が「告白をされた」と認知しているものとは違う数字。
(8回目、か。もう、どうすれば司くんを僕だけのものにできるか分からないな)
司が魅力的で男女ともに多くの人に慕われていることは類が1番よく分かっていた。人を避けて生きてきた自分すら虜にし、長くない時間の中でかけがえのない存在とまで思わせた男だからだ。そんな天馬司という人間と両想いになり、恋人同士になれたことは類にとって奇跡に等しい。だからこそ、司を誰にも渡したくなかったし、彼を愛しているのは自分だけということを全ての人間に表明したいとすら思うようになっていた。
「あの、神代くん」
名前を呼ばれ前を向けば、今朝司の下駄箱にラブレターを入れた女子生徒が遠慮がちに笑っていた。類にとって授業は全て自習と同義だったため深く考えていなかったが、どうやら今は本物の自習時間だったらしく、クラスメイトは各々好きなように過ごしていた。
「……ああ、心配ないよ。ちゃんと司くんには伝えておいたから」
「ありがとう。やっぱり、その、迷惑かけちゃったよね、天馬くんには。せっかく神代くんがやめた方がいいって言ってくれていたのに、私ったら自分勝手な気持ちでラブレターを渡しちゃって……」
「大丈夫。こんなことで嫌悪感を露わにするような人ではないって、君も分かっているだろう」
「……!うん。そうだね。この前も今日も、相談に乗ってくれてありがとう」
「どういたしまして」
女子生徒はぺこりとお辞儀をして、自分の席へと戻っていった。それを見送った類は、頬杖をついて窓の外を眺める。
(……伝えてないけど。本当に性格が悪いな、僕は)
類は昼休みまでの間に、女子生徒にあることを伝えていた。
「司くんは断る気が満々だったから昼休みにわざわざ会う必要はない」と。そして、「司くんと会うのは気まずいだろうから、僕が代わりに伝えておくよ。"あの告白はなかったことにしてくれと言っていた"ってね」と。
まっさらな白から期待の赤へ染まろうと伸ばされた糸を司に近づけたくなかった。会わせることすら許せなかった。たとえ伸ばした側の願いは叶わないと分かっていても。
(赤は僕だけの色)
類の手の中にある白とも赤とも呼べない色をしたいくつもの糸屑は、純粋で強く大きな独占欲の証だった。