パラドクスの君にパラドクスの君に
"人間は死に依って完成させられる。"
"生きているうちは、みんな未完成だ。虫や小鳥は、生きているうちは完璧だが、死んだとたんに、ただの死骸だ。完成も未完成もないただの無に帰する。"
"人間はそれに較べると、まるで逆である。"
"人間は、死んでから一番人間らしくなる、というパラドックスも成立するようだ。"
そう書かれたページから数分間、目を逸らせなかった。
映画やドラマ、小説、アニメ、漫画など様々な媒体において"死"の描写は、なによりも人々を惹きつけてやまない。たとえ悪人の死であっても、描かれ方によっては主人公の生き様よりも鮮烈で心に深く刻まれる。僕はアニメや漫画はさほど見ないが、演出家という職業柄ミュージカルや映画は数えきれないほど目にしてきたし、映像だけでなく文章からもインスピレーションを得ることは多くあった。
やはり、誰かが死ぬシーンというのは格別心を奪われる。死んだ本人の生きてきた証を思い返したり、死に様をまじまじと目にすることによる惜別の意だけでなく、悲しみ、嘆き、涙を流し、絶望の淵に立たされてもなお前を見て明日に向かう、残された者の描写も非常に印象に残るのだ。脆さとしたたかさを併せ持った人間の全てが1つの死に凝縮されているとさえ思う。
死に際の美しさ。いつしかそれを求めるようになった。決して気が狂ったわけでも、死にたいと思っているわけでもない。ましてや知人に死んで欲しいと思っているわけもない。けれども、壮絶でドラマチックで、多くの人間の感情が1つの鍋に放り込まれてぐちゃぐちゃに煮詰められたあの光景を望んでいる自分がいる。
冒頭であらわした文章が綴られている「パンドラの匣」が収録された文庫本を読み終えて、それをパタンと閉じた。壁にかけられた時計を見ると1ページ目を開いてから幾分か時間が過ぎており、あたたかな橙色の西陽と夜の闇との美しく鮮やかなグラデーションが窓から見えている。洗濯物を取り込もうとソファから立ち上がった瞬間に玄関の扉が開く音が聞こえてきて、ベランダに向かおうとした足は自然とそちらへ吸い寄せられていった。
「おかえり、司くん。早かったね」
「ただいま。想定より早く稽古が終わってな。久々に類とゆっくりできると思って早々に帰ってきた」
コンビニで買ってきたであろう何本もの酒とおつまみが入ったエコバックを僕に渡して、司くんは靴を脱ぎ洗面所へ向かった。ああ、これが"幸せ"か、と思い、頬を緩ませたままリビングへ戻る。買ってきてくれたものを冷蔵庫に入れてから、昼時に既に作っておいた夕飯のおかずをレンジで温めてスープが入った鍋に火をつけた。
「お、洗濯物……」
「あ、ごめんよ、さっき入れようとしたんだけど」
「構わない。オレがやっておく」
「ありがとう」
部屋着に着替えた司くんが手際良く洗濯物を取り込む。それを畳んでくれている間に2人用の小さなテーブルに料理を並べて夕飯の支度を済ませておいた。数十分後、「いただきます」と両手を合わせて礼儀正しく挨拶をし、揃って料理に手をつけ始める。
素知らぬふりをしようとしていたが、抑えられなくなったのでここで白状しよう。司くんが帰ってきてからというものの、先程読み終えたばかりの短編の一節がどうにも頭から抜け落ちなくて、妙に心が落ち着かないのだ。死に際の美しさに惹かれていた僕にとって"人間は死に依って完成させられる"というフレーズは鈍器で頭を殴られたかのような衝撃を与えるものだった。
――類、と僕の名前を呼んだ声の主はやや心配そうにこちらを見つめていた。
「……?なんだい?」
「いや……随分呆けているというか、地に足がついていないような顔をしているから、どうしたのかと思って」
「…………」
そう言われて初めて、俯いたまま動かなかった自分に気がついた。手を添えたまま持ち上げていなかったお茶碗をゆっくりと顔に近づけて箸で白米を口に運んだが、心のざわつきは治まらない。
「おい、平気か?具合でも悪いんじゃ……」
「……体調は問題ないよ。ただ……なにがなんだか、自分でもよく分からなくて」
「……?そうか……」
司くん。
今まで何度も目にしてきた愛おしい彼の造形。表情。髪の毛。瞳。鼻。唇。耳。肌。
その全てを今一度観察するように見つめると、司くんはさらに眉間のしわを深くして「なんだ?」と怪訝な顔をした。僕は本当に様子がいつもと違うらしい。
司くんが帰ってきてから始まったこの感覚の正体はなんだろう、と考えながらスープを啜る。ドラマチックな死を求める自分。とある短編の一節――人間は死に依って完成させられる。生きているうちは、みんな未完成である。人間は、死んでから一番人間らしくなる。そんな文言。
そして、天馬司。
ピタリとスープを飲むのをやめた。器を静かに置いて、溢れ出す感情を閉じ込めるように口元を右の手のひらで覆う。途端に落ち着き始めた身体の内側によって、自分の思考の全てがクリアになったことが証明されていた。瞬きもできずに、ただ、目の前の恋人と視線を合わせる。
この、頭のてっぺんから足のつま先まで完璧に見える人間も未完成なのだろうか。死んだら、本当の意味で彼は完成するというのか。今よりずっと美しくて、一生涯忘れられないような鮮烈な姿を拝むことができるのだろうか。
離れがたい大切な存在である司くんの死に際は、僕にとってフィクションを遥かに超える崇高で忘れられないワンシーンになるに違いない。余命僅かな病気に蝕まれる彼の最期は?通りすがりの殺人犯にナイフで刺される彼の最期は?交通事故で車に轢かれる彼の最期は?
はぁ、と熱く蕩けた吐息が手のひらにかかった。苦痛に歪む顔も、安らかに眠りにつこうとする顔も、想像するだけでゾクゾクと背筋が震えた。同時に不謹慎な気持ちを持ってしまったことによる過去最大の罪悪感に苛まれ、"司くんの最期は絶対にこの目で見届けたい"という願望を封じ込めるように瞼を閉じる。そして、小さな深呼吸を数回。
"スターの最期を演出家である自分が彩りたい。"
"誰かの手によって司くんの死が彩られるくらいなら、いっそのこと自分が――。"
途中で思考を停止して唇を噛み締める。思いとどまったのには理由があった。僕は司くんの死の直前から死後の完成されるまでの一部始終を見たいとは思っているが、決して彼にこの世から去って欲しいわけではないのだ。彼がいなくなった世界は僕にとってなんの価値もないものへと変わるから。できればずっと、彼のそばにいたい。生きていて欲しい。けれども、見た目だけでは計れない美しい最期を目に、脳に、全身に焼きつけたいのだ。そのとき僕はきっと、史上の愛を抱くことができる。
混濁する脳内をリセットするために考えるのをやめた。おそらくこのジレンマは一生僕に巻きついて離れないのだろうと思いながら、何事もなかったかのように食事を再開する。司くんもそんな僕をじっと見つめてからすました顔で箸を持つ手を動かした。
「なにかあったらオレにすぐ言うんだぞ」
「…………。ありがとう」
過度な干渉はしない気遣いに、知らぬうちにこわばっていた肩の力がふっ、と抜ける。自然と笑みがこぼれて、導かれるように想いを吐き出していた。
「僕はいつまで君を縛りつけるつもりなのかなあってね」
「…………。オレを……」
"縛りつける"という言葉の意味を知らないほど僕達は子どもではない。司くんはパクパクと野菜を口に運びながら僕の発言について思案しているようだった。学生の頃なら、あのような不気味ともいえる僕の気持ちを吐露すれば「はあ?」と軽蔑されなにも理解してくれないような呆れた返事とともに、多少の気味悪さを感じられてしまうかもしれなかったが、今なら彼も、受け止めてくれるはずだ。なぜかそう確信して、自分でも驚くほど軽快にするすると想いが漏れ出た。
「死に際が見たい。本物の、完成された死を見たい。けれど、死んで欲しくないんだ」
先程「いただきます」と言ったのと同じ声のトーンで出たのがこれである。重みがまるで違う。それでも司くんは食事をする手を止めずにソファに置かれた一冊の本にチラリと目をやって「アレの影響か」と返事をした。一目その名を見ただけで死を連想させる文豪が素直に凄いと思えるが、僕が影響を受けた短編はささやかな希望が散りばめられた、陽へと伸びるものだと教えたい。近いうちに薦めてみようか。
驚いたのは、意外にもあっさりした司くんの反応だった。
「……気持ちは、分からなくもないが」
「……本当に?」
「ああ。きっと、お前の死はオレにとって最大の痛みと絶望を与えると同時に絶大な美を見せつけるだろうからな。ショーやドラマのシーン以上の、次元を超えたなにかをオレに浴びせてくれると思う」
「……なぜそう思うのかな?」
「お前は心が綺麗だから」
数分間、小さな咀嚼など食事をおこなう生活音だけが響き渡ったあと、僕達は同時に箸を置いた。
「僕が今まで出会った人間のなかで1番心が透き通っている君に言われてもなあ」
「褒め言葉は素直に受け取れ」
「はいはい」
「ごちそうさまでした」と言って、食器をキッチンまで持っていく。またあとで洗えばいいかと一瞥して冷蔵庫から缶ビール2本とおつまみ、それから新しい箸を2膳取り出し、テーブルの上に置いた。カシュ、と蓋を開けて「乾杯」と声を合わせる。
「…………ふう。…………やはり、死んで欲しくはないんだよな」
「そうなんだよ。そこがまた難儀なところでね」
「…………はは」
「?」
「いや……。こんな話を馬鹿真面目にしていると思うと、オレ達も大人になったんだなと……ッ、可笑しくなってきて」
くつくつと笑いながら枝豆を食べるその姿につられて、僕も「もう32だからね」と微笑んだがそもそも年齢の問題でもないなと気づき、それを察したらしい司くんと目を合わせて一緒に吹き出した。
「普通のカップルはどの年齢でもこんな話はしないだろうね」
「はは、違いない。昔から"変人"らしいからな、オレ達の常識は世間の皆様方にとって非常識だ」
「いっそ死ぬときも"ワンツーフィニッシュ"でいこうか?」
この発言が妙にツボにはまったらしく、司くんは肩を震わせて俯き始めた。僕達を取り巻く甘酸っぱい雰囲気は学生以降なりを潜めてしまったが、今の甘さと苦さを兼ね備えた関係性も非常に心地が良くてたまらない。
「…………待てよ?それをしてしまえば"ワン"であるオレが先に逝くことになるじゃないか!それじゃお前だけが得をする!」
「おや、バレた?」
「油断も隙もない…………」
どうやら今日はお互い酒の進みが早い。久々に2人きりでゆっくり過ごせるから、というのもあるだろうけれど、なにより奇妙な話題が僕達の気分を徐々に高揚させているようだった。
「死に際が見たいが死んで欲しくはない。お手上げだな、考えても答えは出ないだろう」
「そうだねぇ。残念だ」
ぐっ、と最後の一口を飲み干して、空になった缶ビールを置く。その縁を人差し指でなぞりながら、ふう、とため息をついた。
「儚く散るそのときまで――死ぬまで、ずっと、そばにいるしかないね。僕達」
何気なく思い浮かんだ些細な一言のつもりだった。口にするまでもなくそうして生きていく覚悟は付き合い始めた高校生の頃から出来ていたわけで、僕にとってはなんてことない日常会話のワンシーンだったから。
「………………おお…………」
司くんの小さく情けない声に少し驚いて、目線を缶ビールから彼に移す。予想外の反応だった。人差し指でポリポリと右頬を掻いたあとに、目線を横に逸らして「そうか」と呟くその動作の意味を、長い付き合いの僕はよく分かっている。いや、付き合いの長さは関係なく誰にでも伝わるものかもしれないが、これは確実に"照れ隠し"だ。
高校時代はお互い、周囲の生徒にもバレるくらい分かりやすく愛情表現をしていたらしい。自覚は全くなかったがどうやら僕も司くんも好意がすぐに顔に出ていたということで、高校卒業後にそれを中学時代からの旧友に伝えられた際には柄にもなく赤面したものだ。
そんな僕達も年を重ねれば相応の態度へと変わっていく。あの頃の胸のときめきがなくなったのは寂しさもあるが、昔よりも深い信頼と愛で結ばれていることが実感できるのだ。うまく言葉にできないが、そこにいるのが当たり前になっているというか、より身近な存在へとなっているのがとても誇らしく、愛おしい。数日前に会った幼馴染に「学生のときは常に付き合いたてのカップルみたいだったけど、最近の類と司は熟年夫婦みたい」と言われたとき、僕達の関係性の変化を表現する言葉として最もしっくりきたのを覚えている。
そんな雰囲気を醸し出すようになった今、司くんが照れている。それはもう、分かりやすく。年甲斐もなくときめいてしまって、つい頬が緩んだ。
「君のその顔、久しぶりに見たよ。理由は分からないけれど懐かしくて嬉しいな」
「…………む…………。理由が分かっていないのは、なかなかに、たちが悪いぞ」
「え?」
「……そういう、プロポーズじみたことを改めて口にされると…………ああもう、こっちを見るな、馬鹿」
プロポーズ、というワードから再び自分の発言を思い返すと、なるほどたしかに、というか、あれはプロポーズ以上に重い鎖で彼のこの先の人生を縛りつけてしまうものだったとはっきり分かった。死に関する話をしたあとというのが相乗効果を生んでより一層深みが増したプロポーズに、司くんは胸を弾ませているのだ。
カチ、カチ、と時計の針が僕達の心地良い沈黙を刻んでゆく。
「…………ねえ、セックスしようよ」
「……オレも同じことを言おうと思っていた。風呂を沸かしてくる」
「いつぶりかなあ」とぼやくと「覚えていない」という返事が風呂場から聞こえてきて苦笑した。いい意味で熟成された関係。ほろ苦さを感じられるのは大人の特権だ。もちろん、あの甘酸っぱい青春の味を感じられるのが学生の特権ともいえるけど。
テーブルに残った空き缶とおつまみが入っていた容器を片づけながら、答えの出ない感情に身を委ねる。
「死に際は見たいけれど、死んで欲しいわけではない…………」
「この気持ちに共感してくれるのは嬉しい誤算だ」と独り言を呟いたつもりでいたが、いつのまにこちらに戻って来ていた司くんに「それはこっちのセリフだ」と声をかけられた。
「お互い、相手のいない場所で易々と命を落とせなくなったな」
柔らかな微笑みとともにこぼれ落ちた言葉に、触れるだけのキスで返事をする。司くんが本当の意味で完成するその日はいつ来るのだろうかと考えただけで胸が締めつけられる想いになるが、堂々巡りになる前にそれをシャットアウトした。
「……ちょ、っと、先に風呂に入ってから……ッ」
「嫌だ。こっちだよ」
「……相変わらず、というかなんというか……」
ぐいぐいと背中を押して、ベッドへと傾れ込んだ。
司くんに送った二度目のプロポーズは、左手の薬指にはめられた指輪と同等の、もしくはそれ以上に互いをがんじがらめに縛る麻縄となっているのかもしれない。
【引用文献】
太宰治「パンドラの匣」
新潮社が昭和48年に発行した、「正義と微笑」とともに収録されている文庫本。 p.271 1行目〜5行目。