きっとこれが、生きるということだ おぼつかない足取りで歩いていた幼き頃のオレは、熱したアイロンに小さな手のひらでぺたっと触れたことがあるらしい。細心の注意を払っていた母さんの一瞬の隙を狙ったのか、単なる偶然か、とにかくその日オレは自ら熱を求めた。母さんは必死の形相ですぐにオレを抱え上げて水と氷で冷やしたが、その間表情が全く変わらずニコニコしていた自分の息子を見て嫌な予感がしたため、すぐに病院で検査をおこなったという。そして"無痛症"という診断(本当はもっと長い病名なのだが、便宜上省略した)を受けた。
オレには痛覚がない。だから、火傷にも打撲にも切り傷にも無反応で、なにも感じずに痛みを知らぬまま生きてきた。そんな日々を過ごすなかで得た教養としては「痛いふりをすること」。痛覚がない人間はこの世にほんの僅かしかいないため周囲の理解も得難く、血が出るような怪我をしても「平気だ」と言ってけろりと笑っている男はただの"異常"だと捉えられ、煙たがれる。そんな世の中で波風立てずに暮らしていくにはオレが周りに適合することが必要だったのだ。
とりあえず、血が出たら「痛い」。あざができたら「痛い」。頭をぶつけたら「痛い」。等々。オレ以外の人間の様子を沢山観察し持ち前の演技力を活かすことでようやく平穏を形作ることに成功した。
流石オレだと自画自賛したいところではあったが、こうして演じていくうちに命がすり減るような喪失感が増えていくのを感じていて、どうにも褒め称えるのが憚られる。
命がすり減る。要するに、"生きている実感がなくなる"ということ。肌が全てを遮断してなにも感じなくさせているのは思ったよりずっとずっと寂しい。注意力も散漫になって、周りの人間が足を止める茨の道もオレは平然と歩いて行ってしまうのだ。そこには勇気も迷いも責任もなく、ただの虚無だけがある。なんと寂しいことか。説明しても分かってもらえないこの悲しみは誰にも拭えない。
おそらく俺の中身は空っぽなのだ。結局、天馬司は人間の形をしたハリボテの人形であり、道化のように笑って過ごしつつも「こういう状況になったら顔を歪める」とプログラミングされた機械のように「痛い」と嘆く。それだけの存在。
そう考えた瞬間にゾッとしたのは3か月前のことで、食べ物を口にするたび、息をするたび、笑うたびに身体の内側がごっそり持っていかれたような感覚に陥るようになって、非常に泣きたくなった。無痛症は痛覚はないが心は痛くなるという話は本当らしい。
――どうすれば"生"を実感できるのか?
その答えは案外近くにあった。寧ろ、どうして今まで気づかなかったのかと思うくらい単純明快なもので、もっと早く見つけていれば今頃はこんな悩みに苛まれることもなかっただろう。
血。
皮膚を切り裂くとこのオレの身体からも出てくる液体。怪我をするたびに滲み出てくる真っ赤なそれが、きちんと全身を巡っているのだ。
血があれば、オレの中身はまだ詰まっていると――"生"があると、心から安心できる。そう、気がついた。
もっともっと、もっと見たい。血が見たい。生きているって思いたい。世の人間が流しているのと同じものがオレにも流れていると感じたい。そんな思いに駆られてからのオレの行動は早かった。
生を実感したくなったら自分で自分の身体を傷つければいい。痛覚がないからこそできる、1番手っ取り早いこの方法はオレにしかできない。痛みを感じないことにここまで感謝したのは生まれて初めてだった。誰にも見られない箇所に、適度に、不審に思われない程度に傷をつけて、手当てをしていればなんの問題もないなんて、うってつけの行為である。
そう考えて自傷を繰り返してから3ヶ月後の現在。オレは神代類という人間に出会った。
あいつは初めて出会ったときからずっと一緒にいてくれている。相当オレを気に入ってくれたようでむず痒い気持ちはあるが、同時に嬉しくもあった。人に好かれているという実感はオレのようになにかが欠乏した人間には必要不可欠だから。
類がオレを見つめるときは大抵、柔らかくて優しい表情をしている。それがほんの少し照れ臭いが、あいつが笑っていればオレも自然と嬉しくなるから、居心地の良いぬるま湯についつい浸かってしまっていた。
ただ、そんな気の緩みが引き金となって、つい類に隠していたことをさらけ出してしまった。ショーの練習後、更衣室で着替えていたときに脇腹に巻いた包帯を見られてしまったのだ。インナーがほんの少しめくれていたことに気づかずに制服を着込もうとしたら隠れていた肌が露わになっていたらしく、真面目な声色で指摘された。
「包帯に血が滲んでいる。これは一体なんだい?」と。
「…………ええと…………」
「脇腹なんて早々怪我しない箇所だよ。……ねえ司くん、こんな怪我をしておいて僕の無茶な演出に付き合っていたなんて、そんなの……」
類は眉を下げて、傷口を巻いた包帯を哀れむように見て、弱々しい口調で話していた。オレに痛覚はないから特に困らずに類の演出にも平気でついていけたのだが、勿論こいつはそれを知らないわけで。
オレを見て悩ましげに瞳を揺らす類を捉えた瞬間に、なにかが弾けて、思わず目を見開いて目の前の男をまっすぐに見つめてしまった。初めての衝撃に、気持ちを止められなかった。
「……え? 司くん、なに、笑って、」
「オレを、心配しているのか?」
「…………当たり前だよ。この傷ができた原因も知りたいし、君には痛い思いをしてほしくないから……」
「本当か!?」
ビクッと類の肩が上がったが気にしない。いつもの演技なんてできるわけがなかった。だって、このときオレはとてつもない高揚感に包まれていたから。
――怪我をすれば……血を流せば、類はオレを心配してくれる。いつも優しく微笑む顔が、影で覆われた寂しげなものへと変化する。
あの赤い液体は、オレに生の実感を与えるだけでなく、"愛"をも与えてくれるというのか?
誰かに大切にされているという実感こそ、オレが今ここで生きているという真実を全身で感じられるものなんじゃないか?
嬉しくて嬉しくて、この興奮をぶつけるように類に抱きついた。
「つ……かさくん、あまり動かないほうがいい、また血が出てきて……」
「いいんだ、それで!」
「……………………え?」
嗚呼、人生はこんなにもあたたかな血と愛で満ちていたのだ。痛みを感じないオレでも、これさえあれば人間として生きていると心から思える。
他の人間――家族にすら抱いていなかったこの気持ちは、なんだ。どうして類が心配してくれたときにだけ、こんなにも喜びが湧いてきたのだろう。まあ、今はそんなこと、どうでもいい。
「類! これからもずっとオレを心配して、不安になって、悲しい表情を見せてくれ! 頼んだぞ!」
「…………なにを、言って……」
より一層類の表情が暗くなった。身体に愛が注ぎ込まれる。
さあ、次はどこに傷をつけようか!