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    tomoshi

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    tomoshi

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    手助けのお礼に長嶺が見返りを要求するも、小日向がボケ倒す話。いちゃいちゃしたり、すれ違ったりしてます。(※2024年にプレイした乙女ゲームのなかで、コルダ3AS至誠館が一番楽しかったので書きました)

    心ばかりではございますが

    休日の昼下がり。秋晴れの空から光が差し込む台所に、爽やかなレモンの香りが広がる。オーブンを開けて天板を取り出せば、キレイにふくらんだマフィンがようやくお目見えだ。

    「うん、いい感じ」

    友達から教えてもらったレシピは、まさに完璧。あとは冷めるのを待つだけだ。冷めたら彼に「一緒に食べよう」とメールを送ってみよう。でも、まずは片付けをしなければ。とりあえず、レシピの紙をなくしてしまわないように、再びクリアファイルのなかに戻そうとして――私は嫌なものを見つけてしまう。

    「すっかり、忘れてた」

    現代文の授業で出された課題レポート。レポートの内容を発表するプレゼンは確かずっと先だと記憶していたが……もしかして。おそるおそる赤枠で囲まれた日付を確認してみると、締切は、なんと明日だった。なにかひとつでも決まっていれば取り組みやすいのだけれど、学生の自主性を促すために設定された“テーマ不問”という文字が、今は恨めしい。

    さて、どうしよう、何について書こうか。マフィンをケーキクーラーに移動しながら、最近読んだ本について思いだそうとするも、まともに読んだ本がそもそもないことに気づいた。となると、これから読む本を探すところから始めなければいけない。

    そういえば、友達におすすめしてもらったあの本……タイトルは、なんだったっけ? 確か、本屋で話しながら、携帯電話のメモに……――いや、違う。
    今は本のタイトルより、散らかしたキッチンを元に戻さなければ。

    シンクには、汚れたボウルにゴムベラ。攪拌につかった泡立て器も出しっぱなしだ。私は腕まくりをして、さっそく洗い物から取りかかることにした。

    ◇◇◇

    「……なるほど。失敗したわけではないらしい」

    布巾で水気をとったあと、器具をキャビネットに戻していたら、声がした。振り返ると、焼き上がったばかりのマフィンをかじって、恋人――長嶺雅紀が首をかしげている。自習室帰りなのか、いつもの制服姿だ。咀嚼する彼をじっと見つめると、長嶺がどことなく居心地の悪そうな顔で私を見下ろす。

    「なんだい? つまみ食いがいけないというのなら、筋違いだ。遅かれ早かれ、このマフィンは俺の口に入る運命なのだから」

    私は味の感想を求めていただけで、別につまみ食いを咎めたわけではないのだけれど。
    今度は私が首をかしげると、長嶺がもう一口、マフィンにかぶりつく。この勢いで食べ続けると、口のなかの水分を一気にもっていかれるに違いない。立ったままそれを食べ進める彼を横目に、私は食器棚からグラスを出してお茶をそそいであげることにした。
    気が利くじゃないか。そんな感じの視線をこちらによこしたあと、お茶で一服した彼が息をつく。
    もしかすると、台所をのぞいたのは、お腹がすいていたからなのかもしれない。

    「お昼、食べそびれちゃったんですか?」
    「いや、そういうわけではない」
     なら、どういうわけだろう。
    「いつも脳天気な顔をしている君が、眉間に皺を寄せながら洗い物をしている姿が見えたので、つい声をかけてしまっただけだよ。砂糖と塩でも間違えたのなら、からかってやろうかと思ったんだが……当てが外れたな」
    「と、いうことは?」
    「ああ、うまいよ。俺好みだ」

    手元に残っていた部分をすっかり食べきって満足げな長嶺に、私も笑顔になる。それにしても、わりとボリュームのあるマフィンなのに、たった三口で食べられてしまった。エプロンを外しながら、次はもう少し食べ応えのあるものを作ったほうがよいかもしれない……などと考えていたら「君は本当に素直だな」と、何故か苦笑されてしまった。

    「で? いったい何があった。事と次第によっては、力になれるかもしれないよ」

    話してみなさい。さきほどより一段階柔らかくなった声色と頭に置かれた手のひらに、うっかり甘えたくなる。……が、相談しようとしている相手は高校三年生。受験生だ。ただでさえ忙しいのに、高二の宿題に付き合わせるわけにはいかない。だから、「なんでもないです」と悩みの種について明かさないでいると、透明なクリアファイルにふと目線を落とした長嶺が「ああ、これか」とつぶやいた。
    相変わらず、目敏いなあ。

    「どこまで書けたんだい?」

    一文字も書いていません、なんて言えない雰囲気で言われて、どきっとする。

    「途中までのものでいいから、みせてごらん。アドバイスをあげよう」
    「えーと、その」
    「どうした?」
    「あー。それは」

    みせてごらんと言われても、出せるものなんて何もない。そういえば洗い物がまだ残っていたなあ。わざとらしい言い訳をして長嶺の追及から逃れようとするも、腕をつかまれてしまった。

    「……小日向さん。正直に言いなさい」

    まさかテーマすら決まっていないなどと言い出すのではないだろうね。そう続いた言葉が図星すぎて、つい声を出して笑ってしまう。長嶺は、私のことを本当によくご存じだ。

    「やれやれ……」
    「だ、だって! 今日の今日まで存在すら忘れていたんですよ? そんなの、決まっているわけないじゃないですか」
    「こら、開き直らない」
    「う」

    長い指が、私のおでこをつつく。正直に告白しなさいと言われたからきちんと包み隠さず真実を告げたのに、怒られた。心外だ。抗議すると、「口答えしない」と追加でほっぺたをつままれてしまった。

    「四六時中ヴァイオリンに夢中な君らしい答えで結構。だが、宿題を忘れるのはいささか高校生としてはいただけないな。以後、提出物の期限については厳重に注意をはらうと約束して、今回は先生に提出期限をのばしてもらうよりほかはないんじゃないか」

    正論を言われて、ぐうの音もでない。
    反論の言葉をもたない私がただうなだれると、少し間があってから本日二度目の「やれやれ」が聞こえてきて、耳が痛かった。

    「とりあえず、お茶にしよう。君はうちの居間で待っていなさい」

    長嶺はそう言い残すと、私を残して足早に台所を出て行ってしまった。





    何か名案でも思いついたのだろうか。それとも、もうお茶でも飲んで諦めろという意味なのか――。とにかく彼に言われた通り、ほうじ茶を淹れてしばらく居間で待っていると、一冊の本をもった長嶺が居間へとやってきた。

    「この本の主人公はヴァイオリン奏者なんだ。年齢や境遇も近い主人公だし、テーマも見つかりやすいだろう」

    テーブルにそっと置かれたハードカバーの本は、そこそこの厚みがあった。明日が提出期限なのに、果たしてこれを最初から読んでいる時間はあるのだろうか。

    座椅子に腰掛けた長嶺の前にマフィンとほうじ茶を並べてから、私は借りた本を手に取ってみる。ぱらぱらと後半のページをめくって確認してみるが、欲しかったものは見当たらず、無意識にため息が出てしまった。オススメしてくれた長嶺には悪いが、さすがに今から一冊まるごと全部読むとなれば、もっと短い作品にするべきなのでは――。

    「お生憎様。初版だから解説文はついていない」

    私の一連の動作を見ていた長嶺が笑う。私がいったい何を考えているのか、手に取るようにわかるらしい。悔しいがその通りなので何も言えず、目の前のマフィンを頬張ったら、とっても美味しい。甘いものは、やはり幸せの味がする。

    「……現代文の担当教員は?」

    私が先生の名前を教えると、「あの人か……」と長嶺が唸る。自クラスを担当している先生は評価が厳しいことで有名なのだ。

    「仕方がない」
    ほうじ茶をすすりながら、数秒思案したあと、彼が私を一瞥する。
    「可愛い恋人のピンチだ。俺が一肌脱ごう」

    一肌脱ぐとは、いったいどういうことだろう。尋ねてみると、今から長嶺が本の内容をかいつまんで教えてくれるということらしい。つまり私が求めた“解説文”の代わりを、彼自身がしてくれるというわけだ。助け船を出すと同時に、きっちり「期末の発表までには、時間を見つけて読んでおくように」と釘をさすところは、いかにもブラスバンド部の部長らしい振る舞いだなと思う。

    長嶺の手を借りることができれば、時間はだいぶ短縮できそうだ。これならば、明日の提出期限に間に合うかもしれない。突如差し伸べられた救いの手に心のなかで感謝しつつ、ありがたく頂戴しかけて――やっぱり、思いとどまる。

    「いや。それは……だめです」
    「俺の解説では信用できない、と」
    「そうじゃなくて! だって、長嶺さんは受験生でしょう」

    私よりももっと、勉強大変だと思うから。用意していたおしぼりで指をぬぐいつつ否定すると、「君からそんな思慮深い言葉が出てくるとは思わなかったな」と長嶺がわざとらしく肩をすくめる。彼は私のことを、いったいなんだと思っているんだろう。そうは思いながらも、後先何も考えず思いついたことを発言する自身の癖については自覚しているので、何も言えなかった。

    空になっていた湯飲みに二人分のお茶を注いでから、本日二個目のマフィンに手をつけはじめた長嶺は、どことなく楽しそうだ。味にうるさいといいつつも、毎回私の作ったものをどんなものでもきれいに完食してくれるところは、とても義理堅い。ちょっと意地悪な言い回しも、私の反応を見て楽しんでいるのだとわかってしまえば、可愛さすら覚えてしまうのだから、恋というものは落ちたら負け、というのは言い得て妙だなあと思う。

    「そうだな……。なら、こうしないか」

    夏より少し襟足が伸びた彼の横顔を見つめながら、私が物思いにふけっていたら、濃青の瞳がこちらを向く。

    「俺を手伝わせることに罪悪感を覚えるというのなら――君なりの感謝を示してほしい」
    「感謝……? あっ」

    感謝を示せといわれてはじめて、私はまだ彼にお礼すら言っていなかったことに気づく。受験生の貴重な時間を割いて、こうして相談にのってもらっているのだから、まずは言葉で感謝を示さなければ。

    慌ててスカートを直して、三つ指を畳につき、正座で深々とお辞儀をしつつ丁寧に「ありがとうございます」と言ってみた。が、「君の誠意は伝わった」とやはり反応はイマイチだ。しかし、さすがの私も、言葉だけで彼が首を縦に振るとは思っていない。

    それなら、と次は三つ目のマフィンを取り分けようとすると「そちらはまた後でいただこう」と彼が皿を下げてしまう。いくらお腹が空いていても、さすがに三つは飽きるか。それは、そうだよね。

    うーん、では、もっとほかに長嶺にあげられそうなものはなかっただろうか。あ、そうだ。先日修学旅行で買ったばかりのアレなんかどうかな。ポケットから携帯電話を取り出して、ミックスフライのサンプルがついた、お気に入りのストラップを――。
    「修学旅行の土産なら以前もらったもので充分だ。それはそのままにしておきなさい」
    なぜかすべて説明し終える前に、食い気味に拒否されてしまった。

    「えーっと……じゃあ」

    プレゼントや言葉以外で感謝を示す方法はないだろうか。いや、もしかして、なぞなぞだったりする? ……と、そもそもの大前提を疑っていると、難しく考えすぎだと長嶺が笑う。涼しい顔で悩める私を観察する彼は、まるで高みの見物をしているかのようだ。その表情のどこかに彼の真意が読み取れないだろうかと探ってみるが、やはり何も分からない。ただシンプルにお礼をすれば良いということなので、私にできることを一生懸命考えていると、コレしかないというものがようやく、思い浮かんだ。

    「ヴァイオリン、部屋からとってきます!」

    意気揚々と立ち上がったら「待ってくれ」と手をとられ、再び着席させられてしまう。絶対にこれが正解だと思ったのに、答えはほかにあるらしい。ヴァイオリン演奏でもないとすると、何だろう。というか、これ以上、私に一体何ができるというのだろうか。私の演奏では満足に感謝を示すことができないと言われているような気がして、なんだか悲しくなる。がっかりして長嶺の顔を見られないでいると、空いていた右腕で彼が私の頭を包み込んだ。

    「……君に期待をした、俺が馬鹿だった」

    そこまで言わなくてもいいのに。
    頭上から聞こえる落胆の声に、より一層胸が苦しくなる。……が、「睦言のような音色を堪能するのは、君がレポートを書き上げてからにするよ」と続いた言葉に、私はようやく意味を理解した。“もし、ここでヴァイオリンを弾き始めてしまえば、君はまたレポートを後回しにしてしまうだろう?” ――彼はそう言いたいのだ。
    想像してみたら、その光景がありありと目に浮かんできて、苦笑する。
    そうだ。今は、すぐにでも課題に取りかからなくては。
    でも。でも……それだと、なんだか、ちょっと悔しい。こちらのことはなんでもお見通しな長嶺に、私だって彼の心の内くらい推し量ることができることを、証明してみせたい。

    「時間もないことだし、単刀直入に言おうか」

    私の心を読んだかのようなタイミングで、長嶺が答えを言おうとする。もう一度だけ解答のチャンスが欲しくて「待って」と抗うが、ぎゅっと締め付けが強くなった上、口では「待たない」と一蹴されてしまった。

    「残念だが、時間切れだな」
    正解は、まだ聞きたくない。
    とっさに耳を塞いだら、長嶺がわざと、私の手の甲に触れるくらい近くまで唇を寄せてくる。

    「俺が感謝の証として、欲しかったもの。それは」
    「長嶺さん、お願い! まだ言わない――」
    「君からのキスだ」

    「……えっ」
    まさか、それだけ?

    指の隙間から右耳に届いた囁きに、驚きを隠せない。ギブアンドテイクを重んじる長嶺が、そんなことで満足するとは思えなかったからだ。彼が求めたものが、あまりに労力に見合わないものだったのが予想外で、どう返事をしたものかと迷っていると、長嶺が怪訝な顔をして、こちらをのぞき込む。

    「小日向さん」
    「なんですか」
    「……これを機に、ひとつ、君に聞いておきたいことがあるんだが」

    私の顎にのばされようとしていた彼の指が、なぜか離れていく。

    「もしかして、君はキスが嫌いかい?」
    「……。ええっ」

    先ほどより大きな声が出て、自分でもびっくりする。どこをどう解釈したら、そんな話になるのだろう。慌てて「そんなことはない、むしろ嬉しい」と主張すると、「それならよかった」と至極真面目なトーンで長嶺が応える。いつも通りからかわれたのかと思ったけれど、そういうつもりではなかったようだ。

    「どうして、そう思ったんですか?」

    いや、それは。彼が、口元に手を当てて言い淀む姿は珍しい。余計に聞いてみたくなって、シャツの袖を引っ張って促したら、掛け軸のほうに顔を背けていた彼が私に向き直る。

    「キスをする時は……いつも俺からなのが、少し、気がかりでね」
    「あれ? そうでしたっけ?」
    「そうだよ」

    再び招き入れられた胸のなかで、数えるほどしかしたことのない長嶺とのキスを思い出す。屋上でのキスとか、縁側でのキスとか、夜景を見ながら秘密の場所で交わしたキスとか。確かにそう言われてみれば、自分から彼にキスをしたことはなかったかもしれない。

    「まるで気にしたことなどなかった――そんな顔をしているね」

    その通りなのでただうなずくと「やはり何も考えていなかったのか」と、鼻をつままれる。ちょっと強めの力加減に文句を言おうとしたけれど、まばたきをした後に一瞬見えた、安堵したような瞳の色に、何も言えなくなってしまった。

    もしかして、ずっと不安だったんだろうか。
    同じ屋根の下に住んでいるとはいえ、学年も違うし、部活も違う。
    彼の独占欲が強いことは、今に始まったことではないのに、最近は長嶺が受験生だからと遠慮して、連絡も最小限にしていたせいで余計な心配をかけていたのかもしれない。

    もっと、早く打ち明けてくれたらよかったのに。
    ほんと、意地っ張りで素直じゃないんだから。

    足が痺れてしまう前に私が両膝を立てると、長嶺が目を瞠る。いつもは見上げた場所にある顔が、ちょうど同じくらいの高さにきて、なんだか新鮮だ。

    彼の頬を手のひらで包むと、すべてを理解した長嶺がこちらをじっと見る。照れ隠しに「目を閉じてごらん」と彼を真似て言ってみるも、ただ口角を上げるだけで目を閉じても、笑ってもくれなかった。ねだるような目つきに、さらに恥ずかしさが増してくる。時間稼ぎに、誰かに見られていないか、きょろきょろと周りを確認するフリをしたら「うちの親が、今にも帰ってきてしまうかもしれないよ」と急かすように言うので、そのままほっぺたを挟み込んで変顔にしてやった。

    「……っ。往生際が悪い」
    「だって、目を閉じてくれないから」
    「閉じなくたって出来るだろうに」
    「じゃあ、せめて、そんな食い入るようにこっち見ないでください!」
    「日和って唇以外にキスをしたら、腹いせにかみついてやろうかと思っていたのでね」

    もう。ああ言えばこう言う。
    ほんとうにやっかいな人だなあ!

    「かなで」

    名前を呼ばれて、腹をくくる。
    こうなったら、もう実力行使しかない。
    両手でレンズを覆って視界を奪ってしまおう。
    狙いを眼鏡に定めてから――その勢いのまま、私は彼に思い切って口づけた。

    レモンピールの香りがわずかに鼻をかすめたら、今さらながらドキドキする。
    相手が自分のことを好きだとわかっていても、自分からキスをするのって、なかなか勇気がいることなんだなあ。彼から唇を離す際に、そんなことが頭をよぎった。

    「……君の指紋でレンズが曇ってしまった。罰として、もう一回」

    罰だと口ではいいながら、愛おしそうに彼が再び私を抱きしめる。さらに、ゆっくりと閉じられたまぶたに嬉しくなって、ご希望通りにキスをしたら、今度は「短すぎる」と少し不満げなご様子だ。

    「や、やり直したほうがいいですか?」
    「そうだね。君さえよければ」

    ”私さえよければ”といったくせに、長嶺が誘うみたいにして私の髪を弄ぶ。わがままな恋人の期待に応えるため、だんだんと意地になってきた私は、彼が「もういい」というまでする覚悟で、さっきよりも強く唇をくっつける。……が、待てど暮らせど、なかなか終わりはやってこない。止めている息が苦しいのと、だんだんと不安定になる姿勢に、思わず彼の肩をつかんだら――次の瞬間。

    なぜか。
    下唇を食べられた。

    「ん!」

    反射的に仰け反ったら、悪戯な恋人は私を捕まえたまま、声を上げて笑う。
    柔く食まれた歯の感触と、鈍く唇に残る温度に、みるみるうちに顔が熱くなっていく。相変わらず人――というか、私――を振り回すのが大好きな彼の性癖に、いい加減腹が立ってきたので隠さずにムッとしたら「ごめんごめん、痛かったかい?」と唇を親指でなぞられて、なんだか怒る気も失せてしまった。

    「君の唇から美味しそうなバターの香りがしたから、マフィンかと脳が錯覚を起こしたようだ」

    そんなわけないでしょ。

    とは思いながらも、なんとも彼らしい言い訳におもわず笑いがこみ上げたら、つられたのか、長嶺の口元も緩んでいく。

    「……時間がないというのに、何をやっているんだか」

    本当に、彼の言う通りだ。

    それでも、なんとなく離れがたくてそのまま恋人のぬくもりを味わっていると、しばらくしてテーブルに置きっぱなしだった私の携帯が鳴った。

    無機質な着信音と振動するミックスフライに、甘い空気が霧散する。

    「あっ」

    携帯に表示された名前は我が吹奏楽部の部長、八木沢雪広だ。午前中に送ったメールの件かもしれない。私は、すかさずテーブルに手を伸ばし、応答ボタンを押す。

    「もしもし、八木沢さん?」
    『……ちは。……の、……ルの、こ……あれ?  きこ……い?』

    携帯の向こうからは、ぶつぶつと途切れた声しか聞こえない。もしかすると電波が悪いところにいるのだろうか。

    「もしもーし」
    『だ……あ……、……す、よ』

    こちらの声も聞こえていないのか、八木沢は諦めて通話を切ってしまった。もう一度、こちらからかけ直してみるが、やはりつながらない。現代文のレポートも大切だが、吹奏楽部の備品についての連絡も同じくらい早めに確認しておきたいことだったので、再び八木沢部長にかけ直そうとすると――。

    「……君は、本当に空気が読めない」

    さっきまでのやりとりが嘘かのような怖い顔をした長嶺に「しまった」と思う。あわてて謝ったら、「それは何に対しての謝罪かな」と火に油を注いでしまった。

    弁明の言葉を探していると、私以上に空気の読めない着信音が、再び居間に鳴り響く。
    もちろん、ディスプレイに表示されているのは八木沢の名前だ。

    「私に遠慮をせずに出たらどうだい。ついでに、現代文のレポートについても相談にのってもらうといい」

    完全にご機嫌斜めになってしまった恋人はそう言うと、あっという間に襖を開けてどこかへ行ってしまう。未だ鳴り止まない携帯電話を手に、居間にひとり残された私がテーブルを見ると、冷めたほうじ茶と食べかけのマフィンの横に、さきほどの本が置かれたままになっていた。





    結局長嶺から貸してもらった本を使うのは気がひけたので、隣町の図書館へとやってきた。が、なんの進展もないまま、窓から差し込む日の色が変わりはじめる時間帯になってしまい、私はいよいよ焦りはじめていた。

    長嶺の言うとおり、吹奏楽部の面々にも相談してみようかと思ったが、やはり高校三年生に宿題程度のことで手間を取らせるのはだめだし、同級生は同じ課題に追われている仲間だし、下級生に手を借りるのは先輩としてかなり情けない……ということもあって、やめておいた。私の宿題なのだから、いい加減、自力でなんとかしなくちゃ。そう思って適当に目についた本を片っ端から流し読んでみたが、ちょうどいい作品は見つからなかった。

    「……はあ」

    この本は今から読むにはいい長さだけれど、なんだか……そう、読みにくい。焦燥感を抱きつつも、かれこれ十冊目の本を書棚に戻しながら考えるのは、長嶺のことだった。
    空気が読めない、と言われた。それは本当にそうだと思う。今思い返せば、電話に出る前に恋人に断るべきシチュエーションだったし、そうでなくても、忙しい中相談にのってもらっている相手に失礼だったと思う。それになにより、あれでは、まるで八木沢からの電話を待ちわびていたみたいで……。

    帰ったら、きちんと謝ろう。
    宿題は――最悪、後日提出すればいい。
    先生より長嶺に嫌われるほうが、間違いなく、ずっと辛いから。

    そうと決まれば、こうしてはいられない。
    中身すらたいして確認もしないまま、手にしていた十一冊目を棚に戻して帰ろうとした、その時――背後に、人の気配がした。

    「ほら、ご所望の品だ」

    聞き覚えのある声とともに、突如眼前に現われたのは、白いシャツからのぞく腕だった。左肩越しに伸びてきたそれは、二枚ほどのルーズリーフ紙を私の手につかませると、静かにうしろへと戻っていく。渡されたものが何かを確認する前に私が振り向くと、すぐ側には怒らせたはずの恋人が立っていた。書棚がつくった影のせいで暗く映る眼差しを見上げて「長嶺さん」とつぶやくと、ほんの少しだけ彼の表情が柔らかくなる。

    「さっきは……俺が大人げなかった。君にも、いろいろと事情があることはわかっているのに」

    もらったばかりの紙面に視線を落とすと、見覚えのある几帳面な文字がびっしりと並んでいる。まさか。

    「これって……」

    長嶺の直筆で書き留められていたのは、とあるヴァイオリン奏者の半生を描いた物語の内容だ。わかりやすくまとめられたそれに目を通していくと、視界が徐々に滲んでいく。悪いのは私なのに、怒らせたのは私なのに。不安にさせてしまったのは、私のほうなのにな。

    顔を上げて私も謝罪を口にしたら、こちらを見た長嶺がなんともいえない複雑な表情をして、目を逸らす。何かまた彼の気に障るようなことをしてしまったんだろうか。窓の向こう、夕日に照らされたアスファルトを映した眼鏡の奥を、おそるおそる盗み見る。すると、それに気づいた彼が、わずかに目を細めて私に微笑んでくれた。

    「さあ。日が落ちてしまう前に、一緒に帰ろう」

    今日初めて私から触れた唇が、つむじにふわりと落ちてくる。
    長嶺の手には、ヘルメットが二つ。そのうち一つを受け取って「ありがとう」と手を握ったら、ためらいなく握り返してくれた手のひらは優しかった。

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