アズールブルーの酒宴1
「あー、そうなんですよ。先週無事終わりまして。ええ、おかげさまで。はい、……はい、ありがとうございます。では、また週明けに伺いますので。……はい、失礼しまーす」
近くのコンビニに買い出しに行ったついでに、かかってきていた電話に折り返してから通話を切れば、雨の匂いがした。梅雨空も今週までだと天気予報で言っていたので、こうして濡れた夜のアスファルトを見る日も減っていくのかもしれない。
それにしても、祭りのあとの寂しさというべきか、嵐の前の静けさというべきか。凪のような今週末に、打ち上げを企画しておいて正解だったな。先週終わったツアーの疲れを癒やす間もなく、次に待ち構えているのは大学のテスト期間だ。さすがにそろそろ勉強しないと、いろいろとマズい気がする。
「はあ……」
俺――仁科諒介が、無意識にため息をついたその時、再びスマホが震える。
画面に表示されていた名前は……。
「はいはーい? おつかい係に何かご用ですか、お姫様」
『にしなさーん、ねえーきいて、きいてよー』
スマホを耳に当てれば、ツアー最終日に快く出演を引き受けてくれたゲスト――朝日奈唯の声がした。「どうしたの」と聞けば、お酒が入っているのもあって、ふわふわした口調の幼い声が返ってくる。
『ねえ、どうしたらいいかなあ? さっきからぜんっぜん、かてないのー』
主語も目的語もないが、かてないはきっと“勝てない”だろう。……というのも、彼女は今、俺の部屋で、相方の笹塚創とドイツ製ボードゲームで絶賛対戦中だからだ。プレイヤーはタイル職人となって王宮の壁を装飾していくという世界観のゲームで、簡単にいえばタイルを取り合い、できるだけ図案通りに並べて点数を稼いだほうが勝ちという、初心者にもわかりやすい単純なルールなのだが――。
「笹塚のほうの配置、ちゃんと見てる? 妨害することも考えないと、あいつには勝てないと思うよ」
『やってるよー、やってるけどかてないよー。なんで? なんで私のタイルはうまく並ばないの? ねえなんで?』
泣き言を吐く朝日奈の後ろで「次、あんたの番」と笹塚の声が聞こえる。まあ……でも、あのゲーム、ルールは単純とはいえ、戦術的にはいろいろと奥深いのも確かだ。だから、勝てないのは当然だろうと思う。ビール二缶とワインを少し空けたくらいじゃ、笹塚はおそらくタイルのカウンティングを間違えない。
「んー……ふふっ、そっか。じゃ急いで帰って助太刀するよ。それまで頑張って」
『はあい。……あー! はい、わかって……ちょっ、まってまっ』
通話が切れたら、口を尖らせている彼女の顔が目に浮かんでつい笑ってしまう。本当に、我がオケのコンミスは可愛らしい。相方が接待プレイをしないせいで、お姫様のご機嫌は麗しくないが、今手にしているレジ袋には、彼女が所望したコンビニ限定のスナックが一袋と新商品の酎ハイが三缶はいっている。これでなんとか、最終公演の功労者が満足してくれるといいのだけれど。
目の前の信号が点滅したので足を止めると、すぐ横にカップルらしき男女が並ぶ。自然と耳に入ってくる彼らの会話を聞いていると、二人は夏に行われる都市型音楽フェスの話をしているようだった。ヘッドライナーや出演アーティストを検索しているのか、誰が見たいとか、それは違う日だとか言いながら、肩を寄せ合って一台のスマホを仲睦まじくのぞき込んでいる。
「あ、ネオンフィッシュも出るじゃん」
女の子の口から俺たちのユニット名が飛び出して、どきっとする。が、忌憚なき意見を拝聴するチャンスかもしれない。まさか、つぶやいたユニットのうちのひとりが真後ろにいるなんてことは、つゆにも思わないだろう。そう思って耳をそばだてていると、信号が青になったせいかその話題は中断され、拍子抜けしてしまった。
横断歩道で前を行く、ヘッドライトに照らされたおそろいのフェスTシャツは右――俺とは反対の方向――に曲がる。手を繋いで駅のほうへと消えていく恋人たちの背中をなんとなく目で追いかけていると、ふと俺は思うことがあった。
そういえばコンミスは、彼氏とか欲しいって思ったことないのかな。
高校生の時から今に至るまで、恋愛フラグが立ちそうな相手が周囲にたくさんいるわりに、彼女にそういう相手が出来たという話は聞いたことがない。彼女に言わせれば、音楽こそが恋人なのだろうけれど、本人がそう思っていても、周りが放っておくはずがなかった。
大学でもきっと狙っているヤツは多いだろう。だからこそ、浮いた話のひとつやふたつ、あってしかるべきな気はするが、当の本人を見ていても、誰かとデートをしたり、恋の駆け引きをしている気配は一切ない。
というか、今年の夏休みだって、だいたいオフは俺たちと遊ぶ予定で埋まっているし、現に今日も彼女は、ネオンフィッシュの内輪な飲み会に二つ返事で顔を出し、恋愛にたいして興味のなさそうな男を相手に、勝つ見込みのない無為なゲームを続けているのだ。
一緒にいる時間があまりに長く、いつも自然と俺たちの間に溶け込んでいるせいでスタッフに誤解されることもままあるが、朝日奈はあくまで所属するオケのコンサートミストレスであって、俺の恋人でも笹塚の恋人でも――たぶん――ない。
彼女がこうして俺たちのそばに常にいるのは、俺か笹塚か、どちらかが恋愛的な意味で好きだからなのでは? ……なんて考えたことは一度もない――と言えば、嘘になる。嘘にはなるが、今の関係性が楽しすぎて、ちょうどよすぎて、心地よすぎて深く考えたくないというのが正直なところだった。
「あ」
暗い空から、ぽつぽつと落ちてきた水滴が、俺の額を濡らす。このままじゃ降られるな。バカなことを考えてないで、さっさと帰ろう。湿気を含んだ生温い風を受けながら、俺は足早にマンションを目指した。
2
「わー!」
鍵を開けてドアを開くやいなや、コンミスの悲鳴が耳に届く。また何かうちの相方がやらかしたのだろうか。玄関先に並んでいる、かかとが潰れたスニーカーと黄色のサンダルを越えて部屋の中に入ると、「もうちょっと待って!」だの「あと一分! 一分だけ!」だの、甲高い声がリビングの方からまだ聞こえている。内容から察するに、コンミスは笹塚にゲーム進行を急かされているようだ。
普段よりも若干ハイトーンなのは、酔いが回っている証拠だろう。あの子、量飲めないくせに、わりとハイペースなんだよなあ……。チェイサーも挟まないし。そろそろしっかり水を飲ませておかないといけないかもな……と思ったところで「だめ!」という、コンミスの一際大きな声が響いた。彼女の声量にびっくりして、扉についたガラス窓からリビングの様子をうかがうと――。
なぜか。ソファの上で。
相方のほうが、コンミスに押し倒されていた。
ここからでは、ソファのアーム右側からはみ出た相方の素足と、いつのまにかキャミソールワンピース一枚になった朝日奈しか見えない。ソファの背から生えているように見える笹塚の両腕を見れば、十本の指はしっかり朝日奈の指に絡んでいた。
え? マジで?
アルコールでほどよく麻痺していたはずの脳が一気に冴える。さきほど考えたばかりのことが頭をよぎって、ドアノブにかけた手は動かない。「何してんの」。そう、たったひとこと。たったひとこと言って、この扉を開ければきっとすべては中断されるはずなのに、それが出来ない。足は縫い付けられたように止まって、視線は縦長の枠内で繰り広げられるシーンに釘付けなのだ。
拮抗状態にあった二人の腕は、ソファに横たわっている側の笹塚が押しきられたのか、やがて沈んで見えなくなる。「つかまえた」と攻める朝日奈とは裏腹に、笹塚は全くしゃべらず抵抗するそぶりも見せない。宙に浮いたままの裸足が脱力しているところを見ると、あいつが間違いなく“この状況”を受け入れているのがわかった。
「……では、遠慮なく。いっただっきまーす」
……何を!?
はずむ朝日奈の声に、思わず心の中でツッコんでしまったけど、ぶっちゃけ冷静にツッコんでいる場合ではない。
きっとおそらくいや間違いなく。
あの体勢でいただくものといえば“ひとつ”しかない。
分かっていながらも、何故か目を背けることができないまま、俺の予想通り朝日奈は座面のほうへ、赤みを帯びたその顔を近づけていく。少しふらつきながら垂れた髪を耳にかけたあと、ビタミンカラーの紐が彼女の肩を滑り、そして――。
「……あ」
決定的な場面を目の当たりにしてしまったショックで、知らないうちに声が出ていた。唐突に訪れた“ゲームオーバー”に呆然としてしまい、体が動かない。いつも自分がくつろいでいるはずの場所を、廊下で立ち尽くしながら見つめていると、一分ほどして朝日奈の上半身が再びソファの背の裏から現れた。長めのキスに満足したかのように下唇を舐めた彼女は――もぐもぐと何かを咀嚼している。
「……うん?」
彼女の口の端についた、鮮やかなピンク色を俺が凝視していると、続いてのろのろともう一人が顔を出す。体を起こした笹塚はというと、口に何かを咥えている。あれは……俺が表参道で買ってきたロングエクレアか。一番人気のフランボワーズ味はぽっきりと途中で折れて、先が半分なくなっていた。
なんとなく、状況が読めてきたな?
「あー、よかった。ぜーんぶ食べられちゃうまえに味見できて。っていうかささづかさん、フランボワーズは、私が食べたいから残しておいて、っていったでしょ!」
肩紐を直す朝日奈の横で、笹塚は手を使わず半分に折れたエクレアを器用に食べきっている。
「……そんなこと言ったっけ」
「言った! なんなら五分前に言った!」
「ああ、そう」
悪びれる様子もなく笹塚が汚れた朝日奈の口元に手を伸ばすと、一瞬、コンミスが驚いた表情を見せた。……が、唇についたチョコレートを拭ってくれているとわかったのか、彼女は無防備にも目を閉じる。笹塚に唇に撫でられても特に照れたり、慌てたりする様子もなく、さも当然のように受け入れているのは“慣れ”なのか、それとも“好意”なのか――。
「……はあ」
いや、だめだ。深く考えるのはよそう。緊張を解いて、息をついた拍子に落ちてきた前髪をかきあげると、俺はキッチンのほうに戻る。
まあなんにせよ、だ。
笹塚はみだりに女の子の唇に触れてはいけないし、朝日奈は朝日奈で、簡単に触らせてはいけない。酔いがさめてから、あとで一応、説教しとくか。朝日奈はともかく、笹塚には……理解してもらえるかどうかは、わからないが。
とにかく、家主がいない間に二人が関係を深めようとしているわけじゃなくてよかった。さっきより軽くなった足どりに、思った以上に安堵している自分に気づいて嗤ってしまう。さあ、気を取り直して、自分用にハイボールでも作ろう。
シンクで手を洗うと、外が暑いせいで水は温い。野菜室から取り出したライムはカッティングボードにのせて櫛形に切ったあと、グラスにひっかけるため、さらに皮と果肉の間に切り込みをいれていく。
「あ、そうだ」
果汁を塗って、グラスの縁に塩をつけたところで、俺は足元に放置していたレジ袋を思い出す。ウイスキーとトニックウォーターを出すついでに、袋のなかにある酎ハイを冷蔵庫にしまっておこう。朝日奈に頼まれて買ってきたものだけれど、今日は……あの感じだともう、あの子には飲ませないほうがよさそうだ。甘いお酒の代わりにミネラルウォーターを取り出すと、俺はわざと音を立てて観音扉を閉めた。
◇◇◇
「ただいま」
「朝日奈、重い。退いて」
俺がリビングの扉をあけると、笹塚が膝上にのっかったままの朝日奈に苦言を漏らしているところだった。床には、彼女が脱ぎ捨てたカーディガンとスマホが落ちている。ローテーブルに水とトニックハイボールを置いた隙に、俺は朝日奈がちびちび飲んでいたワイングラスの中身を、全部飲み干してしまうことにした。
「ひどーい。ひとに向かっておもいとか、しつれいすぎる~。だから、ささづかさんはも……あ、にしなさーん、おかえりーなさい」
朝日奈が俺を見つけて、ひらひらとこちらに手を振ったその好機を、笹塚は見逃さない。彼女の体は問答無用で持ち上げられると、笹塚の膝上どころかソファからも下ろされる。何が起こったのか理解が追いつかないのか、相方の足元でコンミスがきょとんとした顔をしている。
「ほら、まだあんたの番だよ」
背後からテーブルを指した笹塚を振り返った朝日奈が、相方を見つめること五秒。彼女はそこでようやく自分のターンだったことを思い出したのか、ボードに向き直ってタイルをいじりはじめた。うーん、と悩ましげな声を上げる彼女をよそに、笹塚は身を乗り出して皿からミックスナッツの袋をつまみあげている。
手元のタイルで手遊びしながら、朝日奈がちらちらと笹塚の顔を見た。ゲームよりも、ナッツが気になるらしい。いつまで経ってもゲームを進めず、ぐずぐずしている職人を見るに見かねて、俺は彼女の隣に腰掛ける。
「……えーっと、どれどれ?」
二人のボードをそれぞれ確認したら、笹塚のほうは案の定、揃いそうなラインがすでにあった。これは、さすがに戦況を覆すのは難しそうだ。今のフェーズでは、どう考えてもあいつを妨害する以外に手はないな。
「朝日奈さん、青のタイルを取ろうか」
「あお?」
「うん、青」
「しょうちいたしました!」
敬礼した彼女の口に、笹塚が餌付けするようにアーモンドを近づける。親鳥の指先に無言で食いついたコンサートミストレスは、木の実をぽりぽりと咀嚼しながら俺の指示通り、青のタイルをすべて引き上げる。
……のかと思いきや、笹塚のほうに顔を向けて「くるみもちょうだい」と口を開けた。
「君たちさ……食うか、遊ぶかどっちかにしなよ」
「だってー。にしなさんちに、おいしいものがありすぎるのがわるいんだよ」
「マカダミアもうまい」
「え、ほんと? ちょうだいちょうだい」
取り寄せたのは俺だというのに、ホストのほうを見向きもせずナッツを貪る二人は、まるでリスの兄妹だ。確かにそのミックスナッツ、焙煎と 塩加減が絶妙なんだよな。美味いのは俺が一番よく知っているので、夢中になるのは分からないではないが、このままだとゲームは一向に終わらない。朝日奈は笹塚の手のひらにあるナッツを選別するのに忙しいようなので、俺は独断で彼女のターンを終わらせることにする。
「なあ、朝日奈。これは食っていい?」
中央の場から青のタイルをすべて取って、朝日奈のボードに並べていると、いつの間にか笹塚がさっきのエクレアの味違いを手にしている。仲良くナッツを食べていたかと思えば、今度はまたスイーツか。しょっぱいもの食べると、甘い物食いたくなるんだよなあ。
わかるよ。……わかるけど。
どっちも、そうやってばかすか食うもんじゃないんだけど。
高級品なんだけど。結構、高かったんだけど!
「あ、だめ。それも食べたい。はんぶーん……いや三等分しよ。にしなさんも食べるでしょー?」
「ん? ああピスタチオのやつ? まあ、食う、けど……って、ん」
問われたので顔を上げると、雑にちぎられたエクレアを朝日奈にノーモーションで口につっこまれる。残った一番長い部分――きっとわざとだろう――を彼女はぺろりと食べると、笹塚が飲んでいたビールを取り上げて、その残りを呷っていた。
だから、もうちょい味わって食えって。
喉まででかかったツッコミは、「おいしいね」と満面の笑みで顔をのぞき込まれてしまえば、もうひっこめるしかない。おまけに今度は俺の唇についたピスタチオクリームを彼女が拭ってくれるのだから、もう完敗だ。さらにその指を口に入れてニコニコと笑いかけられたら、そろそろマジで、いろいろとダメな気がしてきた。そういうのは意識してほしい男に向けてやるべきなのであって、気のない男を誤解させるだけ――って……待てよ。
もしかして、逆?
俺に、意識してほしい……とか? ……いや。
俺も自覚がないだけで、だいぶ酔ってるっぽいな。
「あ、これ、おいしい」
ふいに頭をもたげた自惚れを訂正している間に、テーブルに置いてあった俺のトニックハイボールが彼女の口に運ばれている。グラスの縁を舐めた彼女が「ここ、しょっぱい」と顔をしかめたのと同時に、俺は無言で上からグラスを取り上げた。
「あのねえ、これは俺のなの。っていうか、さっきのビールもだけど、勝手に人のお酒を飲んじゃだめ」
「えー、だってささづかさんもわたしのワイン飲んでたよ。……ってあれ、私のワインは? ん? グラスがからっぽー。さっきいれたばっかなのに」
「笹塚が飲んだんじゃない? とにかく、あいつのやることは真似しちゃだめ」
ジンソーダ缶を空けながらスマホを見ている相方に、しれっと罪を被せてしまう。ごまかしついでに、まだハイボールを狙っている朝日奈のおでこを軽く指ではじいたら、突然、彼女が犬みたいに鼻を鳴らしはじめた。
「ん? どうしたの」
「にしなさん、なんか、いいにおいがするね」
「え?」
急に鼻をぐっと近づけてくるので慌ててのけぞると、コンミスはさらに顔を寄せてくる。俺が片手にグラスを持っていて動けないのをいいことに、紅潮させた頬をすりつけるように、顎のあたりから首元、それから胸元をくんくんと匂ってから、彼女が右へと首をかしげる。なにかが納得いかないようだ。
「えーっと……もう、いいかな?」
「だめ! じっとしてて!」
なんだか恥ずかしくなってきて身をよじろうとしたら、強めの口調で却下されてしまった。腕がつりそうな体勢のまま、彼女の興味が去るのをじっと待っていると笹塚と目が合う。次のターゲットはお前だなと言わんばかりに目を細めたあと、あいつはさっそく俺が買ってきたばかりのスナック菓子を開封している。
それ、コンミスが食べたいっていったやつなのに。
「……あ! ここだ!」
ばりっと笹塚が袋を破く音に、すぐ近くで朝日奈の声が被った。「何が」と俺が尋ねる前に、彼女が俺の左側の腕に鼻をくっつける。その瞬間、別に汗が伝ったわけでもないのに、羽で撫で上げられたように背筋がぞわっとした。
「……あのー、朝日奈さん?」
「んー……」
鼻先をぴったりと俺の腕につけたまま、彼女はじっと動かない。瞑想するみたいに目を閉じた彼女が何を考えているか全くわからないので、俺は目の前で相方にポテトチップスが食べ尽くされていくのをただ見ていると、左腕に柔い感触を覚えた。一体何をしているんだろうと、朝日奈の頭を見下ろすと――。
あろうことか、彼女は。
俺の二の腕を食べていた。
「っ……! こら!」
反射的に叫んだら「あ、ごめんね、いたかった?」と見当違いなことを言う。
痛くはない。痛いどころか、むしろ気持ちい……いや、そういうことじゃない。
そういう問題じゃないって。
とりあえず、一度、冷静になろう。
俺は深呼吸をしてから、見上げてくる飴色の瞳を見つめ返した。
「朝日奈さん、なにしてんの」
「なにって、おいしそうだったから」
「俺の腕が!?」
「君の二の腕ならわかるけど」と口をついて出そうになったが、すんでのところで踏みとどまる。聞けば、俺の左腕から柑橘系の香りがしたので、食べてみたくなったそうだ。おそらく、さっきライムをカットした時に果汁が腕に飛んだんだろう。朝日奈は上機嫌に笑いながら、ぺちぺちと俺の腕を叩いている。さすがにこの状態はマズいので、俺はグラスを置いてから、ゆっくりと後退して彼女から距離をとった。
「とにかく、俺の腕なんか食べても美味しくないから。ほら、水飲んで」
「はあい」
ペットボトルの封を切って、空いたワイングラスに水を注いであげると、調子の良い返事をとともに彼女が飲み干す。美味しそうに嚥下する喉が、食まれた時の温度と触感を想起させる。体が熱くなる前に忘れたくて、一気にトニックハイボールを呷ったら、少しこぼしてしまった。
「あ、そういえば、さっきCMで見たやつ買ってきてくれた?」
「あー。あれ、すごく人気なんだね。コンビニ三件回って、やっと一袋だけ見つけて買えたんだ。君に言われたとおりに、ちゃんと買ってきたんだよ。買ってきた……んだけど、さ」
「ん?」
ほら。あれ。
俺が笹塚のほうを見たら、つられて彼女の視線が動き――顔色が、さっと変わる。
「それ、わたしがたのんだやつー!」
朝日奈が笹塚に飛びかかった拍子に、机の上のボードがひっくり返る。壁の修復どころか、職人たちがフローリングに散らかしたタイルを見ながら、俺はハイボールに差したライムを噛んだ。
3
菓子を食べ尽くされたことに怒って、再び笹塚と取っ組み合った朝日奈は疲れたのか、その後しばらくしてソファで眠ってしまった。肩を揺すっても、耳元で名前を呼んでも一向に起きる気配がないので、俺は我らがコンミスを自分のベッドへと運ぶ。
スマホ片手にだらだらと飲んでいる相方を横目に、散らかしたテーブルと洗い物をざっと片付けてから彼女の様子を見に行く。冷えるからというよりかは、露わな肩と足を隠すために掛けてあげたタオルケットは、少し目を離した間に撥ねのけられていた。頼りないワンピースから見え隠れする肌は目に毒なので、床に落ちたそれをもう一度彼女の体に掛け直すと体が火照って暑いのか、朝日奈の眉間に皺がよる。彼女を起こさないように、ベッドサイドに置いてあったエアコンのリモコンを手繰り寄せたら、眠り姫は敏感にも設定温度を一度下げた音に反応し、豪快に寝返りを打った。
「んー……」
こちらを向いた拍子に、細い指先が俺の手首に触れる。先ほどまで水を触っていたからなのか、俺の肌の冷たさを求めて彼女が指を這わせてくるので、そのまま受け入れる。すると愛らしい口元が、ほんのわずかに緩んだ気がした。
ああ、なんて可愛いんだろう。
恋人ではない男の部屋で、恋人ではない男のベッドで、恋人ではない男と手をつないでいるこの状況については、あとで釘をさしておかなくてはならないとは思いつつも、相手が自分となればついつい甘くなる。穏やかに上下する胸と、安心しきった表情はいつまで見ていても飽きない。
幸い、寝室には俺と彼女以外誰もいない。
つまり、相方は――見ていない。
だから、あと、少し。もう少しだけ、このまま彼女を独り占めしていても、神様は許してくれるだろうか。
酒が入っているのもあって、願望が滲み始めたら抑えがきかない。衝動的に滑らかな手の甲にキスを落とそうとしたら、その瞬間、背後で寝室のドアが開いた。リビングから漏れる光が、朝日奈の顔に差す。振り向けば、もちろんそこに立っていたのは相方だった。
相変わらず、“最高”のタイミングで邪魔するよね、お前は。
俺は心の中だけで舌打ちをして、彼女の手を離した。
「起きそうにない?」
「ああ、ぐっすりだ。このままうちに泊めるしかないかな」
寝返りを打った時にめくれたタオルケットを直して俺がそういうと、笹塚は「ふうん」と相槌を打つ。たいして興味ないような反応をしつつも、相方の視線はコンミスに固定されたままだ。
「なあ、笹塚」
「なに?」
「いつまで、こうして一緒にいてくれるんだろうね。彼女」
俺のベッドで無防備な寝顔をさらす朝日奈の髪を撫でたら、寝室のドア付近で腕を組んでいた笹塚が背を浮かせる。
「……ついこの間まで可愛い女子高生だと思ってたのに」
「おととしだから、この間ってほど最近でもないだろ」
相方のマジレスはスルーして柔らかい頬を指先で優しくつついたら、円いまぶたがぴくりと動いた。笹塚が何もいわないので、そのまま朝日奈を愛でていると、一瞬、相方がなにか言いたげな顔をした。……が、俺は構わずしゃべり続ける。
「彼女、日に日に魅力的になっていくと思わない? 昔のあどけなさが残る笑顔も魅力的だけど、最近は、色っぽい表情にどきっとさせられることもある」
シーツに広がる長い髪を弄んでいたら、急にベッドが沈んだ。
笹塚が反対側に腰掛けたからだ。
「このまま、もっともっと素敵なレディになったら、どこかの王子様に見初められちゃったりして。そうしたら、俺たちともこうして遊んでくれなくなっちゃうのかな」
寂しいね。そう独りごちると、静かな寝息を遮るように聞こえてきたのは、低い笑い声だった。俺が訝しげな目線をやると、笹塚は黒縁眼鏡の中に指を入れて目を擦っていた。涙が出るほど笑うのは酔っているせいもあるだろうが、よほど俺の発言が面白かったみたいだ。
「なんだよ。なにか可笑しい?」
「全部可笑しい。だってお前、そんなこと一ミリも思ってないだろ?」
射抜くような目を向けられて、どきりとする。
「どこぞの“王子様”が朝日奈に近づける隙なんてない。この間のパーティーだって、自分好みに着飾らせて、ずっと側に置いてたのはお前だろ。まるで、みせびらかしているみたいだった」
やはり、笹塚の観察眼は侮れない。露骨すぎないように、できるだけ付かず離れずにいたつもりなんだけどな。ただ、あの距離感であっても”みせびらかす”という表現になるのは、あの日の彼女のスタイルが俺好みだったってことに気づいたからなんだろう。
「あれは……この子が、何着ていこうか迷ってたからフルコーディネートしてあげただけだよ」
一応弁解してみるも、紫髪の奥でひそめられた眉は元に戻らない。彼女の寝息だけが聞こえる薄闇のなか、俺たちがお互いに本音と真意を探り合っていると、急に朝日奈の足が空を蹴り上げて、ベッドの枠外へと落ちた。
「……じゃあ俺も言わせてもらうけど、お前だってそうじゃん」
おてんばな足とロングワンピースの裾を戻してから、俺も負けじと今の今まで黙っていたことを追求することにする。
「先週のツアー終わり、俺に抜け駆けでコンミスとデートしたろ? 『あの笹塚さんがプレゼントくれた』って、すげぇ喜んでたよ。……このアンクレット。そうだろ? アクセサリーをあげるとか、お前こそ、どういうつもりだよ?」
「これは……一緒にショーケース見てて、コンミスが欲しいって言ったから。足になら、演奏の邪魔にならない」
同じように言い訳をした男は、彼女を飾る金の筋をなぞるように細い足首を擦る。くすぐったそうに「うふふ」と笑う彼女の裸足がシーツの上を滑ると、笹塚が追いかけるように彼女の足の親指をつまんだ。手触りを楽しむかのように指の腹を揉む笹塚に、自分だってさっきまで手をつないでいたくせに、妬けてくるから始末に負えない。
「もー……やー、あー、だめー」
やがて笹塚の手が煩わしくなったのか、寝言をいいながら朝日奈のつま先がマットレス
を叩く。その拍子にきらりと光ったゴールドのアンクレットが眼鏡のレンズにひらめくと、途端に俺はいても立ってもいられなくなる。
「ぶっちゃけ、さ。笹塚は朝日奈さんをどうしたいの」
苛立ちを隠せないまま口走った言葉に、笹塚が俺を見る。
「どうって、どうもしない」
「……は。さすが、自信がある男は言うことが違うよな」
いつもなら「そうなんだ」と流せるのに、酒のせいで明け透けになった心がそれを許さない。俺なんて、いっつも怖いのに。怖くて、言えないのに。真正面から「好きだよ」なんて言って拒絶されたら、たぶん、もう生きて いけない。それくらい彼女は俺の内側に入り込んでいたから、今さら“彼女にとって俺が何者か”なんて知りたくないんだ。
「さっき押し倒されていた時だって、まんざらでもなさそうだったもんな、お前。もしかして、あのままキスでもしてもらえると思ったの?」
一度いじけはじめたら、やめられない。言いたいことを言いたいだけ吐き出してから、ハッとする。これだと俺がエクレアのやりとりを覗き見ていたことを白状しているも同然だ。しかし、笹塚は特に気にする様子もなく「嫌じゃなかったから、じっとしてただけ」と答えた。
嫌じゃなかった、か。嫌じゃなかった、ねえ。
今度はリアルに舌打ちしてしまったのは、相方のずるい言い方が、俺の神経を逆撫でたからだった。
耳をすませば、微かに雨の音がする。
「そういえば、わりと尖ってたな」
「なにが?」
「は」
「……はあ?」
意味のわからないことを言って笑ったかと思えば、笹塚が朝日奈の頬を手のひらで包んで「ほら」とつぶやく。そちらに目をやると、軽く開いていた彼女の口のなかには、白い犬歯が見えていた。
俺の知らない、コンミスのこと。
やっぱり、なんだか面白くない。
視線を外せば、リビングの床に落ちた青いタイルが見える。
「笹塚。さっきのボドゲで、俺と勝負しようか」
「いいよ」
「勝った方が、今度のフェス飯、おごりってことで」
「賭けるのは飯なんだ」
「どういう意味?」
悪戯っぽく口角を上げただけで何も言わず、相方が立ち上がる。
よし。次のデートにありつけたら、俺はコンミスにピアスを贈ろう。
普段づかいできそうな、演奏の邪魔にならない華奢なものを。
大人になったばかりの彼女には、何が似合うだろうか。
適当なブランドを頭の中でピックアップしていけば、溜飲が下がっていく。夢の国にいる彼女の耳朶にそっと触れたら、「はやくやろう」と扉の向こうで相方が俺を急かした。