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    tomoshi

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    tomoshi

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    まだ付き合いはじめたばかりの、ちょっと噛み合わない笹唯の話。(ボイス10&年末年始ボイスネタ)

    ily【Side:笹塚】

    「んー……」

    作詞家から送られてきた歌詞と今日もにらみ合いをはじめてから、かれこれ2、3時間。例えば空の青さとか、夜の静謐さとか、風の爽やかさとか、数式の美しさとか、深海の秘めやかさとか。そういうものがテーマになっていたらわりとすぐにメロディは浮かんだかもしれないのに、あろうことか依頼されたのはラブソングだった。

    恋人はいるし、恋を知らないわけじゃない。恋愛関係に起因するさまざまな感情についても理解しているつもりだ。それでも、この歌詞からあふれかえる、大仰しい「好き」を表現するのに必要な感性を、己が持ち合わせているとは思えなかった。

    だから。
    俺はソファに寝っ転がって、スマホでSNSを眺めている相方――仁科諒介の名前を呼んだ。

    「仁科」
    「……。……ん? なに?」
    「『ily』って曲。作るの、やめていい?」
    「や、ダメだから。今更断れないって。昨日も言ったけど」

    あくびをして、組んだ両腕を天井へと伸ばした男が、視界の端に入る。首を軽く左右に傾けたあと俺を見たその顔は、声をかけなければ、あのまま寝入っていたのではと思うくらいには締まりがない。

    「……なんか、珍しいじゃん。お前がそんなに苦しんでるの、俺久しぶりに見たわ」

    気怠い動作で、仁科から手渡されるスマホ。何かと思って画面をみたら、フードデリバリーサービスのアプリが起ち上がっていた。右手側にあったタブレットに目を向ければ、もうすでに夕刻といえる時間は過ぎている。

    「もう、そんな時間か」

    とは言いつつも、迷走しすぎた脳には、食いたいものすら思いつかない。考えることを放棄してなんでもいいと突き返すと、端末を受け取りながら仁科が肩をすくめた。

    「仁科。俺、いつもどうやって曲作ってた?」
    「知らないよ。……ってか、詞先っていうだけでそんなに違うもん? 何がひっかかんの」
    「わからん」

    ため息をついて頭を抱えたら、その拍子に歌詞がプリントされた紙がデスクから床へと飛び降りた。肘をついた腕の隙間に表れた相方の指が、床に落ちたそれをゆっくりと拾い上げる。

    「……たぶん、ラブソングっていうのが無理なんだと思う」
    「なんで? お前が書いたラブソング、チャートでも上位に入るくらい人気じゃん」
    「全部ラブソングのつもりで書いてない」
    「じゃあ、ラブソングってのは一旦、忘れて書けば?」
    「忘れて書いたら、間違いなくこの歌詞にハマらない曲が出来るだろうな。それだと問題を解決したことにはならない」

    ラブソングが無理、ねえ。

    そう独りごちた仁科が、紙をめくるような音を立てる。インクで綴られた甘ったるい言葉を目でなぞったのだろう、やがて作曲をしない相方が「わからないなあ」と他人事のように唸った。自身が設定したテーマからひどく乖離した歌詞が曲につけられることと、納得のいかない歌詞にメロディをのせることに差異はそうないだろうと思っているのかもしれないが、こと俺が困っているのは、コレが“ラブソング”だからにほかならない。

    だって。俺の知る恋とは。
    恋というものは――。

    「お前は、恋愛ってこんなに大げさなものだと思うか?」
    「……は?」
    「俺にとって、恋はドラマティックなものじゃない。なにより、色恋と命を天秤にかけるのはナンセンスだし、世界が明日急に終わるはずもない。ここで言う“敵”は間違いなく仮想敵だし――」
    「あのさあ、笹塚」

    途中で言葉を遮られたので顔をあげると、目に入ったのは哀れむような眼差しだった。

    「……命が惜しいなら今言ったこと、絶対コンミスに言うなよ」

    なんで。
    どうして、俺が、あいつに――朝日奈唯に、殺されなければならないのだろう。

    刺激的なジョークに、つい恋人から刺される自分を想像して眉をひそめると、それを吐いた張本人が吹き出す。「冗談だって」と言われたが、そんなことは分かっている。分かった上での“どうして”だったのだが、きっとそこまでは理解しなかった仁科が「理屈じゃないんだよ」と、プリント用紙を雑にテーブルに投げながら言った。

    「この歌詞みたいにさ、女の子ってこういうのが好きなの。自分の命と引き換えにしてもいいくらい好きとか、君と結ばれるなら明日世界が終わってもいいとか、全人類が君の敵に回ったとしても俺だけは愛してるとか、彼氏に言って欲しいものなんだよ」

    耳に入ってくるリアリティのない文句に、思わず嗤う。
    それ、絶対、本心から言うヤツいないだろ。

    「……お前が言うと、ますます嘘っぽいな」

    うるせぇよ。
    そういいながらも口元が笑っている相方の姿は、まるでそれが虚像であることを証明しているかのようだった。


    目についたタブレットペンを手持ち無沙汰に回しながら、考えるのは俺にとっての恋だ。俺にとって恋とは、水に溶け込むように、空気に混ざっていくように、どこにでもあるもので、どこまでも普遍的なもの。
    だから――。

    「俺にはこんな気持ち、理解できない。俺にとって恋はもっと日常的で、恒常的なものだから」

    思うままにつぶやくと、「コーヒーでも淹れるわ」とキッチンに向かいかけた仁科の足が止まる。

    「コンミスの『おはよう』のメッセージから始まる朝とか、昼飯食べてるのにコンミスが作ったクリームシチュー食べたくなるとか、近所の子どもが奏でるバッハに、夕暮れの木蓮館で聞いたコンミスのヴァイオリンを思い出すとか……まあ、とにかく、俺の頭のなかにはずっと朝日奈がいるんだ」

    回るペン先を見ていれば、「私ならもっと上手く回せる」とヘンなところで対抗意識を燃やしていた彼女の姿が蘇って、笑いがこみ上げる。

    「朝から晩まで。四六時中、恋を自覚している。それこそ、こうやってお前と話してる、今でさえ――」
    「ふふっ」
    「……ん?」
    「ふ……、っく、ダメだ、我慢できない。……っ、あははは!」

    ……びっくりした。

    突然声を上げて笑いはじめた相方に驚いて、ついタブレットペンを落としてしまった。デスクに落ちた白い棒が転がり、やがてキーボードに当たって止まってもまだ肩を震わせている仁科が、笑いを堪えながら俺の背中を叩く。

    「はー……。……っふ、年明けたばっかなのに、1年分笑った気がする。……ま、頑張って。あ、作曲のことな」

    いっそ殺してほしいのは、俺のほうだわ。
    独り言のようにそう言ってキッチンに相方が消えるやいなや、スマホに通知が飛んでくる。……仁科だ。同じ部屋にいるというのになんだろうと目を向ければ、さきほど注文したデリバリーサービスの代金が俺にツケられていた。


    ◇◇◇


    年が明けてしばらく経ち、落ち着きを取り戻した街を歩くと、先週よりも一段と冷たい風が髪を嬲っていく。信号待ちをしていたら、ショーウィンドウに自分の姿を見つけた。自分の立ち姿なので、特になにも思うところはない。が、赤が青になったその瞬間、ふと昨年末「鬱陶しくないんですか」と言われ、前髪を結ばれた――そう、今そばを通り過ぎた女児みたいに――ことが俺の脳裏をよぎった。

    「あー……そうだった」

    「可愛い、可愛い」とはしゃぐ彼女は嫌いじゃなかったが、どことなく子ども扱いされているようで面白くなかった、あのなんともいえない感じがぶりかえして足を止める。あの日と同じ展開になるのを避けたかった俺は、横浜へ行く前にまずは髪を切りに行くことにした。

    頭を軽くしたあとは予定通りに木蓮館へと向かう。平日の昼間ということもあって誰もいない館内はひっそりとしていて、やはりというべきか、練習室はどこでも使い放題だった。適当な部屋を選んで、暖房をつけて、荷物を下ろして、必要なものを取り出して準備が整えば、さっそく作曲作業を始める。

    とりあえずピアノを開けてから、例の歌詞を思い浮かべる。たかだか400字程度のリリックはもう見るまでもなく頭に入っているというのに、目の前にあるスコアはまだ白紙だった。あれから1週間。結局いろいろと作っては消して、また作ってを繰り返し、終いには飽きて何日か放置していたのだが、さすがに締め切りを意識し始めてここに来た。彼女をより感じる場所であれば、幾分マシなフレーズがひらめくのでは。そう思ったからだった。

    『とりあえず詞のことは忘れてさ、いつも通り曲先で作ってみたら』
    『無理矢理ハメてみて微調整すれば、なんか良い感じになるかもしれないだろ』
    『最初からそんな完璧じゃなくてもいいじゃん』
    『ダメだったら、先方から修正指示が出るって』

    ここにくる前に、大学へ出かけていく相方から掛けられた言葉の数々を思い出し、無駄に苛立つ。俺の心理的負担を軽くするため、妥協点を提示しているように装っているが、あいつは単に『締め切りに間に合えば、とりあえずはなんでもいい』って言いたいだけだ。暫定的な譜面を作品として出すことになんの意味がある? 作曲者自身が中途半端だと思ったものが、誰かにとっての完璧になることなんてあり得ないので、俺には違和感しかなかった。 

    ……ああ、そうか。
    意味。それが必要だ。

    ラブソングを作る意味。意義。「恋は理屈じゃない」という仁科の言葉にヒントがあるような気がして、頭で反芻しながら鍵盤を見つめる。きっと、俺がすべきことは、すでに言葉になった思いを変換するのではなく、条理を無視した感情の裏側に目を向けて紐解くことなんだろう。

    「うん、イケそうだ」

    頭がクリアになると、ひとつアイデアが生まれる。やはり、場所をココに変えたのは正解だった。

    この際、禁則とか、コード進行の定石とか。
    全部、無視しよう。

    鳴らす、中央のC。
    いつも通り飾らないその音色に、俺はただ、朝日奈に会いたいな、と思った。


    【Side:朝日奈】


    ものすごく久しぶりに笹塚創から連絡が入ったのは、夕方の4時をちょうど過ぎた辺りだった。“木蓮館にいるから、今すぐ来て”というマインに私が眉をひそめたタイミングで、隣にいた友人が「じゃあ、またね。私、今日、塾だから」と席を離れカフェテリアを出て行く。

    「え……?」

    はやくない? 今日は7時からだから時間あるって、言ったじゃん。
    そんな疑問を投げかける間もなく、友人の姿はすでに食器返却口の向こうへと消えている。目が合ったので手を振ると、ふざけたウインク。……なにそれ。どういう意味よ。

    友人のあまりの素早い動きに唖然としていると、すぐ近くの席で男子大学生が立ち上がる。隣の席に置いたバックパックを右腕にかけてから、丼鉢が載ったトレイを左手で持ち上げ、さらに乗せ忘れていたコップに気づいて、右手をのば……――あ。

    がちゃん、と。
    プラスチック製の食器が倒れた音に、反射的に席を立つ。

    ポケットティッシュを片手に大学生のもとに駆け寄り、零れた水を拭き取りながらも、忙しなく動くのは手より頭。悔しいかな、さきほどから脳内を占めるのは、友人のことではなく、先ほどきたばかりのマイペースなマインの文面だった。

    「はあ……」
    すんでのところで床が濡れるのを防ぐのに成功したというのに、ため息がこぼれる。

    本当に、あの人は。
    いや、そうじゃない。
    私は、どうしていつも、こう……。

    デートの誘いを既読スルーされた数日前のことは忘れていないはずなのに、彼からのメッセージに即反応してしまう自分自身にイラっとする。

    「あ、あの……すみません、ありがとうございます」
    「あー……! もう!」
    「……ひっ」

    そう! そうだ! 今日は! たまたま! 偶然! 突然!
    ……時間が、空いたから。

    別に笹塚に呼び出されたから――恋人に会いたいから、私の都合なんてまるで考えてない、身勝手極まりないマインに従ってあげるわけじゃない。

    「……しょうがないなあ! 笹塚さんは!!」
    「あの、えっと」

    自席に戻って、素早くゴミとトレイを片付けると、ヴァイオリンケースとバッグを手に、急いでカフェテリアの出口に向かう。すると開いた扉の先で、危うく女子大生とぶつかりそうになる。慌てて頭を下げると、視界をよぎる派手な色をした本が気になった。『理屈で分かる言語感覚』、何かの講義の教科書だろうか。色以外はなんてことはない本なのに、ロングヘアーが垂れる胸に抱かれたその本のタイトルは、やけに記憶に残った。


    ◇◇◇


    「あ、朝日奈。来たんだ」

    呼び出したのは自分のくせに、恋人はこちらを振り返ることもなく、まるで、たまたま、偶然、そこで落ち合っただけかのように私の名前を呼んだ。笹塚の声には特に何も応えずに、とりあえず手近な席にヴァイオリンケースを置く。制服姿でいることがなくなってからだいぶ経つ後ろ姿に近づくと、彼の髪型になんとなく違和感を覚える。すぐ真後ろまで来ると、普段とは違う整髪料の匂いにひとつ、分かったことがあった。

    ははあ。なるほど。

    外見にこだわらない彼にしては、いたく今日は頭の形がまとまっているのはここへ来る前にヘアサロンに寄ってきたかららしい。そんな笹塚の変化に気づいた時、そういえば私たちはこの2週間、雑談らしい雑談を一切していなかったことに気づいた。散髪なんてどうとでもないこととはいえ、2週間あまりの間、恋人の予定を知らされることすらなかったという事実に、なんとなく悲しくなる。

    「何か私にご用でしょうか!」

    ちょっとわざとらしく言ってみるも、彼の指は鍵盤上に置かれたまま。私が隣に立っても、視線のひとつすらよこさない。2週間ぶりのふたりきりだというのに、そんなものだろうか。私に背をむけたままの状態で彼が右から差し出したスコアを受け取ると、リブニットの肩には、カットの名残。上々の答え合わせだった。

    「これ、初見で弾いて。音、ちょうだい」
    「……はあ」

    恋人として付き合うようになる前と、なんら変わらないやりとりに、つい生返事になってしまった。基本的に、笹塚が私を呼びつけるときはほぼもれなく音楽が絡んでいる。彼は私に会いたいわけではなく、彼の音楽に必要だから私に積極的に会いに来るのだ。それは、付き合う前も、今も、変わらない。

    告白をして、唇が触れるだけのキスをした。
    きっと笹塚にとっては、ただそれだけのこと。

    それが、たったそれだけのことが、私にとってどれほど大きな意味をもつことかなんて、劇的なことかなんて、彼にはたぶん、想像もつかないんだろう。

    「目、通した?」
    「あ、まだ」

    ぐちゃぐちゃ考えるのは、あとにしよう。別に、現状に不満があるわけでもなし、彼を嫌いになったわけでもない。それどころか――いや、だから、あとにするんだってば。

    「えーっと」

    わざとらしく独り言を口にして仕切り直して、いそいそとスコアに目を通す。……と、すぐにわかることがあった。タイトルは『ily』で、曲名にも曲調にも特に覚えがない。ということは、おそらく新曲なのだろう。それにしても、笹塚にしては珍しく、タイトルがすでに決まっているらしい。

    変ロ長調。Hから始まっているその譜面は、笹塚のものにしてはなかなかに白く、非常にシンプルなものだった。ざっと見てみたら、初見でも問題なく弾けそうだということは分かったが、ちょっと変な響きになりそうな部分がある。あと、何も指示的な書き込みがないのも気になった。これは、私が思ったとおりに弾けばいいということだろうか。

    うーん。どうしようかな。
    悩みつつもう一度頭から目を通したら、ふと思い当たる。
    この譜面、バッキングのパート譜だと思っていたが、もしかしたら違うかもしれない。
    6小節目のこの感じ……案外、メロディーラインなんじゃないだろうか。

    ……ということは。まさか。

    「仁科さんはお元気ですか?」
    「仁科? 今日会った時は元気そうだったけど」
    「なら、よかった。……これ、主旋律でしょ? 私の知らない間に、仁科さん、怪我でもしちゃったのかと思ってどきっとしちゃった」

    ここでようやく笹塚がこちらを振り返って、この部屋にきて初めて私は恋人の顔を拝んだ。一瞬彼の肩が震えたような気がしたが、その後の笹塚はいつも通りだったので、気のせいだろう。黒縁眼鏡の奥にある瞳が私の手元を一瞥すると、「それ、ネオンフィッシュの曲じゃないから」とひとこと。ああ、そうなんだ。てっきり、仁科さんに演奏できない理由があって、仮音として呼び出しやすい私に白羽の矢が立ったのかと。

    とにかく、仁科さんが無事でよかった。

    「それじゃ、準備しますね」
    話が終わってしまったので笹塚の側を離れようとしたら、「待って」とスコアを持つほうの腕が取られる。引っ張られるというよりかは、掴まれるような圧を親指から感じて、つい顔をしかめたら「悪い」というつぶやきとともに解放される。どうしたんだろう。何か、私に伝え忘れたことでもあるのだろうか……と思っていたら、笹塚が立ち上がって、ふたたび同じところを、今度は制服だけそっとつまんで引いた。

    「じっとしてて」
    「え? うん」

    袖がつっぱる感じがなくなったと同時に、肩を抱かれ、顎が捉えられ――鼻先が触れるほどに顔が近づくと、シトラスの香りが強くなる。

    「あ」

    何をされるかわかった瞬間に、間抜けな声を発した私の唇が塞がると、レンズ越しにみえる瞳がおもむろに閉じられる。意外と長さのある下睫毛と絡む息。ついばむように触れてくる唇には、まだまだ全然慣れなくて、突き飛ばしたくなる衝動にかられるほどに恥ずかしい。とにかくぎゅっと私も目を瞑って耐えていると、ものの数秒で笹塚は離れていった。

    目を開けると何食わぬ顔をしたコンポーザーが、レコーダーを手にしている。首元にあったヘッドフォンが耳を覆っているところを見れば、音を録る前に何か確認しなければならない点でもあるのだろうか。

    と、いうか。
    ……今の、なんだったんだろう。

    遅効性の毒のようにじわじわ体内を回るキスに、胸がどきどきして顔があつい。とりあえずちゃんと演奏するためにも、一度、落ち着こう。席に置いたヴァイオリンの元へと戻りながらこっそり深呼吸をすれば、彼から手渡されたスコアが右手でかさりと鳴った。


    【Side:笹塚】


    ヘッドフォンを外してPCMレコーダーを起動したあと、俺はヴァイオリニストに合図を出す。こちらを見てすぐさま目を逸らした恋人の仕草に落ち着かなくて耳に手をやると、まだ少し熱い気がした。
    キスのあとぎゅっと目を瞑って俺のニットを掴んだ恋人を見た瞬間、とっさにヘッドフォンを首にかけたのは、帯びていたであろう耳の赤みを彼女に悟られたくなかったからというより……、なんだろう。自分でもよくわからない。ただ、ひとつわかることは、別に手にするのはヘッドフォンだろうが、タブレットだろうが、ピアノだろうが……気を紛らわせるものならなんでもよかったということだった。

    浅い呼吸がして、朝日奈が愛器を構える。

    彼女の一挙手一投足を見逃さないようにじっと目で追いかけたら、唐突にヴァイオリンが耳障りな音を鳴らす。しまった、という顔で、慌てて演奏をやり直した彼女とは裏腹に、胸にはじんわりと甘い何かが満ちていく。

    俺が今。まさに今、欲しかったのは。
    この朝日奈だったからだ。

    理屈じゃない音。ロジックを無視した音。
    キスに手綱を握られた音。心ここにあらずな音。
    彼女の意識がすべて、俺にある音。

    ぎりぎりのところで雪崩れさせずになんとか音を保つさまは、まるで感情の制御を表現しているかのよう。速度や強弱の指定もなく、アーティキュレーションや発想記号もない。どこまでもシンプルな音符の羅列を奏でるのは、俺が触れたことによって波及した面映ゆさと、伝線した熱だった。

    やがてこのままではいけないと思ったのか、綱渡りを続けていた奏者が唇をきゅっと噛みしめる。……が、その行為は無駄に終わる。なぜなら、俺の作曲の癖をいつの間に見抜いたのか、「このメロディは主旋律に違いない」なんてしれっと言い出した時のような冷静さは、終始一向に戻ってこなかったからだ。

    むしろ唇を噛むという行動が想起させたのは、きっと――。

    演奏を終えて、複雑な表情をしながらも、一瞬。
    彼女がはにかむ。

    たまらなくなって、俺は唇を指でなぞった。


    【Side:朝日奈】


    ……散々だった。
    自分でもわかる。酷い。しっかり気持ちを整えて挑んだつもりだったのに、私にキスをした当の本人に、目の前で食い入るように見つめられたら……いくら煩悩を振り払いたくても振り払えなかった。

    「もういいよ」

    レコーダーを止めてそう言った笹塚に、思わず叫ぶ。
    もう1回。もう1回だ。
    今度こそは、きちんと弾いてみせる。シンプルに音だけをさらって、綺麗に、混じりっけのない音色を響かせて……。

    「必要ない」

    言い募ったら、一蹴されてしまった。……ああ、2週間ぶりにふたりきりでする会話が、コレなのか。不甲斐ない自分に、がっかりして泣きたくなる。でも、泣いちゃいけない。
    すべては、私が悪いのだ。

    それでも。
    きっとあのキスさえなければ。

    どうして、こう、噛み合わないんだろう。
    やっぱり、私の恋人のことがよくわからない。
    『理屈で分かる笹塚創』って本がもしあるのなら、絶対、片時も離さず持ち歩くのに。
    どうでもいいことを思いながら、私は再び唇を噛んだ。


    【Side:笹塚】


    録れ高として、釣りがくるくらいには十分。あとは、これを分析すれば俺が作りたいものが作れるだろう。理論を無視してつくった旋律に、理屈じゃない演奏から発想する表現。それに現実味のない歌詞が合わさると、きっと――いや、必ず面白くなる。それが確信できたからテイク2はいらないと言ったのに、どうしたことか朝日奈はうつむいてしまった。
    その姿に、俺の胸のうちにあった高揚感は冷や水を浴びせられたように消え、あっという間に動揺へと変わっていく。

    これまで、何度となく似たようなことを頼んできたけれど、いつもは「もう1回」なんて言わないのに。前にワンテイクだけで満足のいく演奏をした時は、勝ち誇るような顔で俺を見たくせに。なんで、どうして。……と、疑問を脳内が支配しかけた時にちらついたのは、あの相方の言葉だった。

    窓を見やると、いつしか日は沈んで、夜が忍び寄っている。
    この時間に誘うなら間違いなく夕飯なのだが、きっとこの場合も――理屈じゃないんだろう。俺は、記憶に残っていたメッセージを頭の片隅から引っ張り出すと、別の提案をしてみることにした。

    「朝日奈」

    タブレットの電源を落として、ピアノを閉じてから恋人の名前を呼べば、ヴァイオリンを仕舞おうとした彼女の動きが一瞬止まって、また動き出す。うまく、聞こえなかったのかも知れない。背後から近づいて、もう一度名前を呼んだら、今度こそ朝日奈が振り返った。

    硬く結ばれた口元と相反して、すがるような色をした瞳。
    こちらを見つめる今にも泣きそうな顔に。
    俺は、さらに、理を見失った。


    【Side:朝日奈】


    「うわあ!」

    近づいてきたと思ったら、今度はいきなり後ろから抱きつかれて、思わずヘンな声が出てしまった。笹塚は私の声に驚いたのか、すぐに腕を離してしまう。が、そのままじっとしていると、おずおずと私の頭を抱えて、甘えるように鼻先を髪に埋めた。

    規則正しい呼吸のリズムを後頭部に感じながら、そういえば、突然のスキンシップも今に始まったことではなかったなと思う。

    彼のすることにはすべて、どんな時にも合理的な理由がある。
    だから、さっきのためらいのないキスにも、私には計り知れない深い、深い意味があるに違いない。

    それでも、たぶん。
    この抱擁は、それらとは違うんだろうな、と思った。

    恋人だというのに、こわごわと私の身体を包む腕と、控えめにすり寄せた頬から感じる驚きに似た戸惑いは、この触れ合いが衝動的なものだということを物語っていたからだ。

    というか、そもそも。
    天才のこれまでの人生のうちで、きっと私との恋だけは。
    理屈じゃないのだ。

    廊下から聞こえた誰かの足音に我に返って、いつしか首元まで下りてきた腕に手を添えると、指が絡めとられる。
    どうも離す気はないらしい。

    「甘いもの、食いに行く?」

    ニュートラルな声色が、右耳をくすぐる。

    「それって、今からデートってことですか?」
    「……そうデート。……あんた、したいんだろ?」

    “興味がないのはわかるけど、彼女がデートに誘ったっていうのに既読スルーって、酷くない?”
    カフェテリアで、友人に漏らした愚痴がリフレインする。

    「覚えてて、くれたんですか」
    「覚えてたっていうか……さっき、マインしたときに履歴見た」

    素直だなあ。そこは、覚えてたって言えばいいのに。
    今日まで忘れていたことを隠す気もない態度に、あきれて物も言えない。それでも一周回って面白くなってきてしまえば理屈抜きで笑えるから、恋というものは不思議なものだなと思った。
    私の笑い声に、笹塚が息をつく。ほっとしたように力の抜けた手が解かれると、やがて片付けの続きを促すように私の背中を撫でた。

    「なあ、朝日奈」

    ヴァイオリンケースを閉めて肩にかけたら、暖房を止めた笹塚がこちらに向き直って、私を見る。

    「俺は、命と引き換えにしてもいいくらいあんたが好きだし、あんたと一緒にいられるなら明日世界が終わってもいいし、全人類があんたの敵に回ったとしても、俺だけはあんたを愛してるよ」
    「……え、なにそれ」

    意味不明なことを口走った恋人に、私も素直に感想をぶつけたら、「やっぱり、そうだよな」となぜか笹塚が上機嫌に頷いた。
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