月はグリーンチーズでできている1
万物は数なり。
かの天才ピタゴラスは鍛冶屋の前を通りがかった際、ハンマーの重量が簡単な整数比のときに、綺麗な協和音程を奏でることを突き止めたという。日常的な環境音から“美しい音楽とは、数学的にも美しい”ということを証明してみせた数学者に思いを馳せながら、俺――笹塚創は考える。ノイズキャンセリング機能搭載のヘッドフォンをも貫き響く、この不規則な打音から、自分は一体何を編み出せるだろうか。
「……何の音?」
ヘッドフォンを外した瞬間、軽い木の棒を打つような音とビニールが擦れる音、咀嚼音に似た音と、金属製のなにかが発した共鳴音が、一気に耳に届いて唸る。
テナードラム、ティンバレス……いや、そんな音じゃなかったな。フロアタム? どの楽器に似ても似つかないその音に興味を惹かれ耳をすましていると、今度はキッチンの方から朝日奈唯の声が聞こえてきた。
「ほら! 銀河くんも早く手伝って。まだまだいっぱいあるんだから」
「え~、待って待って……俺、まだ手洗ってない」
コンミスに急かされているのは、一ノ瀬銀河――先生か。休日に先生が寮のキッチンにいるなんて珍しいな。水がシンクを叩く音に喉の渇きを思い出した俺は、作業を中断して椅子から立ち上がる。
「はい。私のエプロンで、手、拭いてもいいよ」
「お、さんきゅ。……で? とりあえず俺は、このビスケットを開けていけばいいわけ?」
「そうそ――あ、笹塚さん」
冷蔵庫に近づく俺に気づいた朝日奈がこちらを見る。すると、隣にいた先生も「おう」と俺を見て、青いシャツをまくった片手を挙げた。彼女の手に握られている棒――おそらく、生地を伸ばしたりするのに使うやつだ――どうやら、あれが謎の音の発信源らしい。
「何してるの」
「チーズケーキ、作ってるんですよ」
それは……作業台に置かれたクリームチーズとケーキ型を見れば、料理については門外漢の俺でも、だいたいわかる。質問の仕方が悪かったようだ。冷えたペットボトルの蓋をひねりつつ、再度朝日奈に問おうとしたら、俺より先に口を開いたのは先生だった。
「砕いたビスケットを、ケーキの底に敷くんだと。ほら、チーズケーキって、サクサクするとこあんじゃん? あれよ」
なるほど。チーズケーキのボトムは、ビスケットを砕いたもので作るのか。俺の疑問を解消してくれた先生は、鼻歌を歌いながらパッケージを開封し、ビスケットをジッパー付きのビニール袋へと入れていく。一枚、また一枚。無意識か意識的かはわからないが、先生と朝日奈が繰り返す同じ動作が重なると、どことなくカノンに聞こえてくるから面白い。
「銀河くん、こっちにその余ったやつ、入れて」
「ほいよ」
冷蔵庫にもたれて、なんとなく二人の作業を観察していると、足元に段ボール箱があるのに気づく。口が開いていたので、しゃがんで確かめると、中身は全部桃の缶詰だった。
「あー、悪い。それ、俺が持ってきたやつ。邪魔だったか」
いや、別に。俺が首を横に振って立ち上がると、ちょうど一ノ瀬先生は空になったビスケットの箱を畳み終えたところだった。流れるような動作で箱にはさみを入れたあと、なにかを切り出して、あっという間にポケットに入れてしまう。なにを箱から切り取ったんだろう。一連の動作を見て考え込む俺に気づいたのか、「そんな難しい顔しなさんなって」と先生が眉を下げた。
「ほら、これ。このマーク集めて応募すると、金券が当たるんだよ」
ポケットから紙片を取り出し、種明かしをして笑う我がオケのコンダクターは相変わらずだ。あんたの腕ならどこかで一曲弾いてきたほうが、短時間で確実に稼げるんじゃないのか。そうは思いつつも、そもそも学生オケの指揮者なんてやって、人生自体の遠回りをしている先生に言ったところで、なんの意味もないだろう。
「逆に、切手の無駄遣いじゃない?」
穴があいた箱の側面を見て、朝日奈がつぶやく。俺も同感だったので頷くと、先生がわざとらしく人差し指を左右に揺らす。
「……そう思うだろ? 意外と当たるのよ、コレが。お前らもやってみ?」
懸賞の勝率を嬉々として語る先生は楽しげだったが、横にいるコンミスは渋い顔をしている。やがて痺れを切らした彼女に「銀河くん、手が止まってる。ほら、もう一コ開けて」とせっつかれる姿は、まるで大きな子どものようだった。
ミネラルウォーターを呷ってから、小腹を満たすために屈んで桃缶をひとつ箱から拾い上げると、朝日奈から即座に「待った」がかかった。ざっと数えて十個近くもあるのに、これはすべてケーキづくりに使用するらしい。缶を元の場所に戻していると「それ、ぜんぶ特売セールで俺が買ってきたんだ」と、頭上から先生の声がした。
「たんまり仕入れたのまでは、よかったんだけど、一人で食い切れないうちに賞味期限がきちゃってさ~。で、それを朝日奈に話したら、チーズケーキにして、みんなで食っちまおうってことになったのよ」
「特売セールの缶詰って、もともと期限短めのやつ多いしね」
パティシエさんのおっしゃるとおりで。首をすくめてそう言った先生の隣で、朝日奈は袋のジッパーを閉じていく。作業をしていて暑くなってきたのか、ハイネックニットの首元を指で広げた彼女の横顔は、いつもより少し赤い。確かにこの部屋、暖房の設定温度、高いよな。じわりと汗が滲んだ朝日奈の額を意味もなく眺めていたら、彼女の向こう側にいる先生と目が合う。なんだろう。見つめ返すと、何事もなかったかのように逸らされてしまった。
「スタオケのみんなに、ケーキを焼いたら~♪ ビスケットの箱の、マークがとられた~♪」
いつのまにかさっきの棒を手にした朝日奈が、BPM百二十で歌いながらビスケットを叩き始める。『エリーゼのために』のメロディに彼女がのせるのは、さきほどあったばかりの出来事だ。木製のボードの上、とんとんと小気味よい音がすると、綺麗な円形をしていたビスケットが粉々になっていく。大きな塊がなくなったら、今度はビニールの上から棒を転がす。すると、黄金色はより細かい粒子へと変化していった。
砂を踏みしめるような音に俺が耳をすませていると、遅れて先生もまた棒を手に、彼女と同じようにもうひとつの袋へと打ち下ろす。コンミスとコンダクターが奏でる、ビスケット粉砕のハーモニー。なんともいえない、そのざらついた破壊音がだんだん癖になってきて、俺はスマホをポケットから取り出そうとした―が、ない。食堂に置いてきたようだ。
「銀河くん~、こまかい~、がめつい~、欲深い~♪」
録音をあきらめた俺をよそに、朝日奈が歌うロンドはまだ止まない。一方、即興で名指しされた先生はというと、大げさに「ええ~」と不満げに声を上げている。
「お前、いくらなんでも、その言い草はないだろ。そもそもそのビスケットは」
「銀河くん、反論は歌なら受け付けます」
先生の苦言を遮った朝日奈が、悪戯っぽい表情でさらに煽る。すると、銀髪の大人はにやりと口角を上げて、作業していた手を止めた。そこから、思案すること十秒。目を閉じた指揮者の顔を、コンミスが興味深そうにのぞき込めば、Eの音から始まるハミングが微かに聞こえてくる。
こっちは――年末によく聞く、アレか。
「もともと、どちらも俺の金です~♪ なんでも無駄にしないのが俺のポリシー♪」
ベートーヴェン返しとでも言うべきか。先生が“第九”の替え歌で応戦すると、朝日奈が「なにそれ」と吹き出す。私の方が上手だの、俺の方が音程は正確だの。俺から言わせてもらうと“どっちもどっち”な言い分を聞いていると、やがて楽聖の名曲で遊ぶのに飽きたのか、二人は急に顔をつきあわせて笑い始めた。放置されたビスケットの奥、畳んであった空箱が朝日奈の手に当たって落ちるのを見ながら、俺は考える。一体、今の替え歌の、どこに面白いポイントがあったのだろう。しばらく二人の歌声を脳内で反芻してみたが、俺にはさっぱりわからなかった。
「……あ。笹塚さんは、黄桃、好きですか?」
「うん」
「よかった。じゃあ焼けたら、できたて、一緒に食べましょうね。桃のチーズケーキ」
俺もご相伴にあずかれるらしい。そういうことなら、とりあえず今はコレだけにしておこう。脇に飲みかけのペットボトルを挟んで、誰かが置いたガラスジャーから一枚クッキーをくすねて咥えると、チョコレートの味が口に広がる。そのままチョコチップクッキーを平らげていたら、すぐ後ろで「あ!」と、朝日奈の声がした。
「……そういえば、銀河くん。バター常温に戻してくれた?」
「あ……っ、いけね、忘れてた」
「もーしっかりしてよ」
この調子だと、ケーキが焼き上がるまでに、あと何時間要するのだろう。
……ま、いいか。
クッキーを一枚追加で口に放り込んだら、俺はふたたび聞こえてきた二人の楽しげな声を背に、キッチンをあとにした。
2
「とりあえず、仮置きでこんなもんか」
依頼された曲の枠が大方出来上がったところで、俺の集中力は途切れる。スマホを見れば、食堂に戻ってから約一時間が経っていた。そういけば、おやつの時間はまだなのだろうか。そう思ってキッチンのほうへ視線を投げたら、俺の目の前を桃缶がひとつ、ころころと横切っていく。
「……ん?」
椅子にぶつかって止まったそれを拾ってからヘッドフォンを外すと、賑やかな声に混ざって金属の切断音がした。今度はビスケットではなく、缶詰を開封するフェーズに移行したらしい。
あのね。それでね。友達のことなんだけど。放課後に、朔夜とね――。
がりがりと刃が進む音に混ざって断片的に聞こえるその声は、いつもよりハイトーンだ。菓子づくりをする朝日奈は何度か見かけたことがあるが、今日はいつにも増してテンションが高い。……いや、高く装ってるのか。本選が終わってからここまでいろいろあったから、きっと彼女は彼女なりに、心配をかけまいと必死なのだろう。
「……で、その先生、通りすがりに私に気づいて、褒めてくれたんだよ。この間の路上ライブよかったよって」
「そっか、よかったなあ。お前、いつも頑張ってるもんな」
チーズケーキの進捗を確認しがてら、捕まえた桃缶を届けにきたら、出入り口のすぐ近くに先生がいた。下を向いて何かを探している様子に、おそらくコレのことだろうと手にしていた桃缶を俺が差し出すと「お、食堂まで逃げてったか。邪魔してごめんな」と先生が手刀を作って謝るような仕草をした。
「それからね、その先生とすれ違ったあとに――」
話に夢中で俺に気づかない朝日奈の手には、黄色い缶切りが握られている。口と手を同時に動かしているからなのか、その動作はやや危なっかしい。時折差し込む刃先がズレて外れるのは、グリップを握る手に余計な力が入っているからだ。
「あ、そうそう! このあいだ篠森先生から聞いたんだけど――」
ひとつ開け終わって、すぐさま朝日奈が次の缶を手にする。縁に缶切りをひっかけて、もう一方の手で缶胴を支えているが、さきほどよりも上の方を持っているためか、あまり安定していない。
あの調子だと、遠からず指を切るな。
話すことに必死で、注意が散漫になっている。とりあえず怪我をする前に止めないと。そう思って俺が声をかけようとした、その時――。
「なあ、朝日奈」
「なに?」
一ノ瀬先生の声に、コンミスが手を止める。
「缶切りって、どうやって使うんだったっけ? こういうタイプのやつ、久しぶりすぎて忘れちまった」
「久しぶりって……銀河くんちにある缶切りってどんなのよ」
「俺んちにあるやつは、ハイテクなのよ。ボタンひとつでパカって開くヤツ」
「そんな便利なの、ないから」
「ある。あるんだ……え、何、その目。もしかして俺、疑われてる? いやマジでほんっとーにあるんだって!」
「あー、はいはい。わかったから、ほら、さっさと缶切り持って。まずはこうやって――」
「嘘じゃないんだって!」
ひとしきり騒いだら、朝日奈の動作は先ほどよりもゆっくりになる。先生に使い方を教えるためになのか、丁寧に、ひとつひとつ刃を入れていく様子に安心して彼女から視線を外すと、隣で作業する先生の手元が目に入った。忘れてしまったと言ったわりには、缶を開け進める先生に、手際の悪さは一切見られない。
ああ、なるほど。そういうことか。
「おお……綺麗に開いたぞ」
「免許皆伝だ」と笑うコンミスに先生がハイタッチをすると、朝日奈の空気が変わる。どうやら料理への集中力を取り戻したようだ。スムーズに缶を開けていくコンミスを見届けたあと、俺の脳内を占めたのは一ノ瀬先生のことだった。うつむく銀髪から垣間見える表情からは、やはり、なにも読み取れない。
それにしても、先生はいつまで“これ”を続ける気なのだろう。
朝日奈の力の流れを自然に変えた今のように、先生はいつも先回りして、指揮台の上から音の流れを変えてみせる。次々と開かれる缶詰の蓋に見える、銀に混ざった淡い黄色。それはどこか、先生がオケを通して創り上げる音に似ているような気がした。
スターライトオーケストラというオケは、一ノ瀬銀河に守られた方舟なのだということに気づいたのは、このオケに加入してわりとすぐの頃だったと思う。その内側にいるからこそ許される個性と自由、そして表現の数々は繊細なバランスによって成立していて、その儚さに酷く魅せられたことは、なぜだかよく覚えていた。
一ノ瀬先生という魔法使いの手によって現実化した、“ファンタジー”のようなオーケストラ。そのことに朝日奈自身が気づいているのか、いないのかはどうでもいい。俺にとって目下の興味は、この温室のようなオケで、先生が朝日奈唯というコンサートミストレスをどう育てようとしているのか―ただ、その一点のみにあった。
「よーし、全部開いた。朝日奈、教えてくれてありがとな」
先生の柔らかな声に、俺の意識がキッチンへと戻ってくる。ピアニストらしく鍛えられた掌が、朝日奈の頭をまさぐるようにして撫でると、束ねた髪が乱れた。満面の笑みを先生に向ける朝日奈に、ふと山下公園で路上ライブをした時のことを思い出す。強く吹き上げた海風がコンミスの髪が暴れさせると、彼女は心底鬱陶しそうな顔をしたのだ。
“髪が乱れる”という結果は同じでも、手段が違えば呼び起こされる感情は違うらしい。起きた出来事と感情の因果関係について、それぞれのケース毎にもう一度考えてみようとした時―足元から、鈍い音がした。
「あ」
次の作業に移ろうと振り向いた朝日奈の体が、突然、目の前でぐらつく。倒れそうになる背中に気づいて、反射的に前へ出て手を伸ばす。すると、反対側からはすでに左腕が差し出されていた。
……が。
「び……っくりした! 笹塚さん、ありがとうございます」
腕のなかで俺に小さく頭を下げた朝日奈の後ろで、大人がひとり何食わぬ顔をしていた。彼女が誤って蹴った段ボール箱を端によけて、「気をつけろよ~」と軽く注意したその人は、普段通り教育者の姿をしている。
さっきのは、なんだったんだ?
朝日奈を離したあとも、意味がわからなくて先生を見ていると、やがて観察対象が俺に気づいた。
「笹塚、どうした?」
「あんた、さっき」
どうして、腕を下ろした?
そう、問いかけようとした瞬間―、俺は言葉を失う。
ふいに先生が視線をゆらして、朝日奈を見たその目が。
慈愛が満ちるなか、何故か諦観とやるせなさがちらついた、その眼差しが――ぞっとするほど、綺麗だったからだ。
先生。いったい何が、あんたに、そんな目をさせるんだ。
ふたたび口を開こうとしたら、先生は俺だけにわかるように軽く首を振った。その仕草に、俺は先ほど起きたことが勘違いじゃないことを悟る。
時間にしては、たった二秒。
よろめく朝日奈の背を俺が支えるだろうことが分かると、先生はとっさに腕を引っ込めた。先に反応したのは先生なのに、なぜ腕を下げたのか。その理由は、わからない。わからないことは、どんなことでもつまびらかにしたい。そうは思いつつも、銀髪の奥に渦巻いていた感情を思い出すと、なにをどう言葉にしていいのかがわからなくなってしまった。
「朝日奈。次は、何すりゃいい?」
「えーっと、次はね、桃を全部カットしよう!」
黄昏のような色をした瞳が、朝日奈唯という少女をその中心に入れて輝く。彼女が彼女らしくあるように、常に祈り続けているその目はやさしく、楽しげな横顔を愛おしそうに見守っていた。
「笹塚、そこ突っ立ってるなら、お前も手伝えよ。菓子づくりも、案外やってみると面白いかもよ?」
「俺はやらない。料理できないやつが手を出すのは非効率だ」
いつものように笑いかけてきた指揮者の言葉を一蹴して、俺は食堂へと戻ることにした。
タブレットにきていた通知を確認してから、さっき作ったばかりのデモデータを再生しようとヘッドフォンを手にして――やめる。
「ほらみて! 花びらみたいでしょ」
「おー、すごいすごい。でも、銀河さんだってそれくらい……」
とめどなく続く二人の会話を聞きながら俺が目を閉じると、眼裏に浮かんだのはやはりピタゴラスだった。
「ハチニ。いや、七対三くらいか」
口をついて出た比率は、もちろんハンマーの重さではなく……なんだろう。
愛というには複雑で、恋というには憚られる。うまく言語化できないのは、もどかしい。が、彼らの音が心地よく調和していることは明らかで、それは二人の“思い”の比が美しいことの、なによりの証明な気がした。
だから。
先生の目に刹那よぎった、あの色のことは忘れてしまおう。
やがて甘い匂いがしてきて食欲が刺激されると、俺は出した結論を頭の片隅にしまう。きたるべきティータイムを、頬杖をつきながら待っていると、明るい声と和やかな笑い声の協和音が、俺を眠りへといざなっていった。
小春日和という表現が似合う、穏やかで温かな、ある晴れた午後のことだった。
そして。
この日から、しばらくして。
一ノ瀬銀河は、冬とともに、スターライトオーケストラを去った。
3
窓の外を見れば、まだ日が昇らない横浜の街には、春だというのに雪が降っていた。
札幌に比べて、都心の交通は脆弱なので一応スマホで確認すると、六時三十五分発羽田発札幌行きは、今のところ平常運航を予定しているようだ。予約しておいたタクシーはまだ到着していないようなので、俺はなんとなくラウンジへと足を向ける。
夜と朝の狭間に閉ざされた空間には誰もいない。札幌でやり残した仕事と、大学のオリエンテーション期間が終わってしばらく落ち着くまでは、当分ここへ帰ってくることはないだろう。そう思って、がらんどうで空っぽな部屋に足を踏み入れると、感傷的になっているわけでもないのに、この場所で過ごしたさまざまなシーンが蘇った。
俺が立ち上げたばかりの水槽を発つ前に見ておこうと振り返ると、誰もいないと思っていた場所に人影があった。制服のまま、長い髪を広げてテーブルにうつ伏せた女――朝日奈唯に近づくと、何かのスコアを握っている。薄闇で目をこらせば、それは“チャイコン”だった。上下する肩を確認してから、一応彼女の顔をうかがう。閉じられた睫毛はしっとりと濡れていて、まだ乾ききっていないところを見ると、今しがた眠ったばかりのようだ。
グランドピアノの前の席。
涙の名残とともに体を丸めるコンサートミストレスを見つめながら、俺は思う。
なあ、一ノ瀬先生。
俺は、やっぱり、あんたのことがわからない。
あんたの言ってた夢って、いったい何だったんだ?
あんたが為したかったことって、いったい何だったんだ?
あんたが芽吹くのを待ち続けた種子こそ、
あんたが羽化するのを待ち続けた蝶こそ、
あんたが孵化するのを待ち続けた卵こそ、
本当は一番、そばで、その手で、見守りたかったものなんじゃないのか?
離れていても会えなくても、支えになる存在とか。
心は常にともにあるとか。形より記憶こそが残るとか。
そんなものはすべて、“離れていく側”が騙る詭弁でしかない。
そして、そんな単純なことを、あんたが―一ノ瀬銀河が、わからないはずがない。
だから。
俺は、あんたがついた馬鹿げた嘘を、信じたフリをして待っているよ。
桃のチーズケーキを食べた時より、心なしか痩せたように見える背中に、俺は触れない。
今なら。
そう――先生が姿を消した、今なら。あの日、どうして先生が腕をひっこめたのか、あんな眼をしたのか、その理由がわかる気がした。きっと先生は、あの時すでに、近いうちにこんな日がくることを予見していたのだろう。いつ何時も、彼女にとっての“最善”を選択する先生のことだ。今、ここにいないのも、たぶん、それが理由に違いない。
でも……それでも。
例えそうだとしても、俺は理解する気がない。
だって彼女を慰めるのは、俺の役目でも、仁科の役目でも、ここにいる誰の役目でもないからだ。
「笹塚、行くよ」
「ああ」
玄関の方から聞こえた相方の声に返事をして、俺は踵を返す。
綿のように舞う雪は、やがて積もるだろう。季節外れのこの白が溶けるころには、彼女が抱える寂しさが、少しは漱がれるのだろうか。頬を濡らしたまま眠る高校生が風邪をひかないように、ラウンジの暖房をオンにしたら、無機質な起動音だけが静寂に響いた。