i trecento passi al paradiso4人と1匹を乗せた車が夜の街を静かに駆けてゆく。石畳を踏みしめる振動が、モデラートのテンポで身体に響く。
窓を開けて、夜風を顔に受ける。街灯の光、まばらに閉じた店のシャッター、バルの喧騒、打ち捨てられた色とりどりのゴミ。活気と眠りの狭間にある街の中、人いきれの合間を駆け抜ける風がひどく懐かしく感じられた。
「あんまり顔出すなよ。不用心だぜ」
そう言われて、ぼくは風が通る隙間をほんの少し残して、窓を閉じた。車は石畳の市街地を抜け、潮の香る郊外へとひた走る。
やがて生々しい街のにおいに代わり、澄んだバラの香りが潮風に交じってほのかに車内を包む。彼らに捧げられた白いバラの香りだった。
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大聖堂の祭壇には、白いバラの山が季節外れの雪のように積みあがっている。
ブチャラティ、アバッキオ、ナランチャの3人の葬儀式には、彼らを慕っていた大勢の市民が参列した。カジノのオーナー、レストランのシェフ、カフェのアルバイト、路地裏の娼婦、年金暮らしのご老人―この街ネアポリスに住まう誰もが彼らの死を悼み、安らかな眠りを心から祈っていた。
3人はギャングだった。彼らは清く正しく美しい社会の秩序から零れ落ち、人理を犯し、暴力というこの世で最も野性的な理に従い、『組織』の庇護の下でその日の命を生きていた。
しかし、彼らはそれでも、自らを疎んだ社会への愛を心の奥底で持ち続けていた。ギャングの理に従いながらも、『正しく』日々を生きる人々のために何事かを成そうとしていた。
そうして彼らはこのネアポリスの街を愛し、そして街に愛されていた。
惜しむかたぎの市民たちを捌けさせた後、堂の中には黒衣に包まれた男たち―わずかに女もいるが―が佇んでいる。
ここに残ったギャング―『パッショーネ』の構成員たちの前で、ぼくは告げた。
“―知っての通り、我が組織のボスには秘匿されていた娘がおり、この度その娘をめぐって組織内で抗争が発生した。
暗殺者チームの9名は、麻薬売買の利権を簒奪するため、ボスの暗殺及びその足掛かりとして継承者である娘の拉致・拷問を目論んだのだ。この反逆行為に対し、ボスは特命チームのリーダー、ブローノ・ブチャラティに対し、娘の護衛を命じた。
ブチャラティおよびその部下レオーネ・アバッキオ、ナランチャ・ギルガは、この任務を遂行するためその身を尽くし、名誉の戦死を遂げた。この葬儀式は、この勇敢なる3名の死を悼むものである“
堂の中に、ぼくの声が反響する。
“そしてボス―ディアボロもまた、この抗争の最中で落命した。遺体は原型を留めておらず、この場に運ぶことは叶わなかった”
張り詰めた静寂があたりを支配する。街の老婦人たちのように、彼らの名前を呼んだりすすり泣いたりする者はもういない。
そしてぼくは静かに息を吸い、祈りを捧げるように宣言する。
“ここにいる『ディアボロの娘』であり『ボスの座』の正式な継承者、トリッシュ・ウナの命を受け、このジョルノ・ジョバァーナが、これよりパッショーネのボスに就任する―”
再度の静寂。
凪いだ海に漕ぎ出すように、不思議と穏やかな心地だった。
やがて鮮やかなマゼンタの髪に黒いドレスを纏った少女が、静かにぼくの前へ進む。継承者と呼ばれた少女、トリッシュはぼくの前で跪き、ぼくの手を取った。
そして、手の甲に口づけて言う。
"我が組織と我が忠誠を、あなたに捧げます―ドン・ジョルノ・ジョバァーナ。あなたの『パッショーネ』に栄光と繁栄を―"
祝福の声は上がらなかった。代わりに、抗議の声も上がらなかった。
そうして、ぼくはギャング組織『パッショーネ』の新たなボスの座に就いたのだった。
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この実を虚でカケハギにした就任宣言は、ローマでの死闘の後、高揚感と焦燥の中でぼくたちが考えた中では最も妥当な筋書きとされたものだった。
確かにこの筋書きは概ね事実に基づいている。ブチャラティとその部下であるぼくたちは、ボスであるディアボロの指令で娘トリッシュを暗殺者チームの襲撃から護衛し、ブチャラティとアバッキオ、ナランチャは彼女の命を懸けた闘いの中で命を落とした。3人が何から彼女を守って落命したのかが不問である限り、この説明は正しいものである。
一方で、ここには大小の嘘が織り込まれている。
まず、特命チームと呼ばれる部門は存在しない。ブチャラティとぼくたち部下一同は、2週間ちょっと前までは肩書の無い下っ端の寄り集まりであり、ブチャラティが幹部の座を得たのは護衛任務が伝えられたまさにその日のことである。そして彼に『ボスの娘』護衛の命が下ったのは、本来その命を受けるはずだった幹部が直前に死に(ぼくが殺したわけだが)、新米幹部となった彼にお鉢が回ってきたからという次第だった。
特命チームという架空の用語は、この偶然だらけの事実関係を『理解』しやすくするためのちょっとした脚色である。『ボスの娘の護衛』という大役が、組織図にも載らない謎の下部組織に命じられる。この『特命チーム』は、きっとボス秘蔵の懐刀だったのだ。であれば、その一員がボスに就任するのに不思議は無い。勘の都合が良い人間であれば、このように忖度するだろうというのがぼくたちの見立てだった。
もう1つの決定的な嘘は「継承者」である。ボスの娘ことトリッシュ・ウナが、ディアボロから組織における権力の座を約束されていたという事実は無い。トリッシュもまた、2週間ちょっと前までは父が暗黒社会の首魁であることなどつゆ知らぬ全くのかたぎだった。
むしろ事実は継承者どころか真逆であり、父であるディアボロはまるで排泄物を処理するかのように、組織のことなど何も知らない実の娘を『血縁者である』という理由だけで自ら亡き者にするために護衛を命じたのであった。ディアボロが実際のところ誰にその地位を継がせるつもりでいたのか、今となっては知る由もないが―もっとも、あの男に自分亡き後の組織の構想があったとは思えないし、だからこそこのような方便が有効と判断したのだが―トリッシュが組織の継承者だというのもまた、ぼくがボスに就任する正当性をアピールするための方便である。
実のところ、この継承者という方便を使うことについて、ぼくたちはあまり気が進んでいなかった。
素性不明のボスが死に、その後継ぎを立てる必要がある。この状況において、実子の発言力は絶大である。しかもボスの娘としてのトリッシュの存在は既に組織内でも話題になっており、この娘をめぐって実際に抗争があったとなれば、この娘が組織に対して何らかの発言力を持つことは容易に理解されるだろう。ディアボロをこの世の因果律から放逐した今、この方便が組織の実権を握る上でこの上なく有効であろうことは皆が理解していた。
しかし、それは同時に、トリッシュをこのパッショーネの中に位置づけることを意味する。本来であればギャングの抗争などとは無縁の善良な市民であったはずの彼女を?まさにぼくたちが実父を含むギャングからその命を守ろうとしていたところの彼女を、ギャングの一員に?
ぼくがこのパッショーネを改革し、正しい道を志す組織とするためには、ぼくがボスとして認められる必要がある。では、この大局的な正義のために、「かたぎの少女をギャングから守る」という局所的な正義は膝を屈するべきなのか?正しい道を志そうとギャングはギャングだ。法と秩序と性善説が命を守る表社会とは歴然とした壁がある。ぼくたちが反逆の旗印に掲げた正義からすれば本末転倒の大嘘を、敢えて利用しようとは誰も思っていなかった。
―他ならぬトリッシュ本人を除いて。
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嗚咽と怒号、それから真実の告白がぶつかり合った後、コロッセオには穏やかな沈黙が広がっていた。
反逆の旗手であったブチャラティは死んだ。正確には、彼が反逆を決意した時点でその命は尽きていた。間もなく二度目の死を迎えることを自覚しながら、己の正義―組織のボスであるディアボロを倒し、その娘の命を守る―を遂行するために全てを擲ち、そして最後の希望をぼくたちに託して『あるべき場所へ戻っていった』。彼の最期は、恨みや無念ではなく、誇りに満ちていた。その事実が、静かな重みを持ってぼくたち4人の心に定着していく。
覆せない真実を背負った今、4人が考えることは1つだった。ブチャラティの命を懸けた願いはここに叶った。ディアボロは倒され、トリッシュの護衛は完遂されたのだ。
―では、これからどうする?
ぼくは空白となったボスの座を奪取する。元来これがぼくの一連の行動の目的だった。ボスとして組織の指揮権を握り、ブチャラティのもう1つの悲願である麻薬の根絶をまずは果たす。
ミスタはぼくの右腕として、ぼくと共に実権掌握に必要な『交渉』を行う。彼は組織の運営方針について特別意見することは無かった。「オレは難しいことはわからん。金はあるに越したことは無いが、まあまあ美味いメシを食っていけるならそれでいい。麻薬は確かに良くないから無くしたらいい。それがイヤってやつは始末すればいいんだな」とだけ言った。この凶器めいたシンプルな思考回路が発揮されるべき場所は、恐らくここにしかない。
ポルナレフさんはぼくたちの頭脳となる。ぼくもミスタも、つい先日までは組織の末端にすぎず内部構造には疎い。組織を徹底的に調査し、ディアボロと対峙するまでに至った彼からは、強力な知識のサポートが得られるはずだ。彼は「こういうキャラクターじゃなかったはずなんだがな」と苦笑しつつ、ぼくたちへの協力を快諾した。
このように、ぼくたち男3人の意志は合致していた。ぼくたちは新しいパッショーネを作るため、新たな戦いに身を投じる。
そんなぼくたちから曖昧な距離を取って、もう1人―トリッシュは佇んでいた。
"トリッシュ、君は―"
ぼくはゆっくりと、トリッシュの元へ歩み寄る。
"ボス……ディアボロを倒したとはいえ、既に君の噂が組織に広まっている以上、このまま放り出すわけにはいかない。ぼくたちが組織を統率するまでの当面、君の身は引き続きぼくたちが守ります"
それがぼくたち3人の総意だった。去っていった3人の仲間もそうするだろう。恐らくは、ヴェネツィアで別れたもう1人の仲間も。
トリッシュは微動だにしない。視線は穏やかに眠るブチャラティに向けられている。
"住むところや生活費はもちろんぼくたちが保障します。なるべく組織の名前が出ないような……君をこれ以上ぼくたちの世界に巻き込まないような形で。君が元の日常を取り戻せるように―"
"あたし、組織に入るわ"
沈黙。シャワーから不意に冷水を浴びせられたように、ぼくたちは固まる。
"冗談はよせ。笑えねーぜ"
沈黙を破ったのはミスタだった。
"冗談で言ってる顔に見える?"
トリッシュは表情を変えず、ぼくに顔を向ける。
"ジョルノ、あなたボスになりたいんでしょ?"
"……ええ"
そのことは既に告白している。だが、誠実に、何度でも答える必要があると思った。
"ぼくはこの組織を、正しい組織にしたい。そのためには、ぼくがボスになる必要がある"
"で、あなたは今、『自分がボスになる理由』を探してるわね?『どうして組織の新しいボスが、新入りの男の子なのか』を説明する理由を"
異論は無い。空いた『ボスの座』を狙うのはきっとぼくだけではない。ぼくが座に就くためには、より多くの支持を得るような理由を突き付けるか、さもなくば力づくで奪い取るかである。そして、現状とぼくの目的を鑑みて、後者は非現実的だと判断している。
ぼくは沈黙で肯定する。
"なら、『ボスの娘がそう言った』ってことにすればいいわ"
ぞくりと背筋に緊張が走った。
死んだボスの娘が、新しいボスを任命する。確かにエレガントな解法ではある。だが―
"……そんなことをすれば、君はこの組織から逃れられなくなる"
ぼくに代わって、ポルナレフさんが言った。
"ええ、だから『組織に入る』と言ってるのよ。何度も言わせないで"
"待て。組織に入ると言っても君の場合、下っ端とはわけが違う。『組織のボスを任命する』ような立場として認知されれば、命を狙われる危険は跳ね上がる"
"ええ、ええ。今更だわ"
こめかみがじりじりと熱くなる。そうだ。でも、そうなのだ。
トリッシュは決して『か弱き乙女』ではない。そもそも理不尽な理由でギャングに拉致され、護衛を務めるはずだった男は直前になって『自殺』し、その場で幹部に昇進したばかりの男にたらい回しにされ、素性の知れない新入りを抱えた男6人にあらゆる行動を監視され、自分を狙うというギャングに超自然的な能力で襲撃されても、泣き言一つ言わなかった。実の父に殺されかけても絶望せず、護衛する側であるはずのぼくたちの窮地を救ったのは他でもない彼女である。彼女はぼくたちと共にこの1週間を戦い抜いたのだ。
ならば、あるいは―とその先を続けそうになる意識を押し留めて、膠着した押し問答にぼくも加勢する。
"君の身を無駄な危険に晒したくはない"
"あたしにはスパイス・ガールがいるわ"
"スタンド能力があっても、避けられる危険は避けるべきだ"
"誰が決めたのよ。そんなこと"
お互いの声に熱がこもる。
"トリッシュ!彼らが守り抜いた命を、そんな風に無駄に―"
"無駄無駄うるさいわ!何様のつもり?!"
トリッシュは激昂していた。怒声で空気が震える。泣き腫らした赤い目が、鋭く突き抉るようにぼくを睨みつけている。
"あんたにあたしの生き方が無駄かどうか決める権利は無いわ"
激しさを抑え、それでも怒りを湛えた声でトリッシュは続ける。
そして深く息をついて、ブチャラティの方に顔を向けた。
"あたしも、彼の意志を受け継いで生きていきたい"
"でも……それはきっと、ブチャラティの意志ではない"
"そうね。でもブチャラティはもういないのよ。ブチャラティは死んだわ。この通り"
嚙み締めるようにトリッシュは言った。自分の歩く道は、自分で決める―彼女の目は、そう訴えていた。
"あたしが『ボスの娘』として生まれたのが運命ならば、あたしはその運命を利用して生きてやる。危ないことや汚いことがあるのは承知の上よ。そんなことであたしはもうビクつかない。彼らやあなたたちが目指した正しいことのために、あたしも命を懸ける"
一歩、また一歩と踏みしめるように宣言する。
ぼくは黙ってそれを受け止めていた。一言一言が、心に食らいついてくる。
"だから―ごめんなさい、ブチャラティ。あたしのわがまま、これだけは聞いてほしいの―
あたし、組織に入るわ。たとえ少しでも、あなたたちの力になる"
その目に迷いは無かった。絶望に屈しての自棄ではなく、無責任な蛮勇でもなく、確かな覚悟がそこにあった。
―ああ、ぼくはこの目を知っている。
"……あなたの気高き覚悟、無駄にはしません"
気付けばぼくは、トリッシュの手を取っていた。
ミスタもポルナレフさんも、それ以上何も言わなかった。ブチャラティも穏やかな顔のまま、何も言わなかった。
かくして、無辜の少女―トリッシュは、冥府の柘榴を頬張ったのである。
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ふと、ミラー越しにぼくの顔を見つめる視線に気づいた。
「……ぼくの顔が、どうかしましたか」
「いや」
運転席の男―フーゴは、戸惑うように視線を逸らした。
「今の君、ブチャラティと同じ目をしてるなって」
フーゴの言葉は回答を求めていなかった。それでも、ぼくは答えた。
「彼の意志は、ぼくの中で生きている」
「……そうだな」
「お前が言うかよ」
座席の反対側に座る男―ミスタが言う。その声に軽蔑の響きは無かった。彼はそういう男だった。
「……そうだな」
答えるフーゴの声にも怒りは無く、遠くを見つめていた。
「そういやジョルノ、誕生日だったよな。おめでとう」
「マジかよ、おめでとう。明日になっちまうがケーキでも買ってきてやるよ」
「……ああ、忘れてました。ありがとうございます」
少し戸惑いを覚えながら、ぼくは答えた。自分の誕生日を忘れていたのは事実だった。ぼくは誕生日というものに大した思い入れが無い。強いて言えば、クラスメイトの女の子たちがどこからともなく噂を嗅ぎつけて、チョコレートなんかを押し付けてくるのには、鬱陶しさと少しばかりの感謝の念を感じている。
内部統制のブレーンであるポルナレフさんに対し、対外活動におけるブレーンの役を請け負ったフーゴは、この数日で自分でさえ忘れていたぼくのプロフィールを叩き込んでいたのだった。
懐に抱いていた亀からにゅっと人影―—ポルナレフさんが浮かび上がる。
「おめでとう。何歳になったんだ」
「16です」
「オレより2個も下じゃあねえか」
「そりゃいつだってそうでしょうが」
そうしてミスタとフーゴが軽口を叩き始めると、ポルナレフさんはやれやれと呆れ笑いを浮かべる。
ふと軽口の合間に軽いうめき声が聞こえた。ミスタの膝にもたれかかって寝ていた少女―—トリッシュが、目を覚ましたのだ。軽く伸びをしながら、気だるげに身体を起こす。
「あたし、寝ちゃってたのね……ごめんなさい」
「今度は入れ替わらなかったな」
「ああ、もう二度とごめんだわ」
緩んだ笑顔を浮かべてトリッシュは言った。
「気が張り詰めるのも当然です。屋敷に着いたら、またゆっくり休んでください」
「ん……ありがと」
そう言って、トリッシュは少し体勢を変えながら、再度ミスタの膝に寄り掛かった。
「……何の話してたの?」
「ジョルノが誕生日だってよ」
「あら、おめでとう。明日になっちゃうけどケーキでも焼いてあげるわ」
「ありがとうございます」
「イチゴ乗っけてくれよ」
「なんであんたが注文付けるのよ」
そうして冗談を言い合いながら、パッショーネの中枢となったぼくたち4人と1匹(の中に住まう1人)―ぼくとフーゴ、ミスタ、ポルナレフさん、トリッシュ―を乗せた車は、田園地帯を走っていく。
街の光はとうに遠く、まばらに佇む民家とぼくたちの車のライトの光が、微かにあたりの輪郭を浮かび上がらせる。夜はこんな風景だったのか―ふと窓の外を見て、ぼくは思った。窓の隙間から吹き込む風には、柔らかい土の香りが混じっていた。
やがてぼくたちの車は、小さな屋敷の前に停まった。
あたりをブドウ畑に囲まれた、豪奢ではないが品の良い、4人が寝泊まりするには十分な屋敷だった。トリッシュを引き取って最初に潜伏先とした郊外の屋敷を、ぼくたちは当面の拠点に選んだのだった。
屋敷の中は小綺麗に整頓されつつ、初々しい生活感を帯び始めている。飲みかけのグラスを取り上げて「飲んだら片付けろって言ってるじゃあないですか」と苦言を呈するフーゴに、ミスタは「悪い悪い、でも水なんだからいいだろ」と返す。それを見てトリッシュは「なんでこんなガサツな奴と」と呆れ笑いを見せる。
こうして他愛もない会話を交わしながら荷物を片付けた後、ぼくたちはリビングに集まった。そして明日の予定を確認してから、まためいめいの部屋に戻っていく。
ぼくの部屋は執務室となった書斎の隣、恐らくはこの屋敷の世帯主のものだった。抱えていた亀(トリッシュが名無しのままはかわいそうだと言うのでココ・ジャンボと名付けたが、彼女以外は「亀」と呼び続けている。彼女も時々「亀」と呼ぶ)を机の上のケージに入れると、ポルナレフさんが顔を出した。
「お疲れ様、ジョルノ」
「ありがとうございます。ポルナレフさん。あなたのおかげで良い葬儀式になりました」
「ああ。彼らもきっと、君たちを誇りに思ってくれる」
ポルナレフさんの労いに答えながら、ぼくはベッドのそばの窓を開けた。東の空からは半分の月が昇り始めている。
「ここからが『はじまり』だな。君にとっては」
「ええ」
ディアボロとの闘いは終わった。5人がかりの大嘘によって、この組織の実権もひとまずは手にした。いつかブチャラティに語った『ボスを倒し、この街を乗っ取る』というぼくの夢は、これで叶った事になる。
だがそれは、ぼくが思い描く未来を実現するための1つの通過点でしかない。この組織のボスとして、何をするか。ぼくの一生を懸けた戦いが、これから始まる。
「……真実はいずれ明らかになる。その真実をもってしてこのぼくが『ボス』に相応しいことを、ぼくはこれから自分の行動で証明していかなければならない」
「わかっていればいいんだ。君にはその力がある」
「信頼できる仲間がいればこそですよ」
思えば奇妙な関係だった。ぼく、そしてトリッシュと彼らは、出会ってたった数日で互いに命を預けあい、3人は希望をぼくたちに託してこの世を去った。そして今、未だ1か月にも満たない関係でありながら、ギャング組織の改革という暗闇の荒野を切り開くために、共に歩んでいくことを決意している。
平穏な道であるとは思わない。むしろ、乗り越えるべき苦難は既にいくつも目の前に立ちはだかっている。
だが、ぼくはこの仲間たちと―—そして、去っていった仲間たちの意志と―共に歩むことに、大きな希望を感じている。
ふっと風が頬を撫でる。春の夜風はどこかほろ苦く、爽やかだった。
しばらく夜の空気に浸ったぼくは、窓を閉めてベッドに潜り込んだ。日を浴びたリネンの素朴な匂いは、少しずつ鼻に馴染んでいる。
2001年4月16日。16歳、『パッショーネのドン・ジョルノ・ジョバァーナ』となったぼくの初めての1日は、そうして幕を閉じた。
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さて、ぼくら4人と1匹の仲間たちについては、もう1人さらに説明を要する者がいる。
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「……ルノ」
強張った口元が、乾いた声で名前を呼ぶ。ランチには遅く、ディナーには早い曖昧な西日の中、かつての『仲間』だった青年は佇んでいた。
ローマを出て3日、ネアポリスに戻ったぼくたちは、無意識に、帰巣本能に導かれるように、『リストランテ・リベッチオ』に足を運んでいた。
ぼくたちは彼を探していた。実質的な目的は、組織の実権掌握に向けて彼を『仲間』として『引き戻し』、絶望的に足りない人手を補うため。しかし、ぼくにとってはそれ以上の意義を持っている。
――彼に、『真実』を伝えなければいけない。
「フーゴ……」
ぼくの声も乾いている。ぼくとフーゴの間の空気は、一瞬のまばたきですら張り裂けてしまいそうなほど張りつめている。
「『ボス』は、倒された」
フーゴはかすかに身震いしつつも、何も答えなかった。
震える胸を抑えるように、ぼくは静かに息をつく。
「ぼくは、このために組織に入った。『ボスを倒して、この組織を乗っ取る』ために」
それを聞いて、フーゴは悲しそうな、しかし憑き物が落ちたような表情を浮かべた。
「……ブチャラティは、知ってたんだな。どうりで」
その名前に、息が詰まる。ぼくは奥歯を噛みしめ、次の言葉を絞り出す。
「ブチャラティは、逝ってしまった。ナランチャと、アバッキオも」
「そう、か」
フーゴはよろよろと後ずさり、近くにあった椅子に崩れ落ちるように腰かけた。俯いた顔からは表情を伺うことができない。
街の賑わいは夕暮れから夜に染まっていく。闇に包まれつつあったぼくたちの部屋にも、ぱちりと灯りが点けられた。
「ぼくは」
やがて沈黙を破ったのはフーゴだった。
「正直、自分が今どういう感情なのか、わからない」
ぼくたち2人の視線は、曖昧に握られたフーゴの拳に向けられている。
「あいつらが死んだのが悲しい。あいつらに付いて行けなかった自分が悔しい。ぼくたちを最初から『裏切って』いたお前が憎い。あいつらと最後まで信頼し合えなかった自分が許せない。全てを――お前も、ぼくも、何もかもをブッ壊してやりたいようで、くだらないような気がして力が入らない。何も納得できないはずなのに、他人事のように納得してる自分がいる」
一言一言が、ガラス片のように心に突き刺さる。ぼくの行動は正しかった。それはゆるぎない自負としてある。一方で、フーゴのやりきれない思いも全く正しいとぼくは感じている。どうしようもなく歪んだ正しさの狭間で磨り潰されそうになりながら、ふと顔を上げたフーゴにぼくは言う。
「ぼくは、彼らの信じた正義を受け継ぐ『ボス』になりたい。それはぼくの『夢』ではあったけど、今は『責任』でもある」
ぼくは一歩、二歩とフーゴに歩み寄り、その『射程圏内』に入る。その目の前でぼくは跪き、手を差し伸べる。
「どうか、ぼくを信じてくれるなら……彼らに恥じない生をあなたも望むのなら、もう一度、手を貸してくれませんか。彼らの意志を、未来へ繋ぐために」
フーゴはやがてゆっくり、大きく肩を揺らすと、頭を搔きながらふるふると首を振った。
「やっぱり、かなわないな——」
そしてフーゴは顔を上げ、「『ボス』がそんな真似するなよ」と言って、ぼくの手を取って引き上げた。
「お前が、信じるもののためには惜しまず身を削るヤツなのは、ポンペイでよくわかったからな」
そう言う顔には、悲しげながらかすかな笑顔が浮かんでいる。
「良かったぜ、かつての仲間を撃ち殺すのは流石にオレも堪えるからな」
そう言って、隣の部屋からミスタが顔を覗かせた。
「ミスタ……」
「おかえりさん」
「……ただいま」
「ジョルノとオレだけじゃあねーぞ。ほれ、『ジャケットの詫び』だとよ」
ミスタは品良くラッピングされた赤く小さな小包みを、軽く放り投げるようにフーゴに手渡した。
フーゴは少し戸惑った表情をしたが、やがて穏やかな表情でそれを小脇に抱えた。
——これが、ぼくの新しい『家族』だった。
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「我が組織は、麻薬の売買から撤退する」
それが、組織傘下のとあるカジノの一室に集まった幹部たちに告げた言葉だった。
カジノの喧騒から遠く離れた部屋の中、音の無い動揺と疑念が満ちる。
「知っての通り、トリッシュを巡る内部抗争は、麻薬の利権争いでもあった」
「麻薬チームと『話』はつけてある。組織としての麻薬の取引は、順次停止していく。それでも売りたい者は、残念だがこの組織から外れてもらおう」
「――2か月待とう。のっぴきならない理由で携わっていた者もいるだろうからね。それ以降、ぼくたちは麻薬を流す組織を、『敵対組織』として殲滅する」
2か月――
彼らへのタイムリミットにしては悠長に聞こえるが、これはぼくたちのタイムリミットでもある。これから2か月で麻薬の流通網を徹底的に浄化・監視し、新体制を整える。現状の『部下』のぼくたちに対する忠誠心が未知数である以上、最初から頭数に頼る作戦を立てるのは無謀だ。粛清までの猶予が長ければ反抗の隙を与え、短ければ反抗心を刺激する。この『2か月』は、ぼくたちがこの組織にふさわしいことを示す試練の期間なのだ。
あと1か月、せめてあと1週間早く——と拳を固めて食い下がるぼくに、ポルナレフさんは「こういうのは、『始末した後』が大変なんだ」と苦い顔で吐いたのだった。
「何か質問は?」
沈黙。形にならない「なぜ」が、中空に渦を巻いている。ぼくは敢えてそれを形にしない。何故ならぼくも、「なぜ」に堪える答えを持たないからだ。
特に無ければ――と、ぼくは次の議題を切り出す。資料の束を几帳面に捌き説明を始めるフーゴの後ろから、『重要そうなタイミング』で相槌を打ち意思確認を行う。
実のところ、今日の『議題』は1つ目以外大した関心事ではない。議題ごとの各人の表情の変化を観察し、関心と忠誠心を図るのが主な目的だった。
「本日の議題は以上だ。ボス、何か付け加えることは?」
「いや、相変わらず丁寧な説明だった。ありがとう」
やがて捌けていった幹部たちに一歩遅れて、ぼくは部屋を出る。隣の部屋との間に控えていたミスタが、「おう」と呼びかける。
「お前も一発勝負してくのか?」
「ふうん、ドリンクを貰ってくるつもりでしたが、接待のうまさを試してみるのもいいかもしれませんね」
「そんなら帰りに我らがマンマの分も頼むぜ」
そう言ってミスタはアタッシュケースを指さす。ぼくはふっと笑って、「ええ、よく冷えたのを」と言った。
人混みをすり抜けるようにバーカウンターへ向かう。バーのそばでは、ルーレットの人だかりができていた。その中には見覚えのある姿が2つ。確か、北部の地域を担当する幹部の2人だ。
気付かれぬようにそっと後ろを通り、バーの死角に立った。歓声、歯ぎしり、ため息、唸り声、それらを飲み込んで洗い流す煌びやかなチップの音の中から、かすかな話し声に聞き耳を立てる。
「降りるか?」
「まさか」
「降りられなくなるぞ」
「そういうもんだろ」
そういって、1人が新しくチップを賭ける。
「麻薬のあがりを捨てるなんて正気じゃあねえ。ガキの正義感でギャングがやれるかよ」
「でも流石に、何かあるんじゃあないのか。そもそも麻薬って言ったって、オレらには手の届かん話だ」
「その『何か』がわからねえんなら無いのと同じだ」
「じゃあ、どうするんだ」
ルーレットが止まる。賭け手の男は答えない。
わかってる。想定内の反応だ。ぼくの読みはそう外れていないようだ。
「……しかし、トリッシュ様もトリッシュ様だ。パパの言いつけだからってあんなママのオッパイでおっ勃ててそうなガキに『ボスの座』なんか任せるか?自分でやれっつー話だ」
その名前を聞いて、額に熱が走る。トリッシュは違う。彼女が侮辱される理由は何一つ無い。
声を殺し、ゆっくりと、深く、息をつく。
「『トリッシュ様』だってまだ下の毛も生えてなさそうなガキじゃあねえか。よく考えなくたって、『ボス』無しで組織をどうにかできるわけねえだろ」
「幹部にもっとまともなヤツでもいなかったのかねえ」
「さあ、オレらの能力は『ガキ以下』なんだろ」
奥歯を噛み、拳を握る。これは必要なことだ。反逆への牽制だ。
ざらつく感情を呼吸で抑えながら、ぼくはカウンターに声をかけた。そう、そこの、よく通る声が印象に残る彼女に。
「ブラッディ・マリー。それと、ライムのフィズを」
「かしこまりました、ボス」
2人の息が詰まるのを背中で感じる。凍り付いたように固まる2人を視界に捉えながら、ぼくはルーレット台についた。
「調子は?」
どちらも答えない。
ぼくはグラスに口をつけた。どろりとした感覚が舌を伝う。
「そんなに怯えなくていいよ。陰口ごときで粛清するほど子供じみた組織にする気はないからね。言った通り、気に入らないなら出ていけばいい。もっとも、その後の身の保障はしないけど」
答えは無い。答えなくていい。これは対話ではない。これは牽制だ。独り言なのかもしれない。息を吸う。
「個人崇拝は組織を腐らせる。『ボス』なんてのは多少嫌われてるくらいがちょうどいいさ」
息を吐く。ブラッディ・マリーの塩気が、頬を刺激する。ここのブラッディ・マリーは、やけに血に似た味がする。
ぼくはそれ以上2人の顔を見ることなく、台を離れた。広間の喧騒を抜け、フーゴとミスタが残る部屋へ向かう。
「『4』でも引いてきたか?」
戻ってきたぼくの顔を見るなり、ミスタが言った。
「まあ、そんなとこです」
「ラッキーボーイにも浮き沈みはあるってか」
そう言うと、ミスタはさっとあたりを見回して、傍らのアタッシュケースをテーブルの上に開ける。「狭いところに詰め込んで悪いな」と言いながら、ブランケットにくるまった亀を取り出した。
「おい女王様、ドリンクのデリバリーだぞ」
「頭が高いわね」と頬を膨らませながら、トリッシュが鍵の飾りの中から抜け出してきた。ぼくは左手に持っていたフィズを手渡す。
「ペリエ?」
「ライムを絞ってますが」
「85点ってとこね」
トリッシュはグラスに口をつけると、「よく冷えてる」と言った。
「そっちは?」
「ブラッディ・マリー」
「似合うじゃない」
「その酒、ルーレットんとこのバーの姉ちゃんか?やっぱ目立つよな、美人だし」
「そうですね」
「しょっぱい反応してんなあ」
ぼくはトリッシュと顔を見合わせ、苦笑いを浮かべた。
やがて手持ち無沙汰に書類をめくっていたフーゴが、そういえば、と口を開いた。
「ジョルノは、何でそこまで麻薬にこだわるんだ?」
一瞬、息が止まる。フーゴはあくまで何でもないような顔をしている。ぼくは目線で「それを、何故?」と問い返す。
「……いや、お前の話を聞いた時点で、遅かれ早かれ放ってはおかないだろうとは思った。でも、ここまでこだわるとは思わなかった」
「何だ、またヴェネツィアのアレをやるつもりか?」
「その時は、ジョルノはそもそも『ボス』を裏切るつもりだったんじゃあないですか」
全く返す言葉も無い。トリッシュを守るのは疑うまでもなく果たすべき正義だ。ただ、その正義が『より巨視的な正義』の口実であったことも、また歴然たる事実だった。
さて、何故ぼくは麻薬の根絶を望むのか?『答え』はいくらでもある。それは一瞬の快楽のために、精神を蝕むものだから。愛する人との絆を破壊するものだから。やがて社会そのものを、根元から腐らせるものだから。
しかし、それは一般論だ。父はぼくを殴りはしたが麻薬はやらなかった。このカジノで身を持ち崩す人間もいるだろう。社会に背を向けたこの環境で、ぼくが組織体制を安定させるよりも優先する決定打にはならない。
「……それが、ブチャラティとの約束だから」
結局のところ、それがあらゆる理屈を超えた一番の理由だった。
フーゴもミスタも、特別驚きも呆れもせず、静かにぼくを見つめている。
「何ですか。ぼくにだって私情の1つや2つありますよ」
「その1つや2つで動くようには見えないって話だよ」
「つーか、1つや2つで済むんだから大したもんだぜ」
「あんたは煩悩が多すぎんのよ」
そう言っていつもの小競り合いを始めたトリッシュとミスタを傍目に、フーゴは呆れ笑いをする。
「まあでも、何だかほっとしたよ」
「普通は逆じゃあないんですか」
「その普通でなさについて行ってるんだよ、ぼくたちは」
そう言って、フーゴは腕時計に目を向けた。時刻は夜の11時、カジノも賑わいのピークに達している。
ぼくが「帰りましょうか」と言うと、トリッシュは亀の中に入り、ミスタはそれをブランケットに包んでアタッシュケースに詰め、そろそろと部屋を後にした。
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パッショーネに新体制が敷かれて一月ばかりが経ち、ぼくたち5人の大まかな役割は固定しつつあった。
ボスであるぼくは、内向きの活動としては、ポルナレフさんの助言を受けながら各部門からの報告を元に活動方針の指示や資金の融通を行う。そして対外的には、組織の顔として別のギャングやそれに準ずる組織との交渉を行っている。
ミスタは専らぼくたちが外出する際の護衛と、各幹部に対する内偵を務めている。先日は「せっかく幹部になったってのに、随分ヒマになっちまったなあ」とこぼしていたので、「あなたがヒマできるというのは組織がうまくいっている証拠ですよ」となだめておいた。これは本心だ。無駄な血は流れないに越したことは無い。
トリッシュの役については本人も含めて一同頭を悩ませていたが、概ね人事管理と、ぼくが出ると都合が悪いような『表社会』の組織との交渉の役を任せている。
フーゴは主に、そんなトリッシュの交渉のサポートを行っている。ぼくが言えたことではないが、彼女は元々ただの中学生であり、社会の仕組みには疎い。表の組織を支配する法の目を搔い潜り、どのように手を組むか―こうした知恵をトリッシュや時々ぼくに授けるのが彼の役目だった。
フーゴとトリッシュの関係は最初こそギクシャクしていたが、次第に落ち着いた仲になっていた。元々性格や趣味の波長が合っていたのだろう。誰のせいで彼らが死んだのか、その責任の押し合い引き合いに今更意味は無い。今は彼らのために、自分ができることをやるしかない―その1点で、彼らの心は通じ合っているようだった。
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「ああ、もう!つっかれた!」
そうため息交じりに吐き出しながら、トリッシュは勢いよく執務室のソファーに身を投げ出す。スカートの大胆な(と言うにもほどがあると思うが)スリットからはこれまた大胆に大腿部が飛び出している。
今更なような気もしながら、一応の礼儀としてぼくはそこから目を逸らしておいた。
「うーん……やっぱりあなた、もう少し露出の少ない服を着た方がいいんじゃあないですか?」
「いいじゃない!気に入ってるのよ、この服……」
フーゴの指摘はごもっともだ。見てはいけないものをわざわざ見ようとするのと、見てはいけないものが勝手に目に飛び込んでくるのでは天と地の差がある。そして後者は往々にして無駄なトラブルを呼ぶ。
しかし、ぼくたちの腐心をよそに、トリッシュはこの服を好んで交渉の場に着ていた。曰く、「あの時を思い出して、勇気が出るのよ」とのことだった。
そう言われると、ぼくは何も言うことが無かった。
にやにやしながらミスタがソファーの縁に腰掛ける。
「またフーゴが覗いちまうぜ~」
「おいミスタ!あれはそもそもあんたが勝手に言ってきたことで、ぼくには覗く気なんてかけらも無かった!」
「……何の話?『また』ってどういうこと?」
トリッシュの背後からすうっとスパイス・ガールが顔を覗かせた。どことなく眉間にしわが寄っているように見える。飛行機の壁を切断する破壊力。ぼくは体重を少しだけ後ろに掛けた。
防衛本能からか現れたピストルズは、口々に「アレハジコダッタンダ!」「ユルシテヤッテクレー」と言いながら慌ただしく3人の間を飛び回っている。
このままフーゴにまでスタンドを出されたらたまったものではない。
「交渉自体はうまくいったようですね。暇そうで何よりだ」
ぼくが割って入ると、トリッシュはクッションにうずめていた顔をぼくに向けた。
「ええ、無事うちに売ってもらえることになったわ」
「ベネ。で?」
「意味わかんないわ!いきなり『うちの息子と会ってもらえないか』ですって、息子ったってもういい歳よ!契約のことがあるからストレートに嫌とも言えないし、しつこく食い下がって来るし、連絡先は交換させられるし……」
顔を真っ赤にしてトリッシュはまくし立てた。両拳はクッションをばふばふと殴り付ける。スパイス・ガールは所在なさげにその背中をさすっている。
「見る目ねえなあ、そいつも。こんなカワイくねーやつ」
「『スパイス・ガール』!」
「そーいうとこがカワイくねーっつってんだよッ!スタンドはよせ!」
「あんたのためにかわいくしてやる義理なんてないわよッ!」
「だったら他の奴にもそうしやがれ!オレだけ扱いが雑すぎんだよ、おめーは!」
恐らくは「あんたが雑にからかうからでしょうが」と正論を吐こうとしたフーゴを、ぼくは目線で制する。
彼女の訴えにぼくも思うところが無いわけではない。むしろ多分に同情している。その手のしつこい人間は、ボスとなる以前から幾度となく相手にしてきた。
だが、トリッシュがこうも取り乱しているのはなかなか愉快なので、ぼくはしばらく黙って聞いておくことにした。
「ところであれ、本当に番号交換してたんですか?」
「冗談じゃないわ!ミスタの番号よ!」
「ああッ?!」
ミスタの素っ頓狂な声が腹筋に響く。フーゴは天を仰いでいる。
見事な奇襲だった。心の中で合掌する。
「それは災難でしたね、トリッシュ……と、まあ、ミスタも……」
ぼくは吹き出しそうになるのを堪えながら言った。トリッシュは相変わらずクッションを殴り付けながら呪詛を唱えているし、ミスタとピストルズは携帯を手に履歴がどうだの番号を変えるにはどうだのとぶつぶつ言いながら、落ち着き無く歩き回っている。
フーゴは面倒くさそうな顔をして、ぼくに視線で「そろそろ収拾をつけてくれ」と訴えてきた。
もう充分だろう。ぼくはため息を吐いた。
「……そことの交渉には、今後医療チームあたりから人をよこすことにましょう。大枠での交渉が成立したのだから、後は現場に近い人間が行った方がいい」
「ジョルノ……」
ミスタとトリッシュの安堵の声が重なった。相変わらず気が合うんだか合わないんだかよくわからない2人だ。
「トリッシュも、困ったからといって他人の番号を勝手に教えないでください。これでもミスタはギャングの幹部なんですから」
「はあい。ごめんなさいね、ミスタ」
「いいけどよお、ちったあ予防線張っとけよ?」
「それとミスタは、これを機に私用の携帯と仕事用の携帯を分けましょうか」
「へーい。経費で落ちるよな?」
「ええ、まあ、はい。仕事用の方なら」
「あの、これでいい加減片付きました?そろそろ次の打ち合わせがしたいんですが」
先生に催促された小学生のように、ミスタとトリッシュは気の抜けた声で「はあい」と答えた。
一息ついて交渉の顛末を報告書にまとめると、フーゴとトリッシュは次の交渉の打ち合わせに向かった。
嵐の去ったミスタが、ぼくの机に寄り掛かる。
「……ったく、何が『オレの番号』だよ、あのアマ……」
「ふふっ、普段あなたにからかわれてる仕返しですよ。きっと」
「だからって電話の番号はねーだろ!仕事で使ってるんだぜ?」
「まあまあ、番号変更の目途は立ったんでしょう?これで解決したんですから」
「すんのかねえ……」
浮かない顔を続けるミスタに訝しみの目を向けると、「さてはわかってねーな?」と呆れた反応をされる。
「いいか、あいつはあんなんだが外から見りゃあ『泣く子も黙るギャングのプリンセス』だ。しかもまあまあ美人。あいつとお近づきになりたい野郎なんざ山ほどいる」
「そうでしょうね」
「のんきなヤローだな。おめーだったらどうせ相手もギャングだからって適当にあしらっとけばいいかもしれんが、あいつは気に入らねー男に言い寄られたからって相手をタコ殴りにはできない。性格はともかく立場的にな」
ふむ、とぼくは返す。確かに彼女の性格であれば、殴り倒すかはさておき連絡先を交換させられるまで相手することは無いだろう。
それができないのは、あくまで『かたぎ』を相手にしているからだ。彼女をかたぎとの交渉に出すのは、麻薬被害の後始末などでどうしても必要な物資があるからで、ぼくの信念上この組織が表社会に対して積極的に圧力を掛けることは無い。彼女のブレーンとなるフーゴに対しても、「こちらの要求は最小限に、先方の意志を尊重するように」と言い含めている。
つまり、交渉が成立するかは基本的に先方の心象次第だ。
「だからさ……カードになっちまってんだよ。あいつの『カレシの座』が」
ぼくたちの要求を飲む代わりに、組織中枢とのパイプを得る。実際に恋愛感情を抱く必要は無い。彼女の愛情や身体なんてものは端からおまけにすぎず、パッショーネ上層部との親密な関係を匂わせる物証さえあれば、他組織との交渉における強力な切り札になる。そしてあくまで『個人的なつながり』なので、不都合が起きても先方の組織は知らぬ存ぜぬを突き通せば良い。『恋心』に責任を問うことはできない。
うまい汁の吸い方ではある。何もかもが不愉快だが。
「……そろそろ『虫よけ』、必要なんじゃあねーの?オレだってあいつが口説かれるたび番号使われるんじゃあたまったもんじゃねえ」
ミスタの声は切実だった。
『虫よけ』―つまり、彼女に『相応しい』恋人、あるいはハリボテのそれを、ぼくたちであてがう。
ぼくは少し考えてから、「考えておきましょう」とだけ言った。
胸につかえるような不快感を押し流すように、ぼくは目の前のエスプレッソを飲み干した。
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基本的にぼくとトリッシュは裏表の分業体制にあったが、2人揃って交渉の場に着くこともあった。例えば、『ディアボロ時代から深い付き合いのある組織』に対しては、『前ボスの娘』と『現ボス』の両人が顔を出すのが良いだろうと判断していた。
その日、ぼくたちは組織と付き合いの長いネアポリスの港運会社との交渉に向かった。代替わりの挨拶も兼ね、扱う『荷物』の変更を伝えるのが主な目的だった。
港近くのホテルのラウンジでぼくたちを待っていた港運会社の社長は、穏やかな紳士の風貌にほのかな色気を匂わせる壮年の男だった。ぼくたちが席に着くと、男は「君たちには早かったね」と言って、くゆらせていた葉巻を灰皿に押し付けた。
ぼくたちの中に喫煙者はいない。ポルナレフさんは生前嗜んでいたようだ。「最初は口寂しかったが、すっかり慣れてしまったな」と語っていた。
ふと、ブチャラティやアバッキオ―ナランチャは嫌がりそうだ―が一服ふかす姿は、きっと様になるだろうなと思った。
男はぼくたちを慈しむような表情で、口を開いた。
「噂には聞いていたけれど、あの『パッショーネ』を率いるのがこんなに若い子たちだとはね」
「本来であれば、5年後に私が継ぐはずだったのですけど」
トリッシュは汗一つかかなかった。
「それでもお若いレディには変わりないじゃあないか」
「あら、もし『前のボス』が『お若いレディ』だったとしたら?」
「はは、かなわないな」
しばらく他愛もない挨拶と世間話を交わした後、それで―と、男はぼくに視線を向ける。
「『荷物の内訳が大きく変わる』―いや、率直に言おう。クスリの扱いを止めるとのことだったね」
「ええ。我が組織は麻薬の売買を再度禁じます」
「うん、若々しい良い心掛けだ。ドン・ジョバァーナ」
男はそう言って優しく微笑んだ。
麻薬を禁じるのは『若さ故』の正義感からではない―生ぬるい汚泥が首筋を伝うような不快感を堪え、ぼくは『この手の交渉相手』に対して用意していた建前を並べる。
「この度の内部抗争の発端は麻薬の利権争いでした。無駄な争いの種は無くした方が良い。麻薬は莫大な利益を生むが、組織を中から腐敗させる。そんなものが無くてもぼくたちはやっていける」
「ああいや、君たちの意志を否定するつもりはないんだ。僕にとっても無駄なリスクは嫌なものだからね」
男は微笑みに申し訳なさそうなニュアンスを添えて言った。
実際に、彼がぼくたちの掲げる方針を否定することは無かった。こちらの提案の趣旨を的確に理解し、必要な情報を補い、現実的でない点には丁寧に対案を示す。率直に、交渉相手として最高の存在だった。
交渉を進めるまでこの男はぼくたちを『ナメている』と思ったが、次第にそうではないことに気付いた。男はよくある「子供なんだから正しく導こう」とする大人ではなかったし、「『子供なんだから』自由にさせてやろう」とする大人でもなかった。ぼくたちの『若さ』を褒め称えたのは純粋な感心からで、彼はぼくたちに真摯に向き合っていた。
ただ、くたびれた男だな、と思った。
ぼくたちの交渉は円滑にまとまった。麻薬の扱いは止める。その枠は主に、この国では未認可だが薬物依存の治療効果が期待される薬剤の輸入・流通に充てる。施設の警護は引き続き組織が受け持つ。
「ところで、ウナ嬢」
ぼくたちが席を立とうとしたところを、そう呼び止められた。
トリッシュは「何でしょうか」と答える。その顔は微かに引きつっているようにも見える。
「もし君さえ良ければ、この後お茶でもどうかな?『パッショーネ』のお若いプリンセス。ここのドルチェは絶品でね」
これか、とぼくは理解した。
「……交渉内容にご不満の点があれば、今からでも見直しますが」
ぼくが隣にいるからか、トリッシュも強気に返す。
「ああ、そうじゃなくて。純粋に、こんな素敵な子とお茶できたらなって」
意外にも、男の表情に打算の色は無い。この男はどうやら、トリッシュに純粋な好意を持っている。
ならば(―ならば?)こちらも話は単純だ。すみませんが―と割って入ろうとしたところで、トリッシュが机に頬杖を突いた。際どい角度に入った胸元から素早く目を逸らす。
「『お姫様』には『運命の王子様』がいるっていうのがお約束じゃない」
男に挑発的な視線を向け、甘さに棘を含ませた声で言う。
男は一瞬目を丸くしたが、すぐに穏やかな微笑みを取り戻した。
「ほう、その『運命の王子様』に、僕は立候補できないかな?」
トリッシュはふう、と息をついた。初めて聞く大人びた吐息に、不覚にも心が揺れる。
そして、しなやかにその腕をぼくの腕に絡ませる。
「あいにく、その役はもう埋まっちゃってるの」
そう言ってトリッシュは頭をぼくの肩に寄り掛けた。ふわりと華やかな香りが鼻腔をくすぐる。
なるほど。『運命の王子様』とは不測だったが面白い。
歩調を合わせるようにぼくも身を寄せ、訳知り顔を作る。「残念だけど、君の立ち入る余地はもう無いんだ」と、いつか誰かに告げたように視線で告げる。
男はしばらく驚いた顔でぼくたちを見つめていたが、やがて「ははは」と軽やかに笑った。
「それはご無礼を。残念だけど、僕は観客役に専念するとしようか」
ぼくたちも合わせて笑った。まるで小学校のお遊戯会のように単純な即席芝居を、ぼくたちは大真面目に演じている。
そして男はそれ以上何も言わず、ぼくたちはラウンジを後にした。
待機していたミスタと共に、停めていた車に乗り込む。運転席のフーゴが、「早かったな」と声を掛ける。
「ものわかりの良い交渉相手で助かりました。おかげでお昼はゆっくり食べられそうだ」とぼくは言った。
車は静かに海岸に沿って走り出す。
「変な奴だったわ」
釈然としない顔でトリッシュは言った。
「彼は悪意の人ではない。むしろ、いい人だ」
「まあ、そうね」
歯切れの悪い返答に、「だからいっそう変なんだけど」とトリッシュは付け加えた。
「いい人だが、何を『良い』とするかの基準が無い。いや……基準はいくらでもあるんだろうが、そのどれを自分は信じるのか、決める気が無さそうだった」
男はぼくたちの掲げる『正しさ』を真摯に受け止めていた。「やっぱり麻薬は良くないね。個人で楽しくなる分には勝手だと思うかもしれないけど、そいつがそう思ってるだけで周りには絶対迷惑をかける。君たちが言うように、自分で悪いことをする気が無くても、悪いヤツが悪いことをする手助けになっちゃうしね」と、ぼくたちの前で平然と語っていた(これにはぼくもトリッシュも、念のため偵察に来ていたNo.5も唖然としていた)。一方で、戸惑いを抑えながら「まあ、麻薬をやることでどうにか苦しさに耐えている人もいますが……」とぼくが言うと、「確かに、それも正しいね。どうしても麻薬が必要だって人もいるよね」と例の穏やかな微笑みを浮かべて言った。この男がかつての組織と取引をしていた際にはどのような『正しさ』を信じていたのか、これ以上考えても無駄だと思った。
「気持ちはわからなくもないさ。でも、ぼくたちはそれじゃあいけない」
フーゴの微かなため息が聞こえた気がした。
トリッシュはしばらくぽかんとしていたが、やがてぽつりと「そうよね」と言った。
「こういう『業界』の人って、誰もそういうものなのかしら」
「どうなんでしょうね」
「あなたは見てきたはずじゃない」
「ぼくが見てきたギャングなら、大抵ある程度の信念は持ってましたよ。共感するかはともかく」
「やっぱり変な奴なんだわ」
「まあ……あくまでかたぎとして暮らしながらギャングと喜んで手を組むなんて、まともな感性ではできませんよ」
「……あなたが言う?」
「ぼくは元々ギャングになるのが夢だったんですよ?」
ぼくが肩をすくめて言うと、トリッシュは呆れ果てた顔をして、「大した感性だわ」とため息交じりに言った。
車内にしばらく沈黙が続いた後、ふとフーゴが車のラジオを付けた。どこか聞き覚えのあるメロディと歌詞が流れる。音楽の授業でも習った有名なカンツォーネを、現代風にアレンジした曲だった。
"跪いてわたしに静かに語りかけるあなたは、ただ憐れみと約束のまなざしを求めていた……"
「……ごめんなさい」
曲が静かになったところで、トリッシュが口を開いた。
「何のことですか」
「あたし、余計なウソついたわ」
『運命の王子様』―なかなか大仰な買い言葉だとは思ったが、何も問題は起きなかった。せいぜいNo.5 がこの世の終わりのような顔をしただけだ。たまにはこのぐらい思い切った芝居も悪くはない。
それに、信頼できる仲間に言われる分には、案外悪い気はしなかった。
「気にしないでください。ああするのが一番手っ取り早いですし、交渉に影響はありませんでした」
「いえ、その……半分はそうだけど、半分はそういうことじゃなくて」
トリッシュはばつが悪そうに口ごもる。
「いそうな気がしなかったとはいえ……もしあなたにそういう人がいたら、悪いことしたわ」
「まあ確かに、いませんが……」
『そういう人』はいないし、仮にいたところで気にしなかっただろう。
欲しいとも思っていない。そんなもののためにこの組織を左右したくなどない。そうだ。それなら―—
「むしろ、良いんじゃあないですか。そういう話にしておけば」
思わず、そう口をついていた。
「ぼくも無駄な縁談にいちいち付き合わなくて済むし、一石二鳥だ」
「……本当にいいの?それで」
怪訝そうにトリッシュは言う。
「ええ。どこの誰とも知れないご令嬢たちとの食事よりも、君のそばにいる方がずっと居心地が良い」
これは全くの本心だ。『パッショーネのプリンセス』を狙う手が数多であるように、『パッショーネのプリンス』であるぼくとの『個人的なつながり』を求める人間もまた掃いて捨てるほどいる。さらに質の悪いことに、ぼくの歓心を買うためだけに身内の娘を『献上』しようとするギャングのお歴々も少なくない。「娘を」と口にした時点で適当な理由を付けて断るのだが、食事やそもそも交渉の場に不意打ちで連れて来られれば嫌でも相手せざるを得ない。酷い時には交渉場所にホテルの一室を指定され、着いてみれば中には一糸纏わぬ娘が1人ということもあった。
ホテルは論外として、静かにしていてくれるのであれば食事にだけは付き合う気にもなるのだが、このご令嬢たちにそんなことは望むべくもない。無論彼女たちに話すべきことは無いので、ぼくから話しかけることは無い。それでも彼女たちは、何を吹き込まれたのか知らないがいちいち話を吹っかけてくる。しかもこの吹っかけてくる話と言うのがぼくに対するオチの無いおべっかであるとか、車だとかリゾート地だとか絵に描いたような『金と権力をほしいままにする男』が好きそうな話ばかりで、一向にぼくの関心と噛み合う気配が無い。
こうした無駄な時間を取らされることだけでなく、ぼくが男であるというだけでこのような手段が有効と思われること自体がそろそろ我慢ならないのだ。
そんなことにいちいち煩わされるぐらいなら、気心の知れた仲であるトリッシュと恋人の真似事をしている方がずっと良い。
「な……なによ、いきなり」
トリッシュは面食らった顔をしている。微かに赤みを帯びた頬を見て、ぼくはほう、と思った。―彼女もこんなことで「ときめく」のか。
脳内で迸る愚痴の栓を閉めるようにふと感心したあとで、ぼくの意識は現実に戻る。
ぼくは誰かの『王子様』を演じることに異存は無い。ぼくの人生はいわゆるプライベートも含めてこの組織のためにあるべきだと思うし、ぼく―ひいては組織の『虫よけ』がその芝居1つで済むのなら安いものだ。
だが、「トリッシュもそうあるべきだ」とは思わなかった。彼女は既に多くのものをぼくの夢の過程で犠牲にしている。これ以上彼女のあり方を、組織のために捻じ曲げたくはない。
「むしろ……あなたこそ、それで良いんですか?」
「いいわ。これから先、まともな恋ができるとは思ってないもの」
ぼくの葛藤とは裏腹に、トリッシュは即答した。
その声には迷いも悲しみも無かった。むしろ、どこか晴れやかでさえあった。
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このジョルノ・ジョバァーナは生まれてこの方無数の嘘をついてきた。
まずこの名前からして嘘だ。公的効力を持つラベルとしてぼくに与えられている名前はハルノ・シオバナといい、ジョルノ何某というのは、いかにも東洋人の顔でいかにも異国の響きを持つ名を名乗っていると無駄な損をすることを散々学んだぼくが、親元を離れ中学に入る際に名乗りだした偽名である。
ぼくは公的書類を書かされるような年齢ではなかったため、以降ハルノ何某という本来の名を名乗ったことは無い。そしてこれからも無いだろう。いつか図書館で人名事典と日本語の辞書を突き合わせてひねり出した、この『ジョルノ・ジョバァーナ』の名をアイデンティティとしてぼくは生きていく。
思い出せる限りの人生で最初にぼくがついた嘘は、まだ日本に住んでいた頃、ふとした拍子に母に対してついた嘘だった。
ぼくの母は子供を殴るような親ではなかった。ただし、決して献身的な親でもなかった。朝昼夜にぼくたちが飢えない程度の食事を作り、ぼくの夕食が済むと寝る支度をさせて家を出る。今思えばそれは決して楽しみのためだけではなかったのだろうが、だからといって彼女にぼくのそばにいる時間を増やそうとする意志は見られなかった。「いるものは仕方ない」―彼女の目はそう気だるげに嘆いていた。
母は家にいる間もぼくに特別関心を払うことは無かったが、ぼくが具合を悪くしたときには人並みの看病をしてくれた。人間として最低限残っていた情なのか体面のためかはわからないが、ぼくの命を守る気はあるようだった。
風邪をひいた時には、母がぼくの話を聞いてくれる。そのことに気付いたぼくは、ある日思い切ってお腹が痛いと嘘をついた。「どんな風に痛いの?」と尋ねる母に、ぼくは風邪をひいた感覚を必死に思い出しながら、つねられるように痛いとか何とかと取り繕った。それを聞いた母は、「風邪ね、おとなしくしてなさい」と言って、卵粥を作りだす。その卵粥は特別においしいものではなかった。それでも、ぼくにとっては唯一の『母の温もり』だった。
味をしめたぼくは、以降たびたび仮病を使うようになった。こうしていれば、いつかはどこも具合が悪くなくてもぼくのことを見てくれるだろうと思っていた。
やがてある日、ぼくが頭が痛いと言うと、母は「また?」と言った。咎めるような口調ではなかった。しかし、ぼくは慌てて「ううん、気のせい」と答えた。
その日からかはわからない。ただ、ぼくが具合の悪さを訴えると、母はシンクに残った洗い物を見つめるような目をぼくに向けるようになった。嘘をついても望んだ結果が得られなくなったことを悟ったぼくは、以来次第に仮病を使わなくなり、やがて本当に具合が悪い時も黙っておくようになった。
こうしてぼくは、嘘をつく責任というものを学んだ。
母とぼくをイタリアに迎えた義父は、しばしば彼の気に障ったという理由でぼくを殴った。彼が言わないことを勝手にすると往々にして殴られたので、ぼくは彼がいる場では命令や質問を待ってから行動するようになった。
ある日義父は、母とドライブに行くのでついてくるかとぼくに聞いた。ぼくは内心気が向かなかったが、わざわざ聞くということは行った方が良いのだろうと思い、ついて行くと答えた。その夜、義父は「お前が邪魔で母を抱けなかった」と言ってぼくを殴った。(なおこの「抱く」が字義通りの意味でないことは、後々理解したことである。)
別の日、義父はぼくに同じ質問をした。前回の経験から、ぼくは家にいると正直に答えた。やがて義父が帰ってくると、「せっかくのデートなのに、お前が家で余計なことをしないか気にしなきゃならなかった」と言ってぼくを殴った。
また別の日、義父はまた同じ質問をした。ぼくは三度目の正直で「ついて行きたい」と嘘をついた。浜辺で降りた義父は母を抱きしめていたし、家に戻った義父は満足げな顔をしていた。酒を飲む義父が「楽しかったか」と聞くので、ぼくは「うん」と答えた。そして義父は「嘘をつくな、だったらもっと楽しそうな顔をしろ」と言ってぼくを殴った。この時正直に「楽しくなかった」と答えたらどうなったのか、考えるだけ無駄だと子供ながらに思った。
こうしてぼくは、嘘は不条理に対して無力であることを学んだ。
そんなぼくの人生を最も大きく変えた嘘は、ある日全くの他人のためについた嘘である。
学校から帰るぼくは、見知らぬ男が血まみれで空き家の庭の壁に倒れていることに気付いた。男は胸から血を流し、病気や事故で倒れたのではないことは明らかだった。この街に『そういったこと』があることはなんとなく理解していたが、実際に目の当たりにするのはそれが初めてだった。ぼくは何もできることが無かったので、少しの間立ち止まってからそのまま家へ向かおうとした。
少しばかり進んだところで、物々しい容貌の男たちが何やら騒ぎ立てながら走り回っているのを見かけた。男たちはぼくに気が付くと一斉にぼくを取り囲み、「あいつはどこだ」「コートを着た男だ」「大ケガをしてるはずだ」「病院に連れて行かなければならない」と口々に浴びせかけた。
「病院に連れて行く」というのが嘘であることを直感的に察したぼくは、気付けば男が倒れていたのとは真逆の方向を指して、そちらに行ったと答えていた。男たちが去っていくと、ぼくは家路についた。
今更嘘をつくことに恐怖は無かった。血まみれの男は、まるで世界そのものから打ち捨てられているかのようだった。そんな男が、ぼく自身のように思えたのだった。
しばらくして、学校から家に帰るぼくの前に、血まみれだった男がふと現れた。男はぼくをまっすぐ見つめて、「君がしてくれた事は決して忘れない」と言った。そしてそれ以上何を語ることもなく、静かに去っていった。
ぼくを見つめる男の目は、母にも義父にもぼくの周りのあらゆる人間にもない、ぼくに対する『敬意』の光があった。
こうしてぼくは、世の中には『正しい』嘘があることを学んだ。
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このようにして、ぼくは嘘をつくことにかけては人一倍の知識と経験を得ている。嘘には様々なタイプがある。事実を差し替える嘘。事実を無かったことにする嘘。存在しない事物をあったことにする嘘。嘘をつく目的も様々である。本来得られないはずの利益を得るための嘘。身を守るための嘘。相手との関係を円滑にするための嘘。どのような嘘を何のためにつくのか、それを慎重に吟味することで、ぼくは一介の非行少年としてはまあまあ充実した生活を送れていた。
ぼくはこれまでありとあらゆる嘘をついてきたが、ただ「他人と共謀してつく嘘」だけは経験が乏しかった。理由は単純で、ぼくに協力するような他者が、彼と出会うまでいなかったからだ。
それが今、ぼくは仲間と互いの人生を巻き込んだ大嘘の上で生きている。ローマで初稿を書き上げて以来、穴を見つけるたびに継ぎ足し継ぎ接いできたぼくたちの脚本に、この度新たな行が加えられる。
"『特命チーム』の中でも謎の新入りとされてきたジョルノ・ジョバァーナが『ボスの娘』からボスを任命されたのは、彼が『娘との将来』を約束された存在だったからだ―"
「王道でいいじゃねーか」と満足げなミスタの横で、フーゴは「でもちょっと盛りすぎじゃあないですかね」と苦笑した。
反逆者に狙われた姫君を守る、王の懐刀の騎士たち。その中でも謎のヴェールに包まれていた少年騎士は、何人もの仲間を失う死闘の末、姫君の運命の人であることを明かし王位に就く。
まるで神話かおとぎ話だ。ぼくとトリッシュは、これからこのおとぎ話の『謎の少年騎士』と『悲劇の姫君』を演じて生きていく。
「あたし、学校の劇でお姫様役をやって褒められたのよ。こんなの楽勝だわ」とトリッシュは得意げに笑った。
「『学校の』って、いつだよ?」
「小学校の3年生よ」
それを聞いて、ぼくたち3人の騎士役と見えざる魔法使い役も笑った。ぼくたちは5人で作り上げたこのほら話に、愛着さえ感じつつあった。
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