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    kurautu

    Mマス関連の小説をマイペースに上げていきます

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    kurautu

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    傷心のドルオタが牙崎漣に救われる話です。それぞれの戦い。

    #アイドルマスターSideM
    theIdolm@sterSidem
    #牙崎漣
    asakiProducts

    ワールドイズ 考えた末に電話をかけるとすぐに発信音は途切れて、何かが擦れるような音が聞こえた。もしもし、と返ってくる声は低い。さすがにもう仕事は終わって家にいるらしい。

    「なんかURL送られてきたんだけど。詐欺? 乗っ取り?」
    『あ、続き送るの忘れてた。詐欺じゃないよー。ちょっとお願いしたい事があって』
    「はあ」

     大きなクッションに体が沈んで、僕の視線は自然と天井に向く。どうして触った覚えもないのに天井にシミがつくんだろう。じっと見ていると顔にでも見えてきそうな気がして目を逸らした。テレビでは、ニュース番組が流れている。来週には冬らしい朝がやってくるらしい。

    『漣くんの写真、撮ってきてほしくて』
    「……誰?」
    『THE虎牙道の』

     こがどう、と呟く。その響きには覚えがあった。正月に会った時に妹がしきりに繰り返していた名前だった。元格闘家たちのアイドルグループだとか、なんとか。その漣という子が妹の推しだという事も記憶の片隅にはあった。僕はあの時それどころではなかったから、あまり覚えていないけれど。実家に帰っただけでも褒めてほしいぐらいだ。

    「なんで?」
    『ツアーがあるんだけど、こっちでやる公演一つだけ仕事で行けなくなって。どうにか逃げる方法を考えたけど……絶対休めないし。私、真面目だから』

     自分で言うかという気持ちと、そうだろうなという気持ちが半分ずつ。文句は言いつつもなんだかんだ引き受けてしまう。昔から貧乏くじを引きがちな兄妹だった。母さんが呆れるぐらいに。さすがに大人になってそれなりに上手く逃げる術も身につけたけれど、だからといってズル休みだなんて大胆なカードを切れる性格にはなれない。多分、一生。僕の出した結論に妹も至ったのかもしれない。やけくそ気味に放たれた大きな溜め息が聞こえてきた。

    『だからせめて写真だけでも思って』
    「余計悔しくならない? それ」
    『もう十分悔しいし、行けない以上どうなっても悔しいから。それならせめて何か得るものがないと悔しすぎて死んじゃう。お兄ちゃん、アイドルの写真撮るの上手いし』
    「あー……」

     テレビへ背を向けるように転がると、クッションの中に詰まったビーズが鳴る。言葉を見つけるよりも早く、妹からの問いかけが届く。

    『……新しい推しは見つかってないんだ』
    「誘われた現場には行くようにしてるんだけど……」

     戦国時代、と表現されて久しいこの世界には、光っている子はいくらでもいる。歌が上手い子もいれば、ダンスが上手い子もいる。何もないのに不思議と目を惹く子もいる。でも、もうどこにもあの子はいない。

    『写真、もう撮ってないの? カメラは? お母さんが引くぐらいレンズとか買ってたじゃん』
    「ほとんど中古で売った。知り合いに。残りも多分、売ると思う」
    『えー!』

     うるさい、という呟きに返事はなかった。代わりにまくしたてるように言葉が飛んでくる。もったいない。なんで。あんなに買ってたのに。また撮るかもしれないのに。

    「もう戻ってこないから」

     永遠、だなんて都合のいい事は信じていなかったけれど、だからといって終わりを迎える覚悟を決めてもいなかった。アイドルが大好きだと言っていたあの子が、こんなに早く辞めるだなんて思っていなかった。SNSのたった一つの投稿で発表された内容には無情な文字が並んでいた。年内で芸能活動を引退。

    『わかんないじゃん、そんなの』

    「戻ってこないよ。そういうけじめみたいなの、ちゃんとしたがる子だ……った、から」

     それは僕たちが勝手に見ていた幻想で、本当のあの子ではないかもしれない。案外あっさりと戻ってきてくれるかもしれない。そう思って待ってみた。カメラも、レンズも、全部は手放せないでいた。けれどあの子はやっぱり戻ってこないままで、また冬がやってくる。

    『……そう。でも、残ってるもの売るのはちょっと待ってよ』

     どうやら譲る気はないらしい。行けなかったライブの写真を見ては、悔しさと、それから推しが今日これだけのものを見せてくれたという誇らしさのようなものを噛み締める。その気持ちには覚えがある、と、思ってしまった時点でもう僕の負けなのかもしれない。

    「そもそも撮影ありなんだ?」
    『うん。今までは禁止だったんだけど、今回のツアーは実験的に写真だけはOKにしたみたい。宣伝にもなるだろうし、いいんじゃないかな。私は目に焼き付けたい方だから撮らないけど』
    「よく知らない人間よりも、ファンの人に入ってもらった方がいいんじゃない?」
    それは私も考えたけど……仲のいい人たちはみんな自力でチケット取ってたし、よく知らない人に譲るよりは信頼できる人に譲った方がいいなって。お兄ちゃんなら大丈夫だからさ』
    「やけに信用されてるな……」
    『漣くんのかっこいい瞬間、撮ってくれるだろうなって』

     褒められているのか、逃げ道を塞がれているのか。計算かどうかはさておき、ここまで言われて断るわけにもいかなくなった。いずれにしても、暇を持て余しているのだから。ライブがあるたびにチケットを取って駆け付けて、写真を撮ったり、ライブに夢中になったり。それが当たり前の日々だったから、突然それがなくなったら、どうすればいいのかわからなくなってしまった。あの子を好きになるよりも前に戻っただけの話なのに、その頃どうやって過ごしていたのかがもう思い出せない。半分眠っているようなぼんやりとした毎日がただ続いている。

    「……わかった。撮ってくるけど、久しぶりだからダメかも」
    『やった、ありがとう!』

     ダメかも、に対する返答はあっさりと省かれてしまう。電話を切って、送られてきたURLをタップする。日時と場所を確かめる。それから座席を確かめる。……ファンクラブの最速先行か何かだったのだろう。これを手放すならば、確かに何か得るものも欲しいし、知り合いでもない人に譲るのは惜しい。予防線を張ってはみたけれど、できる限りの事はしようとひっそりと誓う。推しは違えど、同じドルオタとしての礼儀というやつだ。

     そうなれば、まずは予習をするべきだろう。ライブ動画が少しでも公式から上がっていると助かるけれど。そう考えながら、クッションに沈み込んだままあくびを一つ。半分眠っているような日々だとしても本当に眠っているわけではないのだから、夜になるとこうしてしっかりと眠気がやってくる。明日も仕事だ。動画を探すのは明日にしよう。明日は忙しくなりそうだから、残業があるかもしれないけれど。……あの頃は、そんな日でもライブに間に合わせるために仕事を早々と切り上げていた。それなりに大変だったけれど、その戦いを楽しんでいる節もあったような気がする。何とも戦わない毎日だ。平和が一番。だから、それでいい。それでいいはずだけれど。



     ちょうど帰ってきた所で届いた荷物の差出人は妹だった。簡単に抱えられる程度の大きさの箱で、見た目ほど重くはない。ペン立てからカッターを取り出して継ぎ目に沿って滑らせる。最初に目に飛び込んできたのはデパートの包装紙だった。包装紙の表面にはラーメンのどんぶりの柄のマスキングテープでメモが貼られていた。

    『必要だと思ったので送ります』

     首を傾げながら持ち上げてみる。軽い箱だった。チョコレートか何かだろうか。それからその箱の下にあったものを見て、メモに書かれた文の意味を悟る。思わず片手で頭を抱えてしまった。

    「ばれてる……」

     開けた段ボール箱の中には、ライブ映像を収めたディスクたちが梱包材に包まれて並んでいた。取り出すまでもなくわかる。THE虎牙道のものなのだろう。チョコらしきものは依頼料といったところか。仕事から帰ってきたばかりの夕食前の僕の胃袋が手を操る。包み紙を剥がしてみると予想通りチョコだった。僕でも知っているような店の。一粒いくらだろうかと無粋な事を考えながら口に入れる。少しずつ溶けていくチョコを味わいながら入っているものの中身を確かめた。

     新旧の単独ライブと事務所合同らしいライブ。映像化がされているという事にまずうらやましさを覚えてしまった。毎週のようにライブをしていたはずなのに、歌って踊るあの子の姿はいくつかの動画でしかもう確かめられない。あっさりと形を失って記憶の中だけにしまわれるそれを惜しむように、僕はシャッターを切り続けていた。深いため息が零れる。口の中のチョコはもうすっかり溶けていたけれど、甘さはまだ残っていた。とりあえずは夕飯にしよう。開いたままの箱はそのままに台所へと向かった。

     マスキングテープの柄を見たらラーメンが食べたくなってしまった。インスタントラーメンに野菜炒めを乗せただけの野菜ラーメン。大人になったらここでビールの缶を開けるようになるものだと思っていたけれど、そうはならなかった。ペットボトルのお茶をいつかのグッズ販売で買ったマグカップに注ぐ。テレビをつけて動画サイトに接続する。検索履歴の一番上に残っている名前を選ぼうとしてやめた。代わりに検索欄に文字を入力していく。三文字目を入れた所で探していた名前が候補に現れた。
     一番上に出てきたのは最新曲のMVだ。探しているのはこれではない。スクロールして、目的のものを探し当てる。多分あの箱の中にも入っているライブ映像のダイジェスト。再生を始めてからラーメンを啜った。野菜炒めの塩が少し足りなかったかもしれない。

     イントロが始まる。逆光の中に三つの影が浮かび上がる。曲に合わせて弾けたライトに、歓声が湧き上がった。悲鳴にも近いその声を切り裂くように拳が振り上げられる。ペンライトが一斉に掲げられる。赤、青、黄。懐かしい空気だった。浮かび上がったそんな感傷はすぐに消えた。写真を見せられたから覚えている。銀色の長い髪の子が『漣くん』だ。一つに束ねられた髪が踊る。ダンスが上手いだとか、そういう次元の話ではない。元格闘家。その説明を思い出す。そしてなんとも恐ろしい事に『漣くん』の動きがユニットの中で一人浮いているというわけではないのだ。名前は多分聞いたけれど忘れてしまった。小柄な顔のきれいな子は『漣くん』の動きについていくのではなくて、互角にぶつかる。挑発するような動きに乗って、乗せて。大柄なたくましい人はまたとんでもなく歌が上手い。大きな体は俊敏さこそ二人には劣るとしても、振りの一つ一つが力強くて目を惹いた。

     これを目の前で見られるのか、と思った瞬間に指先が微かに痺れたような気がした。それがどういう感情から来ているのかわからずに、咄嗟に見下ろした視線の先にはスープを吸って膨らみ始めたラーメンがあった。



     久しぶりに手にしたカメラは呆気ないほどに軽かった。レンズとペンライトと一緒にリュックに入れる。癖で財布の中に小銭があるかを確かめてしまったけれど、ライブハウスではないのだからドリンク代はいらないのだった。この段階まで来ても実感が湧かないままだ。あの後映像はいろいろと見たけれど、実際に現場に行ってみないとわからない事はいくらでもある。せめて妹に送れる写真が何枚か撮れるといいけれど、勘はもうすっかり鈍っている。……そもそも、こんなカメラを持ってきている人がいるだろうか。これまでは撮影禁止だったようだし、スマホでもそれなりの写真が撮れるのであれば、まずは様子見をする人だって多いかもしれない。玄関の鍵を指に引っかけたまま立ち尽くして天を仰ぐ。天を仰いだ所で低い天井が見えるだけだけれど。

     そんなに気になるなら、このカメラを置いていけばいい。僕はリュックの肩紐を握って、けれどすぐに離した。玄関を開ける。冬の空は肩の上にのしかかるように重い。その重さを跳ね除けるように足を前へ前へと進めた。現場に行けなくなった無念は晴らさないといけない。全然可愛くない妹だとしても。

     呆気ないほどに軽いと思ったのは、あの子を追いかけていた頃と比べればの話であって、当然カメラは軽いものではなかった。電車に揺られるたびに肩にリュックの重さを感じる。あの子がいなくなった後、誘われた現場にはカメラを持たずに行った。また会いたいと思える誰かに出会えるのを願って。写真が撮りたいと思えるのを願って。でも、そうはならなかった。楽しくなかったわけではないけれど、気に入った曲だってたくさんあったけれど、心の片隅はいつでもしんと冷えていた。その寒さの中にいる僕は、もうステージにはいないあの子の事ばかりを考えていた。失礼な話だ、という自覚はある。今その場所にいるのはあの子ではなくて、必死に光ろうとする一人のアイドルだ。けれど、それをまっすぐに受け止める方法が僕はもうわからなくなっていた。零しかけた溜め息を飲み込んで、気が付けば俯いていた顔を上げる。通り過ぎていく景色は全てが灰色だ。雪が降るのかもしれない。

     最寄駅に着いて、押し出されるように電車から降りた。それほど大きな会場ではないと妹は言っていたけれど、だとしても僕が通っていたライブハウスとは規模が違う。時間をかけて改札を抜けた。周りに人が減ると少し気が楽になった。男性ファンの姿ももちろん見かけるけれど、数が少ない分なんとなく肩身が狭い。できれば近くの席にもいてくれると安心できるけれど、座席が決まっている以上、こればかりは運に任せるしかない。

     会場の周りには、ライブを控えてそわそわと浮き立った空気が漂っていた。友達同士で興奮気味に何かを話していたり、落ち着かない様子でスマホを触っていたり。毎週のようにライブをしていたあの子たちとは違って、活動の場が広い分だけこうして直接会える機会も限られているのかもしれない。毎週のように会う事ができたから、本当はあの子たちも同じなんだと気が付かずにいた。次にいつ会えるかなんてわからなくて、会えなくなる日は突然やってくる。……やめよう。今日は今日出会うアイドルの事を考えよう。

     カメラの入ったリュックを咎められる事もなく、入場をして座席へと向かう。一歩ずつステージに近付いていく。その度に良席を手に入れた妹の運と無念を同時に感じてしまう。勾配の緩やかな通路から席へと入る。通路沿いの席で安心した。僕は背が高い方ではないけれど、とはいえ後ろの人の視界を遮ってしまう可能性はある。もしそうなっても、この席ならば見やすいはずだ。席についてカメラを取り出す前に、周りの様子を確かめてみる事にした。写真を撮る人間への印象は必ずしもいいものばかりではない。特に、女性が多い場所では。二つ挟んだ隣の席にはもう人がいた。そちらへと目をやった。妹と同じぐらいの年齢だろうか。小柄なその人の首にはカメラがしっかりとかけられていた。……あの子たちの現場で何度も見かけたような。恐る恐る通路を挟んだ反対側の席を見る。そこにいる人もどっしりとしたカメラを膝に乗せていた。思わずスマホを取り出す。ちょうど妹からも連絡が来ていた。休憩中か何かだろうか。

    『もう着いた?』
    『会場に入った。ガチ装備の人が多いんだけど』
    『カメラ?』
    『そう』
    『どうせ撮るなら頂点目指さないと』

     何の頂点だよ、というツッコミは、こちらに向かって親指を立てる虎のキャラクターのスタンプに遮られた。そんなものなのだろう。オタクには何故か、それぞれのグループのオタクとしての信念のようなものがあるものだ。やるからには頂点を目指す。THE虎牙道らしい、と、今日初めてライブに来た僕が言うのはおかしいけれどそう思った。

     カメラを取り出して、ステージに向けてみて調整をする。その手順はまだ体が覚えていた。この距離ならばどうにか見せられる写真も撮れるだろう。そうであればいい。踊る三人に向けてカメラを向けて、シャッターを切る瞬間がもう目の前に来ている。そう思うと落ち着かない気持ちだった。少しずつ埋まっていく席に座る、今日を待ち侘びていた人たちみたいに。

     スマホを見たり、カメラの設定を確かめてみたり。そうこうしているうちに開演時間になった。照明が落とされる。僕はポケットに差し込んだペンライトの電源を入れた。歓声が湧き上がる。懐かしさが押し寄せて、僕の指先まで飲み込んでいく。振り返ったらきっと期待に満ちて光る目がまっすぐにステージへと向けられているのが見えるのだろう。期待を盛り上げていくオーバーチュアは、デビュー曲のイントロのアレンジだと今ならわかる。ステージの上に影が登る。歓声がオーバーチュアを塗り替えていく。音が消えた。ライトが一斉に灯った。歓喜の声が天井を押し上げるように響いた。

     一曲目のイントロを耳が拾い上げる。新曲だ。ライブ映像はまだないから、振付も立ち位置もわからない。けれど、感覚を取り戻すにはそれがちょうどいいかもしれない。僕はカメラを構えた。シャッターに触れる指は震えていた。『漣くん』がいるのは反対側だ。無理に撮ろうとするのはやめて、こちら側にいる大きな影にカメラを向けた。『道流さん』だ。映像で見ていてもその体格のよさはわかったけれど、いざ目の前にするとその印象は何倍にも強くなる。メンバーの中では一番表情が豊かで、時には可愛いとも思ってしまうほどのその表情は、新曲の雰囲気に合わせてか真剣なものだった。その横顔を撮りたいと思った。そう思った時にはもう指にはシャッターを切った感覚があった。僕が少しずつこの空間に溶けていくようだった。僕は僕の形をしっかりと保っているけれど。ここでは少数派に入るだとか、カメラを持つ人間に対する印象だとか、ライブが始まる前に考えていた事も一緒に溶けていく。ここにある熱気の中に消えていく。喉がぐっと詰まるような感覚があった。それに名前をつける隙もなくライブは進んでいく。

     立ち位置が入れ替わる。『タケルくん』がこちら側に立った。こちらを見た、と思ったのが幻想なのかはどうかは視線の持ち主にしかわからないけれど、多分僕だったのだと思う。僕というよりも、僕のカメラというべきなのかもしれない。慣れている子だとカメラに向かって表情を作ったりポーズを作ったりするものだけれど、予想通りそういうタイプではないらしい。目が泳ぐ。けれど、微かに笑ったように見えたのは多分幻覚ではないはずだ。カメラには収められないほんの一瞬の出来事だとしても、記憶の中には確かに残る。小柄な方なのだろうと思う。男性アイドルの平均値は知らないけれど、多分。それでもその分だけ軽やかに『タケルくん』は踊る。よく笑う方ではないけれど、その分だけ時折見せる微笑みの破壊力は大きいのだ。今目が合った誰かの中にもきっと思い出が積もっていく。

     僕の中にも小さな思い出が残されている。今日もらった思い出の下に、数えきれないくらいに。あの子にもらった思い出たちが。押し寄せてきたのは寂しさだった。新しく増えていく思い出の中にはもうあの子はいない。舞台を見上げる。ライトが描く線の中にいるのはあの子ではない。音の中に微かに聞こえる足音もあの子のものではない。舞台の上には汗を散らしながら踊る三人がいる。そうして楽しませようとしている相手の中には、客席にいる以上、僕も含まれている。それを受け止めたいと思うし、受け止めないといけないとも思う。舞台の上にいる彼らのためにも、ここに座りたかった誰かのためにも。……だけど。

    「おい!」

     カメラの重さに落ちていく腕が鞭を打つようなその一声に思わず止まった。どこか遠くにあった景色に焦点が合う。ステージの上、客席との境界線の真上。僕の目の前には『漣くん』がいた。客席を見渡す。一人残らず倒してやるのだと言わんばかりの表情で。

    「オレ様を見ろ!」

     ただ一言そういってライトの中へと戻っていく。一呼吸の後に繰り出されるダンスはそう呼ぶには荒々しいほどだ。それなのに、目が離せなくなる。振り上げた足に隠れているけれど、顔には確かに笑みが浮かんでいた。カメラを持つ手が引き上げられる。ファインダーを覗く。『漣くん』の姿を捉えて、それから。

     空振りだ、とすぐにわかった。そうなれば次のチャンスを狙うだけだ。そう思って挑んでも、挑んでも、『漣くん』の尻尾は掴めない。捉えたと思った瞬間に逃げられる。顔を上げる。目が合った。挑発するような笑みが浮かぶ。撮れるもんなら撮ってみやがれ。そんな声が聞こえたような気がした。その瞬間に指先で火花が弾けたような気がした。何度逃げられようが次のチャンスを狙うだけだ。あの子が舞台に立っていた時だってそうだった。撮りたい瞬間を満足のいく形で手に入れるまでに何度も何度もシャッターを切ってきた。

     ファインダーの中でライトが滲んだ。思い出は、もう増えない。僕があの子を写す事はもうない。あの子がいなくなって、僕が失くしたものはたくさんある。ライブを楽しみにして過ごす毎日も、ライブハウスの熱気の中に溶ける心地よさも、一瞬を切り取るための熱意も。失くしてきた。でも、だからといって初めからなかった事にはもうならない。確かに僕の中にあったもので、これからも僕の中で呼吸を続けていくものだ。

     手の甲で涙を拭う。睨み付けるようにファインダーを覗いた。指先で弾けた火花が広がっていく。熱が心臓へと回っていく。撮りたい。初めはただ、いつかはいなくなってしまうあの子たちの姿を覚えておきたいと思っただけだった。いつの間にか、それだけではなくなっていたけれど。いい表情を撮れると嬉しかった。誰かに褒めてもらえると嬉しかった。あの子も見ていてくれたらいいなという期待もあった。純粋な気持ちも、そうではない気持ちも、全部ひっくるめて僕は写真を撮っていた。今、その理由が一つ増えた。

     負けたくない。僕の手で絶対に最高の瞬間を奪い取ってやりたい。牙崎漣から。



     そう思った後の事はあまり覚えていない、と言ったら妹に張り飛ばされそうだから黙っておこう。そう心に決めながら僕はパソコンのモニターを覗き込んでいた。マウスを握る腕が痛い。写真はもちろん撮りたいけれど、煽られれば手拍子もしたいし、声も上げたいし、ペンライトも振りたいのだ。あの頃はごく自然にできていたそれも現場を離れれば動きは鈍るし、体力も落ちる。慣れない現場で緊張して妙な力が入っていたというのもあるのだろう。よくわからない筋肉痛に襲われた僕は日曜なのをいい事に昼まで布団の中にいて、呻きながら昼食を食べて、いつ買ったかわからない湿布を腕に貼りつけて、今ようやく昨日撮った写真の現像を始めたというわけだ。

    「うわ……」

     予想通り、山のような失敗写真が生まれていた。見切れていたり、残像のようなものしか映っていなかったり。その中からうまく撮れている写真を発掘する。鈍った勘はそう簡単には取り戻せない。掘り出した写真もかろうじて人に見せられる程度のものがほとんどだ。……それでもその中に、一枚だけあった。僕がどうにか掴み取った一枚が。

     赤いライトの中、高く高く跳び上がったその一瞬。結んだ髪と衣装の裾が鋭く弧を描いていた。まるでその動きさえも手足のように制御できているとすら思えるほどに鮮烈に。そして牙崎漣は笑っていた。金色の目を爛々と輝かせて。客席を、その向こうを、もしかしたらその先までをも見据えて。その写真は色も明るさも調整しなかった。手を加えずにあの瞬間の全てを捕まえておきたかったから。

     写真をまとめてクラウドに上げて、そのリンクを妹に送った。これで今回の僕の仕事はおしまいだ。冷蔵庫へと向かう。乾杯をしたい気分だった。部屋にいるのは僕一人だし、酒ではなくてジンジャーエールだけれど。マグカップに注いでパソコンの前に戻る。椅子に座った瞬間にスマホが音を立てた。妹からの着信だった。

    「はい」
    『ありがとうございます。お肉のセットとカニとどっちがいい?』
    「肉の方で。……えっと、写真のことだよな?」
    『そう。漣くんかっこいい……』
    「あれでいいのかわからないけど」
    『いい! 漣くんがかっこいいのは知ってるんだけど、やっぱり昨日もかっこよかったんだなって』
    「ダンスすごいな、ほんとに」
    『でしょ! 虎牙道はもっとすごくなるから、自慢できるようになるよ、昨日の事』

     そう言い切ってしまうのだから笑ってしまう。笑ってしまうけれど、僕もそうだった。あの子たちはこれからもっともっと大きくなるんだと信じていた。一握りの、そのまた一握り。そんな人達しか辿り着けない場所だとしても信じていた。……もう叶わない願いだとしても、そこにあった気持ちは消えない。それを抱き締めて過ごした日々の楽しさだって。

    「そうかもな」
    『えっ、もしかして推しになれそう? ファンクラブ入る?』
    「せめてもっと段階踏めよ……」

     昨日撮った写真のフォルダを開く。僕の初陣の、たくさんの敗北の跡だ。

    「まあ、でも」

     この上に勝利を積み上げてみたくなった。厳しい戦いだとわかってはいるけれど、だからこそ挑んでみたくなってしまう。そのためにはやらないといけない事がいくらでもある。道具もまた揃えたいし、楽曲も覚えたいし、ライブの研究だってしたい。そう考えると落ち着いてはいられなかった。止まっていた時計が動き出した、なんて、ありふれた表現だけれどそんな気持ちだ。

    「次は負けない」

    (END)
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    Replies from the creator

    kurautu

    DONE王子様としての一歩目の話です。みのりさん誕生日おめでとう!
    おうじさまのはじまり 足の裏に伝わるのは硬い床の冷たさだ。大きな窓から降り注ぐ光は明るいけれど、広々としたこの場所の空気を温めるのには時間がかかる。開場して人が集まれば消えてしまう温度を存分に味わう事ができるのは、出演者である俺たちの特権だ。俺たちといっても、今ここにいるのは俺だけだけれど。
     夢の中だった。裸足で歩いている俺も、スタッフさんの声一つ聞こえないこの場所も、ありえないのだと知っている。それならばいっそ、この空間を楽しむだけだ。願えば床を一蹴りするだけで簡単に飛べそうだけれど、俺はそれを選ばなかった。それよりもここを歩いていたかった。
     穏やかな日差しの中に並ぶフラワースタンドを一つ一つ眺めながら歩いていく。夢の中のフラワースタンドたちは、俺が目を覚ました世界のどこにもない。だからこそ目に焼き付けたい。作り出しているのは俺の記憶だとしても、それを作り上げているのは今までに触れた花たちだ。もらった花、贈った花、誰かが贈るための手伝いをした花。花の中には俺たちの名前も、俺の名前も掲げられていた。それを当たり前のように思い描けるほどに、たくさんの気持ちを受け取ってきた。手を伸ばして花に触れれば、水を含んだ冷たさが伝わってくる。大事な舞台を前にした緊張と高揚をそっと鎮めてくれるような温度だ。
    1937

    kurautu

    DONE一週間ドロライさんよりお題「クリスマス」お借りしました!
    雨とクリスマス 初めての恋にあたふたしてほしい
    雨は 冷たい雨が凍りついて、白く儚い雪へと変わる。そんなことは都合よく起きなかった。僕はコンビニの狭い屋根の下で、雑誌コーナーを背中に貼り付けながら落ちてくる雨を見上げていた。
     初めてのクリスマスだ。雨彦さんと僕がいわゆる恋人同士という関係になってから。だからといって浮かれるつもりなんてなかったけれど、なんとなく僕たちは今日の夜に会う約束をしたし、他の予定で上書きをする事もなかった。少しだけ先に仕事が終わった僕はこうして雨彦さんを待っている。寒空の下で。空いた手をポケットへと入れた。手袋は昨日着たコートのポケットの中で留守番をしている。
     傘を差して、街路樹に取り付けられたささやかなイルミネーションの下を通り過ぎていく人たちは、この日のために用意したのかもしれないコートやマフラーで着飾っていた。雨を避けている僕よりもずっと暖かそうに見えた。視線を僕の足元へと移すと、いつものスニーカーが目に映る。僕たちがこれから行こうとしているのは、雨彦さんお気に入りの和食屋さんだ。クリスマスらしくたまには洋食もいいかもしれない、なんて昨日までは考えていたけれど、冬の雨の冷たさの前には温かいうどんや熱々のおでんの方が魅力的に思えてしまったのだから仕方がない。
    1915

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