許す男「なあ、隊長さん知らね?」
覗き込んだ室内に、痩身の男の姿はなかった。
そも、誰も彼もが出払っているようで、居るのはそばかすの女だけだ。確か名前を月光院とか言ったか。尋ねるも、案の定、否が返される。
「会議中ですね、半時間程で戻るかと。何かお急ぎのご用でしたか?」
「いや別に。こないだの事件で自販機壊した反省文出せって言われてたから、それを持って来ただけだけど」
渡してさっさと帰ってしまおうか。だが書き直しの場合、また呼びつけられるかもしれない。
監視役をしている彼の男は、最近、何かと下らないことで俺を呼び出すようになっていた。自死を試している最中だろうが、退治人どもと戯れていようが、お構い無しなのだ。それが至極、面倒だったから。
俺は深く、溜め息をついた。適当な椅子に腰かける。半時間といって、その通り帰ってきた試し等ないのだ。どうせだらだら伸びきって、一時間は待たされるだろう。いっそ眠ってしまおうか、そう思った時だった。
「仲がよろしいんですね」
「は?」
朗らか声がそう言った。癖の目立つ豊かな髪を揺らしながら、珈琲と菓子をトレーにのせた女がこちらに近づいてくる。マグカップは二つ。その内の一つは俺の前に、もう一つは女の前に。
「誰と、誰が」
「隊長と、貴方が」
可笑しなことを言う女だ。俺は首をふった。
「監視役と監視対象が仲良しだって? 冗談は止してくれ。あいつは、俺に猛獣用の麻酔をしこたまぶちこんだ男だぞ」
受け取った珈琲に口をつける。酸味が強く感じられ、俺は眉を寄せた。男が淹れたそれとは違う味。あれはもっと香ばしく、苦味があった筈だ。同じ珈琲でもこうも違うのかと嫌気が差した。
「でも貴方は此処に居ますでしょう」
そんな俺を見て、女が笑う。手渡されたのはミルクだった。男曰く子供舌な俺を笑ったのか、それとも俺の答えを笑ったのかは分からない。けれど女に嘲りはないようだったので、そのままにさせておく。すると女はにこにこと、まるで寝物語のように話し始めた。
「一度は群れの頭にまで担ぎ上げられた貴方が、大体の荒事は難なくこなしてしまうような格好良い貴方が、ひょろひょろでがりがりで口だけが回るような隊長に良いようにされても黙って良い子にしてあげているのは、仲良しだからじゃないのかしら」
許してあげているんでしょう、彼のこと。
許す、とは。
「短命で弱っちいくせに下らねえ法律とか、使命だとかで雁字搦めになって哀れだと思っただけだ。許すというならそうかもしれないが、あんたが言うような可愛いもんじゃねえよ」
あれしなさいこれしなさい、あれはしちゃだめこれはしちゃだめ。
男は兎に角、小言ばかりだった。面倒臭くて鬱陶しいが、大侵攻を通して負けたのは俺だ。敗者にはイエスかはいだけが与えられる。
そもそも、所詮は小さき命のお願い事だろう。放っておいても死にそうな男の、ささやかな願いだ。それくらいは叶えてやっても良い。
何故って、たいそう可哀想だから。
煩わしい上司と、個性豊かな部下に囲まれて、男はいつも疲弊していた。であれば「ビルを壊すな」だとか「ものを壊した時は反省文を出せ」だとかそんなことに一々苛立ちを覚える程ではないかと思うのだ。男はいつも目くじらを立てているが。心配に成る程細い、骨に皮だけを貼り付けたような指先が指す指示を、まあ良いかと許してやりたくなるのだ。
「だってあいつ、すぐ折れちゃいそうだろ」
でもそれって、仲良しだからなのだろうか。
俺は唯、許してやっているだけなのに?
ΔΔΔ
「いや、おかしいだろう」
そんなことを考えていた、夜のことだ。
広いベッドの上で俺は、はたと気が付いた。
眼下には自身の裸体があり、手触りの良いシーツには皺が寄っている。俺は手にしていた濡れタオルをぎゅっと握り、思案した。いや、考えなくとも何も身に纏っていないのだ。まごうことなき裸である。何故、どうして。
腰には怠さがあり、臀部には何とも言えぬ違和感が残っていた。ぽっかりと内臓が開いているような、何かが今も内ら側にあるような、そんな奇妙な感覚。
身は清められているが、そもそも全身を包んでいるのがゆったりとした倦怠感で、全身運動に勤しみましたと言わんばかりのそれなのだ。早い話が、セックスをした後のような。
そう、俺は今しがたセックスをしたのだ。
それも、ドラルクと。俺の監視役と。
「は? おかしくない?」
「どうかした?」
男が姿を現す。ボトムだけは履いているようだが、むき出しの上半身はお世辞にも肉付きが良いとは言えない。鶏ガラのような身体だ。それが、俺を組み敷いていたのか。
「俺、こんなことして良いって言った?」
「こんなことって」
「セックスだよ!」
仮眠するから起こしてくれって言ったじゃん! 何なのお前!!
昼間、男を待っている間にうつらうつらとしていたのだが、もう少しで眠りに落ちるという所を起こされたのだ。そのせいで微妙な眠気があった。帰宅してからも手先がぽっと温くなるような眠気からは逃れられず、俺は仮眠をするから起こしてくれと男に頼んだのだ。そうしてベッドに寝転がり、それから……。
「お前本当に何なの? 馬鹿なの?」
俺は男に詰め寄った。無理な体勢を強いられていた股関節が痛んだが、そんなのは些事である。
「なんのこと?」
「俺こんなこと許した覚えないんだけど。ベッドに寝た奴は全員抱かないと駄目だとか思ってる? そんなクソみたいな思想捨てちまえ」
男は紳士的を履き違えているのではないか。以前ちらと見たこいつの上司、師匠を名乗った髭の男は頗る女好きそうな面をしていたから、或いはそのせいかもしれない。握り締めた手首が痛かったのか、男が唇を歪めた。
「そんな思想はないよ。君だけが私の特別なんだ」
だが返答は思いもよらないものだった。
特別、とくべつ、トクベツ。
ふと、昼間の会話が呼び起こされる。
トクベツってなんだ、仲良しってこういうことなのか。ならあの女も、そう思っていたってこと? この男と俺がデキてるって? デキてるくせに照れ隠しで悪態をついていると? そう思われたってこと?
血の気が引いた。なんだその最悪の想定は。誰のせいだ、そんな勘違いを招いたのは。
その時視界に入ったのは、甲斐甲斐しく水だの何だのの世話を焼こうとする男の姿だった。こいつか。この、恋人気取りの男の妄言のせいか。
「は? きしょ、なに? 妖怪彼氏面おじさんじゃん」
だから俺は、俺の肩にカーディガンをかけようとする男の手をひっぱたいてやった。寒くないかい、と微笑んでいた男の口角がひきつる。三白眼、小さな黄金が鈍く輝いていた。嫌な、予感がする。
「彼氏面って……逆に聞くけど、一緒に住んでて一緒にご飯食べててセックスまでしてるのに、君は一体どういうつもりだったの?」
「……いや、セックスしたのは今日が初めてだろ」
「でもこれからはするでしょう」
俺は絶句した。こいつは何を言っているんだ?
「いや、しないだろ。付き合ってるわけでもねえのに」
こんなものは事故だ。
だが男はめげなかった。
「一緒に住んでて一緒にご飯食べててセックスまでしてるのに?」
「いやそれさっきも聞いたけど、だから、」
「でも君、私のこと許したじゃない。君が本気で殴ったら、私なんて止めるどころか殺すことだって容易いのに、君、私を傷つけない為にシーツまで握って耐えてくれたじゃない。私のこと、好きだからでしょう?」
答えてよ、ロナルド君。
これって、愛でしょう?
私を、許してくれたんでしょう?
俺は一人、赤面した。
ちなみにこの隊長は、
「妖怪彼氏面おじさん」「後方支援型モンペ」「Mr.パパ活免許皆伝」「職権乱用の権化」「面の皮厚男」とか呼ばれています。多分隊員たちに。