ふっさこ現パロ あの日のカクテルグラス 深夜も喧騒に包まれる繁華街から一本路地を入ると、けばけばしいネオンとは無縁の落ち着いた雰囲気に包まれる。
明るい雰囲気のイアリアンバルと、いささか高級な雰囲気をもった和風居酒屋に挟まれた場所にそのオーセンティックバーはあった。
揃えているアルコールの種類の多さに定評がある店は、マスターの伏犠が一人で営んでいる。席はカウンター十席のみで、一人静かに酒を傾けたい大人向けの店だった。
夜七時。今夜も店の入り口の看板がライトアップされて開店を告げる。早速仕事帰りのサラリーマンが来店し、四席が埋まった。
この店のフードメニューには簡単なつまみ程度しかない。そのかわり、両隣の店からデリバリーが取れるようになっていた。今日の客も、まずはデリバリーを取って軽い夕飯代わりにしている。伏犠はそれを見ても嫌な顔一つしない。客と楽しく会話をしながらロック用のアイスを削ったり、グラスを磨いていたりする。客の頼みで食前酒や食事とのペアリングを考えて酒を用意することもよくあった。
客の夕食が終わったらようやく本格的に伏犠の仕事が始まる。日本酒から洋酒、カクテルまで、客のオーダーに合わせて手際よく用意していく。
仕立てのいいオフホワイトのワイシャツに黒のカマーベストとネクタイ、ロングエプロンという正統派バーテンダースタイルの伏犠がシェイカーを振る姿が好きだというファンもいるくらい、その所作は洗練されていた。
夜十時。L字型に配置されたカウンター席は全て埋まり、静かなジャズが流れる店内はさざ波のような心地よい話し声に包まれている。
カランと入り口のドアにつけられていたベルが軽やかに鳴り、また一人客が顔を覗かせる。たいていは満席なのを見ると残念そうに帰っていくのだが、その客はカウンターの中の伏犠と僅かに目線を合わせただけで、無言で壁際の大きなソファに腰を下ろした。ソファの前には小さなテーブルが一つ。その席は、この客の専用の場所だった。 「左近、来るなら前もって連絡してくれればいいのに」
伏犠は、黒ビールのグラスとオイル漬けのチーズとオリーブを盛り合わせた小鉢をトレーに乗せてソファの前のテーブルに持っていく。
「急に時間ができたんですよ」
長い黒髪をハーフアップにし、シルバーフレームのメガネが知的な印象を与える左近と呼ばれた男は、眺めていたスマートフォンのカバーを閉じて目を上げた。
「夕食は?」
「まだです」
伏犠は「ラストオーダーギリギリじゃよ」と笑いながら左近に両隣の店のデリバリーメニューを差し出す。左近はそのメニューを断って言った。
「伏犠さんにお任せしますよ。昼も食いっぱぐれてるから、重めのがいいな」
伏犠は仕方ないなと言いながらカウンターに戻り、タブレットを操作してイタリアンバルにオーダーを送ると、本来は午前一時閉店のはずの店のドアにクローズのプレートを出した。
左近が黒ビールを飲みながら伏犠の姿を眺めつつ待っていれば、十五分ほどで、熱々のイタリアンハンバーグとシーザーサラダが届けられた。タイミングを見図ったように、焼きたてのガーリックトーストと赤ワインの入ったグラスがテーブルに置かれる。
「今日のワインは?」
「キャンティ・クラシコ・リゼルヴァ。トマトソースによく合うんじゃよ」
左近は早速ワインに口をつけ、満足そうに微笑む。それを見届けてから伏犠はカウンターの中に戻って他の客のオーダーを捌き始めた。
それから約一時間後。
客は全て帰り、店内に残っているのはソファに座ってウィスキーのグラスを傾けている左近と伏犠の二人だけ。
伏犠がカウンターを軽く片付けていると、左近が空になったグラスを持ってソファからカウンター席に移動してきた。
「ん? いかがした?」
「折角だから、最愛の恋人の仕事姿を近くで見たいなと思って。何か作ってくださいよ」
左近はカウンターに頬杖をついてゆるく微笑んだ。
「嬉しいことを言ってくれる。今の気分は?」
「そうですね……、思い切り熱くて甘い夜を過ごしたい気分、かな」
左近が色気のある低い声で囁くように言うと、暗めの照明でも分かるくらいに伏犠の顔が赤く染まる。
「お主、それは反則じゃ」
伏犠は背後の酒棚から手早く必要なボトルを取り出す。カクテルグラスの縁に砂糖を付けてスノースタイルにしてから、ウォッカ、スロー・ジン、ドライ・ベルモットをそれぞれ同量シェーカーに注ぎ、最後にレモンジュースを加えて軽くステアしてから氷を入れ、氷がぶつかる音を響かせながらよくシェークしてグラスに注ぐ。赤い色の液体で満たされたカクテルグラスを、伏犠は芝居じみた仕草でカウンターに置いた。
「キッス・オブ・ファイアでございます」
「ありがとうございます。やっぱりシェーカー振ってる伏犠さんは見惚れるぐらいかっこいいですよ」
左近は静かにカクテルグラスに口を付けた。
強いアルコールと甘みが今の気分にぴったりだ。
「すいませんね、いつも営業の邪魔しちゃって」
大分早く閉店することになった静かな店内を見渡して左近が言うと、伏犠はネクタイを緩めて首元を開けながらふっと笑う。
「まったくじゃよ。お主が来ると気になって仕事にならんわ」
「そんなこと言って、一週間来ないとそれはそれで落ち着かないくせに」
伏犠はスモークしたチーズと生チョコレートをカウンターに出し、自分用にタンブラーにジントニックを作る。
左近が飲みかけのカクテルグラスを掲げると、伏犠もタンブラーを持って視線を合わせ、グラス同士は当てずに乾杯をした。
「当たり前じゃ。お主と一週間も会えぬなど、わしの心が干上がってしまうわ」
左近が来た日は、こうして閉店後に二人で店の中で夜を明かすのが常だ。
しかし、今日は何かが違った。いつもなら左近はずっとソファにいて、片付けを終えた伏犠もそこでゆっくりと寄り添いながらグラスを傾けるのに。
「今日はちょっと、話したいことがあって」
中身が半分ほどになったグラスを弄びながら左近が呟いた。
「改まって何を……。深刻な話、かのう?」
「ええ、まあ。実は四月から異動が決まったんですよ。一応、栄転なんですけど」
「そうか……。祝ってやらねばならぬのだろうが、遠いのか?」
「ええ。それが海外でしてね。たぶん、年に二回くらいしか帰って来られないと思うんですよ」
二人の間に沈黙が落ちた。
何も言えないのは、言葉を間違うと取り返しがつかないことになる予感があるからだ。
伏犠は思い切ったようにタンブラーの中のジントニックを一気に呷った。
「これは、別れ話、か?」
「……だったらはっきりそう言いますよ」
左近はグラスの赤い液体をぼんやりと見つめて言った。
「ねえ、伏犠さんのとこに永久就職ってできませんかね?」
伏犠は意味を図りあぐねて首を傾げ、すぐに顔を歪めた。
「今の仕事を辞めてか?」
「そう、なりますかね」
左近の返事を聞いて、伏犠はゆるく首を振った。
「……ダメじゃよ」
左近はグラスの中身を飲み干すと、伏犠におかわりをオーダーする。
「もう一杯いただけます? 失恋を慰めてくれるような一杯をね」
伏犠は何も言わずに背後の酒棚からボトルを出す。
「今まで告白されたことは数え切れないほどあるんですけどね、自分からしたのは初めてなんですよ。本気で恋した相手に初めての告白で失恋なんて、今まで散々遊んできた報いですかね」
伏犠はそれには答えずに、シェーカーに酒を注いでシェイクする。ビーフィータージンにライムジュースと砂糖。
「ギムレットでございます」
カクテル言葉は「遠い人を想う」「長いお別れ」。まさに、失恋にはピッタリの一杯といえた。
「今の仕事を惰性でやっているのならばそれもよかろう。じゃが、お主はいつも仕事は好きだと言っていたではないか。自分の能力が存分に発揮できると」
左近はグラスを手に取る。ライムジュースが少なめなのか、思った以上にアルコールがきつい。
「俺は仕事よりあんたを取るって言ったつもりなんですがね」
「仕事より恋とは、お主らしくもない」
グラスの中身が少しずつ減っていく。
どうやら、一緒にいられる術は無いらしい。
「ごちそうさまでした。それじゃ」
空になったグラスとカクテルの代金をカウンターに置くと、左近は席を立った。
「気をつけてな」
それから、半年経っても左近がこのバーを訪れることはなかった。
あの日から三年近い月日が流れた。
伏犠のバーには相変わらず静かな時間を求めてひっきりなしに客がやってくる。。
変わったことといえば、大きなソファが無くなってそこに二人がけのテーブルが二つ置かれたこと、そしておっとりした女性の店員が一人増えたことぐらいだ。
「今日は花見帰りの客が多かったのう」
「はい。花の季節は気持ちが浮き立ちますからね」
十二時をまわり、ラストオーダーの時刻まではまだ三十分はあるもののさすがにもう新しい客は来ないだろうと、伏犠は早めに店を閉めることにした。
入り口のドアを開け、オープンのプレートを裏返してクローズにする。これでよしとドアを開けて中に入ろうとした伏犠の背に、不意に声がかけられた。
「今日はもう終わりですか?」
伏犠が振り返ると、別れた時と少しも変わらない佇まいで左近がそこにいた。
「いや、まだ大丈夫じゃよ」
伏犠がドアを開け、後ろから左近も続く。
「あら、お客様ですか?」
「かぐやはもう上がってよいぞ。後はわしがやっておくからのう」
「では、そうさせていただきます。おつかれさまでした、おやすみなさいませ」
かぐやはエプロンを取りながらバックヤードに消えていった。
伏犠は左近をカウンターに座らせると、酒棚からボトルを取る。
ブランデーとオレンジキュラソー、オレンジジュースを同量シェーカーに入れてシェイクし、出来上がったものを二つのカクテルグラスに均等に注いだ。
作ったカクテルはオリンピック。カクテル言葉は「待ち焦がれた再会」。カクテルに籠められた意味を左近は知らないが、そんなことはどうでもよいことだ。以前と同じように伏犠が迎え入れてくれた。それだけで十分なのだから。
「おかえり、でいいのかのう?」
「ええ。海外赴任はもう終わりましたよ」
お互いにグラスを掲げあって乾杯すると、二人は同時にグラスを傾けた。
「また、通ってもいいですか?」
「もうお主の専用席はないが、それでもよければ」
左近はいつも自分がいた店の隅を見た。
「ならば、またあのソファを置いてもらえるように誠意を尽くしてあんたを口説くだけです」
「お手並み拝見といこうか」
「ええ。今度こそあんたのところに永久就職させてもらいますから。今の仕事も副業として続けながらね」
自信に満ちた笑顔を見せる左近に、伏犠は微苦笑で応える。
「さて、もう一杯作ろうか」
ホワイトラムにホワイトキュラソー、そしてレモンジュース。これ以上ない最高のカクテルと言われるXYZ。そのカクテルの意味を左近が知るのは、翌日のことである。
XYZのカクテル言葉、それは「永遠に貴方のもの」。