見えぬ糸の色は 赤 - -------
「夜にどこかから声がするんだ」
ヒナイチがそう告げると、露骨ここに極まれりという顔で事務所の主は顔をゆがめた。
「やめろよ、マジそういうの…急にさあ」
ホラーがあまり得手でない青年は、ブルブルと大きな体を震わせる。
「……おやおやおや。ガキンチョびびルドくんはもう降参かね? ゆうて成人として涙目になるの早ない? オバケこわこわ情けなルドくんに今すぐ改名して
「今すぐ殺すわ」
「あおり耐性なし男くんの神速暴力タイム! スナスナァ……」
「ヌー!」
「こら、やめないか!」
いつものスクラップ&ビルドを哀しく見届けてから少女は息をつく。
「まったく……まあ寮内であるし特に実害もないし私も疲れているしで、すぐさまグッスリ眠ってしまうわけなんだが」
「マジ尊敬するわヒナイチ」
「驚異の順応力、君こそがラストサムライ」
「……そ、そうか?」
強い畏敬の念で見つめられ、少しばかり照れながら更に話を進める。
「ま、まあともかく。私はそこまで気にしていないのだが……このまま続くようなら、さすがに上に報告せねばならずでな」
「あー。そりゃ面倒くせえな」
ポリポリと頬をかきながら、苦労性の家主は深々とうなずく。
「どうせアニ……じゃねえ、あのカッコいい隊長さんなら何とかかんとかゴマかしてくれんだろうけど。この間、長官だか何だかのお偉いさんが視察に来たらしいしなあ。まかり間違えてこんなヘンテコ状態見られてみろよ。俺の商売にも影響が……まったくねえな。いやいや、ヒナイチの出世にも……響かねえな……うん」
安泰ルート確定だというのに、どこか絶望ただよう表情でロナルドはうつむいた。
俺の人生って変態から逃れられないようにできてんのかな……真顔になり、ジッと手を見る。
「……ま、まあ良いんじゃね? なんもねえならそれでさ」
「そうだな。私の気にしすぎかもしれないし……かすかに腕を引かれて名前を呼ばれたような気もするが、それだけだしな、うん」
「それは絶対に怖いけど絶対に深入りしたくねえから絶対に無視しような、うんうんうん」
うなずき合う二人だったが、
「気に入らないねえ」
「「え?」」
ドア前に陣取っていた吸血鬼は、人間たちを外に眺めボソリと低くつぶやいた。
「……ドラルク?」
慌てて顔を向けるが、様子がよくわからない。
怒っているようでもあり、ただ無表情無関心のようにも見えるし……とにかく先ほどまでとは別人のようだ。
「な、なんだよ急に」
いぶかしげに問う同居人に、吸血鬼は冷たい声で告げる。
「……気に食わないのだよ。ここシンヨコは私の城下町であり守るべき縄張りだというのにね」
「はあ?」
いつものトンチキ所有権問題に触れられ、家主である青年は肩を怒らせた。
「あのなあ、シンヨコはみんなのもんだし、ここは俺による俺のための事務所だって何百億万兆回……っておい、どこ行くんだよ!」
無表情のままドラルクは部屋を出て行ってしまった。振り返りもしない。
「んだよ、アイツ……感じワル」
「わ、私が妙な相談をしたせいで」
「バーカ。お前が気にする必要なんざねえって。どうせすぐコロッと忘れて馬鹿みてえに買い物してルンルンで帰ってくんだろ」
扉の方を少し気にしつつも、青年は強がってみせる。
それはまあ、確かにそうなのだが……急変した吸血鬼の態度が妙に気にかかるヒナイチだ。
浮かない顔で天井を見上げる。
(何も、なければ良いのだがな……)
三日ほど過ぎた夜。
非番のヒナイチは久しぶりにロナルドの事務所へと向かっていた。
あれ以来、特に異変は起きていなかったが、なんとなく仕事中に他所へ寄りつくようなことを少女はしていなかった。
オバケが怖いわけでは無論ない。ドラルクが気を害しているようなので遠慮していたのだ。自分が引き金かはわからないが、職業柄その線も捨てきれない。
(昨日すこしだけ顔を出した時は、普通の態度だったがな……)
生あくびをしながら地下道を進む。
ニコニコしながら、いつも通りロナルドと軽口をたたき合っていた。案外、本当に事件そのものを忘れてしまったのかもしれない。生来の享楽主義者にとっては、所詮その程度のことなのだろうし。
「…………ドラルク」
沈みかけた首をブンブンと振る。
監視対象を心の頼りにしてどうするんだ。しっかりしろ、私。
ムンと気合を入れなおし、地下から勢いよく事務所に上がる。
「邪魔するぞ、おやつはどこだ!」
「……間違ってんぞ、色々と。大体そこシンプルに俺の家の床だからな。優秀な頭にぶっ叩き込んどけよ公務員」
「あ」
振り返れば、ハンター服に身を包んだ長身の美青年がドアそばに立っていた。
「仕事帰りか、ロナルド」
「おうよ。つかれたつかれた……」
肩を叩きながらソファにドッカと座る。
「ドラルクならいねえぞ。父ちゃんのとこ行くっつって出てったからな」
「そ、そうか」
予想していなかった。いつもならニコニコして待ち構えていたかのようにすぐ出迎えてくれるのに……すこしだけ寂しい。
「あーー、疲れたぜ。ほんと今日、非番で良かったなあヒナイチ。てこずったから、吸対の奴らも結構かり出されてたしな」
「そうか。おつかれさまだな」
コクコクうなずいて、ふうと息をはきながら青年は
「ったく。まあ何とかなったけど、妙な感じだったぜ今回は」
「……ほう? というと?」
差し出した水を礼を言って受け取り、ゴクゴク飲み干してから青年は顔をしかめる。
「とにかく倒れねえんだよ。生命力がすげえっていうか……力押しで何とかかんとか捕獲したけど、一人だったらヤバかったかもな」
「それは……元からじゃないのか? 相手は下級とは言え魔物だぞロナルド」
「うーーん、なんかいつもと感触が違うっつうか……上手く説明できねえんだけど。次の動作が読めない感じでさ。こう構えても変な方角に飛んでいくっつうか」
銃を撃つ真似をしながら一生懸命説明してくれているのだが、いまいちよく伝わらない。
テーブルに用意してあった美味しそうなハンバーグを、ヒナイチはロナルドへ手渡した。
「お、サンキュー。うまそうだな!」
「ええとメモがあるな……『ハムとベーコンの区別もつかん系はらぺこバカ、心して野菜もちゃんと食えバカ。いいか。今度、私の冷蔵庫パズルぶちこわしたら、持ってる映画ディスク全部ホラーもので上書きするからな。覚悟しておけバカ』だそうだ」
「うめえ。でも後でちゃんと殺す」
ののしりながら、ちゃんと添え物のサラダもモグモグ食べている。素直だ。
おいしいおいしいと夢中になって食べているのをうらやましく見ていると、
「……電話か」
コール音を確認し、ヒナイチは通話を始めた。
「もしもし、ヒナイチだ。なにか」
『ああ、ヒナイチ副隊長。非番のところ申し訳ありません。急なのですが、今からあるところに行って先行捜査を頼めますでしょうか』
「……? 事件か?」
『はい。今のところ被害はないのですが、もうすぐ出そうといった具合で』
「わかった。すぐに出る。詳しい場所を送ってくれ」
即断し、腰をあげる。
「お、仕事か?」
デザートのアップルパイに手を伸ばしたロナルドに頷きかえし、
「ああ、すまん。邪魔をしたな」
ヒナイチは隊服の襟を正し、急ぎ足で事務所を後にした。
「おい、ヒナイチ君は!」
「……は?」
珍しく焦った様子で帰ってきた吸血鬼に、ロナルドは首をかしげる。
「ヒナイチなら来てたけど事件だって言って、さっき出ていったぞ」
返事がない。
不思議に思って顔を向けると、
「……なんだよ。そんな、おっかねえツラして」
「場所は」
「え。いや、知らねえけど……吸対から電話かかってきてたっぽいし、聞けばなんかわかるんじゃねえの?」
「…………っ」
黙ったままドラルクは携帯を取り出し、すぐさまコールする。
「……もしもし。夜分、急に申し訳ない。ヒナイチ君が向かった事件についてなのですが。はい、そうです……はい」
ぼそぼそと話しているうちに、吸血鬼のもとより険しい顔が更に凶悪になっていく。
「ええ……やはりそうでしたか。わかりました。さきほどの情報を隊内で共有して頂けますか? 身体検査も同時に。はい。名前を出していただいてかまいません。それでは」
電話を切るや否や、ドラルクはズカズカと玄関に向かって進んでいく。
「お、おい、どっか行くのか? ヒナイチんとこか?」
「ああ」
調子の良い男にしては珍しく短文の返事をして、外に出ていこうとする。慌てて駆け寄った足もとのジョンに気付いて、男はハッとしたように足を止めた。
「え……一緒に来る? それは」
「ヌーーヌ‼ ヌヌ‼ ヌ‼」
「わかったわかった……おいで」
苦笑しながら、使い魔を腕に抱え込んだ吸血鬼は
「では、後を頼んだよロナルド君」
「後をって……一人でいいのかよ。何だったら俺も行くぞ」
疲れているだろうに迷いがない。素早く腰をあげた優しい青年へ、吸血鬼は首を振った。
「何かあった時のためだよ。今回は私の血族がらみだからヒトのきみは……まあとにかく、頼んだよ」
「……ヒナイチならバカ強いし戦力的に問題ねえと思うけど、なんかヤバそうなアレだったらすぐ俺に電話してこいよ! わかってんだろうな!」
「わかったわかった」
お人よし男の心配そうな顔を後ろに、吸血鬼は今度こそ夜の街へと飛び出した。
…………………
「ここか」
廃墟と化した工場跡地にたどり着き、少女は息をついた。
「……特殊な能力持ちだと聞いたが、さて」
まあ、まともで平凡な吸血鬼などシンヨコで見たことはないが。だいぶ失礼なことを考えながらヒナイチは辺りを見回す。
同行してくれる者が待機している筈なのだが見当たらなかった。早く着き過ぎたろうか。
(連絡してみるか)
携帯をタッチするが、反応がない。
(……? おかしいな)
町の中心部から外れているとはいえ、ひなびた山奥でもあるまいに電波が届かないわけがない。首をひねる。
すると、
「ヒナイチ君……?」
「ドラルク」
廃工場の看板の下に、見慣れた細身の男が立っていた。
「お前、なんでこんな所にいるんだ」
「…………」
「私は、これから仕事でな。すまないが、お前に構っているヒマは」
そこまで話して、携帯が通じないことを相談しようかとヒナイチは胸元を探り
「……?」
目線を落としたスキに近寄ってきた男に目を丸くした。
「な、なんだ。近いぞ、ドラルク」
「……ドラルク」
「?」
ふふっと笑い、吸血鬼は口元をつり上げ、見たこともない顔をした。牙をむきだした、残虐で恐ろしい顔を。
「そいつが、古き血を継ぐ腰抜けの名か……?」
「下がりたまえ、ヒナイチ君!」
後ろから声がかかったが、刹那、遅かった。
首筋に鋭い痛みが走り、吸血されたのだと知る。ヒナイチは目を見開いた。
「貴様、こ、のっ‼」
驚異的な身体能力で身をよじり、無理やりにうがたれた牙を引き抜く。
返す動作で柄に手をかけ、一閃。だが、
「無駄だ、ヒナイチ君! そいつから離れなさい!」
夜闇に響く声に顔をあげ、後方へステップしドラルクの元へ。言われたとおり、相手にダメージはないようだ。
「……不覚だな」
傷つけられたうなじに手を伸ばすが、具合はよくわからなかった。吸われている時間は短かったように感じたが……どうだろう。
「見せてごらん」
「ドラルク」
「遅れてごめんね……ヒナイチ君」
低くささやきながら、細い指先を少女の首筋に這わす。噛みあとを確認して、吸血鬼は顔をしかめた。
「貴様が、竜の一族の末裔か」
「…………」
問うてきた同じ顔の魔物に、ドラルクは冷えた視線を送った。
「いかにも。ああ。そちらは、名乗る名を持っておられぬようで」
「ふん……古ぼけた名など、何の意味もない。吸血鬼のサガも忘れたふ抜けどもめ」
赤い目をらんらんと光らせ、男は吐き捨てる。
「竜の子が執着しているというから味を見に来てみれば……まったく普通の女ではないか。くだらん。まあ意気は良いようだから、慰みの手弁当がわりにはなるかもしれんがな」
暗い息を吐き、いやらしくニヤリと笑う。
明かな挑発に対し、少女を腕に抱えた吸血鬼は心底うんざりした顔で肩をすくめた。
「……なあんだ。どんな大層な事を言うのかと思ったら若い娘をナンパしに来ただけなのですか? かっこわる。ダサ・オブ・ダサおじさんここに極まれり」
「…………ハ?」
「あ、もういいんで。すぐここに吸対来るんで。後は因縁があるらしいお父様と深夜のファミレスでも行って勝手にガンガンお話ししてください。それではこれで」
「お、おい! その女はもう私の配下なんだぞ。逆らえばどうなるか、わかっているのか!」
声を張り上げる男は片手を振り上げる。すると、
「‼」
勝手に手が持ち上がって、ヒナイチは驚く。
腰の剣に手が伸び、その光はクルリと回って少女自身の首元をとらえた。
「吸対を下がらせろ。さもなくば、この女の首をはねる」
「なっ」
「私は、本気だ」
意思に反して腕が動き、刃が薄皮を一枚切った。
「……っ」
鋭い痛みに現状を理解し、顔から血の気が引いていく。
魅了で人をあやつることは出来るが、いくら魔物とて対象の命を絶たせることは難しいと聞いている。生き物の持つ根源的な本能をねじ伏せることは出来ないからだ。しかしこれは、
にじむ目の前にきらりと輝く線が見えた。これは……糸?
「やはりあの日見えた光は、それか」
「…………?」
「……マリオネット。まあごくごく平凡な操作術だけど、時間かけて極めればこうなるよって感じなのかな。全然まったく感心しないけど。はっきり言って最悪のヒマ人すぎる」
ぶつくさ語り、ドラルクは薄く笑った。
そして、脂汗をかいている少女に向き直る。
「ド、ドラルク」
「大丈夫だよ。そのままで」
優しくささやきながら、少女をマントでくるみ抱きしめた。
「……まあこの界隈ボケたイカレポンチがやたら多いのだけど、彼も例に漏れなくそうみたいだねえ。肝心なことがスッポリ頭からぬけ落ちてしまっているようだし」
「かんじんな、こ、と……?」
「ヒナイチ君」
少女の瞳をしっかりとらえて、
「今からすることは術の支配を解くためのものだ。だから、決して君の純潔が汚されるようなことではない。わかってくれるね……?」
小さい、いつもは良く見えない眼球に赤光が灯る。
月明かりにも似た揺らぐ光に、少女は目を奪われた。
「……ドラルク?」
「ごめんね。大丈夫。少しだけだから」
眉根が少し寄り、息がかかるくらい近くに困ったような顔が来る。キョトンとしている少女にぎこちなく微笑みかけ、男は顔をゆっくりと傾けた。
「……っ」
薄い唇から牙が見える。
吸血鬼の意図を察し、ヒナイチの体が強張った。
(な、なにをするっ)
逃げようとするが、術のせいで身動きも取れない。
息を間近に感じて、少女は赤面した。ぎゅうっと体が縮こまる。
(ドラルク……っ)
牙が薄く差し込まれるのが感覚でわかった。
先ほどと違って、痛みはない。
少し体が引き上げられるようなフワリとした感覚がして、何かが《吸われるのでなく、入ってくる》ような……そんな……なんだこれは?
「……糸は、これかな」
声と共にブツリと何かが引きちぎれる音がした。
途端に引き上げられていた体が重力に従って、崩れ落ちる。
「貴様、なにを」
「……貴方の血よりも私の血の方が強く色濃いということです。血道を繰ったあやつり糸の技術は買うが、根本的なことをお忘れのようだ」
淡々と話し、自由になった少女を支えなおす。
「よっこらせっと。あ、ヒナイチ君、立つのは自分で立ってね。私、寄りかかられると秒でスナになっちゃうから。アタタッ」
「……ドラルク、お前、いったい何を」
「別に、なにも。吸血鬼として常識的なことを行っただけだよ」
笑うと同時に、パトカーのサイレンが大きくきこえた。
「ああ、アラネア嬢はどうにか間に合ったようだね。もう大丈夫。奴の《本体》は彼女が取り押さえたらしい」
「ほん、たい……?」
答えを返さず、ドラルクは黙って前方を指さす。
そこにはただ朽ちたヒトガタと、赤く染まったクモの糸が数巻き、夜の風に吹かれていた。
「すまんかったのう。まさか下級どもの騒ぎ自体がオトリだったとは……気づかなんだわ」
「いえいえ、そんな」
愛想よく微笑みながら、ドラルクは首を振る。
「父から先だって連絡がありましてね。元はと言えば我が血族間の不手際なのです。むしろ巻き込まれたのはヒナイチ君の方なのですから。お気になさらず」
ぼうっとその会話を聞いていたヒナイチは、ぐいと腕を引かれて我に返った。
「半田」
「不覚を取ったな。大丈夫か」
「……すまん。私は平気だ。大きなケガもしていないし」
「そうか」
強くうなずいて、青年は少女のうなじに手を伸ばした。
「詳しく検査はするが、恐らく残る後遺症はないだろう。妙な臭いもしない」
スンと鼻を鳴らした男は、少しばかり眉根を寄せた。
「ん……これは、ドラルクの匂いか?」
「‼」
先ほどの体勢とアレコレを思い出し、少女は顔を赤くした。
「現場の、じょ、じょ、状況はっ」
「……? 容疑者はVRCに連行。同じ系譜にある吸血鬼アラネアに話をしてもらっている。後は、隊員に調査を行った結果、数名の身体に微小な噛みあとが見つかったようだ。おそらく誘いの電話も、ヤツに操られた隊員がかけたものだろうな」
「そうか……」
下級吸血鬼の身体を調べたところ同じような痕が複数見つかったと、さっき隊長から聞いた。彼らもまた糸に操られていたのだろう。『なんだか感触が違う』と話していたロナルドの言葉も、一つにつながる。すべては計画的な犯行だったという事だ。
「副隊長は、ゆっくり休むと良い。後のことはこちらでやる」
もう大丈夫と判断したのか、半田はそれだけ言うと自分の仕事へと戻っていった。
「……ごめんね、ヒナイチ君」
「ドラルク」
隊長との話が終わったらしい吸血鬼が、いつの間にか少女の後ろに立っていた。
いつもと違う神妙な姿に、ヒナイチは戸惑う。
「べ、べつに、気にするな。お前が悪いわけじゃない」
「……ウン。あ、それと」
「?」
吸血鬼はささやいた。
「さっき、私とのことを言わないでくれてありがとう」
「……あ」
はたとそれに気づき、吸対副隊長である少女はうろたえた。
(そ、そうだ。吸血鬼に吸血された場合は、どんな事情があろうと、す、すべからく隊に報告をせねば……しかし)
痛みもなかったし、血も出ていない。優秀なダンピールである半田も気付かなかったほどだ。
「…………かまわないだろう」
肯定する内容とは反対に、どこか後ろめたさが襲う。ヒナイチは振りはらうかのように頭を振った。
「き、緊急事態だったのだから、しょうがない。お前も『術を解くため』だと言っていたじゃないか!」
「まあね」
コクリとうなずいて、加勢に行っていたらしいジョンを拾い上げる。
「よくがんばってくれたね、ありがとう。美味しいお礼を隊長さんが後でいっぱいくれるってさ」
「ヌーー!」
「うんうん。申し訳ないが、もうひとふんばり。一足先に行って、ロナルド君に無事を伝えてきておくれ」
「ヌ!」
力強く頷きかえすと、ものすごい速さでマジロは道を駆けて行った。
「……? 電話すればいいんじゃないのか?」
「まだ奴の置いた結界が少し残っているのだよ。それが見つかるまでここら辺は電波が通じない。ほんと凝り性ってヤダよねえ。あー、迷惑迷惑」
ブツブツぼやきながら、笑う。
「行こう、ヒナイチ君」
「……ああ」
姿勢よく歩いていく吸血鬼に続く。
……いつからドラルクには全てがわかっていたのだろうか。
御父上に連絡をもらったと言っていたが、ロナルドは自分から父親のところへ出かけて行ったと言っていたような気がするし。よくわからなかった。
「ヒナイチ君」「な、なんだ」
「さっきのあれ。本当に大丈夫だからね。入れた血は少量だし、すぐに消えてしまうだろう。もちろん君の血を吸ってもいない。私を信じてくれる?」
無論だ。コクコクと必死にうなずいた。
「本当に助かった。お前が来てくれて……その、よ、よかった、ぞ」
嬉しかったと言おうとして言葉をゴクリと飲みこんだ。なぜか顔が熱くなる。
フフッと優しい笑い声が近くでした。
「ヒナイチ君は、いまいち危機感が足りないねえ」
「なに?」
「私の血は特別なんだよ? 少し本気を出せば、君を永遠のしもべにすることも可能かもしれない。いや、さっきの言葉はすべて嘘っぱちで、もしか今この時にも君の身体は魔物へと作りかわり……どうだい、ヒトの身には怖かろう」
「…………ふっ」
キョトンとしてからヒナイチは吹き出した。
ひとつのかげりもない表情で笑う。まるで太陽のように。
「あはは、なんだそれは。ふふふ、お前の下僕になったって、せいぜい『弱音を吐かずクソゲーの相手をしろ』だとか『グレートな料理の味見をしろ』だとか『私を末永く褒めたたえろ』とかばっかりだろうに。想像するだけでおかしいな」
「…………」
「こわくなんてないぞ全然」
微笑みながら、長身の男を見上げた。
「おなかが減ったな。すぐ帰ろう、ドラルク!」
「……ウン」
「ドーナツ、ケーキ、オムライス、めざし、クッキー、マフィン、奈良漬け、蒸しパン」
「こわい。無秩序でこわい。やめて、不安になる。こわい」
食べたいものを列挙しながら元気にズンズン歩いていく少女を愛し気に見つめ、吸血鬼は濡れた牙をそっとしまった。
血の味は、さて、どうだったろうか。
なんだか忘れてしまった。吸血鬼なのにね。
まあいいや。
幸せそうに微笑んで、月明かりをゆっくりと歩いていく。
黄金の灯りが真っ直ぐと、伸びた糸のように二人を導き照らし続けていた。