キミの名前『ヤスくん!』『ヤスくん?』『ほわあ、ヤスくんってすごい!』
あの子は多彩な感情を乗せて自分の名をよく呼んでくれる。呼ばれる度に、総てに赦しを与えそうな柔らかく優しい彼女の歌声を独り占め出来ている気がして、胸が熱くなった。
彼らの間に存在する関係性は“同じスタジオを利用するただの音楽仲間”という、至極シンプルなものだ。
たまに互いのライブを見学に行くくらいのなんでもない仲間。ただ一つ違うのは、自分があの子にどうしようもなく惹かれている事。
自然と癒されてしまう歌声、柔和な人柄に見えて遠方の故郷から此処まで一人旅して来た度胸、周りの空気を自然と解きほぐす明るい笑顔。それらへと触れる度に、彼の心拍数と体の熱は上がるばかりだ。
夜、就寝前の自分の部屋。
ベッドへ仰向けに寝っ転がり、天井をぼんやりと見つめる彼の唇が、小さな動きを見せる。なにかを呟いたようにも窺えるが声は出ていない。
“ほわん”
今、吐息はそう空気を揺らした。
あの子からたくさん自分の名を呼んで貰っているが、実は彼の口から彼女の名が出た事はない。
『あんた』か『お前』としか呼んでいない。我ながら随分他人行儀だと嘆息を吐きたくなる。
あの朗らかな声にちゃんと応えたい。名前を呼んであげたい。そう願っているのだが、いざ目の前にすると奇妙な焦りと羞恥が顔を覗かせてしまう。
こんな事ではあの子との距離は縮まらない。それは充分理解している。だが元来精神面では器用と呼べない彼は、どうしてもそれらの感情に振り回されてしまっていた。こんな時、良くも悪くもストレートな人格であるハッチンが少し羨ましくなる。
もう一度だけ声には出せない練習をして、横向きに寝返りを打つ。
なにをやっているんだ自分は、という自戒と次こそはちゃんと呼ぼうという何度目かの決意。それらを胸に溜めながら、明日の学校に備えて瞼を閉ざした。
次の休みの日。
昼前にいつものスタジオでのバンド練習を終えた彼は、高校生特有の駄弁りには参加せずさっさと楽器をケースにしまった。
休みの日は練習が終わったら実家の手伝いをすると決めているからだ。
「親孝行じゃのう」
にやにやと厭らしい笑みを浮かべて来る双循に『うぜぇ』と一言だけ返し、部屋を出て行く。
スタジオのロビーに差し掛かった時、どくんと心臓が跳ねて熱い血を送り出す。待合のソファーの上に彼女が座っていたのだ。
「あ、ヤスくん、こんにちは」
優しい声と笑顔がこちらを向く。今日も名前を呼んでくれた。
「練習終わったところかな? うちはヒメコちゃんたちより早く着いちゃったみたいなんだ」
「あ、ああ。今終わったところだ」
言え、呼べ、ともう一人の自分が尻を叩く。
「あの、さ……」
閉ざした唇だけがもごもごと躊躇い、三文字の言の葉は胸に溜まったままだ。
『うん、どうしたの?』となんとなしに小さく首を傾けながら訊いて来る彼女。その仕草に心の奥できゅんと不可思議な音が鳴り、余計言いづらくなる。
それでも呼ばねばと体に力を入れ、拳をきつく握り締めた。
「ほ、ほわん!!」
「ほ、ほわ!? は、はい!」
自己からしても想像を大幅に超える大声が飛び出し、彼自身が驚く。彼女も一瞬びくっとして尻尾と耳がピンと立ち、紐飾りの鈴が凛と鳴いた。
「わ、わりぃ急に大声出して! えっと今度ライブ見に行くからな。れ、練習頑張れよ」
彼女の顔もまともに見られないまま早口で捲し立て、駆け出す。
慌ただしくスタジオを出た彼の顔は真っ赤で、息もぜえぜえと上がっていた。
一方、スタジオに残された彼女。しばらく茫然と目をぱちくりとさせながら、彼の出て行った場所を見つめていた。
数秒後、漫画なら電球がチカッと点滅する描写で表現されそうな表情をする。
「ほわ、ヤスくんに名前呼ばれたの初めてかも」
そこには隙間も分からないほど目を細めて嬉しそうな様子を見せる彼女の姿があった。
(おわり)