ぜんぶつたわればいいのに 雨竜が帰宅すると、家の中は静寂に包まれていた。兄である戴天は、家にいると今朝言っていた。できればゆっくりと休日を過ごして欲しかったが、仕事に行ってしまったのかと思いながら雨竜がリビングの電気を付けて、目を見開く。
戴天がソファーでうたた寝をしている、非常に珍しい光景だった。音を立てないように近づくと、普段着の和装を身につけていることから外出はしていないようだが、机に広げられた書類や置かれているノートパソコンから仕事をしていたのだろうということは容易に想像できた。
投げ出されている手にそっと自分の手の甲を触れさせると、かなり冷えているようだった。部屋の中もひんやりとしていて、エアコンを入れようと雨竜は立ち上がる。そして歩き出したときに、かすかに戴天の声が聞こえる。
「ひと…に…ないで、おねが……」
ハッキリとは聞こえなかったが、恐らく“ひとりにしないで”と戴天が言っている。起こしてしまったかと振り返って見るも、戴天の目は閉じられたままだった。そして戴天の目から流れている涙に気がつく。
「兄さん……?」
兄が涙を見せたことは今まで1度もなかった。いつも凛としていて、弱みを見せようとしない。体調が悪くても隠そうとするし、不安に思っていることがあっても平然としている。もう少し頼ってほしいという気持ちと、まだ己は頼るに至らないのかと落ち込む気持ちがいつもせめぎ合う。そんなことを繰り返して、今は戴天の心に踏み込んで、休むように言ったり簡潔に気持ちを伝えるようにしている。
ただ、以前に一度だけ戴天を傷つけたことがある。その時に見せた戴天の顔は今でも鮮明に思い出せる。その時に戴天の“本当の顔”に触れた気がして、もっともっとと求めている。
ゴトリと鈍く響いた音にビクリと雨竜の肩が跳ねる。どうやら戴天のスマートフォンがその手から滑り落ちたようだ。慌てて戴天を確認したが、その音でも目覚めないほど深く眠っているようだった。
戴天の目から流れる涙をそっと拭う。手に触れた頬も冷たい。できれば起こしたくは無いが、眠るには適していない環境だ。
戴天の肩を揺すり、声を掛ける。
「兄さん、風邪を引きますよ」
ゆっくりと戴天の目が開いていく。パチパチと何度か瞬きをしてから、戴天の目が雨竜を捉える。
「……うりゅうくん?」
「うたた寝なんて珍しいですね」
机やソファーを見て、外の暗さを確認して驚いている。きっと寝入る前の記憶では外が明るかったのだろう。
「すっかり長い時間眠ってしまっていたようですね。……雨竜くん、私は何か寝言を言っていませんでしたか?」
「いいえ。何も。寒そうだったので起こしてしまいました」
「そうですか。……良かった」
戴天が申し訳なさそうな、ばつが悪そうな顔をしながら微笑む。こうやってにこりと何でもないように笑えば全て無かったことにできるとでも思っているのか。嫌な夢を見たのなら嫌な夢を見たと言ってしまえばいいのに。悲しいことがあるのなら、悲しいと言ってくれればいいのに。
雨竜は感情が顔に出やすい自覚がある。こんな気持ちで戴天を見ていればきっと戴天はそれに気がつく。余計なことを考えさせたくなくて、雨竜は戴天を抱きしめる。
「おや、何か嫌なことでもありましたか?」
自分のことは隠すくせに、雨竜のことは気にかける。もっと自分のことを大切にしてほしい。
「いえ、ただ兄さんがとても冷えていたので」
雨竜の様子がおかしいことに気づいたのか、戴天も雨竜の背中へと腕を回す。
戴天とは色々あったし、衝突もした。本当に色々あったけど、戴天はずっと雨竜に優しくて時には厳しい兄だ。この人の役に立ちたい、どこまでもついて行きたい。そう心の底から思っている。
この人の行く先が明るくなりますようにと心を込めて、更に雨竜は腕に力を込めた。