欠けた月(前編) 広い屋敷の庭に面した縁側で、あなたは花の茎をパチンと花鋏で切り、花器に生ける。それを私はとても嬉しそうな顔をして見ている。できたぞ、と言って完成した作品はとても私の心を踊らせた。
「ねぇ叢雲、もう一度お願いします」
「戴天は本当に花を生けるのを見るのが好きだな。仕方ない、もう一度だけだぞ。ただし、」
そう言ってあなたがこちらを見た瞬間、ゾクリと悪寒が走る。あどけない顔をしていたあなたが、立派な大人に見えた。まるでこちらを責め立てているような。
「対価が必要だ。お前の隠していることを教えろ」
「──ッ!」
目が覚めるとそこは見慣れた自室で、戴天ははぁと短く息をつく。もう何度も何度も見た夢。幸せだったと同時に嘘で塗り固められたあの頃。全てが嘘だったとしても、優しさだけは確かにそこにあったと、今でもそれだけを大事に抱えている。
ここ最近は特に忙しく、ろくに睡眠がとれていない日が多かった。新規プロジェクトの立ち上げ、各所との打ち合わせ、社内の会議、確認すべき書類。社長である自分の進捗が悪ければ、その皺寄せは社員に降りかかる。それだけはどうしても避けたかった。多少の無理をしてでも進めたおかげか、激務とも言える仕事量は昨日で落ち着きを見せた。
やっと深い眠りにつけると思っていたのに夢見は最悪で、ため息をつくと今日の予定のために準備を始めた。心なしか頭も重く、額に手を当てると少し熱い。しかし今日を逃せば次にスケジュールが空くのはいつか……と考えようとして諦めた。別に動けない程の熱ではない。こんなこと雨竜には言えないな、と考えながら身支度を整え、自宅を後にした。
エージェントにライダーステーションのアップデートの報告をするために仮面カフェに到着したのは連絡していた通りの時間。ちょうどカフェは昼営業から夜営業に切り替わる時間帯で閉めており、他に客はいない、はずだった。
「あ、戴天さん。お待ちしておりました!どうぞVIPルームへ」
笑顔で迎え入れたエージェントに微笑み、VIPルームへ行こうと歩き出した瞬間、息が止まる。突然歩みを止めた戴天を見て、エージェントが「あっ」と声を出す。
「今日は宗雲さんがレオンにメニューの件で相談があるとのことで来ているんですよ」
説明をしてくれるエージェントの言葉など耳に入らず、どうしてあなたが、と出かけた言葉を呑み込む。動揺を悟られたくなかった。よりにもよってあんな夢を見たその日にあの男と同じ空間にいるなんて。できるだけ目を合わせないように、しかし不自然でない程度の会釈だけやり遂げ、VIPルームの中へ逃げ込んだ。
VIPルームの中へ入ってしまえば、エージェントへの報告は表面上はつつがなく終了した。報告が終わってしまえばもちろん外に出る必要がある。しかしそこにはまだあの男がいる可能性がある。できるだけ長居して、確実にあの男が去ってから帰ろうとも思ったが、仮面カフェにも夜営業への準備がある。そんなことを考えていると、エージェントから「戴天さんもお忙しいと思いますので、この辺で」と終了の合図を告げられる。こうなるともう戴天には引き止める術などなかった。
意を決してエージェントの後ろからVIPルームを後にすると、宗雲は来た時と同じ席でレオンと話ながらコーヒーを飲んでいた。
一刻も早く仮面カフェから抜け出したくて、エージェントとレオンにありがとうございました、失礼しますと一言挨拶をすると共に足早にカフェスペースを抜け、扉に手を掛けたところで後ろから呼びとめる声がする。
「おい、少し待て」
「……何でしょうか」
「話がある」
「私が忙しいのはご存知でしょう。今日も次の予定がありますので失礼します」
一度だけ目を宗雲に向けて、後悔した。やはり宗雲の目線を受け止めることは苦手だ。すぐに扉に添えた自分の手に視線を向け、そのまま外に出ようと力を込める。扉は何の抵抗もなく開き、外の景色が目に写ると解放された気がして、戴天はほっと息を吐きながら外へ踏み出す。
本当は次の予定があるというのは嘘で、仕事のスケジュールと照らし合わせ、今日の予定は空けておくよう秘書である雨竜に指示したのは自分だ。新規プロジェクトもスケジュール通りに落ち着き、現在特に目立つトラブルもない。全てが担当者の手に渡り後は進行を随時確認する段階ばかりだ。もちろん雨竜にも休暇を取るように指示をしている。真面目なあの子は休みの日でも習い事や勉強をしているようだが、それでも顔を見ていればきちんと休息をとれていることが分かる。いつもはどこか緊張感を伴っている彼の雰囲気が少し緩んでいるのが微笑ましい。
そんなことを考えつつも、宗雲がいる場所から少しでも離れたくてタクシーを呼ぼうとスマホを取り出し、使い慣れたアプリを開く。偶然近くを走っているタクシーを見つけ、手配した途端、くらりと視界が歪む。
「…ッ!」
手から滑り落ちたスマホがガツン!と音を立てて地面に落下する。目に手を当てて意識を取り戻すように、ふぅ、と一息つくとスマホを拾うためにしゃがもうとした時、戴天より早く誰かの手がスマホを拾い上げる。
「大丈夫か?」
スマホを拾った相手は最悪なことに、宗雲だった。せっかく逃げてきたのになんて、礼すらすぐに出て来ない。あぁ嫌だ。本当に。この人は。
「……ありがとうございます」
「迎えの車は?」
「…今から来ていただきます」
「スケジュールにうるさいお前が今から迎えを呼ぶのか?珍しいな。それとも、」
「詮索するのはやめてください。スマホ、返していただけますか?」
宗雲が持ったままだったスマホを差し出す。受け取ろうと手を伸ばし、スマホを掴んだとほぼ同時に、宗雲が戴天の手首を掴む。いつもより近い距離に宗雲がいる。手首から伝わる熱が今朝見た夢の優しかったあの頃を思い出させて、とても嫌な気分になった。嘘だったくせに。もう覚えてもないくせに。自然と声は固く、語尾も剣呑なものへと変わる。
「手、離してください」
「お前、熱があるんじゃないか?」
「あなたには関係ありません」
「隠せていると思っているのか?」
「しつこいですね。関係ないと言っているでしょう。手を離しなさい」
今更どうしてそんな気に掛けるような言葉がスラスラと出てくるのか、誰も気づかない私の不調に気づいてしまうのか。本当は私のことなんて微塵も興味がないのに。
全部ぶち撒けられたらどんなに楽だろうと思う。私には遥か昔の記憶があって、その記憶の中では、そばにあなたが居て幸せだった。でも全部嘘だった。あなたに遥か昔から裏切られていたと知った時、二度と心の全てを許す相手は作らないと決めた。
瞬間的に張り巡らされた思考も、やがてパチンと弾ける。宗雲の手は未だに戴天の手首を掴んだまま。
「…とりあえず逃げるな」
「……」
真剣な眼差しと直接対峙する。また責められている気分になる。誰でも人に知られたくないことが1つや2つあるでしょうに。この人は許してくれない。何をしたって私は高塔のためにしか動けないのに。あなたに真実を漏らすことなんて、ないのに。
ゆっくりと頷くと宗雲がほっと息を吐く。
宗雲が手を離し、辺りを見回して私を視界から外した瞬間、走り出す。
ちょうど呼んでいたタクシーが停まるのを目の端に捉えていた。視線は向けずにじっと機を伺っていて良かった。寝不足と熱でうまく働かない頭と手足を全力で動かして走る。こんなに真剣に走ったのはいつぶりだったか。いつも雨竜には慌てるのはみっともないですよ、なんて言っているのに。
タクシーまで辿り着き急いで乗り込み、運転手に閉めるように伝えようとした瞬間、ドアに手がかかる。もちろん宗雲だ。はぁはぁと息を切らしながら、眉間に皺をよせて。
本当に今日はついていない。どうするつもりなんだろうとぼんやり考えていると、宗雲が乗り込んできた。
「××ビルまで頼む」
タクシーの運転手が突然走ってきた2人に驚いている。当たり前だ。チラリと運転手がいいのか?とでも言いたげな顔で私を見る。ここで拒めば運転手にも迷惑がかかってしまう。それにもしかすると私の顔を知っている可能性がある。騒ぎを大きくすれば何を言われるか分からない。選択肢は無かった。
「運転手さん、お願いできますか?」
努めて冷静に私は切り出した。車が発進すると同時に先程とは比べ物にならないくらいの強い力で手首を掴まれた。こんな狭い車内で、もう逃げ場なんて無いのに。
ほどなくして宗雲が告げたビルに到着した。支払いは宗雲が無言でおこない、手首を掴まれたまま降ろされた。
「手首、痛いです」
「お前のせいだ。我慢しろ」
絶対離さないという強い意思が垣間見えて、疲れ切った私は抵抗を諦めた。
手を引かれて連れてこられたのはビルから少し歩いた場所にあるマンションだった。
マンションの最上階に到着すると、宗雲はポケットから鍵を取り出し、ドアを開ける。どうやら自宅らしい。
玄関に入ると腕を引かれ先に靴を脱ぐように言われる。背後には宗雲が扉を背にしてこちらを睨んでいた。そんなに怒らなくてもいいのに。
靴を脱ぎ、ぼうっと立っていると、靴を脱ぎ終えた宗雲にまた腕を掴まれる。ギリギリと音がしそうなほど掴まれ、痛みに顔が歪んだ。
へぇ、監視対象にはかなり乱暴なんですね、なんて他人事のように考えていると、ソファに座らされる。
「もう、逃げるなよ」
「……あなた、何がしたいんですか?」
「お前が自分を大切にしないから」
宗雲がそっと腕を上げる。一体何をされるか分からず、身構える。そのまま宗雲は手をゆっけりとおろすと私の頭に乗せ、大きな手のひらが髪を、頭を撫でる。
「乱暴な真似をしてすまなかった。また無茶をしたんだろう。少しは休め」
ゆっくりと頭を撫でられながら頭の中は混乱を極める。もしかして熱がある私に優しくして情報を聞き出す気か?そんなことで私が心を許すとでも思っているのか?完全に舐められている。
「そんなことのために……」
警戒していた心が一気に怒りへと変わり、頭を撫でている手を勢いよく振り払う。
「あなた、どれだけ自分勝手か分かっていますか?私をこんなところに連れてきて。心配する素振りはいりません。必要以上に関わらないでください」
何も言わない宗雲の目を見ながら捲し立てる。怒りを露わにしているのはこちらなのに、やっぱり何故か責められている気になる。どうして、私、あなたに何かしましたか?裏切られて、ひとりになって、そんな私から次は何を奪う気なんですか?まるで未練があるようで、どうしても言えない言葉たちが頭の中に浮かんでは消える。
一度目を逸らした宗雲が再びこちらを見て口を開く。その声は冷静そのもので、半ば叫ぶように言葉を発する自分との差に、更に焦燥感に駆られる。
「無理矢理連れてきたことは謝る。だがお前の様子がおかしかった。熱があるだけじゃないな?寝不足なんだろう?……心配して何が悪い」
「なんて都合の良い、耳障りの良いお言葉なんでしょう。大抵のお客様ならご納得していただけるでしょうね。支配人」
「分かってくれ、本当に俺はお前を心配して、」
「分かりました。寝ろ、と言うのであれば帰って寝ます。もう帰してください。ここには居たくありません」
「ここで休んでいくことはできないか?」
「できるとお思いですか?あなたの言葉は理解しました。早く帰してください。いえ、あなたの許可など要りません。帰ります」
座らされたソファーから立ち上がり、玄関の方へ足を向けると後ろから肩を掴まれる。上から押さえつけるように力を込められてバランスを崩す。そのまま覆い被さるように宗雲が全体重をかける。いくら背丈が似通っているとはいえ、上から抑えられると跳ね除ける力は無い。そのまま質の良いソファーへ2人で倒れ込む。頭を打たないように後頭部に添えられた手が忌々しい。何も言えずに2人して見つめ合ったまま動けない。
やがて、後頭部に添えられていた手が熱を測るように額へと置かれる。
「お前……よくこんな熱で動けるな」
「あなたが下らないことをするからです」
タクシーに乗り込んだ辺りから、熱が上がっている自覚はあった。でも染みついた性格が不調を全面に出すことを拒んでいる。
「とりあえず熱が下がるまではここにいろ」
「何を言っているんですか?私はすぐに帰ります」
「その熱で動ける方が異常だ。とりあえず一旦休め」
居心地が良いとは言えない空間でも、一度横たわってしまえば体の重さを自覚する。忙しさが明けた後に出る熱は少し休めば下がると経験上分かっている。それならば抗うよりも一旦は休んだポーズでもとったおいた方が賢明な気がして、戴天は体の力を抜く。宗雲の出勤時間までの辛抱だと思い、チラリと時計に目をやる。
そんな戴天に気がついたのか、宗雲の眉間に皺が寄る。
「言っておくが。今日ウィズダムは臨時休業だ」
「……」
思考が読まれたことにも驚いたが、それよりもいつ帰して貰えるか分からない状況に、再び戴天の体が強張る。
「残念だな。もうここからは逃げられない。諦めて俺に全て委ねろ」
「……」
どうしようか考えようとして、途端に体に緊張が走る。今朝見た夢を思い出す。あの夢には本当は続きがある。隠していることを教えろと言って、持っている花鋏で私を貫く。痛みで呻く私を冷えた目で見つめるあなた。
熱で思考が鈍った頭とぼやける視界は容易く私をあの夢の中へと錯覚させる。
「う……」
思わず口元に手を当てる。胃の辺りが痙攣して不規則に波打つ。宗雲の気配しかないこの空間で嘔吐することだけはどうしても嫌だった。何度も唾を飲み込み、冷静さを保ちたくて浅い息を繰り返す。
「我慢するな」
戴天の異常を感じ取り、宗雲がすぐそばにあったゴミ箱を引き寄せ、戴天の口に寄せる。何度もせわしなく上下する背中をさすり、辛そうに息をする戴天を見つめている。
「…ぅ、…ッ……ッッ!!」
いよいよ我慢の限界が訪れた戴天がゴミ箱に吐き出したものの中には固形物は残っておらず、水分と胃液のみだった。宗雲が戴天の口から吐き出された吐瀉物を確認し、眉を顰める。
「今日はろくに食べてないのか」
「…ッ……」
熱に加えて決して弱みを見せたくない相手の目の前での嘔吐で疲労から取り繕うこともできずに肩で息をしながらゆっくりと戴天が頷く。
一度吐き出してしまえば取り繕うことすら無駄に思えて、ゴミ箱を抱くように項垂れる。垂れた髪がゴミ箱に入ってしまわないようにそっと宗雲が後ろに流す。
「動けるようなら口をゆすいで来い。洗面所は廊下の左にある」
背中に髪を流すと同時に背を撫でていた宗雲がポンポンと背中を叩く。
戴天は何も言わないままゴミ箱を床に置き、ふらりと立ち上がると洗面所へと向かう。その背を見送り、宗雲はゴミ箱を片付け、常温の水を準備するために立ち上がった。
コップに水を注ぎ、リビングのテーブルに置いたとき、廊下─正確には玄関から─カチリと聞こえた僅かな音に宗雲は急いで玄関前へと向かう。
玄関では、戴天が靴も履かないままドアを開けようとドアノブに手をかけたところだった。
「何をしている」
「私、帰らなきゃ…いけないんです…」
熱に浮かされた声で戴天が繰り返す。そこまでしてここには居たくないのかと問おうとして、それも仕方のないことなのかも知れないと思いとどまる。しかしこんな状態の戴天を外に出すわけにはいかない。ゆっくりと近づき、後ろから抱き締める。
「身勝手な男ですまない」
そう囁くと戴天の背中と膝裏に手を差し込み、抱き上げる。身長も肉付きだってそう変わらないはずなのに、とても軽く感じる。
抵抗する気力はもう残っていなかったのか、されるがままになっている戴天を寝室のベッドへ降ろす。
「とりあえず、何も考えずに目を閉じろ」
横たわった戴天の目を閉じるように手のひらを翳す。大人しく目を閉じた戴天の口からすぅ、すぅ、と寝息が聞こえた。